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頑張っていたのは俺じゃない -楽をしたい領主代行の異世界領地経営-  作者: oldenhaldt
一歩ずつ

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14/22

一歩進んだ、たぶん

お読みいただきありがとうございます。

面白いと感じていただけましたら、評価やご感想をいただけると嬉しいです。


 夜、寝る支度を終えた頃、扉が叩かれた。


「ヨアヒム様。少しよろしいでしょうか?」


 ヨハンナだった。


「もちろん」


 平然と答えたつもりだが、内心は大騒ぎである。


 転生して以来、ヨハンナが自分から俺の寝室を訪ねてきたのは初めてだ。


 夜。寝室。妻。


 ――これは、あれか?


 俺は今日、大人の階段を登ってしまうのか?


「ペーターの勉強について、お話ししておこうと思いまして」


 うん。階段、撤収。


「思っていたより飲み込みが早いようです。伝えた通り、今は数字を優先して教えています。もう数字は一通り、自分で蝋板へ書けるようになりました」


「本当?それはすごいな」


 これは素直に嬉しい。


 それからしばらく、ペーターの勉強について話した。


 どこまで数字を教えるか。読み書きをどう進めるか。仕事で使うなら何を優先するか。


「間違えると、とても悔しそうな顔をしますけれど」


「ああ。あいつ、失敗するとすぐ落ち込むからな」


「でも、一度間違えたものはよく覚えていますよ」


「なら、それも悪いことばかりじゃないか」


 話しているうちに、いつの間にか緊張も消えていた。


 やがて会話が途切れる。


「その後、記憶は戻りましたか?」


「いや、まだ――」


「お加減の悪いところはありませんか?」


 問い詰める声ではなかった。


 本当に俺の体を心配してくれているらしい。


 それが嬉しかった。


「いや。残念だけど、昔のことは何も思い出せない。体は何ともないよ」


 ヨハンナはしばらく俺を見ていた。



「では……あなたは、どなたなのです?」


「え?」


 一瞬、何を訊かれたのかわからなかった。


「先日の雪合戦のとき、『子どもの頃を思い出す』とおっしゃいました」


 そこでようやく意味を飲み込めた。


「それは、どなたの子どもの頃なのです?」


 あの時、嫌な予感センサーは最大級の警報を鳴らしていた。


 俺はてっきり、ハンスの雪玉に反応したのだと思っていた。


 違った。


 あれは、このことだったのだ。


 そして、いまさら意味に気づいても、もう手遅れだった。


「私は、今どなたと話しているのです?」


 答えられない。


「産婆や外科医になさったこともそうです」


 ヨハンナは俺から目を逸らさなかった。


「刃物や布を煮ること。治療の前に石鹸で手を洗わせること。赤子が亡くなった数を記録させること」

「記憶をなくされたはずなのに、その知識はどこからやってきたのです?」


 逃げ道がなくなった。


 記憶をなくした。それだけで、ずっと押し通してきた。


 俺は覚悟を決めた。


「……話すよ」

「信じてもらえるとは思ってない。でも、今から話すことは本当だ」


 俺は元々、この世界とは別の場所で生きていたこと。元の名前。三十代前半までそこで暮らしていたこと。


 そして、あるとき気づけばヨアヒム・フォン・シュヴァルツの体になっていたことを話した。


「ヨアヒムとして生きた二十年間のことは覚えてない。人のことも、何があったかも。でも、文字を書いたり馬に乗ったりすることは最初からできた。体に染みついてたものだけは残ってたんだと思う」


