10話
翔太郎は、図書館で拒絶され、警察からも「監視日誌」としてノートを突きつけられた翌日、大学の研究室に足を運んだ。廊下の蛍光灯は冷たい白光を放ち、冬の乾いた空気が漂っていた。ドアを開けた瞬間、教授の視線が突き刺さった。
「鳥越君……もうここには来ない方がいい」
教授の声は低く、しかし決定的だった。机の上にはゼミ生たちのレポートが並び、翔太郎の席だけが空白のまま残されていた。周囲の学生たちは目を逸らし、誰一人として彼に声をかけなかった。紙をめくる音やペンの走る音が、彼を排除する沈黙の壁をさらに厚くした。
「俺は……ただ真実を……」
言葉は途中で途切れた。教授は首を振り、冷たく告げた。
「君の行動は危険だと、大学でも問題になっている。事件のことは警察に任せなさい」
翔太郎は研究室を出て、廊下を歩いた。壁に貼られた掲示板には「鳥越翔太郎に注意」という匿名の張り紙が貼られていた。紙は何度も剥がされ、また貼られた跡が残っていた。インクの滲んだ文字が、彼の名前を黒々と刻んでいた。
昼休み、食堂に入ると、学生たちの視線が一斉に彼に向けられた。囁き声が広がる。
「まだ大学に来てる……」
「警察に呼ばれたんだろ?」
「犯人じゃないのか?」
翔太郎はトレーを持ったまま立ち尽くし、結局食事を取らずに食堂を出た。背後で笑い声が響き、それが自分を嘲笑しているように聞こえた。胃の奥がきりきりと痛み、足取りは重く、視界は霞んでいた。
夜、マンションに戻ると、郵便受けに大学からの通知が届いていた。封筒を開けると「研究活動の停止」「ゼミ参加の禁止」と記された文書が入っていた。大学からの事実上の追放だった。翔太郎は紙を握りしめ、床に崩れ落ちた。指先は白くなり、紙は汗で湿っていた。
「俺は……犯人じゃない……」
声は震え、涙が滲んだ。だが、心の奥底では別の声が囁いていた。
――本当に違うのか?
――あの夜の記憶は、断片しか残っていない。
翌日、警察署に呼び出された。取調室の蛍光灯が白く光り、机の上には彼のノートと掲示板の書き込みのコピーが並べられていた。刑事は腕を組み、冷静に言った。
「鳥越、君の行動はストーカーに近い。監視、追跡、記録……。事件の夜も、君の姿を見たという証言が出ている」
翔太郎は息を呑んだ。喉が乾き、唇がひび割れていた。
「俺は……佐久間を……」
刑事は遮った。
「佐久間の行動には不審な点はある。だが、決定的な証拠はない。逆に君の行動は、事件に直結しているように見える」
その言葉は、鉄槌のように翔太郎の心を打ち砕いた。自分が犯人であるという現実が、社会の視線と警察の言葉によって形を成し始めていた。
取調室を出た翔太郎は、夜の街を歩いた。街灯の下で人々の視線が突き刺さる。スマートフォンを向けられ、写真を撮られる。翌日には匿名掲示板に「鳥越を見た」「まだ大学にいる」と書き込みが増えていた。
マンションに戻り、翔太郎は机に向かった。ノートを開くと、そこには自分の筆跡で「俺は犯人じゃない」と繰り返し書かれていた。だが、文字は次第に「俺が犯人だ」と変わっていった。ペンを握る手は震え、汗で紙が滲んだ。
「俺は……誰なんだ……」
その声は、部屋の闇に溶けていった。
翌朝、大学の門をくぐろうとした翔太郎は、警備員に止められた。
「鳥越君、もう入構は許可されていない」
門の外で立ち尽くす彼の姿を、学生たちが遠巻きに見ていた。誰も近づかず、誰も声をかけなかった。冷たい風が吹き抜け、落ち葉が舞い、彼の孤立を象徴するように地面に散らばった。
翔太郎は門を背にして歩き出した。街の雑踏の中で、自分だけが透明な壁に囲まれているように感じた。孤立は極限に達し、彼の心は「自分」と「社会」の境界を完全に見失い始めていた。
「俺は……本当に犯人なのか……」
その問いは、答えのないまま夜の闇に消えていった。




