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第三章  偶然の発見



「佐伯さん、先週の細胞培養の結果はどうなりました?」


鶴見所長の声に、僕は慌ててモニターから目を離した。彼の厳格な表情は、いつも僕を緊張させる。


「あ、はい。予想通りの結果が出ています。レポートにまとめましたので…」


資料を手渡すと、鶴見所長は目を細めてそれを確認した。彼は60代半ばだが、研究熱心で体力も衰えを知らない。西園寺バイオ研究所の顔であり、業界でも一目置かれる存在だ。


「いいね、佐伯くん。君の仕事は丁寧だ」


珍しい褒め言葉に、僕は戸惑いを隠せなかった。


「ありがとうございます」


「実はね、佐伯くん。君をNV-23の主任研究員に昇格させようと考えているんだ」


言葉が喉に詰まった。NV-23型ウイルスプロジェクトの主任。それは責任の重い役職だ。しかも、そのウイルスに対して僕が密かに持っている関心を考えると、複雑な思いが湧き上がった。


「私が、ですか?」


「ああ。君は地味だが、データ解析能力は研究所でトップクラスだ。それに、このプロジェクトにかける情熱も見ている。先週なんか、夜中までデータを分析していただろう?」


僕は曖昧に頷いた。あの夜、何をしていたのか、所長に知られてはまずい。


「来週から正式に発表するが、先に伝えておこうと思ってね。準備をしておくといい」


鶴見所長はそう言って去っていった。主任研究員。通常なら喜ぶべき昇進だが、僕の気持ちは複雑だった。この一週間、僕は自宅で密かにNV-23型ウイルスのY染色体への影響を調査していた。狂気じみた好奇心に突き動かされるように。


そして、その研究をさらに進められる立場に就くことになる。皮肉な巡り合わせだ。


---


研究所のカフェテリアは昼休みで賑わっていた。僕はいつも通り一人で食事をしていたが、背後から声がかかった。


「佐伯さん、隣、いいですか?」


振り返ると、篠原美咲が立っていた。彼女は最近研究所に来た新しい研究員で、分子生物学を専攻していた。綺麗な顔立ちと知的な雰囲気で、男性研究員たちの間では既に人気者だ。


「あ、どうぞ」


僕は軽く席をずらして場所を作った。彼女が僕の隣に座るのは初めてのことで、戸惑いを隠せなかった。


「実は佐伯さんにお聞きしたいことがあって」


彼女はトレイを置きながら言った。


「私、NV-23型ウイルスの研究チームに加わることになったんです。佐伯さんがそのプロジェクトに詳しいと聞いて…」


「そうなんですか。いつからですか?」


「来週からです。よろしくお願いします」


彼女は柔らかく微笑んだ。その表情に、僕は一瞬見とれてしまった。


「何か知っておくべきことはありますか?プロジェクトについて」


僕は咳払いをして、平静を装った。


「あ、そうですね。NV-23型は特殊なRNAウイルスで、通常のウイルスとは異なる複製メカニズムを持っています。宿主のDNAの特定領域に親和性が高いのが特徴です」


「へえ、面白いですね。どの領域に特に親和性があるんですか?」


「それが…」


言葉に詰まる。この一週間で発見した、Y染色体への親和性について話すべきか迷った。しかし、それは公式の研究結果ではなく、僕の個人的な調査だ。


「まだ完全には解明されていません。それを調査しているところです」


「そうなんですね」


篠原は少し期待外れのような表情を見せた。そして、彼女は話題を変えた。


「ところで、佐伯さんってお付き合いしている人とかいるんですか?」


唐突な質問に、僕はコーヒーをむせた。


「い、いません。なぜ突然…」


「あ、ごめんなさい。唐突でしたね」


彼女は軽く笑った。


「実は研究所のみんなのこと、少しずつ知りたいなって思って。佐伯さんは、いつも一人で研究されていて、ちょっと気になってたんです」


心臓が早くなるのを感じた。彼女が僕に興味を持っているのだろうか。いや、そんなはずはない。きっと社交辞令だ。


「そういえば、河野さんが結婚されるんですよね。佐伯さんも出席されるんですか?」


「ええ、親友なので」


「素敵ですね、そういう友人がいるって」


彼女は微笑みながら言った。その笑顔に、僕は戸惑いを覚えた。なぜ彼女がこんなに親しげに話しかけてくるのか理解できなかった。


「実は私、佐伯さんの論文を読ませていただいたんです。『非典型的RNAウイルスの複製機構』について書かれたもの。とても興味深かったです」


「あ、あれを?」


二年前に発表した論文だ。それほど注目されたものではなかったはずだ。


「はい。特に、ウイルスのDNA標的選択性についての考察が素晴らしいと思いました」


彼女の言葉に、僕は少し警戒心を抱いた。あの論文の中で、僕はウイルスが特定のDNA配列を選択的に標的にする可能性について触れていた。それは今、僕が密かに研究していることに近い。


