12話
マンションの管理人室に呼び出されたのは、冬の朝だった。冷たい風が廊下を吹き抜け、翔太郎の頬を刺した。管理人は無表情で書類を差し出した。
「鳥越さん、近隣から苦情が多いんです。夜中に出歩いているとか、不審な声が聞こえるとか……。これ以上は契約を続けられません」
紙には「退去通知」と印字されていた。黒い文字が、彼の居場所を奪う宣告のように見えた。翔太郎は言葉を失い、ただ紙を握りしめた。指先は白くなり、紙は汗で湿った。
部屋に戻ると、電話が鳴った。アルバイト先の店長からだった。
「鳥越君、もう来なくていい。店の客からも噂が広がってる。うちとしても困るんだ」
短い言葉で、生活の基盤が崩れ落ちた。翔太郎は受話器を握りしめ、声を出そうとしたが、喉が詰まって言葉にならなかった。
夕方、彼は母親に電話をかけた。受話器の向こうから、ため息混じりの声が聞こえた。
「翔太郎……もう関わらないで。近所でも噂になってるの。家族まで巻き込まれるのは耐えられない」
その言葉は、血の繋がりさえ断ち切る刃だった。翔太郎は受話器を落とし、床に膝をついた。
夜、公園のベンチに座った。街灯の光は弱く、風が落ち葉を舞い上げていた。人影はなく、ただ遠くで犬の鳴き声が響いた。翔太郎は頭を抱え、呟いた。
「俺は……誰なんだ……」
記憶の断片が歪み始めた。事件当夜の自分の姿が脳裏に浮かぶ。だが、それは自分ではないように見えた。慌てて歩く影、何かを握りしめる手――それは「自分じゃない自分」だった。幻覚のように、ベンチの向かいにその影が座っている気がした。
「お前がやったんだ」
幻の声が耳に響いた。翔太郎は立ち上がり、闇の中を見渡した。誰もいない。だが、声は確かに聞こえた。
マンションに戻ると、部屋のドアに落書きがされていた。黒いスプレーで「犯人」と書かれていた。翔太郎は膝をつき、指で文字をなぞった。インクが指に付着し、黒い痕が残った。
翌日、警察署に呼び出された。刑事は淡々と告げた。
「鳥越、証言は積み重なっている。君を容疑者として扱うことになる」
翔太郎は椅子に座り、視界が揺れた。耳の奥で幻の声が囁いた。
――俺じゃない。俺じゃないんだ。
だが、刑事の言葉は現実を突きつけた。
取調室を出た翔太郎は、夜の街を歩いた。街灯の下で人々の視線が突き刺さる。背後でひそひそ声が広がり、笑い声が波のように押し寄せた。誰も近づかないのに、誰もが彼を見ていた。胃が縮み、足が重く、視界は霞んでいた。
マンションの部屋に戻ると、家具は散乱していた。誰かが侵入したのか、あるいは自分が無意識に荒らしたのか分からなかった。机の上にはノートが開かれていた。そこには「俺は犯人じゃない」と繰り返し書かれていた。だが、文字は次第に「俺が犯人だ」と変わっていた。
翔太郎はペンを握り、震える手で新しい文字を書いた。
「俺は……俺じゃない」
だが、次の瞬間、ペン先は勝手に動き、「俺が犯人だ」と書き込んでいた。汗が紙に滲み、文字は歪んだ。
「俺は……誰なんだ……」
その声は、部屋の闇に溶けていった。




