俺がやらなくていいこと
風が春の匂いを帯び始めた頃。
山では積もった雪が日ごとに緩み、ムル川も少しずつ水量を増していった。
俺は屋敷の一室で、ケラー商会の当主クリスティアン・ケラーと向かい合っていた。
同席しているのはゼバスティアンとミヒャエルだ。
「当初の見込みより手配が遅れております。申し訳ございません。早急に探しておりますので、今しばらくお待ちください」
「うん。頼む」
ケラー商会には、ムル川に架ける橋の建造を担える技師を探してもらっている。
春には紹介できる見込みだと聞いていた。
そして、もう春は目の前だ。
困ったことに、俺には橋を造るのにどれくらい時間がかかるのかすらわからない。
一ヶ月?
三ヶ月?
半年?
そこからしてわからないのに、始める時期まで後ろへずれている。
嫌な予感センサーが反応していた。
「ケラー殿」
ゼバスティアンが口を開く。
「橋の建造は当家にとっても大事業でございます。どうか、引き続きお力添えをお願いいたします」
「もちろんでございます」
クリスティアンが頭を下げた。
口調は丁寧。内容も丁寧。
なのに何故か圧がある。
さすがゼバスティアン。年季が違う。
「今できることを進めるしかありません」
ミヒャエルが言った。
「ペーターの測量結果だけでも、技師が見てわかる形にまとめておきましょう」
「そうだな」
「ゼバスティアン。他に何かできない?」
「今はお待ちになることも、ヨアヒム様のお仕事かと存じます」
待つ。
何もしない。
それが仕事。
素晴らしい。
俺がずっと求めていた仕事じゃないか。
なのに、嬉しくなかった。
◇◇◇
その日の午後。
俺は珍しく、ヨハンナとペーターの勉強に混ざっていた。
机には、橋予定地の測量で使った蝋板が並んでいる。
今日は数字と地名をペーター自身に読ませながら、ヨハンナが技師へ渡す記録を羊皮紙に清書していた。
「ここは?」
「……三、です」
「こちらは?」
「八」
「では、これは?」
ペーターが蝋板を睨む。
「テッ……テン」
「正解よ」
ヨハンナが笑った。
「近頃のペーターは領内の地名も覚えましたし、二桁の足し算もできます」
「それは素晴らしい。頑張ったな、ペーター」
「これも若様とお姉ちゃんのおかげです」
お姉ちゃん。
もう噛まなくなった。
最初はあれほど恥ずかしがっていたのに。
成長したな、ペーター。
でも何故だろう。ちょっと悔しい。
俺なんて、いまだにヨハンナと二人きりになると妙に緊張する。
ゲオルクが帰ってから、以前よりは話せるようになった。
会話が途切れてばかり、ということもなくなった。
それでも、何を話せばいいのか迷うことは多い。
「ところでヨアヒム様」
「何?」
「今後、ペーターをどうなされるのでしょう?」
ヨハンナがペンを置いた。
「予備測量は終わっています。私は、このままペーターに読み書きを教え続けても構いませんが……」
「でも、俺、そろそろ村へ帰らないと」
ペーターが言った。
「畑の手入れもしないといけません」
「ああ」
そうだった。
ペーターにはドゥニン村の畑がある。
冬の間は村の人に助けてもらっていたが、これから農作業も忙しくなる。
「そうだな。技師もまだ来てないし、一度帰っていい。必要になったら迎えに行く」
「はい」
ペーターは翌朝、ドゥニン村へ帰ることになった。
◇◇◇
翌朝。
帰り支度を終えたペーターが屋敷を発つ前に、イルス村から使いが駆け込んできた。
「若様!イルスへの山道が雪崩で崩れました!」
「どれくらい?」
「三十メートルほどです。道そのものが谷側へ崩れ落ちています!」
村へ帰るの、延期。
ごめん、ペーター。
◇◇◇
ペーターとハンスを連れ、イルス村へ続く山道へ着くと、使いの言葉が大げさでなかったことがわかった。
雪崩は雪だけでなく、斜面の土や石まで巻き込んでいた。
三十メートルほどの区間が、地盤ごと谷側へ崩れ落ちている。
他の村を経由すればイルスへ行けるが、かなりの遠回りになる。
「若様、どうしましょう」
イルス村の村長が訊ねた。
「前と同じ場所へ道を戻すのか、それとも少し場所を変えた方がよいのか……」
壊れた道を直すだけなら、俺が来る必要はない。
どこへ道を通すかとなると、話が違う。
そして俺にはわからない。
なら、わかる奴に訊けばいい。
いけ!ペーターくん!
