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頑張っていたのは俺じゃない -楽をしたい領主代行の異世界領地経営-  作者: oldenhaldt
受け継いだ仕事

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17/22

近づく距離、遠い完成

 夜。


 俺の寝室にヨハンナがいた。


 向かい合って椅子に座っている。


 夫婦が夜に寝室で二人きり。


 条件だけ並べれば、そろそろ大人の階段の出番があっても良さそうなものだ。


 残念ながら、今日も階段は部屋の隅で埃を被っている。


「ヨアヒム様。一つ、訊ねてもよろしいでしょうか?」


「何?」


「どうして刃物や布を熱湯で煮たり、石鹸で手を洗ったりすると、赤子が亡くなりにくくなるのでしょう?」


「ええと……」


 いきなり難問が来た。


 こうしてヨハンナと二人で話すことになったのは、数刻前の出来事がきっかけだった。


 ◇◇◇


 その日の夕方。


 俺はゼバスティアンとヨハンナを交えて、屋敷のことを相談していた。


 そこへミヒャエルが産婆を一人連れてきた。


「石鹸を受け取りに来たそうですが、ヨアヒム様へ直接お伝えしたいことがあるとのことです」


 俺が産婆を見ると、彼女は遠慮がちに口を開いた。


「この冬のことでございます。産まれてすぐ亡くなった赤子はおりません」


「本当か?」


「それは年によってはあることでございます。ただし、臍が膿む赤子は減ったように感じます」


 思わず身を乗り出した。


 エーファの赤子が頭に浮かぶ。


 生まれて七日で亡くなった、あの赤子。


 同じことが少しでも減ったのなら。


「それは……よかった」


 まだ手洗いや煮沸のおかげだと決まったわけではない。


 それでも、その言葉を聞けたことが嬉しかった。


「効果があったとは喜ばしいですが、驚きです」


 ゼバスティアンが俺を見る。


「一体、どうしてこれを――」


「具体的にどれぐらい減ったのかしら」


 ヨハンナの声が重なった。


 ゼバスティアンはヨハンナを一度見たが、それ以上は何も訊ねなかった。


「この冬、私が取り上げた赤子は七人です。臍が膿んだ赤子はおりません」


「以前は?」


「数えてはおりませんでした。そして母親たちも心なしか産後の肥立ちが良いようです」


 効いたと決めつけるには、まだ早い。


「昨年分については、産婆と家々への聞き取りを進めております」


 ミヒャエルが続ける。


「おおよその数は出せるかと」


「頼む。今のやり方も続けてくれ」


「承知しました」


 俺は隣のヨハンナを見た。


 今のは、もしかして。


 ゼバスティアンの質問から話題を逸らしてくれた?


