11話
夜のマンション。翔太郎は机に突っ伏し、警察から突きつけられた証言のコピーを見つめていた。
「図書館の近くで、鳥越翔太郎を見た」
その文字は黒々と印字され、彼の名前を確定的に犯人として刻んでいた。紙の匂いが鼻を刺し、蛍光灯の白い光が文字をさらに鋭く浮かび上がらせる。
彼はページをめくる手を止め、深く息を吸った。だが肺は重く、呼吸は浅く、胸の奥で心臓が不規則に跳ねた。記憶を辿ろうとするが、事件当夜の断片は曖昧で、靄のように掴めない。確かに図書館にいた。確かに歩いていた。だが、何を持っていたのか、誰とすれ違ったのか――思い出そうとするほど記憶は崩れ、形を失った。
翌日、翔太郎は街のカフェに入った。店内は学生や会社員で賑わっていたが、彼が入ると空気が変わった。椅子の軋む音が止まり、視線が一斉に彼に向けられた。隣の席で学生らしき二人が囁いていた。
「事件の夜、あの人を見たって話、聞いた?」
「うん、慌てて歩いてたって……やっぱり鳥越なんじゃない?」
翔太郎は耳を塞ぎたかった。だが、声は壁をすり抜けて彼の心に突き刺さった。コーヒーを注文すると、店員の視線は冷たく、カップを置く手はわずかに震えていた。彼は周囲の声を必死に遮ろうとしたが、耳の奥で証言の言葉が繰り返された。
――図書館の近くで、君が慌ただしく歩いていた。
マンションに戻ると、郵便受けに近隣住民からの苦情が投げ込まれていた。紙には「夜遅くに出歩くな」「不審者だ」と殴り書きされていた。インクは滲み、筆圧の強さが怒りを物語っていた。翔太郎は紙を握りしめ、指先が白くなった。
「俺じゃない……俺じゃないんだ……」
声は震え、涙が滲んだ。だが、心の奥底では別の声が囁いていた。
――本当に違うのか?
――あの夜の記憶は、断片しか残っていない。
翌日、警察署に呼び出された。取調室の蛍光灯が白く光り、机の上には新しい証言の記録が並べられていた。刑事は腕を組み、淡々と告げた。
「鳥越、事件当夜に君を見たという証言が複数出ている。図書館の近くで、慌てて歩いていた。手に何かを持っていた、と」
翔太郎は息を呑んだ。喉が乾き、唇がひび割れていた。
「俺を……見た?」
刑事は冷静に続けた。
「証言は一人だけではない。複数の学生、近隣住民が同じことを話している」
その言葉は、鉄槌のように翔太郎の心を打ち砕いた。自分が犯人であるという現実が、社会の視線と証言によって形を成し始めていた。
取調室を出た翔太郎は、夜の街を歩いた。街灯の下で人々の視線が突き刺さる。背後でひそひそ声が広がり、笑い声が波のように押し寄せた。誰も近づかないのに、誰もが彼を見ていた。胃が縮み、足が重く、視界は霞んでいた。
マンションに戻り、翔太郎は鏡の前に立った。映し出された自分の顔は、疲れ果て、目の下に深い影を落としていた。
「俺は……俺じゃない。あれは俺じゃない」
鏡の中の自分に向かってそう呟いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
外の世界は彼を犯人として認識し始めていた。だが、翔太郎自身は「自分じゃない」という葛藤に囚われ続けていた。証言は積み重なり、記憶は曖昧で、彼の心は「自分」と「社会」の境界を完全に見失い始めていた。
「俺は……誰なんだ……」
その声は、部屋の闇に溶けていった。




