三歩ぶち抜かれて一歩進む
ペーターがシュヴァルツ家の屋敷に来た翌朝。
「おはよう、ヨハンナ」
「おはようございます、ヨアヒム様」
以上。
今日も夫婦の会話は、今のところ挨拶だけ。
いや、まだ朝だ。ここから増やしていけばいいんだ。
そんなことを考えながらパンをちぎっていると、食堂の扉が開いた。
侍女に伴われて入ってきたのはペーターだった。
昨日まで村で着ていた服とは違い、つぎはぎのない上着を身につけ、髪も整えられている。ずいぶんこざっぱりした姿になっていた。
「あら、かわいいペーター、おはよう。昨日はよく眠れたかしら?」
「おはようございます。若様、奥方様」
「かわいいペーター、言ったでしょ。ここではお姉ちゃんだと思って、頼ってくれていいのよ」
「お、おはよう、お、お姉ちゃん」
「よくできました。何か困ったことがあったら、お姉ちゃんに言ってね」
待て。
一体、昨日のうちに何があった。
俺なんて「おはよう」しか話せていないぞ。
それなのに、お姉ちゃん?
しかも何だ、その「かわいいペーター」という呼び方は。
「き、昨日会ったばかりなのに、ずいぶん親しげじゃないか。二人とも」
できるだけ何でもない顔で聞く。
「聞けば、ペーターは父親も母親も姉も亡くしたとか。せめてこの屋敷にいる間は、私が姉代わりになれればと思いまして」
「……そうか」
ペーターは顔を赤くして俯いている。
そういうことなら、何も言えない。
むしろ、そうやって気にかけられるところがヨハンナらしい。
うん。
それはそれとして。
ヨハンナちゃんの好感度、一夜にしてペーターにぶち抜かれた気がします。しくしく。
◇◇◇
それから数日後、雪の止んだ日に、俺はハンス、ペーターを連れてムル川へ向かった。
目的は橋を架ける予定地の予備測量だ。
川沿いには先日降った雪がまだ残っている。
今は渇水期なので、ムル川も雪解けの増水期ほど川幅は広くない。それでも、用水路とは比べものにならない幅がある。
「ペーター。技師が来る前に、この辺りを調べておきたい」
「はい、若様」
測量器具を抱えたペーターが答える。
まだ十五歳の少年だが、こうして器具を手にしている姿を見ると実に頼もしい。
「まず、この付近の土地の傾き。それから、両岸の高さがどれくらい違うかを測ってくれ」
「橋を架ける場所を決めるためですか?」
「そうだ」
おおよその建造場所は決まっている。
だが、その中のどこへ橋を架けるかまでは決まっていない。
技師が来てから一から調べてもらうより、先に使えそうな情報くらいは揃えておきたい。
「今の川幅も測ってくれ。それから、この辺りに住んでいる者に、雪解けの時期にはどこまで水が来るのか、川面がどの辺りまで上がるのか聞いて欲しい。増水した跡が残っているなら、それも見ておいてくれ」
「わかりました」
ペーターが川の上下を見渡した。
その横で、ハンスが顎で対岸を示す。
「若。その測量、向こう岸でもやるんですよね」
「ああ」
「なら、先にエンゲル男爵へ話を通した方がいいんじゃないですか?」
「……あ」
言われてみれば当然だった。
川の向こうはエンゲル男爵領である。
「そうだな。先に許可を取ろう」
危なかった。
隣領へ無断で入っておいて、『橋を造るためです』で許してもらえるとは限らない。
ハンスには、シュヴァルツ小勲章を授与しておく。
「じゃあペーター、今日はこっち側だけ測っておいてくれ。俺たちは一度屋敷へ――」
「あの、若様」
背を向けかけたところで呼び止められた。
「どうした?」
「測ったものは、どうすればいいですか?」
「どうすればって、書いて残しておけば――」
そこで止まった。
「ペーター。お前、文字は書けるか?」
「書けません」
さっきまでより、声が小さい。
「読めたりは……?」
「できません」
測れる。
だが、記録できない。
ペーターは測量器具を強く抱え直した。
用水路では、測ったそばから掘る位置へ杭を打っていた。
だが今回は、何カ所もの測定結果を持ち帰って比べなければならない。
