一歩進んだ、たぶん
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夜、寝る支度を終えた頃、扉が叩かれた。
「ヨアヒム様。少しよろしいでしょうか?」
ヨハンナだった。
「もちろん」
平然と答えたつもりだが、内心は大騒ぎである。
転生して以来、ヨハンナが自分から俺の寝室を訪ねてきたのは初めてだ。
夜。寝室。妻。
――これは、あれか?
俺は今日、大人の階段を登ってしまうのか?
「ペーターの勉強について、お話ししておこうと思いまして」
うん。階段、撤収。
「思っていたより飲み込みが早いようです。伝えた通り、今は数字を優先して教えています。もう数字は一通り、自分で蝋板へ書けるようになりました」
「本当?それはすごいな」
これは素直に嬉しい。
それからしばらく、ペーターの勉強について話した。
どこまで数字を教えるか。読み書きをどう進めるか。仕事で使うなら何を優先するか。
「間違えると、とても悔しそうな顔をしますけれど」
「ああ。あいつ、失敗するとすぐ落ち込むからな」
「でも、一度間違えたものはよく覚えていますよ」
「なら、それも悪いことばかりじゃないか」
話しているうちに、いつの間にか緊張も消えていた。
やがて会話が途切れる。
「その後、記憶は戻りましたか?」
「いや、まだ――」
「お加減の悪いところはありませんか?」
問い詰める声ではなかった。
本当に俺の体を心配してくれているらしい。
それが嬉しかった。
「いや。残念だけど、昔のことは何も思い出せない。体は何ともないよ」
ヨハンナはしばらく俺を見ていた。
「では……あなたは、どなたなのです?」
「え?」
一瞬、何を訊かれたのかわからなかった。
「先日の雪合戦のとき、『子どもの頃を思い出す』とおっしゃいました」
そこでようやく意味を飲み込めた。
「それは、どなたの子どもの頃なのです?」
あの時、嫌な予感センサーは最大級の警報を鳴らしていた。
俺はてっきり、ハンスの雪玉に反応したのだと思っていた。
違った。
あれは、このことだったのだ。
そして、いまさら意味に気づいても、もう手遅れだった。
「私は、今どなたと話しているのです?」
答えられない。
「産婆や外科医になさったこともそうです」
ヨハンナは俺から目を逸らさなかった。
「刃物や布を煮ること。治療の前に石鹸で手を洗わせること。赤子が亡くなった数を記録させること」
「記憶をなくされたはずなのに、その知識はどこからやってきたのです?」
逃げ道がなくなった。
記憶をなくした。それだけで、ずっと押し通してきた。
俺は覚悟を決めた。
「……話すよ」
「信じてもらえるとは思ってない。でも、今から話すことは本当だ」
俺は元々、この世界とは別の場所で生きていたこと。元の名前。三十代前半までそこで暮らしていたこと。
そして、あるとき気づけばヨアヒム・フォン・シュヴァルツの体になっていたことを話した。
「ヨアヒムとして生きた二十年間のことは覚えてない。人のことも、何があったかも。でも、文字を書いたり馬に乗ったりすることは最初からできた。体に染みついてたものだけは残ってたんだと思う」
こんな話をしても信じてもらえないと思った。
だから、これまでは記憶をなくしたとだけ説明していた。
それも話した。
ヨハンナは何も言わない。
信じたのか。
信じていないのか。
表情からは読み取れなかった。
やがて、ヨハンナが訊ねた。
「では……元のヨアヒム様は、どちらにいらっしゃるのです?」
「わからない」
それしか答えられない。
「俺が気づいたときには、もうこの体だった。元のヨアヒムがどうなったのか、本当に何も知らない」
ヨハンナが口元を押さえた。
そのまま立ち上がる。
呼び止める言葉は出なかった。
