頑張っていたのは俺じゃない
「ヨアヒム様。ヨアヒム様、朝でございます」
肩を揺すられ、俺は目を覚ました。
最初に目に入ったのは、黒ずんだ剥き出しの梁だった。
鼻をつくのは、乾いた藁と土の匂い。
そして――背中が痛い。
「……痛っ」
体を起こして、理由はすぐにわかった。
俺が寝ていたのは、ベッドではない。
土の床に寝藁を敷き、その上に布を一枚重ねただけの寝床だった。
ガラスのはめられていない木窓の向こうは、すでに朝の光で明るくなっていた。
「……朝?」
「はい。日の出を過ぎております」
目の前にいたのは、きちんと身なりを整えた年配の男だった。
五十代か、もう少し上か。
灰色の混じった髪を整え、一つ一つの所作に、古風な品があった。
知らない顔だった。
まったく知らない。
なのに、彼が俺を心配していることだけは、表情を見ればわかった。
「昨夜も遅くまでお仕事に励んでいらっしゃいましたが、これほどお目覚めにならないとは。お加減が優れないのではございませんか?」
「いや……たぶん、大丈夫だ」
答えた瞬間、自分の声に違和感を覚えた。
少し低い。
それだけではない。
手を見る。
俺の知っている手ではなかった。指は長く、掌には、いくつも硬くなった部分がある。
俺は二十一世紀の日本で生まれ育った、ごく普通の日本人だったはずだ。
名字は鈴木……、少なくとも、そこまでは覚えている。
けれど、今は違った。
今の俺は――ヨアヒム・フォン・シュヴァルツ。
二十歳。
シュヴァルツ男爵家の嫡男。
なぜか、それだけは知っていた。
問題は、それ以外だった。
何も思い出せない。
この体で過ごしたはずの二十年間。
目の前にいる老人の顔も、この家の間取りも、昨日何をしていたのかさえ、まるで覚えていない。
これが異世界転生というものなら、ずいぶん説明不足ではないだろうか。
「ゼバスティアン殿、馬の支度ができました」
戸の外から男の声がした。
俺は老人を見た。
老人――ゼバスティアンが、戸の方へ顔を向ける。
「承知しました。すぐに参ります」
なるほど。この人、ゼバスティアンというのか。
どうやら俺は、自分の人生を何一つ知らないまま、自分の人生の続きを始めなければならないらしい。
◇◇◇
外へ出ると、朝露の残る草地に二人の男と三頭の馬が待っていた。
一人は四十代ほどの大柄な男だった。
肩幅が広く、腰には剣を下げている。
もう一人は俺と同じくらいの年頃で、こちらは革の上着に剣を帯びていた。
「ハンス、若君の馬を」
「はい、コンラート様」
助かった。
名前を聞き出す手間が省けた。
俺は何食わぬ顔で二人の名を記憶した。
これで自分を含めて登場人物が四人に増えたわけだ。
「では若君、まず馬術の修練から参りましょう」
コンラートに促され、馬の横に立つ。
俺は馬を見上げた。
大きい。
近くで見ると、想像していたよりずっと大きい。
そして俺は、前世で馬になど乗ったことがない。
テレビで競馬を見たことはあるが、それで馬に乗れるなら競馬場の観客は全員騎手である。
無理だ。
転生初日に落馬。
享年二十。
二度目の人生、終了。
そんな未来が頭をよぎった。
ところが。
足は自然に鐙に乗り、左手が手綱を取り、体が跳ね上がる。
次の瞬間には、俺は鞍上の人となっていた。
「……おお」
「いかがなさいました?」
「いや、何でもない」
恐る恐る馬を進ませる。
歩かせる。
速度を上げる。
曲がる。
止まる。
できる。
全部できる。
コンラートから槍を渡される。
さすがにこれは無理だろうと思った。
だが、これも体が覚えていた。
鐙に足を掛けて体勢を保ち、片手で馬を御しながら槍を扱う。長く重い槍なのに、どこを持てば扱いやすいのかまで感覚でわかった。
記憶はない。だが、体に染みついた技術は残っている。
「今日は少し鈍いですな」
コンラートが腕を組む。
「そうか?」
「はい。昨夜のお疲れが残っているのでしょう」
これで鈍いらしい。
昨日までの俺は何者だったのだろう。
ともあれ、希望が一つ見えた。
少なくとも転生初日に馬から落ちて死ぬことはなさそうだ。
◇◇◇
朝食は黒パンと牛乳だった。
黒パンは固く、酸味が強い。牛乳は薄かった。
貴族の朝食と聞けば、銀器に肉料理でも並ぶものと思っていたが、現実はずいぶん質素だった。
いや、質素どころではないのかもしれない。
ゼバスティアンに案内された執務室を見て、俺は改めてそう思った。
土壁。
土の床。
木の窓。
背もたれのない椅子が二脚。
燭台、インク壺、羽ペンなどが整頓されて置かれた、だが装飾のまったくない机。
同じく飾り気のまったくない棚。
隣があの寝室なのだから、こうなるのも当然なのだろう。
しかし、ここ、本当に男爵家の家なのか?
