溢れ出てしまった二十一世紀日本人
今にも雪が降り出しそうな黒い空の下、ドゥニン村へ向かう支線水路の取水口が開けられた。
幹線水路から水が入り込み、細い流れが少しずつ幅を広げていく。
「来たぞ」
誰かが声を上げた。
工事に携わった者たちが、水を追うように歩き出す。
一年以上かかった用水路工事。その最後に残った支線だ。皆、期待を抑えきれない。
俺もその列に混ざった。
この世界に来て直面した最初の大仕事だ。
俺が関わったのは最後の短い期間だけ。それでも、完成となれば他人事ではない。
幅一メートルほどの支線には、途中に何本か橋が架かっていた。太い木を両岸に渡し、その上に板を並べただけで、橋脚はない。
これだけ短ければ、橋そのものより両端の補強が大事だ。荷車が通るたびに岸が崩れては意味がない。
橋脚がない橋だったら、つくるのは簡単なんだけどな。
ムル川に架ける橋を思い出す。
水は麦畑の脇を巡り、やがて幹線水路へ戻った。
「通ったぞ!」
歓声が上がった。
男たちが抱き合い、肩を叩き合う。泣いている老人までいた。
やったぜ!
元のヨアヒムにはシュヴァルツ大勲章。皆には小勲章をあげたい。
来年からは、種を播く前の畑へこの水を引き込む。ムル川から流れ込む泥が、畑を肥やしてくれるはずだ。
この水が、来年の麦になる。
そう思うと、俺まで嬉しくなった。
◇◇◇
その夜は、ご馳走と酒が持ち寄られ、村中で通水を祝った。
シュヴァルツ男爵家からも金一封を出す。
借金持ちとしては一枚でも多く銅貨を握っていたいのだが、ゼバスティアンとコンラートの意見は一致していた。
「若君、このような金を惜しんではなりません」
「ゼバスティアンにも同じことを言われたよ」
「ならば間違いありませんな」
頼れる二人が揃って言うなら、それはきっと正しい。
そこは素直に従った。
笑い声と酒杯の音が夜まで続き、一年以上にわたった用水路工事は、ようやく終わった。
◇◇◇
翌朝、仮住まいを引き払い、領都へ戻る。
途中で俺はコンラートを伴い、フェルン村へ寄ることにした。エーファに木彫りの髪留めを見てもらうためだ。どうしても思うように加工できないところがある。
馬を並べていると、コンラートがこちらを見た。
「若君。ひとつ確認してもよろしいですかな」
「何?」
「エーファ殿に懸想されているわけではありませんな?相手は子持ちの人妻ですぞ」
「なんでそうなる!?」
「若君も木石ではないですからな。念のためです」
「違うよ。エーファは頼れる年上の人だ。今日は木の加工を教えてもらいたいだけ」
「それならば結構です」
不思議なことに、転生前の自分から見れば年下であろうエーファが、かなり年上のお姉さんに見える。
逆にハンスなんかは完全に同年代に見える。どうも俺自身の年齢感覚まで、この身体に引っ張られているらしい。
フェルン村へ着くと、エーファの一家は家ではなく、教会脇の墓地にいた。
「エーファ?どうしたんだ?」
何気なく声をかけてから気づいた。
身重だった腹がへこんでいる。
それなのに、赤子がいない。
夫のヤコブも子どもたちも疲れきった顔をしていた。エーファと何人かの子どもの目元には、泣きはらした跡があった。
気づけたはずだった。
「……すまない」
「今朝、亡くなりました」
生まれたのは七日前だったそうだ。
「三日目くらいから元気がなくなって、乳もあまり飲まなくなりました。臍の辺りが腫れてきて……今日の明け方に」
「……無神経だった。改めてお詫びする」
俺は頭を下げた。
「いいえ。お顔をお上げください。赤ん坊には、あることですから」
エーファは墓を見た。
「この子で二人目です」
二人。
昔は乳幼児の死亡率が高かった。
前世で知識として聞いたことはある。
この世界へ来てから、俺は村で大勢の子どもを見た。元気に走り回る姿ばかり目にして、それが当たり前だと思っていた。
違った。
子どもが多いからといって、子どもが死なない世界ではない。
たくさん生まれて、たくさん死んでいる。