ヨハンナは何も言わず、部屋を出ていった。
一人残されて、ようやく彼女の側から考えた。
俺にとって、元のヨアヒムは会ったこともない男だ。
でも、ヨハンナにとっては夫だった。
そして今、目の前にいる俺は。
夫の姿をした、知らない男なのだ。
その夜は、一睡もできなかった。
◇◇◇
翌朝、食堂へ行くと、ヨハンナはすでに席についていた。
目元には疲れが残っていた。
「おはようございます、ヨアヒム様」
「……おはよう」
交わした言葉は、それだけだった。
ゼバスティアンたちもヨハンナの様子に気づいた。
「ヨハンナ様。お加減が優れないのでございましたら、お休みになってはいかがでしょう」
「ありがとうございます。少し具合が優れませんので、今日は休ませていただきます」
ヨハンナは食堂を出ていった。
追いかけるべきか迷った。
怖かった。
けれど、昨日あれだけのことを話して、そのままというわけにもいかない。
食事を終えたあと、彼女の部屋を訪ねた。
「昨日話したことに嘘はない」
ヨハンナは黙っている。
「それと……記憶をなくしただけだと言っていたことは謝る。君からすれば、騙されていたのと変わらないと思う」
これも伝えなければならない。
「君が俺を夫だと思えなくても、それを責めるつもりはない。何かを無理に求めることもしない」
返事は待たなかった。
「それだけ伝えたかった」
俺は部屋を出た。
◇◇◇
それから、俺とヨハンナの間には距離ができた。
朝夕の挨拶と、屋敷の運営に必要な話はする。ペーターの勉強についてもそうだ。
それ以上は、ほとんどない。
ある日、廊下を歩いていると、部屋の中からヨハンナの声が聞こえた。
「そう。その数字は合っていますよ」
「こ、これで合ってますか?」
「ええ。よくできました」
ペーターに勉強を教えているらしい。
俺は足を止めたあと、そのまま通り過ぎた。
こんな状態は、当然、周囲にもバレた。
ゼバスティアンやコンラート、ハンス。果てはペーターにまで。
「若様、大丈夫ですか?」
ペーターにシュヴァルツ勲章を授与する気力もなかった。
◇◇◇
年が明けてしばらくした頃、ヴァイセン男爵家から手紙が届いた。
差出人はゲオルク・フォン・ヴァイセン。ヨハンナの兄だという。
近いうちに機嫌伺いに訪れたいという内容だった。
「ゲオルク殿は、どんな人?」
俺はゼバスティアンへ訊ねた。
「ヴァイセン男爵家の長男にして嫡子。二十四歳でございます。ヨハンナ様をたいへん可愛がっておられます」
「記憶を失う前の俺とは?」
「能力については認めておられました。ただ、ヨハンナ様を妻としてほとんど顧みられなかったことには、以前から不満をお持ちでした。そのため、多少の距離があったかと存じます」
妹を大事にしない男のところへ、その妹を可愛がっている兄がやってくる。
嫌な予感センサーが反応するが、無下に断るわけにもいかない。
むしろ、断ったら断ったで面倒なことになりそうだ。
返書を書く前に、ヨハンナへ手紙を見せた。
「ゲオルク殿を迎えていいかな?」
ヨハンナはわずかに目を見開いた。
「はい。兄も喜ぶと思います」
「君からも、何か書き添える?」
少し間を置き、ヨハンナは首を横に振った。
「いいえ。歓迎しているとだけ、お伝えください」
「わかった」
それ以上は訊かず、歓迎する旨の返書を送った。
◇◇◇
冬も終わりに近づいた。
結果的にその冬最後となる雪とともに、ゲオルク・フォン・ヴァイセンがやってきた。
「三つの村に水を通す大事業を成し遂げたそうだな。その若さで大したものだ」
「ありがとう」
「借金もしたそうだが、工事にはどれほどの金がかかったのだ?」
「正確なところは帳簿を見ないとわからないな」
ゲオルクが俺を見る。
「借金の返済は滞りないのか?借りた金は、あとどれほど残っている?」
