後日談 失った二十年とその先
暖炉の前で、ゼバスティアンとコンラートが向かい合っていた。
二人の手には葡萄酒の杯がある。
酒を嫌うわけではないが、こうして二人で杯を傾けることは稀だった。
今夜の酒の肴は、ヨアヒムだった。
「もう一年以上になりますな」
「左様でございます」
一年以上前、二人はハンスを交え、別人のようになったヨアヒムについて話し合った。
「今でも、ときおりそう感じます」
ゼバスティアンが言った。
「朝のお目覚めから、奥方様への接し方まで」
以前は起こされる前に自ら起きた。今では寝床を惜しむことがある。
ヨハンナへの態度は、それ以上に変わった。必要な言葉だけを交わしていた夫が、今では不器用ながら妻へ歩み寄っている。
「二十年分の記憶ですからな」
コンラートは杯を置いた。
「失われたものは大きい。ですが、二十年かけて積み上げたものまで、すべて消えたわけではありますまい」
「と申しますと?」
「馬の御し方。槍も剣も、若君は忘れておられない」
ゼバスティアンにも思い当たることがあった。
「匙やナイフを扱う所作も、以前のままでございます」
コンラートは葡萄酒を一口飲んだ。
「変わったところもありますぞ。若君は、身を惜しむようになられた」
「以前の若君は、抜き身の宝剣のようでした。どこまで行かれるのか。それとも、その前にご自身を損なわれるのか。そんな危うさがあった」
「今は、きちんと鞘に収まっております」
「それは、よろしい変化と見ておられるので?」
「ええ。もっとも、以前ほどの切れ味はないかもしれませんがな。鞘もまだ、みすぼらしい」
「若君、いや男爵様には聞かせられませんな」
「落ち込まれますか」
「おそらくは」
二人は顔を見合わせ、笑った。
「ただ、一つだけ説明がつきません」
ゼバスティアンは杯を置いた。
「産婆と外科医へのご指示です」
産婆には手を石鹸で洗わせ、刃物や布を煮させた。
外科医にも同じことを命じている。
ヨアヒムは、そうすれば病になる者を減らせると知っていた。
「あの知識は、どこで得られたのでしょう」
「……もしや遠いアズハラのものではありませんかな」
「私もそう考えました」
ゼバスティアンは、この地を訪れた商人や職人へさり気なく訊ねていた。
アンドレアスにも聞いた。
「ですが、誰もそのような話は知らないとのことでございました」
コンラートはしばらく杯を眺めていた。
「以前、ゼバスティアン殿が言われましたな」
「何をでしょう」
「『ヨアヒム様がヨアヒム様であることに変わりはない』と」
ゼバスティアンは頷いた。
「確かに、申し上げました」
そして今も、その考えは変わっていない。
失ったものもある。
以前とは変わったところもある。
どこで得たのかわからない知識まである。
それでも、ヨアヒムがシュヴァルツ家を担う限り、自分はその傍らで支える。
そこに迷いはなかった。
「もっとも、奥方様は何かご存じなのでしょうな」
「奥方様が?」
「以前、一度この話に触れた際、話を逸らされまして。その後、それとなく訊ねてみたこともございますが、その時も同じでございました」
ヨハンナは、何かを知っている。
だが、それ以上を訊ねる気はなかった。
何を知ったうえでなのかはわからない。それでも今のヨアヒムの傍らにいる。
「まあ、よろしいでしょう。夫婦仲がよいのは何よりでございます」
すると、コンラートが大きく頷いた。
「まったくですぞ。最近のお二人は実に仲がよろしい。この前など、奥方様がお笑いになると若君まで――」
「コンラート殿」
「食事の席でも、若君が奥方様へ――」
「コンラート殿」
「この分なら、近いうちに子どもの顔も見られるでしょうな!」
どうやら葡萄酒が回っているらしい。
普段は口数の少ない騎士が、今夜に限ってよく喋る。
「いつまでヨアヒム様の叔父気取りをなさるおつもりですか」
「叔父気取りとは心外ですな」
コンラートには子どもがいない。
幼い頃から見てきたヨアヒムへ、息子に近い情を抱いていることも、ゼバスティアンは知っていた。
「若君に子どもが生まれたら、若君と奥方様と私で立派に育て上げますぞ」
「なぜ、そこにあなたが入るのでございます?」
「若君は二十年の思い出を失われた」
コンラートは杯を置いた。
「ならば、新しく作ればよいのです」
「若君と奥方様と、その子と、私でな。失った二十年の分まで、これから作っていけばよい」
ゼバスティアンは、すぐには答えなかった。
失った年月は戻らない。
だが、これから積み上げる年月まで失われたわけではない。
「それは結構でございますが、一つ聞き捨てなりませんな」
「何がです?」
「お生まれになったお子は、私がみっちり教育いたします」
「まずは馬でしょう」
「歩くより先に乗せるおつもりで?」
「私が支えます」
「まずは読み書きでございます」
「それでは強い子には育ちませんぞ」
「今のヨアヒム様をご覧になっても、そう思われますか」
「ゼバスティアン殿こそ、勝手に教育役になっておりますぞ」
「私はヨアヒム様の執事でございますので」
「理由になっておりませんな!」
暖炉の薪が崩れ、火の粉が弾けた。
まだ生まれてもいない子を、どちらがどう育てるのか。
そもそもヨアヒムもヨハンナも、二人に頼んですらいない。
二人の話は続く。
夜は更けていった。
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