第二章 発想の転換
西園寺バイオ研究所の蛍光灯が、深夜になっても一部だけ消えずに残っていた。僕のデスクがある実験室だけが、まだ明かりを灯していた。
「佐伯さん、まだ帰らないの?」
清掃のおばさんが不思議そうな顔で僕を見た。
「あ、はい。もう少し作業があるので」
僕は微笑んで答えた。彼女は「若いうちは無理しちゃだめよ」と言って、モップを押しながら去っていった。確かにその通りなのだろうが、僕には帰る理由がなかった。家に帰っても、誰も待っていない。週末の金曜日の夜、多くの人が友人や恋人と過ごす時間に、僕は顕微鏡とデータと向き合っている。
NV-23型ウイルスの変異データを集計し終えたのは、午後11時を回った頃だった。疲労感が体を包み込み、椅子に深く腰掛ける。少し休憩しようと、スマホを手に取った。
SNSには河野の結婚報告の投稿がアップされていた。「彼女と出会えたことに感謝」というキャプションと共に、二人で指輪を見せている写真。いいね数は既に200を超えていた。
僕はスマホを置いて、休憩室へ向かった。自販機でコーヒーを買い、小さなテーブルに座る。研究所の休憩室には古いテレビがあり、誰も見ていないのに常に電源が入っていた。
画面には大型猫科動物のドキュメンタリーが流れていた。ナレーターの落ち着いた声が静かな部屋に響く。
「ライオンの群れでは、通常一頭のオスライオンが複数のメスライオンを従えています。しかし、この地域ではオスライオンの数が極端に少なく、興味深い社会変化が起きています。メスライオンたちが積極的にオスにアプローチし、時には争奪戦が起こることも…」
僕は無意識のうちに画面に見入っていた。
「希少なオスをめぐって激しい競争が起きるこの現象は、性比が極端に偏った生態系でよく見られます。通常なら受け身のメスが、能動的な求愛行動を取るようになるのです」
頭の中で何かが引っかかった。
「オスが少ない…」
僕は呟いた。コーヒーを一口飲みながら、考え込む。動物の世界では、オスが少なければメスが奪い合う。なら、人間社会でも同じことが起きるのだろうか。
もし世の中の男性が急激に減ったら、今まで女性から振り向いてもらえなかった自分のような男性にも、チャンスが来るのではないか。
荒唐無稽な考えだ。僕は自分の思考に苦笑した。でも、その考えは頭から離れなかった。
テレビでは次のシーンに移っていた。ある島では、環境汚染の影響でオスの数が激減したある種の両生類の集団が映し出されていた。
「汚染物質の影響でY染色体を持つ個体の生存率が下がり、オスの割合が20%以下になったこの集団では、通常とは異なる繁殖行動が観察されています」
Y染色体。性染色体。僕の頭の中で、研究内容と結びつくものがあった。
現在僕が研究しているNV-23型ウイルスは、特定のDNA配列に作用する性質がある。そして理論上は、性染色体の特定部位にだけ影響を与えるよう設計することも不可能ではない。
「馬鹿な考えだ」
僕は声に出して自分を戒めた。それはあまりにも危険で、倫理的にあり得ない発想だ。しかし、科学者として、その可能性に興味を持ってしまったことは否定できなかった。
コーヒーカップを捨て、実験室に戻る。帰ろうと思ったが、衝動的にコンピュータの電源を入れ直した。
「理論上の可能性を確認するだけだ」
そう自分に言い聞かせ、データベースを開いた。NV-23型ウイルスの遺伝子配列と、ヒトの性染色体の構造を並べて表示する。
時間が経つのも忘れて、僕は性染色体特異的なウイルスの理論的可能性を探っていた。そして、明け方近くになって、ある興味深い発見をした。NV-23型ウイルスの変異体の一つが、Y染色体の特定領域と親和性が高い可能性を示すデータが見つかったのだ。
「これは…」
僕は息を飲んだ。それは単なる理論的な可能性ではなく、実際のデータが示唆する現実的な可能性だった。
窓の外が白み始めたことに気づき、慌てて時計を見る。朝の5時半だった。一晩中、この狂気じみた発想に取り憑かれていたことに、自分でも驚いた。
「何考えてるんだ、俺は…」