「ありがとうございます」


「佐伯さん、もしよろしければ、今度その論文についてもっと詳しく教えていただけませんか?」


「え?」


「プロジェクトの参考にしたいんです。お忙しいとは思いますが…」


今度は僕の番だった。答えるべきかどうか迷った。彼女との接触が増えれば、僕の秘密の研究に気づかれるリスクもある。しかし、断る理由もない。


「いいですよ。時間があるときに」


「ありがとうございます!」


彼女は嬉しそうに微笑んだ。その後も、彼女は様々な話題で会話を続けた。珍しく、僕は長い会話を楽しんでいた。彼女は僕の話に本当に興味を持って聞いてくれているようだった。


しかし、昼休みが終わり、彼女が席を立つ瞬間、不思議な出来事が起きた。


「あ、佐伯さん。これ、私の連絡先です。論文の件、ぜひご連絡ください」


彼女はメモ用紙を僕に渡した。そこには彼女の携帯番号が書かれていた。そして彼女は行ってしまった。


僕は混乱していた。なぜ彼女が僕に連絡先を?単なる研究上の交流なのか、それとも…。いや、勘違いはよくない。ただの仕事の話だ。きっと僕の研究成果に興味があるだけだろう。


昼休み後、実験室に戻ると、河野が近づいてきた。


「おい、佐伯。篠原さんと仲良くしてたじゃないか」


からかうような声音で言う。


「いや、ただ研究の話を…」


「そうか?随分楽しそうだったぞ」


河野は意味ありげに笑った。僕は少し恥ずかしくなり、話題を変えた。


「来週からNV-23の主任になるらしい」


「マジで?おめでとう!」


河野は僕の肩を叩いた。


「てっきり篠原さんの話をするかと思ったのに。相変わらず仕事人間だな」


彼は冗談めかして言った。


「彼女、なかなかの美人だぞ。興味ないのか?」


「そういうわけじゃ…」


言葉に詰まる。正直なところ、篠原美咲は魅力的だと思う。でも、彼女のような女性が僕に興味を持つはずがない。


「まあいい。仕事の話だが、君主任になったら、俺も協力するから頼むぞ」


河野は親しげに言った。


「ありがとう」


彼が去った後、僕はデスクに向かい、実験データの分析を再開した。しかし、集中できなかった。篠原の笑顔が頭から離れない。そして、彼女が僕の論文に興味を持っていたこと。


それと同時に、ノートパソコンにダウンロードした秘密のデータのことも気になっていた。昨夜の実験結果では、NV-23型の特定変異体がY染色体のDAPY1遺伝子領域に特異的に結合する可能性が示唆されていた。