 よし。


 ヨハンナちゃんにはシュヴァルツ小勲章を授与しよう。


 ◇◇◇


 そして今に至る。


「俺がいた世界では、菌と呼ばれるものがいると考えられているんだ」


「菌?」


「目には見えないほど小さいものだ。その中には、人の身体に入ると病気を起こすものがある」


「生き物なのですか?」


「……そこまで聞かれると困る」


 開始早々、知識の底へ到達した。


「俺も専門家じゃないんだ。とにかく、傷口や臍から身体に入って悪さをするものがいる。石鹸で手を洗ったり、刃物や布を煮たりすれば、それを減らせる」


「減らせる」


「そう」


「完全にいなくなるわけではないのですね」


「たぶん」


 ヨハンナが俺を見る。


「たぶん、なのですね」


「ごめん」


「謝らないでください。専門家ではないと、最初からおっしゃっているではありませんか」


 助かる。


 実のところ俺は理系ではない。だからといって文系科目が得意だったわけでもないんだけど。


「では、その菌というものが傷口や臍から入るのを減らすために、手や道具を清潔にするのですね」


「ああ」


「それで、この冬は臍が膿んだ赤子が一人もいなかった」


「まだ、それが手洗いのおかげとは限らないけど」


「だから昨年の数も調べるのですね」


「そう」


「でしたら、続けて調べればよいのだと思います」


 ヨハンナはそこで口を閉じた。


 少しして、俺を見る。


「ヨアヒム様。もう一つ、お願いしてもよろしいでしょうか?」


「何?」


「もしよかったら、今後もヨアヒム様の元いた世界の話をお聞かせ願えませんでしょうか?」


「俺の世界の?」


「はい。どのような場所で、どのように暮らしておられたのか。私は何も知りませんから」


 思いがけなくて、すぐには言葉が出なかった。


「もちろん」


 今度は俺から言う。


「あのさ。だったら、俺からも頼んでいい?」


「何でしょう?」


「よかったら、この世界のことを俺に教えて欲しい」


 ヨハンナが目を瞬かせた。


「俺も知らないことばかりだから。こっちのことなら、ヨハンナの方がずっと詳しいだろ?」


「……わかりました」


 それからヨハンナは、俺のいた世界では夜をどう過ごしていたのかと訊ねた。


 俺が日本の夜の明るさを説明する。


 今度は俺が、この世界では春になると何をするのかを訊ねる。


 ヨハンナが春の祭のことを楽しそうに話す。


 一つ答えると、また一つ質問が増えた。


 気づけば、思っていたより長く話していた。


 ◇◇◇


 翌朝。


 どうやらヨハンナが夜に俺の寝室へ来たことは、すでに屋敷中へ知れ渡っていたらしい。


「良かったですな、若君」


 朝食を始めて早々、コンラートが満足そうに頷いた。


「何が?」


「昨夜のことですぞ」


 俺の手が止まった。


「若。俺も安心しました」


 ハンスまで笑っている。


「待て。昨日はヨハンナと話をしていただけだぞ」


「ええ」


「本当に話しただけだからな?」


「左様でございますか」


 ゼバスティアンはそれだけ答え、何事もなかったように食器を整えた。


 絶対に信じていない。


「ヨハンナ。昨日は話をしただけだよな?」


「はい」


 よし。


「ヨアヒム様のお話、とても楽しかったです」


 違う。そうじゃない。


 コンラートが大きく頷く。


 ハンスは横を向いた。


 笑うなら笑え。


 朝食を終え、執務室へ移る。


 最初の書類を持ってきたミヒャエルが、机に紙を置いた。


「こちらへご署名をお願いします」


「ああ」


「それと」


「何?」


「良かったですね、ヨアヒム様」


「お前のところまで話が行ってるの?」


「では、次の書類です」


 何事もなかったように二枚目を差し出された。


 こうして俺は、何もしていないのに夫婦仲が大いに進展した男として扱われることになった。


 これが後の世で『旦那様と奥様がくっついた事件』と呼ばれる一件のあらましである。


 ◇◇◇


 そうこうしているうちに、春も終わりに近づいた。


 ケラー商会から待ち望んでいた知らせが届く。


 橋を造った経験のある大工棟梁を手配できたという。


 六月。


 その男は、一人の若い徒弟を連れてシュヴァルツ家へやって来た。


「アンドレアス・ウェーバーです。こっちは徒弟のマルティン」


 アンドレアスは三十代後半。


 俺より背は低いが、腕は太く、肩幅もある。


 挨拶が終わるや否や、俺は待ち構えていた質問をぶつけた。


「早速なんだが、橋を造るならどれぐらいの人手と木材が必要になる?秋から工事を始めたい。今のうちにできる準備があるなら――」


「一度現場を見ないと何とも言えません」


 用意していた質問が、開始十秒で役に立たなくなった。


「現場を見ないと駄目か?」


「川幅も河床も、使う木も見てません。今ここで何かを答えても、適当なことを言うだけになります」