そして俺は、そのための筆記用具すら持ってきていなかった。
これを弘法も筆の誤りという。
……俺が弘法かどうかは、ちょっと脇に置いて。
「ハンス」
「何です?」
「明日からペーターを手伝って、書き留める役をお願いできないか?」
ハンスは露骨に嫌そうな顔をした。
「私は若の従士であって、この少年の従士ではありません」
「駄目か?」
「……別の者をお探しください」
そういえば、ハンスは身分が下の者には少し当たりが強い。
ペーターも居心地が悪そうに視線を落としていた。
「今日はやめよう。記録する方法を決めてから出直す」
測っても記録できなければ意味がない。
撤退、撤退だ。
◇◇◇
屋敷へ戻ると、ゼバスティアンとミヒャエルを加えて相談することになった。
ペーターにも部屋の端に残ってもらっている。
「エンゲル男爵には、ヨアヒム様ご自身がお話しになるのがよろしいでしょう」
ゼバスティアンが言う。
「橋の件で改めてご挨拶する機会にもなりますし、測量の許可もその場でいただけるかと」
「やっぱり俺が行くのか」
「先方はヨアヒム様をずいぶんと気に入っておられましたから」
そう言われると弱い。
俺は顔すら覚えていない相手なのに、向こうは俺を気に入っているらしいのだ。
「お供は私とハンスでよろしいでしょう」
ゼバスティアンの提案に頷く。
エンゲル男爵の方は、それでいい。
問題はペーターだ。
「誰か一人、記録役をつけられないか?」
「官僚は無理です」
ミヒャエルが即答する。
「今でも手が足りません」
「商家や教会から借りるのは?」
「そちらにも仕事があります。毎日となれば難しいでしょう」
「だよなあ……」
文字を書ける者は、俺が思っていた以上に限られている。
しかも、書ける者にはすでに仕事がある。
ペーター一人のために、毎日誰かをつけるのは難しそうだ。
そんな時だった。
「失礼いたします」
ヨハンナが部屋へ入ってきた。
「ペーターのお部屋について少しご報告がありまして」
飲み物も持ってきてくれている。
「今日は何をご相談なのですか?」
俺は事情を説明した。
話を聞き終えたヨハンナは、少し考えた。
「では、私がペーターに文字を教えましょう」
「ヨハンナが?」
「ええ。最初から何もかも覚えてもらう必要はないでしょう?まずは測量に必要な数字を書けるようになれば、それでよいのではありませんか?」
「数字だけ?」
そう言われて、俺はようやく気づいた。
何も文字を全部覚えさせる必要はないのだ。
「でも、それだけだと、どこの数字かわからなくならないか?」
「でしたら、測る場所にも同じ数字をつければよいのではありませんか?」
「場所に?」
「杭を立てましょう。一つ目の杭と蝋板に同じ数字、二つ目にも同じ数字。そうすれば、どこの数字かわかるのでは?」
なるほど。
俺はペーターを見る。
「できそうか?」
「……覚えます」
「ん?」
「俺、数字を覚えます。若様、ありがとうございます。それから、お姉ちゃんも」
今度は先ほどより声が大きかった。
「では決まりですね」
ヨハンナが笑う。
「蝋板に数字を書いて持ち帰ってもらえば、後で私が読んで清書します」
「それはいいな」
「では、明日からでも――」
「いや、俺も手伝う」
「ヨアヒム様も?」
「ああ。俺だって毎日は無理だけど、ヨハンナも忙しいだろう。お互い、手が空いている時に、ペーターを見ればいい」
「それでしたら助かります」
「うん」
人に仕事を任せるなら、その人が仕事をできるようにするところまで考えなければならない。
弘法、一つ賢くなった。
そして今回は、もう一つ重大な成果があった。
ヨハンナと話す口実が増えたのだ。
二人揃ってペーターに教える日だってあるかもしれない。
「では、お願いいたしますね、ヨアヒム様」
「ああ。任せてくれ」
楽をするために、また一つ仕事が増えた。
まあ、今回の仕事はかなり歓迎だけどな。
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