第一章 透明な存在
会社の忘年会は、いつも通り僕にとって試練だった。
「佐伯くんも一杯どう?」
部長の西園寺が赤ら顔で僕に向かってグラスを差し出す。うなずき返すと、テーブルの向こうから角瓶とグラスが回ってきた。
「ありがとうございます」
僕はそう言って微笑んだつもりだが、おそらく機械的な表情にしかなっていないだろう。部長は既に次の獲物——新入社員の吉野くんに向かって声を張り上げている。彼女は今年入社した生物工学専攻の優秀な女性で、入社してからずっと研究部の話題の中心だった。
僕——佐伯透が「透明人間」と呼ばれるようになったのは中学生の頃からだ。存在感がない。目立たない。影が薄い。そんな言葉で表現される人間の典型だった。声を発せば「あ、佐伯くんもいたんだ」と言われる。教室の後ろの席で、誰にも気づかれずに一日が終わることもあった。
大人になった今でも、その状況はあまり変わっていない。
「吉野さん、その服似合ってますね!」
同期の河野が彼女に声をかけていた。河野健太。僕の数少ない友人と呼べる存在だが、正反対の人間だ。社交的で、いつも周りに人が集まる。女性にモテる。要するに、僕の対極にある人間だ。
「ありがとう、河野さん。実は先週買ったんですよ」
吉野さんは嬉しそうに答えた。彼女の笑顔は本当に眩しい。
僕はウイスキーを一気に飲み干し、また無言でグラスを満たした。アルコールが喉を焼くような感覚が、少しだけ心地よかった。
「佐伯さんもいらしたんですね」
突然、声をかけられて顔を上げると、研究チームの篠原美咲が僕の前に立っていた。幹事を担当していた彼女は、手にタブレットを持ち、出席者をチェックしているようだった。
「ああ、はい。出欠表に名前を書いたんですが…」
「あ、ごめんなさい。見落としてました」
篠原さんは照れたように微笑んだが、その表情の裏で「また佐伯か」と思っているのは明らかだった。彼女はタブレットに何かを入力すると、すぐに河野の方へと歩いていった。
僕の存在は、そこにあってないようなものだ。空気のような、当たり前すぎて意識されない存在。
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酔いが回り始めた頃、宴会は最高潮を迎えていた。歓声、笑い声、グラスの触れ合う音。それらの喧騒に紛れるように、僕はソファの隅に腰掛けていた。
「えー、次は河野くんからの大事な発表があるそうですよ!」
司会役の総務課の女性が叫ぶと、会場が静かになった。河野が皆の視線を浴びながら立ち上がる。
「実は、みなさんに報告があります」
河野は照れくさそうに頭を掻いた。
「来月、結婚することになりました」
一瞬の沈黙の後、会場が歓声に包まれた。
「おめでとう!」
「誰なの?知ってる人?」
「いいなぁ!」
祝福の声が飛び交う。僕も一応グラスを上げて祝福のジェスチャーをする。河野は目を合わせて微笑み、少し恥ずかしそうに頭を下げた。
「相手は大学時代の後輩で、今は別の製薬会社で働いてます。今日は来られなかったんですが、また今度紹介します」
祝福の輪の中心で、河野は幸せそうに笑っていた。
自分の同期が次々と結婚していく。SNSでは毎週のように「ご報告」の投稿を目にする。僕は三十二歳。そろそろ焦るべき年齢だと社会は言う。母は電話のたびに「良い人はいないの?」と聞いてくる。
でも、良い人どころか、女性と普通に会話すらままならない。
合コンにも数回行ったが、惨憺たる結果だった。最初の一時間は誰も僕に話しかけてこない。やっと勇気を出して話しかけても、女性たちの目は既に河野のような「モテる男」に釘付けになっている。結局、僕の存在を覚えていない女性がほとんどだった。
「佐伯くん、次は君の番だな!」
西園寺部長が大きな声で言った。周囲が僕に注目し、一瞬で居心地が悪くなる。
「いや、まだそんな…」
「恋人くらいいるだろ?研究ばかりじゃないだろ?」
部長の声にみんなが笑った。僕は表情を引きつらせながら首を横に振る。
「佐伯さんは研究一筋ですからね!」
河野がフォローしてくれた。ありがたいが、それが余計に僕の惨めさを際立たせる気がした。
「でも、そろそろ婚活とかしたほうがいいんじゃない?」
誰かが言った。
「そうそう、うちの課にもいい子いるよ。紹介しようか?」
別の誰かが言う。
「いや、その…」
断る言葉を探していると、話題は幸いにも別の方向へ流れていった。そして数分後には、また僕は透明人間に戻っていた。
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家に帰ると、いつもの静寂が僕を迎えた。ワンルームのアパートは整理整頓されているが、どこか生活感に欠ける。
スマホを取り出すと、LINEに河野からのメッセージが届いていた。
『今日はありがとう。実は報告する前、すごく緊張してたんだ。佐伯がいてくれて安心した』
嘘だろう。僕がいようといまいと、何も変わらないはずだ。でも、河野は本気でそう思っているのかもしれない。
『おめでとう。幸せになれよ』
シンプルに返信して、スマホを枕元に置いた。
部屋の隅に置かれたデスクには、昨日まで作業していた研究データが積み上げられている。NV-23型ウイルスの変異に関する解析だ。西園寺バイオ研究所で僕が担当しているプロジェクトの一つだ。
シャワーを浴びて、ベッドに横になる。天井を見つめながら、河野の幸せそうな顔が浮かんでは消える。なぜ、同じ人間なのに、こうも違うのだろう。
そうこうしているうちに、スマホが震えた。画面を見ると「母」からの着信だった。今日はもう話す気力がない。留守電に任せることにする。
数分後、留守電のお知らせが届いた。
「とおる、お母さんよ。今日は調子はどう?あのね、隣の鈴木さんの娘さんが婚活パーティで素敵な人に出会ったって話を聞いたの。とおるも一度行ってみたら?もう三十二なんだから、そろそろ真面目に考えないと…」
いつもの話だ。メッセージを最後まで聞かずに削除した。
ベッドに横たわりながら、僕は考える。なぜ自分は女性に興味を持ってもらえないのか。何が足りないのか。
僕には答えが分からなかった。ただ、今日も一人で眠りにつくだけだった。そして明日も、透明人間としての一日が始まるのだ。