 正論だ。


 なんかすごくプロっぽい。


「親方は、遠慮というものをどこかに置き忘れてきた人なんです」


 隣にいたマルティンが申し訳なさそうに言った。


 それはフォローになっているのか、マルティンくん。


「わかった。じゃあ今から行こう」


「はい」


 出発前に、コンラートにはドゥニン村へ、ペーターを呼ぶための使いを出してもらった。


 俺とゼバスティアン、コンラート、ハンス、ミヒャエル、それにアンドレアスとマルティンでムル川へ向かった。


 増水期のムル川は、冬に来た時より水量が増していた。川幅も広くなっているようだ。


 アンドレアスは岸へ着いても、しばらく何も言わない。


 川沿いを歩き、水際まで降りる。


 足元の土を靴先で崩し、拾った枝を泥へ差し込む。


 今度は対岸を眺め、少し上流へ歩く。


 俺たちはその後ろをついていった。


「若」


 ハンスが小声で言う。


「何?」


「我々、必要ですか?」


「俺も今それを考えてた」


 専門家が仕事をしている横で、大人数の見学会になっている。


 アンドレアスがこちらを向いた。


「今が増水期ですか?」


「ああ」


「水が減るのは秋冬?」


「雪解けが始まる前までは少ない」


 再び川を見る。


「この場所なら橋は架かりそうです。ただ、河床次第ですね」

「造るのは木橋で良いんですよね?」


「ああ。木なら領内にたくさんある」


「木だったら何でも良いってもんじゃないです」


 え?そうなの?


「橋脚を立てるには、川底へ打ち込む杭が要ります。杭に向いた真っ直ぐな木を何本も揃えないといけません」


「むむ」


 昨日まで俺の中では木は全部『木』だった。


 でも実は『杭に使える木』と『杭に使えない木』があったらしい。


「では、後日森も案内する」


「お願いします」


 アンドレアスはさらに川上へ歩いた。


 渡し場の近くまで来ると、係留されている小舟に目を留めた。


「船は通すんですか?」


「船?」


「橋脚の置き方が変わります」


 俺も舟へ目をやる。


「あれぐらいだ。この辺りで使っているのは、もっぱらあの程度だな」


「なら、舟のために橋脚の間を大きく空ける必要はないですね。橋を高くする必要もない」


 よし。


 今度こそ一つ減った。


「ただし――」


 うっ。


「増水は別です。どこまで水が上がるか。流木がどれだけ出るか。それを見ないと橋の高さは決められません」


「増水時の水位なら調べてある」


 アンドレアスがこちらを見る。


「近くの住民から聞き取った。それと、川幅、両岸の高さ、周辺の地形も測ってある」


「見せてください」


 持ってきた記録を渡す。


 まあ、実際に測ったのはペーターだけど。


 アンドレアスは記録を読みながら、ときどきそこに書かれた場所と実際の川岸を見比べた。


「よく調べてありますね。誰が測ったんです?」


「領民の少年だ」


 アンドレアスが記録から顔を上げた。


「……これを?」


「役に立ちそうか?」


 再び記録を見る。


「増水時の水位も聞き取ってある」


「ああ」


「そいつ、呼んでください」


「今、呼びにやっている。明日か明後日には来てくれると思う」


「なら本人にも聞きます」


 俺が褒められたわけではない。


 それでも、かなり気分がいい。


 ペーターにはシュヴァルツ中勲章を授与しておこう。


 この勲章、乱発しても財政負担ゼロなのが素晴らしい。


 その後もアンドレアスは川沿いを行き来した。


 まず河床を調べる。


 それから橋を架ける場所を絞る。


 増水時の水位を踏まえて高さを決める。


 俺が知らなかった仕事を、アンドレアスは次々と見つけてくれる。


 ありがたい。


 ありがたいんだけど。


 俺の仕事まで増えている気がするんですけれど。


 ◇◇◇


 翌日。


 俺が屋敷でアンドレアスと河床調査について話していると、ハインリヒ・ホフマンとクリスティアン・ケラーが訪ねてきた。


「ミヒャエル殿に、橋の建造が本格的に始まると聞いてやって来ました」


 ハインリヒが挨拶を済ませる。


 ミヒャエルは、今使われている舟が通れるだけで本当に足りるのか、商人たちに確認していたらしい。


 さすがミヒャエル。俺が気づかないところまで目が行き届いている。


「今度造る橋ですが、一つお願いがございます」


「何?」


「もう一回り大きな船を通せるように作っていただけませんか?」


「大きな船?」


 俺が続きを訊くより先に、アンドレアスが口を開いた。


「大きくするなら、材も手間も増える」


 ハインリヒを見る。


「その分は、あんたが払ってくれるんですか?」


お読みいただきありがとうございます。

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