ひょっとすると、男爵家の嫡男という記憶まで間違っているのではないだろうか。
実は農民でした、と言われても、この建物だけを見れば納得できそうだった。
「本日は特別な報告もございません」
棚から本を取り出したゼバスティアンが、それを机へ置いた。
「午前は勉学にお励みください」
一礼をしてゼバスティアンは退出していった。
本を目の前にして、嫌な予感がするが、それでも本を開いた。
読めた。
文字を見た瞬間、意味が頭に入ってくる。
試しに指先で、自分の名前を机の上へ書くようになぞってみた。
ヨアヒム・フォン・シュヴァルツ。
書ける。
文字が読めないという最悪の事態だけは避けられた。
少し安心して、本へ目を戻す。
農業書だった。
麦の作付け。休耕地。土壌。家畜……。
しかし、読めても内容が頭に入ってこない。農業なんて小学校の芋掘りしかやったことがない。
一頁。二頁。三頁……。
文章を追う。目が滑る。戻る。また滑る……。
◇◇◇
「若。昼ですよ」
肩を叩かれて目を覚ます。
今度はハンスだった。
手には黒パンを載せた木皿と、湯の入った木杯を持っている。
「大丈夫ですか?ゼバスティアン殿も心配していました」
「寝不足……なのかな」
「用水路工事にかかりきりで働き詰めでしたから。少し休まれた方がよいのでは?」
まさか、本の内容が理解できないから、寝てましたとは言えない。
昼食を終えると、ハンスが立ち上がった。
「どうなさいますか?今日も用水路へ参りますか?それともお休みになりますか?」
また知らない予定が出てきた。
「……ああ」
肯定でも否定でもなく、曖昧に答える。
「承知しました。では参りましょう」
肯定として処理された。
厩に向かうハンスを慌てて追い、馬を出して鞍を載せ、頭絡をつける。
これらの作業も、体が覚えているらしい。ただ念のため、ハンスの手順を横目で確かめながら済ませた。
ハンスと並んで馬を進めながら、なるべく不自然にならないよう事情を探ることにした。
「お前の目から見て、近頃どうだ?」
我ながら駄目な質問だった。
何について訊ねているのか、自分でもわかっていない。
だがハンスは優秀だった。
「用水路のことであれば、もう一息でしょう。あとはドゥニン村へ水を通せば終わりです」
「ふむ。それでどうなる」
「もちろん今年の作付けには間に合いません。ですが、来年からはずいぶん違うかと」
ナイス回答だ。ハンスくん。
知りたいことを勝手に補完してくれた。
「そうだな」
もちろん知っていました感を漂わせつつ、次の手を打つ。
「父上はどうだ?何か聞いているか?」
嫡男という記憶が正しければ、父親がいるはずだ。
だがハンスは顔を曇らせた。
「若から伺っている以上のことは存じません。相変わらず、お加減はよくないとだけ」
そうなのか。
「次にお屋敷へ戻られる折も、お供します」
「ああ。よろしく頼む」
なるほど。
父は病床にいる。
その後も幾つか問答を繰り返して、ようやく事情が見えてきた。
ハンスは俺の乳兄弟にして従士、コンラートは騎士で、ゼバスティアンは執事兼秘書のような存在。
父が病に臥せってから二年、俺がこのシュヴァルツ領の領主代行を務めている。
現在、シュヴァルツ領の南にある三つの村へ水を引くため、用水路を造っている。
元のヨアヒムの発案で始まった工事らしい。
繁忙期を避けながら一年以上をかけ、幹線水路を引き、ハウゼン村とシュライト村への支線水路を通した。
残るはドゥニン村のみ。
そして俺は、領主代行としてその工事を指揮するため、男爵家の屋敷を離れ、現場近くの粗末な家に仮住まいしているらしい。
いや、ちょっと待って欲しい。
誰が、何の工事を指揮するんだって?
チート能力を授けてくださいとは言わないが(嘘だ。心の底から欲しい)、もう少しこう、何というか、手心というか……。
……どうする。いっそ逃げるか?
駄目だ。見知らぬ世界に放り出され、土地勘も金の稼ぎ方も常識も知らない俺が、一人で生き残れる気がまったくしない。
まだ男爵家嫡男として生きる方が生存確率が高そうだ。
俺は、しぶしぶ消極的決意を固めた。
逃げない。
少なくとも今は。
だがこの男爵家嫡男ルートを選ぶと大きな問題が一つある。
俺は、とんでもなく頑張っていた男の人生を引き継いでしまったらしいことだった。
父親から領主代行を引き受けて、即座に大規模な用水路工事を始め、粗末な寝床と食事に耐えながら、現場へ詰める。
普通、こういう話では、ろくでなしの人生を引き継ぐものではないんですかね。
それまで怒鳴りつけていた相手に礼を言うだけで、好感度爆上がり。
神童の名にかまけず努力したら、世界有数の実力者。
そういうのが相場だと思う。
それに比べて俺はどうだ?
朝は起きれない。
本は理解できない(そして寝落ちした)。
工事指揮と言われても何もわからない。
ここまで元のヨアヒムに何一つ勝てていない。
まったく神も仏もありゃしない。
いるのか知らんけど。
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