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午後5時ごろ。

仕事を終えた俺は、真っ直ぐ雨音が待つマンションへ向かった。

エレベーターを降り、足早に廊下を進む。

昨日まではただの隠れ家だったはずの場所が、今では無意識に帰りたくなる場所へ変わっていた。

俺は鍵を差し込み、玄関の扉を開ける。


「戻ったぞ」


返事はない。

部屋は静まり返っていた。


「……雨音?」


リビングを見渡す。

ソファにも、キッチンにも姿がない。

寝室を覗いても誰もいない。

胸の奥がざわつく。


「どこだ……?」


まさか外へ出たのか。

誰かに見つかったのか。

嫌な想像ばかりが頭をよぎる。

その瞬間だった。


ふいに背後から両目を優しく覆われる。


「……!」


驚いて身体を強張らせると、耳元で楽しそうな声が響いた。


「だーれだ?」


聞き慣れた声に、思わず息が漏れる。


「……雨音」


彼女はくすっと笑い、ゆっくりと手を離した。

振り返ると、雨音がいたずらっぽく笑っている。


「お前……」


俺は安堵しながら問いかける。


「記憶は…?」


雨音は勢いよく首を横に振った。


「ぜーんぜん、戻ってない!」


その明るい返事に、思わず力が抜ける。

彼女は一歩近づき、俺の目を真っ直ぐ見つめた。


「だけどね」


少し照れたように笑う。


「もういいかな。記憶が戻らなくても」


その言葉に、俺は息をのむ。


「こうして、瞬とずっと一緒にいられるなら……」


雨音はそっと俺の胸へ寄りかかり、耳を当てた。

静かな部屋に、俺の鼓動だけが響いているような気がした。


「ねぇ…」


雨音が顔を上げる。


「いま、どんな気持ち?」


その問いに答えようとしても、言葉が出てこない。

胸の鼓動だけが速くなる。

刑事として守るべき一線。

恋人がいるという現実。

目の前の女性が連続殺人事件の容疑者であるという事実。

すべてが頭の中でぶつかり合う。


それでも、目の前で不安そうに俺を見上げる雨音から目を離せなかった。

気づけば俺は、雨音の肩へそっと両腕を回していた。


雨音は抵抗することはなく、静かに俺を見つめ返していた。

俺は自分がいま何をしているのか理解しながらも、その腕をすぐにはほどくことができなかった。



夜の静寂が部屋を包んでいた。

雨音はゆっくりと俺から離れると、何かを決意したような表情で両手を前へ差し出した。


「なんだ?」


「私を逮捕して」


その言葉に、息が止まる。

俺は目の前の両手を見つめたまま動けなかった。


「……できない」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。


雨音は少しだけ寂しそうに笑う。


「誰かが傷つく前に、逮捕してよ」


その言葉が胸に突き刺さる。


俺は視線を落とし、小さく尋ねた。


「聞いても無駄だと思うけど。どうして、人を殺めたんだ?」


雨音は首を傾げる。


「……考えてみるね」


部屋に沈黙が流れる。

時計の針だけが静かに時を刻んでいた。

やがて雨音はゆっくりと口を開く。


「人は…死ぬ瞬間が、一番キレイだから……」


俺は思わず顔を上げた。


「綺麗?」


「そう」


雨音は遠くを見るような目をした。


「瞳が花火みたいに光って。スッて消えるの」


その言葉に、背筋が冷たくなる。

だが次の瞬間、雨音はふっと笑った。


「……なんてね」


いたずらっぽく肩をすくめる。


「本当のこと、私にもわからない」


その笑顔が、本音をごまかすためのものなのか、それとも本当に冗談なのか。

俺には見抜けなかった。

うつむいたまま、拳を握り締める。

そのとき、雨音が静かに言った。


「私、明日ここを出て自首する」


「駄目だ!」


気づけば叫んでいた。

雨音は少し驚いたように俺を見る。


「どうして?」


俺は迷わず答えた。


「記憶を失っている今のお前を、そのまま殺人犯として突き出すことはできない。

真実がわかるまでは、まだ駄目だ」


雨音はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく微笑んだ。


「じゃあ」


そっと雨音が俺の耳元でささやく。


「朝までそばにいてくれる?」


「……え?」


「私が自首しないように。あなたが見張っておくの」


「何を言って――」


言い終える前に、雨音は一本の指をそっと俺の唇へ当てた。


「誰にも言わないって…」


その声は優しく、それでいてどこか切なかった。

俺は何も言えなくなる。

雨音は唇に当てていたその指をゆっくりと離し、自分の唇へ軽く触れさせた。

そして、穏やかに微笑む。


「約束する……」


その一言だけが、静かな部屋の中にいつまでも残り続けた。




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