昨日までの俺が積み上げてきたもの
工事現場では、数十人の男たちが土を掘っていた。
鍬と鋤が地面へ入り、掘り出した土が籠で運ばれる。
運ばれた土は、掘り進められた溝の両脇へ積まれ、踏み固められていく。
なるほど。
掘った土を捨てるんじゃなくて、両脇の堤にするのか。
離れた場所で馬から降り、俺が近づくと、最初にこちらへ気づいた男が手を止めた。
「若様」
それを合図にするように、周囲の男たちも作業を止め、次々と腰を曲げる。
「若様」
「ご苦労」
答えると、彼らはまた仕事へ戻る。
俺に向けられた態度には、びくびくした様子がない。
むしろ、親しみとまでは言わないものの、敬意のようなものが感じられた。
どうやら元のヨアヒムは、少なくとも現場の人間には信頼されていたらしい。
喜ばしい話のはずなのに、素直には喜べなかった。
彼らが慕っているのは、昨日までのヨアヒムなのだから。
そんなことを考えていると、一人の男がこちらへ歩いてきた。
「若様、このままあの先まで進めてよいか、次の区間の勾配をご確認ください」
困った。
水が流れるために、用水路に勾配が必要なことくらいは俺でもわかる。
だが、どう測る?
男が指した先には、一定の間隔を置いて何本かの杭が刺さっている。
俺が黙ってそこを見ていると、一人の少年がやってきた。
年の頃は十四、五歳ほどだろうか。顔に幼さが残っている。
「若様、お手伝いします」
先ほどの男が少年へ声をかけた。
「おう、ペーター、今日も若様を頼むぞ」
ありがたい。
ものすごくありがたい。
シュヴァルツ小勲章をあげたい。
少年は俺の返事を待たずに道具を用意し始める。
「若様、今日はどちらをやります?棒側ですか?測る側ですか?」
二択だった。
俺は二つの道具を見る。
一つは、俺の背丈ほどもある細長い棒だ。
一定の間隔で印が刻まれている。
もう一つは、木を組み合わせて作った、巨大なAの字のような道具だった。
A字の頂点から紐が垂れ、その先には小さな金属片がぶら下がっている。横木の中央には一本の印が刻まれ、上縁には小さな切れ込みが二つ入っていた。
まったくわからない。
対して棒は棒だ。
棒なら俺にも扱える。多分。
「では、棒側をやろうかな」
「はい」
少年――ペーターは疑う様子もなく、A字形の道具を抱えて先へ進んだ。
俺も言われた場所まで行き、棒を地面へ立てる。
「若様、もう少しまっすぐお願いします」
「これくらいか?」
「はい、そこで」
どうやら棒は垂直に立てればいいらしい。
見ているうちに、A字形の器具で水平を取り、棒の目盛りとの差から土地の高低を測っていることだけは理解できた。
だが、理解できることと使えることは別だった。
近くの人間に棒を持ってもらい、ペーターの方へ行く。
「俺にも見せてもらえるか?」
「はい!」
ペーターが元気よく答える。
その返事にも迷いはなかった。
その後も、俺が突然わけのわからないことを訊ねても、この少年は俺を疑わなかった。
若様が言うなら。
若様が頼むなら。
そんな前提が、彼の中には最初からある。
もちろん、俺が築いたものではない。
俺は今日初めて、彼の名前を知ったのだから。
◇◇◇
それから俺は、工事現場を見て回った。
知らないことだらけだった。
誰が何をしているのか。
なぜそこを掘っているのか。
石や粘土を何に使うのか。
訊ねれば、皆が答えてくれた。
「この辺りは土が崩れやすいので、石を入れております」
「粘土は水が漏れぬように使います」
「こちらは三日前から掘っております」
誰も『そんなことも知らないのか』とは言わなかった。
「若様が仰った通り、こちらを先に進めております」
「若様に見ていただいたところは、今のところ問題ありません」
「雪が降る前には終わらせたいもんですな」
会う人、会う人が、昨日までの俺の話をする。
俺の知らない俺の話を。
どうやら元のヨアヒムは、毎日現場へ来ていたらしい。
だから皆も、俺がここにいることを当たり前だと思っている。
領主の息子だから頭を下げているだけじゃない。
こいつは現場を見に来る。
こいつは話を聞く。
こいつの指示に従っていれば問題ない。
そういう積み重ねが感じられた。
その上に、今の俺が立っている。
◇◇◇
日が傾き、今日の工事の終わりが告げられた。
男たちが鍬や鋤の泥を落とし、籠を集め、次々と帰路につく。
そして誰も彼もが俺の様子をちらちらと窺っていた。
やっぱり変だったか。
変だったよな。
普通に振る舞っているつもりでも、昨日までのヨアヒムとは絶対に違ったはずだ。
だが彼らの顔に浮かんでいたのは、気遣い、心配といったものだった。
そんな視線を受けつつ俺もハンスを伴い、工事現場近くに設けられた仮住まいへ向かった。
しばらく馬を進めたところで、ハンスがこちらを見る。
「若」
「やはりお体の具合がよろしくないのでは?」
「……」
何も言えなかった。
だって、何を言えばいいのかさっぱりわからないんだから仕方ないだろ!?
