忘れていた橋
面倒なことを『後で考えよう』と頭の隅へ追いやる。
そのうち問題そのものを忘れられれば完璧だ。
忘れている間は幸せである。
少なくとも、思い出すまでは。
この世界に来て一ヶ月以上が経過したその日、俺は油断していた。
毎日の政務、用水路工事の監督見習い、その合間の勉強、そしてさらにその合間の髪留めづくり。
権限委譲を進めたことで、俺が直接確認することも減った。事情を知る者たちになら、政務のみならず勉強でわからないことも質問できる。おかげで、以前よりはずっと物事が捗っている。
「ヨアヒム様。エンゲル男爵領より使者がお見えです」
執務室へ入ってきたゼバスティアンの一言で、俺の中にある嫌な予感センサーが反応した。
「……通してくれ」
領主代行は、嫌な予感がするという理由だけで隣領の使者を追い返せない。
実に悲しい仕事である。まあ、仕事なんてだいたいそんなものだけど。
ほどなくして、エンゲル男爵の使者が執務室へ入ってきた。
一礼は丁寧だった。
「シュヴァルツ領では、用水路工事が順調に進んでいるそうでございますな」
「おかげさまで」
「幹線水路はすでに完成。支線も三本のうち二本まで完成したとか。工事の終わりも見えてきたと聞いております」
「ええ。今のところは予定通りです」
「それは何よりでございます」
使者の笑みが深くなった。
「ならば、以前のお約束にも、そろそろお取り掛かりいただける頃かと」
あっ。
「両領にまたがる橋の建設でございます」
橋。
……橋。
あった。
そんな約束、確かにあった。
どうして忘れていたんだ、俺。
そうだ用水路工事だ。
そろそろ雪がちらつく季節だ。雪が積もる前に用水路工事を片付けなければならない。橋なんて、その間は手を付けられないし、本格的な冬に入ればなおさらだ。
だから橋は当分先の話だと、頭の隅へ追いやった。
そして見事に忘れた。
「もちろん、忘れてはいませんよ」
俺は笑顔を作った。
人間、追い詰められると意外に笑える。
「それは何より」
使者は満足そうにこちらを見た。
バレてないよね?
「我が主も、ヨアヒム様ならば約定を違えることはあるまいと申しておりました。むしろ、あのムル川へどのような橋を架けられるのか、楽しみにしておられます」
「……ありがたいお言葉です」
「シュヴァルツ家との長い付き合いを思えば、我が主がそちらにこれほど期待を寄せられるのは、珍しいことでございます」
そこまで言わなくてもよくない?
エンゲル男爵と父の仲がよろしくないことは、俺も聞いている。
どうやら使者まで、その歴史を忘れる気はないらしい。
「近いうちに、橋についてもご報告いたします」
「ええ。我が主もさぞ楽しみにされましょう」
最後まで嫌味を残し、使者は帰っていった。
扉が閉まる。
俺はしばらく笑顔のまま座っていた。
やがて机に両手をつく。
「……橋かあ」
用水路の次は橋。
何も準備していなかったな。
元のヨアヒムが残した仕事って、あとどれぐらいあるんだろう?
◇◇◇
すまん、ハンスくん、工事現場の方は任せた。
その日のうちに、ゼバスティアンとコンラートを伴って領都の屋敷に戻った。
父上のお見舞いとヨハンナへの挨拶を手短に済ませ、ミヒャエルを呼び出した。
うう、次に会うときには、もっとヨハンナちゃんと心の交流を深めたいと思っていたのに……。
「そもそも、記憶を失う前の俺はどうして橋を造ろうとしたんだ?」
ミヒャエルは少し考えてから答えた。
「両領を行き来しやすくするためです」
「それはわかる。今までだってなんとかしてきたのだろう?それだけの手間をかける価値があるのか?」
「以前のヨアヒム様は、あるとお考えでした」
ミヒャエルが机に広げた簡素な地図の上を指でなぞる。
「橋の建設予定地付近では、川幅は普段およそ十メートル。今の時季なら八メートルほどでございます」
「用水路の水を取っている川だな」
「はい。特に春から夏の増水期には泥が多く混じります。その水が麦の育ちによいのではないかと考えられたことも、用水路工事を始めた理由の一つです」
そこまでは覚えている。
「ただ、荷を運ぶとなれば渡し船に頼ることになります。それに、エンゲル男爵領と我が領では、作られている物も違います」
「向こうは羊と葡萄だったか」
「その通りです。ただし平地が少なく、耕作に向いた土地は我が領ほど多くありません」
「なるほど。だから双方に利があるのか」
「はい。羊毛については、農閑期に領民が紡績を行えるよう、エンゲル領から仕入れることまで考えておられました」