 こんな話をしても信じてもらえないと思った。


 だから、これまでは記憶をなくしたとだけ説明していた。


 それも話した。


 ヨハンナは何も言わない。


 信じたのか。


 信じていないのか。


 表情からは読み取れなかった。


 やがて、ヨハンナが訊ねた。


「では……元のヨアヒム様は、どちらにいらっしゃるのです?」


「わからない」


 それしか答えられない。


「俺が気づいたときには、もうこの体だった。元のヨアヒムがどうなったのか、本当に何も知らない」


 ヨハンナが口元を押さえた。


 そのまま立ち上がる。


 呼び止める言葉は出なかった。


 ヨハンナは何も言わず、部屋を出ていった。



 一人残されて、ようやく彼女の側から考えた。


 俺にとって、元のヨアヒムは会ったこともない男だ。


 でも、ヨハンナにとっては夫だった。


 そして今、目の前にいる俺は。


 夫の姿をした、知らない男なのだ。


 その夜は、一睡もできなかった。


 ◇◇◇


 翌朝、食堂へ行くと、ヨハンナはすでに席についていた。


 目元には疲れが残っていた。


「おはようございます、ヨアヒム様」


「……おはよう」


 交わした言葉は、それだけだった。


 ゼバスティアンたちもヨハンナの様子に気づいた。


「ヨハンナ様。お加減が優れないのでございましたら、お休みになってはいかがでしょう」


「ありがとうございます。少し具合が優れませんので、今日は休ませていただきます」


 ヨハンナは食堂を出ていった。


 追いかけるべきか迷った。


 怖かった。


 けれど、昨日あれだけのことを話して、そのままというわけにもいかない。


 食事を終えたあと、彼女の部屋を訪ねた。


「昨日話したことに嘘はない」


 ヨハンナは黙っている。


「それと……記憶をなくしただけだと言っていたことは謝る。君からすれば、騙されていたのと変わらないと思う」


 これも伝えなければならない。


「君が俺を夫だと思えなくても、それを責めるつもりはない。何かを無理に求めることもしない」


 返事は待たなかった。


「それだけ伝えたかった」


 俺は部屋を出た。


 ◇◇◇


 それから、俺とヨハンナの間には距離ができた。


 朝夕の挨拶と、屋敷の運営に必要な話はする。ペーターの勉強についてもそうだ。


 それ以上は、ほとんどない。


 ある日、廊下を歩いていると、部屋の中からヨハンナの声が聞こえた。


「そう。その数字は合っていますよ」


「こ、これで合ってますか?」


「ええ。よくできました」


 ペーターに勉強を教えているらしい。


 俺は足を止めたあと、そのまま通り過ぎた。



 こんな状態は、当然、周囲にもバレた。


 ゼバスティアンやコンラート、ハンス。果てはペーターにまで。


「若様、大丈夫ですか?」


 ペーターにシュヴァルツ勲章を授与する気力もなかった。


 ◇◇◇


 年が明けてしばらくした頃、ヴァイセン男爵家から手紙が届いた。


 差出人はゲオルク・フォン・ヴァイセン。ヨハンナの兄だという。


 近いうちに機嫌伺いに訪れたいという内容だった。


「ゲオルク殿は、どんな人?」


 俺はゼバスティアンへ訊ねた。


「ヴァイセン男爵家の長男にして嫡子。二十四歳でございます。ヨハンナ様をたいへん可愛がっておられます」


「記憶を失う前の俺とは?」


「能力については認めておられました。ただ、ヨハンナ様を妻としてほとんど顧みられなかったことには、以前から不満をお持ちでした。そのため、多少の距離があったかと存じます」


