10
「ねぇ、瞬」
雨音はソファへ腰を下ろし、興味深そうに俺を見つめた。
「恋人はいる?」
その質問に、俺は少しだけ視線を落とす。
「……一応、いるよ」
雨音は驚いた様子もなく、小さく頷いた。
「どんな人?」
「……小柄で、いつも元気がいい」
南の笑顔が頭に浮かぶ。
「周りを明るくするのが上手で……ムードメーカーみたいな人だ」
「へぇ~、そうなんだ」
雨音は楽しそうに身を乗り出す。
「どこで出会ったの?」
「大学のサークル」
「どんなサークル?」
俺は少し照れくさくなりながら答えた。
「オカルト研究会みたいなサークル」
一瞬の沈黙。
それから雨音は吹き出した。
「ふふっ、変なの!」
声を上げて笑う。
その無邪気な笑顔につられて、俺まで口元が緩んでしまった。
こんな状況なのに。
目の前にいるのは、警察が追っている女のはずなのに。
笑っている自分がいる。
雨音は笑い終えると、少しだけ真剣な表情になった。
「ねぇ、瞬…。その人と一緒にいて……ドキドキ、する?」
その一言で、俺の笑みは消えた。
答えられない。
南と過ごした日々は穏やかだった。
一緒にいて安心できる。
自然体でいられる。
そんな関係だった。
だけど――。
胸が高鳴るような感覚を、南に対して抱いたことがあっただろうか。
思い返しても、そんな記憶は出てこない。
俺は黙ったまま俯く。
その沈黙だけで、雨音は何かを悟ったようだった。
「……しないんだね」
静かな声だった。
俺は返す言葉を見つけられず、ただ自分の胸に手を当てる。
激しく脈打つ鼓動。
それは今、この部屋にいるときだけ、何度も俺に存在を主張していた。
そのときだった。
静かな部屋に、突然スマートフォンの着信音が鳴り響く。
俺は肩を震わせ、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面には――
<南>
恋人の名前が表示されていた。
「……」
俺は通話ボタンへ指を伸ばす。
その瞬間だった。
「瞬」
雨音が静かに俺の名を呼ぶ。
そして彼女の両腕がそっと俺の腰へ回された。
「え……」
驚いて息をのんだ、その一瞬。
雨音は背伸びをし、そっと唇を重ねた。
頭の中が真っ白になる。
手から力が抜け、スマートフォンが床へ落ちた。
乾いた音を立てて滑り、着信音だけが部屋中に鳴り続ける。
やがて着信音は途切れ、部屋は再び静寂に包まれる。
雨音は少しだけ距離を取り、上目遣いで俺の顔を見た。
「……ドキドキした?」
悪戯をした子どものような笑みだった。
俺は答えられない。
鼓動は耳が痛くなるほど速く、呼吸もうまく整えられなかった。
刑事としても、一人の人間としても、越えてはならない一線を越えてしまった。
床に落ちたスマートフォンの画面は消えている。
さっきまで表示されていた南の名前も、もう見えなかった。
「俺は……」
かすれた声だけが漏れる。
これ以上この部屋にいたら、自分が自分でなくなる。
そう直感した。
俺はスマートフォンを拾い上げると、雨音から目を逸らしたまま玄関へ向かう。
「瞬……?」
雨音の呼びかけにも振り返らず、俺は玄関の扉を開けた。
勢いよく外へ飛び出し、静まり返った廊下へ出る。
冷たい空気を吸い込んでも、高鳴る鼓動は少しも収まらなかった。