「そこまで?」
「はい」
「でも、それだけ利があるなら、どうして今まで橋がなかったんだ?」
俺が訊ねると、ゼバスティアンとミヒャエルが一瞬だけ顔を見合わせた。
「仲良くしたほうが望ましいとわかっていても、得てしてそうはいかないのが隣人というものでございます」
ゼバスティアンが答える。
「フリードリヒ様と当代のエンゲル男爵も、長年にわたり折り合いがよくございませんでした」
「橋の話が出ても、まとまらなかった?」
「そのように聞いております」
「そこを俺が交渉したんだな」
「はい。何度か使者を送り、ご自身でもエンゲル男爵と話し合われました。最終的には男爵もヨアヒム様を気に入られ、こちらで橋の建設費を負担することを条件に、ムル川からの取水を認められました」
なるほど。
さっきの使者が、シュヴァルツ家と俺をわざわざ分けて話していた理由はそれか。
「橋そのものについては、どこまで決めてある?」
ゼバスティアンが書類を取り出した。
「場所はおおよそ定まっております。両領の領都を結ぶなら、この辺りが最も都合がよいと」
「橋の条件は?」
「最低でも、荷を積んだ馬車一台が通れること」
「設計は?」
「まだでございます」
そこが残ってるのかー。
俺の嫌な予感センサーは、今日もよく働いている。
◇◇◇
翌日。
俺はゼバスティアン、ミヒャエル、コンラート、ハンスとともに、橋の建設予定地まで来ていた。
ムル川は、シュヴァルツ領とエンゲル領を分けるように流れている。
向こう岸は近い。
近いのだが。
「……八メートルって、こんなにあるのか」
数字で聞く八メートルと、川を前にして見る八メートルは別物だった。
走るだけなら、すぐの距離だ。
その間に川さえなければ。
ここへ木で橋を架け、さらに荷を積んだ馬車を通す。
「コンラート」
「なんでしょう、若君」
「橋って、人手を集めれば作れるものなのか?」
コンラートは川を見渡した。
「仮橋でよければ船橋を造る手もあります。しかし恒久的に通れる橋となると…………私には何とも申せません」
「ミヒャエル。こういう橋を造ったことがある人間は、領内にいる?」
「おりません」
即答だった。
少しくらい迷ってから答えてもいいのに。
「まさか俺、自分で設計するつもりだった?」
「いいえ。ヨアヒム様も、専門の職人が必要だとおっしゃっていました」
「そうか」
さすがに橋まで自分で作ろうとはしていなかったらしい。
「ヨアヒム様の命で、ケラー商会に声をかけ、経験のある職人を探させています」
さすが元のヨアヒム、ぬかりがない。
ホフマン商会を使わなかったのは、依存度を下げるためなのかな?
「見つかった?」
「今のところはまだ。ただ、商会から、来年の春までには手配できそうだと連絡を受けています」
少なくとも、当てはあるらしい。
何もないよりはずっといい。
そのとき、川上の対岸から声が聞こえた。
何人かの男が、大きな樽を渡し船へ積み込んでいる。
男たちは樽を一つずつ船へ運び込み、転がらないよう縄で固定していく。こちらへ着けば、それをまた降ろして別の馬車に積み直すことになる。
橋があれば、そのまま馬車で渡れる。
橋を架けるには遠く感じた八メートルが、荷を運ぶ人間を眺めていると、ひどく惜しい距離に見えてきた。
「……橋、必要だな」
こうして見ればわかる。
用水路で麦を増やす。橋で隣領と繋ぐ。その先で羊毛を仕入れ、冬の仕事を作る。
元のヨアヒムは、一つ先どころか、そのまた先まで考えていたらしい。
……本当に二十歳だったんだよな?
「ミヒャエル」
「はい」
「用水路工事で測量を担当しているペーターという少年がいる。用水路工事が終わったら、彼にここを測量してもらおう。川幅だけじゃなく、岸の高さや周囲の地形も。専門家が来る前に揃えられるものは揃えておきたい」
「承知しました」
「増水したときに、どこまで水が来るのかも調べておきたいですな。近くの村の者なら知っているでしょう」
コンラートが、俺の考えに一つ付け加える。
俺は頷き、もう一度、ムル川を見る。
川上ではようやく樽を積んだ船が岸を離れるところだった。
昨日までは忘れていた仕事だ。
だが今日からは、俺の仕事になる。
用水路の次は橋。
みんなが豊かにならないと、俺が優雅な生活を送れないからな。
お読みいただきありがとうございます。
面白いと感じていただけましたら、評価やご感想をいただけると嬉しいです。