 妹を大事にしない男のところへ、その妹を可愛がっている兄がやってくる。


 嫌な予感センサーが反応するが、無下に断るわけにもいかない。


 むしろ、断ったら断ったで面倒なことになりそうだ。


 返書を書く前に、ヨハンナへ手紙を見せた。


「ゲオルク殿を迎えていいかな?」


 ヨハンナはわずかに目を見開いた。


「はい。兄も喜ぶと思います」


「君からも、何か書き添える?」


 少し間を置き、ヨハンナは首を横に振った。


「いいえ。歓迎しているとだけ、お伝えください」


「わかった」


 それ以上は訊かず、歓迎する旨の返書を送った。


 ◇◇◇


 冬も終わりに近づいた。


 結果的にその冬最後となる雪とともに、ゲオルク・フォン・ヴァイセンがやってきた。


「三つの村に水を通す大事業を成し遂げたそうだな。その若さで大したものだ」


「ありがとう」


「借金もしたそうだが、工事にはどれほどの金がかかったのだ?」


「正確なところは帳簿を見ないとわからないな」


 ゲオルクが俺を見る。


「借金の返済は滞りないのか?借りた金は、あとどれほど残っている?」


「それも正確な額はミヒャエルに確認しないと」


 今度は、はっきり怪訝な顔をされた。


 わかるよ、元のヨアヒムなら答えた質問だよね。


 でも残念ながら、俺の頭にはそこまで細かい数字は入っていない。


「いつもの冴えがないな」


「少し疲れているのかもしれない」


 事情があって、ただいま元気は半分ほど留守にしています。


 ◇◇◇


 厄介なシスコンとの予想に反して、ゲオルクはまったく立派な若貴族だった。


 病床の父を見舞い、暖炉の火を囲めば、他家に嫁いだ俺の姉妹を気にかけ、コンラートの武勇伝に拍手を送った。


 カードで負けた時には自分から冗談を口にして、場を盛り上げもした。


 でも、ずっと彼の視線を感じていた。ヨハンナと一緒にいる時は特に。


 今の俺たちが仲睦まじく見えるはずもない。


 だからといって、ゲオルクの前だけヨハンナへ馴れ馴れしくすることはできない。


 そんなことをすれば、それこそ嘘になる。



 そして、今、ゲオルクはヨハンナの部屋にいる。


 兄妹で、いったい何を話したのだろう。


 ◇◇◇


 滞在二日目。


 翌朝にはゲオルクが帰る予定だった。長く家を空けてはいられないらしい。


 彼の希望で、夕食は親族だけとなった。


 もちろん病床にある父は参加せず、俺とヨハンナとゲオルクの三人で食卓を囲む。


 会話はまったく弾まなかった。



 ゲオルクが匙を置いた。


「もういい、ヨハンナ。家に帰ろう」


 俺の手が止まった。


 ヨハンナも兄を見る。


「この結婚は失敗だった」


「兄様……」


「ヨアヒムが優秀なのは認めている。だから父上たちが決めた婚姻にも、俺は反対しなかった」


 ゲオルクは妹を見たまま続ける。


「だが、お前を妻として大事にしていないように見えることだけは、ずっと気になっていた」

「以前と変わらないどころか、今や互いに顔色をうかがっているようにしか見えん。お前も辛そうだ」


 返す言葉はなかった。


「明日、俺と帰れ」


 ゲオルクは言った。


「父上には俺から話す。説得も俺がする」

「お前が望むなら教会にも相談する。婚姻が無効と認められる余地がないか調べてもらえばいい」


 俺には何も言えなかった。


 本来、ヨハンナが結婚した相手ですらない。


 そして彼女には、無理に何かを求めないと約束した。


 ヨハンナを見る。


 行かないでくれとは、言えなかった。



「……いえ」


 ゲオルクが妹を見る。


「私は家に帰りません」


「なぜだ?」


 ヨハンナはすぐには答えなかった。


 やがて俺を見る。


「以前より、大事にされています」


 息を呑んだ。


「だから……今の方が苦しいのです」


 俺には、その言葉の意味を全部は理解できなかった。


 ゲオルクもすぐには何も言わない。


 眉を寄せて妹を見ている。


「……それでも、ここに残るのはお前の意思なのか?」


「はい」


「父上に言われたからでも、シュヴァルツ家のためでもなく?」



「はい。私が決めました」


 兄妹はしばらく見つめ合った。


 やがてゲオルクが息を吐く。


「そうか」


 少しして、続けた。


「俺には、何があったのかはわからん」

「だが、お前が自分で決めたのなら、それ以上は言わない」


 その言葉を聞いて気づいた。


 ヨハンナは、俺の正体を兄にも話していない。


 ゲオルクが俺へ顔を向ける。


「ヨアヒム」


「ああ」


「妹を頼む」


 一瞬、答えに詰まった。


 夫として受け入れてもらえたわけではなかった。


「……わかった」


 だから、それだけを答えた。


 ◇◇◇


 翌朝。


 ヨハンナと顔を合わせた。


「おはようございます、ヨアヒム様」


「おはよう」


 交わした言葉は、それだけ。


 昨日までと同じだった。


 ただ、ヨハンナの顔にはかすかな笑みがあった。


 昨夜の言葉の意味を、俺はまだ理解できてはいない。


 それでも、昨日までよりは一歩進んだ。


 たぶん。結果オーライ。


 ――と言っていいのかなあ。


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