ep.35 手帳の誤字
「姫君が立ち上げた事業です。姫君の名を冠してもいいのでは?」
「嫌です!」
リディアは本当に嫌そうな顔をした。
シグルドは思わず息だけで笑った。
「捻りも何もないですね」
「シンプルなのが一番です。それに薬局の評判がよければクロイツの評判も上がるかもしれません」
リディアは軽く咳払いをした。
「今後は瓶などにロゴマークを入れてブランドと正規の品であることを強調したいのですが、クロイツの家門を使うのは流石に……一部を使わせてもらって盾と何か別の意匠の組み合わせがいいかなと思うのですが……これと言って浮かばず」
「薔薇はどうですか?」
「薔薇ですか?」
「聞きました。学園に入る前の貴方はローゼンベルクの黒薔薇と呼ばれていたと」
リディアの顔が赤くなった。
「私から見ると黒より紫やオペラピンクのイメージですが」
「も、もういいです!薔薇でいいです!」
こうして薬局の名前とブランドロゴが決まった。
「ブランドの印、ロゴですか。それはよい視点だと私も思います。奥様、どうせならばガラス工房を一つは買い取りましょう」
ヨハンはなんでもないことのように言った。
「えっ!買い取るのですか?」
「はい、今までのように外部に受注という形をとると、そのブランドのロゴが流出し、また偽物騒動があるやもしれません。しっかり管理体制を取れるようにしておくべきかと。それと――」
「それと?」
「奥様がまた何か思いついてガラスで何か作ろうとした時に私が楽をできます」
ヨハンはいたずらそうに笑った。
「もう!ヨハンはいじわるです」
リディアもつられたように笑った。
人間は目に見える、即効のもののほうを欲しがる。
一旦は流れた薬草漬けの水を売っていた薬局から人が戻ってきた。
リディアたちの開設した薬局は、名をクロイツ薬局と改め、瓶に盾と薔薇の印が入ったそれは高級感と、品質を保証してくれているようで人々は満足した。
クロイツの名を騙る者はいないだろう。
しばらく薬局は安泰かに思われた。
「姫君よろしいですか」
足音がし扉を開けてリディアは笑った。
「どうぞ!旦那様」
リディアは机にもどり新しいカップに塩を入れお湯を注いだ。
「これもどうぞ。浄化塩湯です」
「ありがとうございます」
リディアの実験室での恒例のやりとりとなっていた。
「? 今日は書類仕事ではないんですか?」
シグルドの持ち物が少ない……というより、手帳一つだった。
「ええ、ちょっと考え事が……」
「旦那様もですか。私もです」
「姫君は何を?」
「泉の〝まんなか〟がどこかわからなくて。四つ見つかればわかると思ったのですが、ビックリするほどさっぱりです」
地図でわかると思ったのですが、とリディアは続けた。
「見つけた場所を頂点とした四角形の対角線上に線を引いて交わった場所かなと線を引いてみたりしたのですが……」
「聞いてみる分には良さそうに思えるのですが」
「ミストラの迷いの森と迷いの霧は地図上だとかなり近いので、交わった場所がまた北になってしまい……無くはないですがそんなに北に集中するとも、〝まんなか〟でもない気がして」
「なるほど」
リディアはこめかみを両手で押して揉んだ。
「うー……四つの点を通る真円の可能性も考えたのですが、やはりミストラの森と迷いの霧の位置の関係で真円にならないのですー」
今度は机の上に出してある虹色の石をつついた。転がるが楕円なのですぐ止まった。
「北部に近接した二つ、東に一つ、南西に一つ、という訳ですね」
はい、と返事をしながらリディアはまだ石をつついていた。
「姫君、楕円はどうでしょうか?」
「え?」
「今その石を見ていてなんとなく思っただだけですが」
リディアは姿勢を正し、地図を見ながら新しい紙に点を描いた。
指で線を楕円になぞる
「旦那様!楕円なら行けそうです!楕円の中心は……」
リディアは紙と地図を見比べた。
「どうしましょう。旦那様」
リディアが指差したところには、王都北部大神殿があった。
「それらしいのがまた厄介ですね」
シグルドは少し息を吐き手帳を持ち上げた。
「これになにか姫君のお役に立つことが書いてあるかもしれません」
「これは?」
「失踪した古代文字研究家の手帳です」
リディアは一枚一枚めくった。
「普通の日記みたいですね」
「後半から古代文字で書かれています」
パラパラとめくっていく。
途中、明らかに文字の形が変わった。
「……確かに。日本語、古代文字です」
文字の形は日本人から見ればだいぶ歪だったり間違えているのもあるが、読めた。
「パンがおいしかった、とか前半に書かれているのとあまり変わりありません」
緊張した雰囲気が弛緩した。
「古代文字の練習でしょうか?」
リディアは首を傾げた。シグルドは手を額にあてた。
「……研究家の考えていることはわかりかねます」
また一枚めくる。やはり日常的なことが書かれている。文字の間違いが増えた。
「あれ……?間違いじゃない?」
「なにか変わったことが?」
「ところどころ文脈から予想する文字が違ってて、間違えているのかと思ったのですが……」
ページを戻した。
間違いと偽装した文字を読む。
『消……そ……う、と…………消そうと?』
消そうとしている。
誤字のように書かれたそれにはそうあった。
何を?
『古……だ…………い』
リディアはページを進め、また戻るを繰り返した。
『文……を……字……』
ページをめくる。
戻す。
めくる。
「……」
「姫君?」
日本語を話し始めたリディアを見ていたシグルドだが、沈黙に声をかける。
「旦那様……多分こう書かれています」
リディアは手帳からシグルドに視線を移した。
「消そうとしている、古代文字を、神殿は」
シグルドがわずかに目を細めた。