「それも正確な額はミヒャエルに確認しないと」
今度は、はっきり怪訝な顔をされた。
わかるよ、元のヨアヒムなら答えた質問だよね。
でも残念ながら、俺の頭にはそこまで細かい数字は入っていない。
「いつもの冴えがないな」
「少し疲れているのかもしれない」
事情があって、ただいま元気は半分ほど留守にしています。
◇◇◇
厄介なシスコンとの予想に反して、ゲオルクはまったく立派な若貴族だった。
病床の父を見舞い、暖炉の火を囲めば、他家に嫁いだ俺の姉妹を気にかけ、コンラートの武勇伝に拍手を送った。
カードで負けた時には自分から冗談を口にして、場を盛り上げもした。
でも、ずっと彼の視線を感じていた。ヨハンナと一緒にいる時は特に。
今の俺たちが仲睦まじく見えるはずもない。
だからといって、ゲオルクの前だけヨハンナへ馴れ馴れしくすることはできない。
そんなことをすれば、それこそ嘘になる。
そして、今、ゲオルクはヨハンナの部屋にいる。
兄妹で、いったい何を話したのだろう。
◇◇◇
滞在二日目。
翌朝にはゲオルクが帰る予定だった。長く家を空けてはいられないらしい。
彼の希望で、夕食は親族だけとなった。
もちろん病床にある父は参加せず、俺とヨハンナとゲオルクの三人で食卓を囲む。
会話はまったく弾まなかった。
ゲオルクが匙を置いた。
「もういい、ヨハンナ。家に帰ろう」
俺の手が止まった。
ヨハンナも兄を見る。
「この結婚は失敗だった」
「兄様……」
「ヨアヒムが優秀なのは認めている。だから父上たちが決めた婚姻にも、俺は反対しなかった」
ゲオルクは妹を見たまま続ける。
「だが、お前を妻として大事にしていないように見えることだけは、ずっと気になっていた」
「以前と変わらないどころか、今や互いに顔色をうかがっているようにしか見えん。お前も辛そうだ」
返す言葉はなかった。
「明日、俺と帰れ」
ゲオルクは言った。
「父上には俺から話す。説得も俺がする」
「お前が望むなら教会にも相談する。婚姻が無効と認められる余地がないか調べてもらえばいい」
俺には何も言えなかった。
本来、ヨハンナが結婚した相手ですらない。
そして彼女には、無理に何かを求めないと約束した。
ヨハンナを見る。
行かないでくれとは、言えなかった。
「……いえ」
ゲオルクが妹を見る。
「私は家に帰りません」
「なぜだ?」
ヨハンナはすぐには答えなかった。
やがて俺を見る。
「以前より、大事にされています」
息を呑んだ。
「だから……今の方が苦しいのです」
俺には、その言葉の意味を全部は理解できなかった。
ゲオルクもすぐには何も言わない。
眉を寄せて妹を見ている。
「……それでも、ここに残るのはお前の意思なのか?」
「はい」
「父上に言われたからでも、シュヴァルツ家のためでもなく?」
「はい。私が決めました」
兄妹はしばらく見つめ合った。
やがてゲオルクが息を吐く。
「そうか」
少しして、続けた。
「俺には、何があったのかはわからん」
「だが、お前が自分で決めたのなら、それ以上は言わない」
その言葉を聞いて気づいた。
ヨハンナは、俺の正体を兄にも話していない。
ゲオルクが俺へ顔を向ける。
「ヨアヒム」
「ああ」
「妹を頼む」
一瞬、答えに詰まった。
夫として受け入れてもらえたわけではなかった。
「……わかった」
だから、それだけを答えた。
◇◇◇
翌朝。
ヨハンナと顔を合わせた。
「おはようございます、ヨアヒム様」
「おはよう」
交わした言葉は、それだけ。
昨日までと同じだった。
ただ、ヨハンナの顔にはかすかな笑みがあった。
昨夜の言葉の意味を、俺はまだ理解できてはいない。
それでも、昨日までよりは一歩進んだ。
たぶん。結果オーライ。
――と言っていいのかなあ。




