二歩進んで地雷を踏み抜く
エンゲル男爵領へ向かう前日の夜。
とうとう、ヨハンナに贈る髪留めが完成した。
俺がおおよその形を作り、エーファに整えてもらった二枚の葉。それを暇を見つけては、少しずつ磨いていた。
途中で何度、「もうこれぐらいでいいだろう」と思ったことか。
だが、そのたびに手が止まった。
自分で使うものなら、とっくに妥協していたと思う。
でも、これはヨハンナに渡すものだ。
ほどほどで良いとは思えなかった。
あとは渡すだけ。
え、誰が、どうやって渡すんですか?
◇◇◇
翌朝。
朝食を終えた俺は、ヨハンナの部屋の前をウロウロしていた。
髪留めは手の中にある。
逃げ道はない。
意を決して扉を叩く。
「はい」
ヨハンナの声がした。
帰りたい。
ここまで来て何を言っているんだ俺は。
「俺だ。少しいいか?」
「ヨアヒム様?どうぞ」
部屋へ入ると、ヨハンナは侍女と帳面を確認しているところだった。
俺を見ると、侍女へいくつか指示を出して下がらせる。
「どうなさいました?」
「ああ。その……」
何と言って渡すかは昨晩考えていた。
「これを」
全部飛んだ。
俺は髪留めを差し出した。
ヨハンナが目を見開く。
「これは……」
「髪留めだ」
見ればわかる。
「俺が作った。いや、全部じゃない。最後に形を整えるところはエーファに手伝ってもらった」
聞かれてもいないのに説明してしまう。
ヨハンナは髪留めを見て、それから俺を見た。
「ヨアヒム様がお作りになったのですか?」
「ああ」
「私のために?」
「ああ」
ヨハンナは髪留めを両手で受け取った。
「大変だったでしょう?」
「ああ。あ、いや、ちょっと」
「どれくらいかかったのです?」
「い、一月半ぐらい?」
「そんなに?」
もう一度、髪留めへ目を落とす。
「ありがとうございます、ヨアヒム様。大切にいたします」
「そ、そうか」
「はい」
よし。ミッションコンプリート!即時離脱!
俺、よく頑張った!これ以上は緊張に耐えられない。
◇◇◇
そんなわけで、上機嫌な俺はゼバスティアンとハンスを連れ、エンゲル男爵領へ向かう。
普段から馬で使われている浅瀬を選び、ムル川へ乗り入れる。
それでも膝から下はびしょ濡れだ。冬の水の冷たさが染み入る。
渡り終えるとズボンや靴を履き替える。
やっぱり橋は必要だな。
エンゲル男爵の館へ着くと、本人が大声で迎えてくれた。
「ヨアヒム!よく来た!」
大きい。
身体も声もヒゲも大きい。
カール・エンゲル男爵。
俺には覚えがないが、向こうには俺との思い出がかなりあるらしい。
「今日は泊まっていくだろうな?」
「そのつもりです」
「よし!なら手合わせをしよう!」
「……はい?」
なぜそうなる。
ほどなくして、俺は訓練用の剣を握らされていた。
エンゲル男爵の剣が振り下ろされる。
身体が勝手に受け流した。
こういうところは、本当に元がいい。
だが、どうもエンゲル男爵の知っている俺とは何かが違うらしい。
「どうした、ヨアヒム!随分おとなしくなったな!」
「何がです!」
「前ならもっと踏み込んできただろう!」
そんな血気盛んな人は知らない。
「つまらんぞ!」
そう言われても、怪我したくないし。
そこでハンスが割り込んでくれた。
「男爵閣下、よろしければ次は私がお相手いたします」
「よかろう!」
エンゲル男爵が豪快に笑った。
頼れる乳兄弟である。
◇◇◇
夕食では橋の話になった。
「それで、ヨアヒム。橋はいつできる?」
「来年の雪が降る頃には、なんとか」
俺としては十分前向きな回答である。
ところがエンゲル男爵は大笑いした。
「どうした、どうした?以前の君なら『必ず間に合わせます』くらい言っただろう!」
うう、期待が重い。
「それで、橋のことでお願いがあります」
めげずに話を続ける俺。面の皮はこっちに来て少し厚くなったかもしれない。
「何だ?」
「予定地を詳しく測りたいんです。こちらの者を数人、橋を架ける辺りのそちら側へ入らせてください。測量の目印に杭も打たせていただきたい」
「そんなことか」
エンゲル男爵はあっさり頷いた。
「構わん。あの辺りの村には、こちらから話しておこう」
「ありがとうございます」
良かった。
これで心おきなく、ペーターの予備測量を進められる。
◇◇◇
翌朝。
雪は舞っていたが、帰れないほどではなかった。
エンゲル男爵に礼を言い、領都へ戻る。
屋敷へ着いた頃には、雪もほとんど止んでいた。
「ペーター、待ちなさい!」
「お姉ちゃんが先に投げたんじゃないですか!」
ヨハンナ?
中庭を覗くと、ヨハンナとペーターが雪玉を投げ合っていた。
どうやら今日の勉強を終えたあとらしい。
ペーターが投げる。
ヨハンナが避ける。
今度はヨハンナが投げ返し、ペーターの肩に命中した。
「当たったわ」
「ずるいですよ!」
ヨハンナが笑っている。
俺の前では、あまり見せない顔だった。
そして髪には、あの髪留めがあった。
「あ、若様!」
ペーターに見つかった。
「お帰りなさい、ヨアヒム様」
って、ヨハンナさん?その手の雪玉は何ですか?
「ああ。ただい――」
胸元に雪玉が当たった。
ぱらぱらと雪が落ちる。
「……ヨハンナ」
勝ち誇った笑みを浮かべるヨハンナがいた。
この笑顔、プライスレス。
「かわいいペーター、今度はお兄ちゃんを、お姉ちゃんと一緒に狙いましょう」
お兄ちゃん。
俺が?
ヨハンナがお姉ちゃんで、俺がお兄ちゃん?
何だそれ。
いい。ものすごくいい。
「え?若様に?」
「そうよ。ほら、ペーターも」
俺は足元の雪を掴んだ。
駄目だ。嬉しすぎて、じっとしていられない。
「なら二人ともかかってこい!」
「では、遠慮なく」
二対一の雪合戦が始まった。
「ヨハンナ」
「はい?」
「今度は俺の番だ」
「あら」
ヨハンナが逃げた。
「待て!」
「待ちません」
追いかける。
ペーターも笑いながら混ざってくる。
楽しい。
ヨハンナが俺に雪を投げている。
俺もヨハンナへ投げ返している。
昨日は髪留めを受け取ってもらった。
今はその髪留めをつけたヨハンナと一緒に遊んでいる。
我が世の春は、冬にあったらしい。
「子どもの頃を思い出すな」
次の瞬間、嫌な予感センサーが、頭の中でけたたましく鳴った。
何だ?
考えるよりも早く、後頭部に衝撃が来た。
「ぶっ!」
「若、俺も混ぜてくださいよ!」
振り向けば、ハンスが次の雪玉を握っている。お前、雪、固めすぎ!
「お前か!びっくりさせるな!」
「何の話です?」
「こっちの話だ!」
嫌な予感の正体はこいつか。
まったく。
俺も雪玉を作り、ハンスへ投げ返す。
それからヨハンナを見ると、彼女は雪玉を握ったまま、こちらを見ていた。
「ヨハンナ?」
「……いいえ。何でもありません」
「そう?」
「ええ」
何だろう。
まあいいか。
今はハンスへの仕返しが先だ。
俺は、その反応の意味を考えなかった。
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