「ペーター」
「はい」
「測れる?」
ペーターは崩れた斜面と、残った道の両端を見比べた。
「やってみます」
A字形の水平器と目盛り棒を持って、残った道の端へ向かう。
測って、杭を立てる。
一通り終わると、今度は反対側へ回り、同じ場所をもう一度測り始めた。
前に測量を間違えたあと、ペーター自身が始めた確認方法だ。
もう俺が口を出す必要もない。
素晴らしい。人が勝手に育っている。俺の理想である。
将来有望につき、脳内シュヴァルツ中勲章を進呈しておく。
しばらくして、ペーターが戻ってきた。
「若様。前の道と同じように真っすぐ繋ぐと、少し急坂になります」
「どうすればいい?」
「少し山側へ回して道を長くした方がいいと思うんです。山側を削って、その土を崩れた側へ盛れば道幅も取れます」
「少し道を長くして繋げる?」
「はい。そうすれば、この区間だけ急になるのを避けられます」
「村長。道普請に慣れている人に見てもらえる?」
「承知しました」
呼ばれた男たちが杭の間を歩き、斜面を確かめる。
「これならいけます。荷車も通せるでしょう」
「じゃあ、この杭を目印に直してくれ。細かい進め方は任せる」
「はい」
よし。
測るのはペーター。
道を直すのは村の人。
俺の仕事は指示を出すだけ。
完璧では?
「若、これ、また雪崩が起きたらどうするんですか?」
一人で満足していると、ハンスから鋭いツッコミを食らった。
全然、完璧ではなかった。
「このあたりはよく雪崩が起きるの?」
「毎年ではありません」
村長が答えた。
「ですが、大雪のあとや、雪が積もってから急に暖かくなった時は危ないと言われています」
「昔から?」
近くにいた年配の男が頷いた。
「昔は、あの斜面にももっと木がありました。モミやトウヒが多く、ブナも混じっていましたが、薪にする者が増えて少しずつ減りまして」
「木が残ってる場所の方が雪崩は少ない?」
「そう言われています」
木が減ったことと、今回の雪崩に関係があるのか。
そこまでは俺にはわからない。
でも、雪崩を防いでいるかもしれない森を、わざわざ減らす必要もない。
「そういう時は、この区間を通らないようにしてくれ。遠回りの道を使おう」
「はい」
「それと、この斜面に残っている森は、ひとまず切らないようにしよう」
村長が頷く。
「木がなくなった場所も、前に生えていた種類の木を植え直した方がよさそうだな。どうやって進めるかは、屋敷へ戻ってから相談する」
しっかりとゼバスティアンやミヒャエルに伝えておかないと後が怖いからな。
というわけで、今度こそ、俺の仕事は終わりだ。
帰る前にペーターを見る。
本人は、自分で立てた杭を確認していた。
隣にいたハンスがぼそっとつぶやいた。
「若。あいつを村へ帰すの、惜しくないですか?」
橋のためだけに屋敷に連れてきたはずだったんだけどな。
◇◇◇
帰路、そのことがずっと頭に残っていた。
橋の技師が来れば、予備測量をしたペーターにはもう一度来てもらった方がいい。
数字と杭の番号は整理して渡せる。
でも、実際にどこをどう測ったのか説明できて、追加で測って欲しいと言われた時にすぐ動けるのはペーターだ。
ただ、それだけなら村から呼べば済む。
今日、ペーターが測ったのは橋じゃない。道だった。
用水路も。
橋も。
道も。
この先だって、領内で高さや距離を測る仕事はいくらでも出てくるんじゃないか?
工事のたびに測量のできる人間を探すより、一人くらい男爵家にいてもらった方がいい。
◇◇◇
その日の夕食後。
俺はペーターを呼び止めた。
ヨハンナとゼバスティアンにも残ってもらっている。
「ペーター。話がある」
「はい」
「俺は、お前をシュヴァルツ家で召し抱えたいと思ってる」
ペーターが目を見開いた。
「俺を、ですか?」
「うん。測量を任せたい」
まず条件を伝える。
「給金は出す。住む場所も用意する。畑をどうするかは俺だけじゃ決められないから、村長とも相談しよう」
「……はい」
「でも、お前が畑の手入れをしないといけないと言ってたことも覚えてる」
ペーターは黙っている。
「橋の技師が来た時に、また迎えに行く。それまでに考えておいてくれ」
「若様がそうしろって言うなら、俺は従います」
それでは駄目だ。
「だから嫌なんだ」
「え?」
「俺が命じたら、お前は断れないだろ」
ヨハンナが何か言いかけた。
けれど、結局何も言わなかった。
ゼバスティアンも口を挟まない。
「だから、自分で決めてくれ」
ペーターはしばらく考えてから、頷いた。
「……考えてみます」
俺の人生、楽をしようとすると次の課題ができるヤツだ。なんとなくわかってきた。
でもまあ。
俺がやらなくていいことも、少しずつ増えている。
なら、悪くない。
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