13
午後5時ごろ。
仕事を終えた俺は、真っ直ぐ雨音が待つマンションへ向かった。
エレベーターを降り、足早に廊下を進む。
昨日まではただの隠れ家だったはずの場所が、今では無意識に帰りたくなる場所へ変わっていた。
俺は鍵を差し込み、玄関の扉を開ける。
「戻ったぞ」
返事はない。
部屋は静まり返っていた。
「……雨音?」
リビングを見渡す。
ソファにも、キッチンにも姿がない。
寝室を覗いても誰もいない。
胸の奥がざわつく。
「どこだ……?」
まさか外へ出たのか。
誰かに見つかったのか。
嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
その瞬間だった。
ふいに背後から両目を優しく覆われる。
「……!」
驚いて身体を強張らせると、耳元で楽しそうな声が響いた。
「だーれだ?」
聞き慣れた声に、思わず息が漏れる。
「……雨音」
彼女はくすっと笑い、ゆっくりと手を離した。
振り返ると、雨音がいたずらっぽく笑っている。
「お前……」
俺は安堵しながら問いかける。
「記憶は…?」
雨音は勢いよく首を横に振った。
「ぜーんぜん、戻ってない!」
その明るい返事に、思わず力が抜ける。
彼女は一歩近づき、俺の目を真っ直ぐ見つめた。
「だけどね」
少し照れたように笑う。
「もういいかな。記憶が戻らなくても」
その言葉に、俺は息をのむ。
「こうして、瞬とずっと一緒にいられるなら……」
雨音はそっと俺の胸へ寄りかかり、耳を当てた。
静かな部屋に、俺の鼓動だけが響いているような気がした。
「ねぇ…」
雨音が顔を上げる。
「いま、どんな気持ち?」
その問いに答えようとしても、言葉が出てこない。
胸の鼓動だけが速くなる。
刑事として守るべき一線。
恋人がいるという現実。
目の前の女性が連続殺人事件の容疑者であるという事実。
すべてが頭の中でぶつかり合う。
それでも、目の前で不安そうに俺を見上げる雨音から目を離せなかった。
気づけば俺は、雨音の肩へそっと両腕を回していた。
雨音は抵抗することはなく、静かに俺を見つめ返していた。
俺は自分がいま何をしているのか理解しながらも、その腕をすぐにはほどくことができなかった。
夜の静寂が部屋を包んでいた。
雨音はゆっくりと俺から離れると、何かを決意したような表情で両手を前へ差し出した。
「なんだ?」
「私を逮捕して」
その言葉に、息が止まる。
俺は目の前の両手を見つめたまま動けなかった。
「……できない」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
雨音は少しだけ寂しそうに笑う。
「誰かが傷つく前に、逮捕してよ」
その言葉が胸に突き刺さる。
俺は視線を落とし、小さく尋ねた。
「聞いても無駄だと思うけど。どうして、人を殺めたんだ?」
雨音は首を傾げる。
「……考えてみるね」
部屋に沈黙が流れる。
時計の針だけが静かに時を刻んでいた。
やがて雨音はゆっくりと口を開く。
「人は…死ぬ瞬間が、一番キレイだから……」
俺は思わず顔を上げた。
「綺麗?」
「そう」
雨音は遠くを見るような目をした。
「瞳が花火みたいに光って。スッて消えるの」
その言葉に、背筋が冷たくなる。
だが次の瞬間、雨音はふっと笑った。
「……なんてね」
いたずらっぽく肩をすくめる。
「本当のこと、私にもわからない」
その笑顔が、本音をごまかすためのものなのか、それとも本当に冗談なのか。
俺には見抜けなかった。
うつむいたまま、拳を握り締める。
そのとき、雨音が静かに言った。
「私、明日ここを出て自首する」
「駄目だ!」
気づけば叫んでいた。
雨音は少し驚いたように俺を見る。
「どうして?」
俺は迷わず答えた。
「記憶を失っている今のお前を、そのまま殺人犯として突き出すことはできない。
真実がわかるまでは、まだ駄目だ」
雨音はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく微笑んだ。
「じゃあ」
そっと雨音が俺の耳元でささやく。
「朝までそばにいてくれる?」
「……え?」
「私が自首しないように。あなたが見張っておくの」
「何を言って――」
言い終える前に、雨音は一本の指をそっと俺の唇へ当てた。
「誰にも言わないって…」
その声は優しく、それでいてどこか切なかった。
俺は何も言えなくなる。
雨音は唇に当てていたその指をゆっくりと離し、自分の唇へ軽く触れさせた。
そして、穏やかに微笑む。
「約束する……」
その一言だけが、静かな部屋の中にいつまでも残り続けた。