コンピュータをシャットダウンし、データはすべて消去した。バッグを手に取り、研究所を後にする。
外は既に明るくなり始めていた。通勤する人々の姿もちらほら見える。カップルが手をつないで歩いている。男性が笑っている女性の肩に腕を回している。幸せそうな風景。僕には縁のない世界。
アパートに帰る途中、コンビニに寄った。レジには若い女性店員がいた。彼女は僕に視線も合わせず、機械的に商品をスキャンし、「398円です」と言った。隣のレジでは、スーツ姿のイケメン客に「いってらっしゃいませ!」と明るく笑顔で送り出している。
透明人間の日常風景だ。
家に帰り着き、シャワーを浴びて横になる。眠りに落ちる直前、脳裏に奇妙なイメージが浮かんだ。世界中の男性が次々と倒れ、残された男性は王様のように女性たちに囲まれている光景。そして、その中心にいるのは自分だった。
「オスが減れば…」
そんな言葉が頭の中でエコーのように響いていた。
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次の日、目が覚めたとき、強烈な羞恥心に襲われた。昨晩考えていたことは、狂気の沙汰だ。人類の半分を危険に晒すようなウイルスなど、考えるだけでも罪深い。
「頭がおかしくなったのか」
顔を洗いながら、自分を責めた。でも、心の片隅では、あの可能性が気になって仕方なかった。
スマホを開くと、河野から結婚式の招待状が電子メールで届いていた。来月の第二土曜日。場所は都内の高級ホテル。
「ちゃんとスーツ着てこいよ!」というメッセージが添えられていた。
返信しながら、またあの考えが頭をよぎる。
オスが減れば…
僕は頭を振って、その考えを払拭しようとした。しかし、一度芽生えた発想は、簡単には消えなかった。
その日は休日だったが、僕はついに耐えきれず、個人用のノートパソコンを開いた。会社のデータベースにはアクセスできないが、公開されている研究論文なら調べることができる。
「性染色体に特異的に作用するウイルスの可能性」
そんなキーワードで検索し始めた。初めは単なる好奇心だった。しかし、情報を集めれば集めるほど、それが理論上可能であることが分かってきた。
世界中の誰も、この方向で真剣に研究していないようだった。倫理的な問題が大きすぎるからだろう。でも、理論的には可能なのだ。
僕はノートに走り書きを始めた。単なる思考実験として、Y染色体にだけ作用するウイルスの設計図を描き始めた。
「やめろ」
自分に言い聞かせる。でも、手が止まらなかった。科学者としての好奇心が、倫理観を圧倒していった。
そして、日が暮れる頃には、僕のノートにはNV-23型ウイルスの変異体を使った「男性特異的ウイルス」の理論的な設計図が完成していた。もちろん、これを実際に作るつもりはない。作れるはずもない。必要な設備も材料も、個人では手に入らない。
しかし、その理論的な可能性が証明されたことに、僕は奇妙な高揚感を覚えた。
その夜、僕は再び奇妙な夢を見た。世界から男性が減り、僕のような「残された男性」が女性たちに囲まれている夢。それは途中から悪夢に変わった。女性たちの顔が歪み、彼女たちは僕を檻に閉じ込め、「貴重な種」として扱っている。僕は叫ぼうとするが、声が出ない。
汗びっしょりで目を覚ました。時計は午前3時を指していた。
「何をしてるんだ、俺は…」
そう呟きながらも、僕はノートパソコンを再び開いた。そして、会社のシステムに自宅からこっそりとアクセスする方法を探し始めた。研究を続けるには、会社のデータが必要だった。
これは単なる好奇心だ。実際に作るつもりはない。そう自分に言い聞かせながら。
夜明け前、僕はついに会社のシステムへの侵入に成功した。セキュリティをバイパスする方法を見つけたのだ。NV-23型ウイルスの詳細なデータをダウンロードし始める。
モニターの青い光が、暗い部屋の中で僕の顔を照らしていた。その表情は、自分でも気づかないうちに、決意に満ちたものに変わっていた。
オスベラシ——男を減らすという狂気の計画が、僕の頭の中で徐々に形を成し始めていた。