僕は両方の思考の間で揺れていた。篠原という現実の女性への関心と、「オスベラシ」という狂気の計画への誘惑。


---


その日の夕方、研究所を出ようとしたとき、篠原が再び僕に声をかけてきた。


「佐伯さん、帰りですか?」


「ええ、今日はこれで」


彼女はちょっと迷うような表情をした後、勇気を出したように言った。


「よかったら、ちょっとお茶でも…研究のことでもっとお聞きしたくて」


僕は耳を疑った。彼女が僕を誘っている?そんなはずはない。どこかに罠があるのだろうか。


「今日は…」


断ろうとした瞬間、彼女の表情が少し曇るのが見えた。それを見て、僕は言葉を飲み込んだ。


「…大丈夫です。行きましょう」


彼女の顔が明るくなった。「よかった!」


近くのカフェに入り、二人で席に着く。彼女はコーヒーを注文し、僕もそれに倣った。


「実は佐伯さん、私、あなたの研究にすごく興味があるんです」


「そうなんですか?」


「はい。特に、ウイルスの標的選択性について。実は私も大学院時代、似たような研究をしていたんです」


彼女はスマホを取り出し、自分の論文をみせた。『性染色体特異的エピジェネティック変化の分子機構』というタイトルだった。


「性染色体…ですか」


「ええ。X染色体の不活性化メカニズムが主な研究テーマでした。でも、Y染色体の特異的領域にも興味があって…」


Y染色体。僕の胸が高鳴った。まさに僕が密かに研究していることだ。


「実は、これはまだ公式には発表していないのですが…」


彼女は声を小さくして続けた。


「Y染色体のDAPY1領域を標的にしたウイルスベクターを開発する研究プロジェクトが、他の研究所で進行しているという情報を得たんです」


僕は息を呑んだ。他にも同じような研究をしている人間がいるのか。


「それで、佐伯さんのNV-23研究が、そのプロジェクトと関連があるのではないかと思って…」


「なぜ、そう思ったんですか?」


彼女は少し躊躇した後、答えた。


「私、佐伯さんのパソコン画面をちらっと見てしまったんです。先週、残業されていたとき。Y染色体の分析データが映っていて…」


冷や汗が背中を伝った。彼女は僕の秘密の研究に気づいていたのだ。


「誤解です」


僕は慌てて否定した。


「あれは単なる副次的なデータ解析で、主要な研究とは関係ないんです」


「そうですか…」


彼女は少し残念そうな表情をした。


「でも、もし関連があるなら、ぜひ協力させてください。私、そういった研究に強い関心があるんです」


僕は困惑していた。彼女は本当に研究に興味があるのか、それとも何か別の目的があるのか。彼女の真意を探るため、少し踏み込んだ質問をしてみることにした。


「篠原さんは、なぜそのような研究に興味があるんですか?」


彼女は少し考えてから、静かに答えた。


「男性と女性の生物学的な違いが、社会的な不平等につながっていると思うんです。もし、その差を科学的に調整できれば…」


彼女の言葉に、僕は驚きを隠せなかった。彼女も、何らかの形で男性と女性のバランスを変えることを考えているのか。


「つまり、男性特異的なウイルスが作れれば、何をしたいと?」


僕の直接的な質問に、彼女は一瞬たじろいだ。


「いえ、そんな…危険なことを考えているわけではありません」


彼女は慌てて否定した。


「純粋に科学的な興味です。性別によって異なる医療アプローチができれば、治療法の幅も広がりますし…」


彼女の言葉は理にかなっていた。しかし、僕には彼女が何か隠していると感じられた。自分と同じように。


「わかりました」


僕は曖昧に答えた。


「NV-23型の研究で何か興味深い発見があれば、共有します」


「ありがとうございます!」


彼女は再び明るい表情を見せた。そして、話題は次第に研究から離れ、個人的な事柄へと移っていった。彼女の出身地、趣味、研究所に来た理由など。彼女は話し上手で、僕も次第にリラックスしていった。


カフェを出るとき、彼女は再び僕に言った。


「佐伯さん、今日はありがとうございました。また研究の話、聞かせてください」


「ええ、もちろん」


別れ際、彼女は軽く僕の腕に触れた。その接触に、僕は言葉にならない感情を覚えた。


家に帰る道中、僕は混乱していた。篠原美咲という女性。彼女は僕に興味を持っているのか、それとも単に研究のことが知りたいだけなのか。そして、彼女もY染色体を標的にしたウイルスに関心を持っているという事実。


偶然なのか、それとも何か意図があるのか。


アパートに戻り、ノートパソコンを開いた。NV-23型ウイルスのデータと、Y染色体のDAPY1領域の解析結果が画面に表示される。理論上、このウイルスを特定の方法で変異させれば、男性にのみ影響を与えるウイルスを作ることができる。


それは実現可能なのだ。


僕は画面を見つめながら、今日の出来事を反芻していた。篠原美咲との出会い、彼女の研究興味、そして彼女の優しい笑顔。


一方で、「オスベラシ」の計画も頭から離れなかった。もし世界の男性が減れば、僕のような「透明人間」にも機会が訪れるのではないか。そして、篠原のような女性にも認められるのではないか。


その夜、僕は決断した。NV-23型ウイルスのY染色体親和性について、さらに詳しく研究してみることにした。あくまで「理論的な可能性」を探るだけだ。実際に作るつもりはない——少なくとも、今はまだ。


画面に向かい、僕は複雑な計算式を入力し始めた。窓の外では、月が静かに輝いていた。

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