「当番のはずの者が何人か来ておりませんでした。いつもであれば、家族に何かあったのか、病ではないのかとお訊ねになったのに……」
なんてことだ。
働きぶりだけならまだしも、気遣いまで元のヨアヒムに負けている。
いや、待て。
これは俺にはどうしようもない。
俺は欠席者がいることに気づきようがなかったのだ。
知らなかったことを気遣えと言われても無理だ。
そうだろ!?
……誰か、そうだと言ってくれ。
「それから、石材や粘土といった資材の残量も、ご確認になりませんでした」
手綱を引きかけた。
ハンスくん、そういうの、もっと早く言って欲しかったなあ。
◇◇◇
夕食は、野菜の入ったスープと黒パンだった。
スープを一口飲む。
薄い。
塩気も野菜の味もあるのに、二十一世紀日本人の舌にはどうにも物足りない。
だが食べないという選択肢はない。仕方なく、黒パンをスープへ浸して食べた。
食事を終え、さてそろそろ休もうか。
そんなことを考えた直後だった。
扉が開いた。
「ヨアヒム様」
ゼバスティアンだった。
その後ろには、四十歳くらいの男が立っている。
嫌な予感がする。
男が一礼し、びっしりと文字の書かれた紙を差し出してきた。
「明日の裁判に備え、こちらをご確認くださいませ。詳しくは、領務を預かるミヒャエルよりご説明いたします」
「裁判?」
危うく声が裏返るところだった。
裁判。
俺が?
何で?
ミヒャエルが答える。
「南東の村の住人三名が、エンゲル領の水車で粉挽きを行っていた件です。あちらは当領より水車使用料がわずかに安く、そのため越境したものと思われます」
俺は紙を見る。
ミヒャエルを見る。
もう一度資料を見る。
「安い方を使っただけなら、仕方ないんじゃないか?」
沈黙。
ミヒャエルが目を瞬いた。
ゼバスティアンは俺の顔をまじまじと見る。
しまった。
どうやら、とんでもないことを言ったらしい。
「ヨアヒム様」
「何だ」
「領民は原則として、領主の水車を使う決まりです。その使用料を徴収するのも領主の権利です」
「ああ」
知らなかった。
「しかも、その使用料収入の一部は当面、借金の返済として商人たちへ支払わねばなりません」
「ああ……」
それも知らなかった。
ミヒャエルが続ける。
「さらに、うかつな裁定を下せば、エンゲル男爵領との関係にも響きかねません」
「ああ…………」
もう勘弁してくれ。俺は何一つ知らないぞ。
ゼバスティアンの表情には心配が、ミヒャエルの表情には困惑が浮かんでいる。
そこから、二人による講義が始まった。
用水路工事にあたって、さまざまな資金繰りや他領との調整の苦労があったらしい。
つまり、差し当たって今回の件でもっとも重要なポイントをまとめると次のようになる。
領民がエンゲル男爵領の水車を使う。
男爵家の収入が減る。
商人たちへ渡すはずだった金も減る。
借金の約束にまで関わってくる。
……駄目じゃん。
エンゲル男爵領の水車なんか使ったら、全然駄目じゃん!
誰だ?『仕方ないんじゃないか?』とか言っていたのは?
ゼバスティアンもミヒャエルも、俺がおかしいことには完全に気づいている。
だが、ここまで来たら格好をつけている場合ではない。
村人たちがこれまでどう扱われてきたのか、隣領とはどんな関係だったのか。わからないことを片っ端から二人に聞いた。
これまで俺がどんなふうに話を聞き、何を基準に裁いてきたのかも確認した。
そうして、これなら明日は何とか乗り切れそうだと思える頃には、すっかり夜も更けていた。
◇◇◇
ゼバスティアンとミヒャエルが去った部屋で、俺は椅子に座り天井を見上げていた。
朝は教練。
午前は勉強。
午後は工事現場。
夜は裁判の予習。
ヨアヒムは毎日こんなに働いていたのか。
これでは貴族どころか、ブラック企業の社畜ではないか。
嫌だ。
こんな暮らしは嫌だ。
俺はもっとこう、貴族らしく優雅に暮らしたい。
朝は遅めに起きて、昼まで適当に過ごして、午後になったら昼寝でもして、夕方から酒を飲む。
そんな人生を送りたい。
……駄目なんだろうな。
今日、工事現場で会った人たちの顔が浮かぶ。
俺を見て、当たり前のように頭を下げた。
わからないことを訊ねても答えてくれた。
何かを頼めば、嫌な顔一つせず頷いてくれた。
あれは全部、俺が手に入れたものじゃない。
あれは、仕事や借金のようにバックれて、素知らぬ顔をしていいもんじゃない。
「……明日の裁判、もう一回確認するか」
体を起こし、机に向き直る。
嫌だ。
本当は寝たい。
ものすごく寝たい。
けれど、明日俺の前に立つ人たちは、昨日までのヨアヒムなら、ちゃんと話を聞いてくれると信じているはずだ。
なら。
借り物に泥を塗らない程度には、頑張らないと駄目なのだろう。
俺は大きく息を吐き、さっき閉じたばかりの書類をもう一度開いた。
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