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「おじいさん、私、記憶がないんです……」
女は不安そうに自分の胸へ手を当てながら呟いた。
古家は驚いたように目を見開く。
「まさか……何一つ覚えていないのか?」
女は静かに頷いた。
「はい……」
診療所に短い沈黙が流れる。
俺は腕時計に目をやると、小さく息を吐いた。
「そういうことだから、もう行くよ」
そう言って女を連れ、診療所を出ようとした。
「待て」
背後から古家の声が飛ぶ。
俺は足を止め、振り返った。
「なんだ?」
古家は腕を組み、じっと俺を見つめている。
「記憶が戻るまで、その娘をかくまうつもりか?」
「ああ…そうだ」
古家はしばらく考え込んでいたが、やがて診察机の引き出しから一枚の地図を取り出し、机の上へ広げた。
「なら、いい場所がある」
と地図の一点を指で叩く。
そこには、一棟のマンションが記されていた。
「ここは、わしが管理しとるマンションじゃ」
古家は静かに話し始める。
「いわば……無法地帯じゃな」
俺は眉をひそめる。
「無法地帯?」
「ああ。何人か事情を抱えた人間が住んどる。警察に追われとる者、裏社会から逃げとる者、身元を隠したい者……理由は様々じゃ」
古家は俺を見据えた。
「ここに入居する、条件は一つ。
住人同士、互いに干渉しないこと。
名前も聞かん。過去も詮索せん。余計なことには首を突っ込まん。
その約束だけは、全員が守っとる」
俺は地図へ視線を落とした。
こんな場所が本当に存在するとは思わなかった。
「最上階の一室がちょうど空いとる」
古家はそう言って鍵を一本取り出し、俺へ差し出す。
「しばらく自由に使うといい」
俺は鍵を受け取る。
「この十万円は…」
古家は胸ポケットを軽く叩き、にやりと笑った。
「家賃として、ありがたくもらっておくわい」
俺は思わず苦笑した。
「安いもんだ」
古家は地図に赤いペンで何本もの線を書き込み始める。
「表通りは使うな。この辺りは監視カメラが多い」
そう言いながら、人通りの少ない細い路地や古い商店街の裏道を指し示していく。
「この道なら、人とすれ違うこともほとんどない。警察の巡回も少ない」
俺は地図を頭に叩き込むように見つめた。
「助かる」
古家は最後に女へ視線を向ける。
「嬢ちゃん」
女は少し緊張した様子で顔を上げた。
「元気でな」
と古家が言った。
女が「はい…」と静かに頷く。
俺は何も言わず診療所の扉を開ける。
雨はいつの間にか小降りになっていた。
俺たちは古家に教えられた裏道へ足を踏み入れ、人目を避けながら、訳ありの住人たちが暮らすという奇妙なマンションへ向かい始めた。




