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俺はしゃがみ込み、女の顔を見つめた。
「名前は?」
女はぼんやりとした目で俺を見返したあと、ゆっくりと瞼を伏せた。
「……思い出せない」
か細い声だった。
「何一つ、思い出せないの」
俺は眉をひそめる。
「嘘をつくな」
連続殺人犯が記憶喪失。
そんな都合のいい話を信じられるほど、俺は甘くない。
女は小さく首を横に振った。
「お願い……信じて……」
その声は震えていた。
見れば、肩も小刻みに揺れている。
寒さなのか、恐怖なのか、それとも演技なのか。
判断がつかない。
俺は彼女から目を離せずにいた。
そのとき、一滴の雨が頬に落ちた。
ぽつり、ぽつりと降り始めた雨は、あっという間に勢いを増し、路地裏のアスファルトを濡らしていく。
俺は空を見上げ、小さく息を吐いた。
「……ちょっとここで待ってろ」
女は不安そうな表情で俺を見つめる。
「どこへ行くの……?」
「すぐ戻る」
そう言い残し、路地を出たところで聞き慣れた声が飛んできた。
「おーい、風間!」
振り向くと、同じ捜査一課の刑事、田中がこちらへ走ってくる。
田中とは同期で、付き合いも長い相棒のような存在だ。
「どうだ? 女は見つかったか?」
その一言で、俺の心臓が大きく跳ねた。
言えば終わる。
あの女は逮捕される。
それが刑事として正しい選択だ。
……なのに。
「……いや」
俺は無意識に口を開いていた。
「いなかった」
言ってしまった。
生まれて初めて、捜査で仲間に嘘をついた。
田中は残念そうに頭をかいた。
「そうかぁ。雨も降ってきたし、今日は撤退しようぜ」
俺は慌てて言葉を続けた。
「いや、まだ周辺の聞き込みが残ってる。近所の人から話を聞いてないんだ。
お前は先に帰ってくれ」
田中は少し驚いたように目を丸くする。
「それなら俺も手伝うよ。二人の方が早いだろ?」
「いや」
即答だった。
「俺一人で十分だ」
一瞬だけ、田中の視線が鋭くなる。
刑事の勘なのか、それとも長年の付き合いだからなのか。
俺の様子がおかしいことに気づいたようだった。
だが、それ以上は何も聞かなかった。
「……やれやれ」
苦笑しながら両手を上げる。
「じゃあ、お先ー」
軽く手を振り、田中は雨の中を歩き去っていった。
その背中が見えなくなるまで見送ると、俺は大きく息を吐いた。
俺は今、刑事として絶対に越えてはならない一線を越えてしまった。
それでも足は迷うことなく、あの女が待つ路地裏へ向かっていた。




