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頑張っていたのは俺じゃない -楽をしたい領主代行の異世界領地経営-  作者: oldenhaldt
俺の、俺たちのやりかた

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20/22

何もしなかった男爵

 父から男爵位を継いだ俺が、まず何を始めたのか。


 答えは簡単だ。


 何も始めなかった。


 もちろん、仕事をしていないわけではない。


 持ち込まれた書類を読み、話を聞き、必要なら判断する。領主代行だった頃からの仕事は続けている。


 ただ、それだけだった。



 そして現在。


 俺は暖炉の前に陣取り、エンゲル男爵領産の赤ワインをちびちびと舐めていた。


「……うまい」


 暖炉。


 赤ワイン。


 誰にも勤務時間を管理されない身分。


 今、俺はまがりなりにも『優雅なる貴族生活』を送っている。


 だが、まったく満たされていなかった。



 柄にもなく、領地のこれからを真面目に考えていた。


 そして、何一つ決められずにいた。


 気づけば、男爵になって半月ほど経っていた。


 俺は今日も赤ワインを飲んでいる。


 これはまずい。


 酒の味ではなく、俺の生活が。


 そんなある朝、ハンスが言った。


「若、今日は俺と出かけませんか?」


「どこへ?」


「少し遠出を」


 珍しい誘いだった。


 ここ半月、遠出らしい遠出をしていない俺を、狩りにでも連れ出してくれるのだろうか。


 鹿を追い回すのも『優雅なる貴族』の楽しみの一つだろう。


 そう期待した俺が馬鹿だった。


 ◇◇◇


「ここ?」


「ここです」


 連れてこられたのは狩場ではない。


 領都のはずれだった。


 馬を降りて歩く。


 雪が解けた道は泥になり、轍には水が溜まっている。踏む場所を間違えれば、靴が足首近くまで沈んだ。


 家々の間には共同の井戸がある。


 そのすぐそばに、人や家畜の糞便が積まれていた。


 風が吹くたびに臭いが来る。


 これで井戸は大丈夫なのか。


 道を行き交う人を見る。


 服には何枚もの布が当てられている。


 知らなかったわけではない。


 何度も見てきた。


 それなのに、いつの間にか、ただの風景になっていた。


「なぜ俺をここに?」


 ハンスはすぐには答えなかった。


 井戸から水を汲む女。


 荷を背負って歩く男。


 泥の上を走る子どもたち。


 その全員を見渡してから言った。


「俺はこいつらが苦しいのは当たり前だと思っていた。でも若は違うんでしょう?」



 思わずハンスを見る。


 こいつは領民に対して、俺よりずっと身分を気にするタイプのはずだった。


「用水路の時も、フェルン村の時もそうでした。若は、こいつらの暮らしを少しでも良くしようとしてたでしょう?」


「……そうだな」


「俺も少しそっちの方が良い気がしてきました」


 ハンスは少し言いづらそうに顔をしかめた。


「そろそろ飲んだくれの日々は十分でしょう」

「若が何をするのかはわからないですけどね。俺はついていきますよ」


 もう一度、周囲を見る。


 彼らが少しでも暮らしやすくなるようにしたい。


 昨日より今日。


 今年より来年。


 ほんの少しでもよくしたい。


 そこは変わっていない。


 でも、何から始める?


 道を直す。

 畑を増やす。

 商売を増やす。

 病人を減らす。

 税を軽くする。


 どれもやった方がいい。


 だから選べない。


 一つ選べば、別のものは後になる。


 使える金も人も限られている。


 答えは出なかった。


 それでも、ハンスが俺をここまで連れてきた理由だけはわかった。


 ありがとうな。


 ◇◇◇


 その日の夜。


 自室で本を読んでいると、扉が叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのはヨハンナだった。


 彼女が俺の寝室まで来るのは久しぶりだ。


「最近、ずいぶん暇そうですね?でしたら私を手伝ってくれませんか?」


 嫌な汗が出る。仕事をサボって喫茶店で涼んでいたのがバレた時の焦りが蘇る。


「もちろん。でも、何を?」


「学校を作ろうと思うのです」


「学校?」


 予想外の言葉に顔を上げた。


「学校って……ペーターにやったことを、他の子どもにもやるのか?」


「はい」


「でも、あれは生まれで身分が決まらない日本だからできることであって……」


「同じものを作る必要はないと思います」


 ヨハンナは迷わず続ける。


「ペーターのような者が増えればシュヴァルツ領の力になるのではありませんか?」


 ペーターが今どれだけ役に立っているかは、俺が一番よく知っている。


「領地全体でやる金も、教える人間もいないぞ」


「ですから、まず領都で始めてみようと思います」


「子どもは重要な労働力だ。仕事からどうやって引き離す?」


「無理に引き離すつもりはありません。まずは、通わせたいと望む家だけで始めようと思います」


 すぐに返事が来た。


 思いつきで話しているわけではないらしい。


「誰が教える?」


「私と……ヨアヒム様です」


「君と俺が?」


「はい」


 俺も入っているらしい。


「全部を一度には変えられません」


 ヨハンナは俺を見る。


「ですから、まず一つ始めてみたいのです」


 そして続けた。


「そして、その結果を比べてみましょう。始める前と何が変わったのか」

「あなたから教わったことです」


 何も言えなかった。


 目の前のヨハンナが、眩しく見えた。


 学校を作ったところで、今日見た泥道が消えるわけじゃない。


 井戸のそばに積まれた糞便も、明日もそのままだろう。


 でも、ヨハンナは最初から領地全部を一度に変えようとはしていなかった。


 まず一つ。


 できることから始める。


 それは俺が今までやってきたことだった。


 当の俺だけが、いつの間にか忘れていた。


 そして彼女が話すこれからの中に俺がいた。


 俺は?


 学校を作る。


 二人で教える。


 結果を見る。


 次を考える。


 まだ何一つ始まっていない。


 今までだって、ヨハンナは俺の妻だった。


 結婚した時のことを、俺は覚えていない。


 ありきたりな政略結婚だったと聞く。


 でも、今は違う。


 俺が、この人を選びたい。



「ヨハンナ」


「はい」


「君が好きだ。あの日、君を初めて見た時からずっと。そして今が一番好きだ」


「はい」


「改めて俺と結婚して欲しい」


「はい」


「え?」


 ヨハンナは満面の笑みを浮かべていた。


「はい。喜んで」


 聞き間違いじゃないよな?



 学校を始めたら、また仕事が増える。


 場所を決める。


 何を教えるか考える。


 希望する家族を集める。


 男爵になって半月も何も始めずに済んでいたのに。


 まあ、今度の仕事は二人でやろう。


 それが上手くいったら、次はその時考えよう。


 (おしまい)


最後までお読みいただきありがとうございました。

明日、後日談を一本あげて、それで本当の終わりとなります。最終話で取り上げられなかった二人のお話となります。

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