昨日、人を食わせる水が通ったと喜んでいた頃、この子はもう乳もろくに飲めずにいた。
俺は何も知らなかった。
俺とコンラートは墓の下に眠る赤子に祈った。
髪留めの話はできず、そのまま村を辞去した。
馬を進めても、臍が腫れた話が引っかかっていた。
病名も、死因も、俺にはわからない。
それでも思い当たるものはある。
「……ばい菌か」
「何ですかな?」
「こっちの話」
感染を減らすなら、まず煮沸。それから手洗い。
それぐらいなら俺にもわかる。それぐらいしかわからないけれど。
「コンラート。石鹸ってある?」
「あります。衣服を洗うときに使います」
あるのか。
そう言えば転生してから、石鹸で手を洗ったことなど一度もない。
俺の衛生観念はさておき、今からできることはある。
全部は無理でも、減らせる死は減らしたい。そう思ってしまった。
◇◇◇
領都の屋敷へ戻ると、父上とヨハンナへの挨拶もそこそこにゼバスティアンを捕まえた。
「この領地に医者はいる?」
「傷や腫れ物を診る者なら、領都に一人おります。理髪外科医です」
「出産もその者が取り上げるのか?」
「いえ。出産は産婆が行います」
「なら、その外科医と産婆を集めて欲しい」
翌日、屋敷の一室に外科医と産婆が一人ずつ集まった。領都の産婆はこの一人だけだそうだ。
ゼバスティアンとミヒャエルにも同席してもらう。
二人にも知っておいてもらいたい。こんなことを言えば、また妙に思われる。
それでも、あの墓を思い出すと、何も言わずに済ませる気にはなれなかった。
大きく息を吸った。
「俺は領主代行として命じる。傷口の手当てや臍の緒を切るのに使う刃物や布は、使う前に煮沸する。傷口を洗う水は、一度沸かして冷ましたものを使う。それから、出産や傷の手当ての前には石鹸で手を洗って欲しい。臍の緒を切ったあとは、なるべく汚れた手や布で触れない」
外科医と産婆が顔を見合わせた。
ゼバスティアンの眉も動き、ミヒャエルは困惑した様子で俺を見ている。
「ヨアヒム様。手なら、その都度洗っております」
「石鹸を使って欲しいんだ」
「ですが、何のために?」
説明できるほどの知識はない。
「生まれてすぐ死ぬ赤子や、傷から病になる人を減らせるかもしれない」
外科医が首を振った。
「刃物や布を毎回煮れば薪が要ります。湯を沸かして冷ますにも時間がかかります」
「石鹸も安くはありません」
「必要な石鹸と薪は男爵家で出す。一年だけ、俺の言う通りに試して欲しい」
「ヨアヒム様」
今度はゼバスティアンが止めた。
「その資金をどこから出されるおつもりですか」
ミヒャエルも頷く。
頼れる二人が揃って言うなら、それはきっと正しい。
でもその言葉を振り切る。
「まず、ここ一年で、あなたが取り上げた赤子の数を教えてくれ。そのうち、ひと月も経たずに亡くなった子が何人いたかも調べたい」
産婆が考え込んだあと、頷いた。
「これから一年、同じように数えてくれ。それでも何も変わらなければ、もう要求しない。変わるようであれば他の村にも広める」
今度は外科医を見る。
「あなたもだ。傷を縫った後、傷口が膿んだり、患者が熱を出したりすることが減るか、前より治りが良くなるか。気にかけて欲しい」
「……命令には服します」
前世の常識が、この世界でも同じように通じる保証はない。
俺はゼバスティアンとミヒャエルに頭を下げた。
「頼む。資金はなんとか用意してくれ」
◇◇◇
その夜、俺は一人で頭を抱えた。
ゼバスティアンもミヒャエルも、俺がただ記憶を失っただけではないと疑っただろう。
記憶を失ったはずの人間が、誰も聞いたことのないような命令を外科医と産婆に出した。
自分で考えても怪しい。やってしまった感が拭えない。
でも、仕方ない。
まず数えて、比べる。それで死ぬ子が減るなら、続ければいい。
今の俺にできることをやる。それしかないじゃないか。
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