9話
翔太郎は、警察に佐久間悠人の名前を伝えた夜から、眠れぬ日々を過ごしていた。布団に横たわっても、脳裏には刑事の冷たい視線と「証拠はあるのか?」という問いが繰り返し響く。彼のノートに書き込まれた追跡記録は、真実を求める努力の証のはずだった。しかし、刑事の目にはそれが「監視日誌」として映っていた。
夜のマンションは静まり返り、冷蔵庫のモーター音だけが響いていた。翔太郎は机に向かい、ノートを開いた。ページの隅には震える字で「俺は犯人じゃない」と繰り返し書かれている。だが、文字は次第に乱れ、線は歪み、まるで自分自身が制御できない何かに操られているようだった。
翌日、翔太郎は図書館へ向かった。事件当夜の入退館記録や監視カメラ映像を確認すれば、佐久間の行動を証明できるはずだと考えた。だが、受付の職員は彼を見て眉をひそめた。
「鳥越さん、あなたのことはもう噂になっています。危険人物だと……。記録の閲覧は許可できません」
その言葉は、鉄の扉のように翔太郎の前に立ちはだかった。彼は必死に食い下がる。
「俺は真実を知りたいだけなんです。佐久間が事件に関わっている可能性があるんです!」
だが職員は首を振り、背を向けた。
図書館を出た翔太郎は、キャンパスのベンチに座り込んだ。冬の風が頬を刺し、学生たちの笑い声が遠くから響く。だが、その輪の中に彼の居場所はなかった。周囲の学生たちは彼を避けるように距離を取り、囁き声が風に乗って届く。
「まだ事件に取り憑かれてる」
「監視魔だってさ」
その言葉は、彼を社会から切り離す鎖となった。
夜、マンションに戻った翔太郎はパソコンを開き、匿名掲示板を覗いた。そこには「鳥越=犯人説」が拡散されていた。
「監視日誌をつけてるらしい」
「事件に異常に執着してる」
「もう警察に目をつけられてる」
画面の文字は、彼の心臓を締め付ける縄のようだった。だが、翔太郎は目を逸らさなかった。むしろ必死にスクロールし、佐久間に関する書き込みを探した。だが、そこにあるのは「鳥越が怪しい」という言葉ばかりだった。
「違う……俺じゃない……」
彼は頭を抱え、机に突っ伏した。だが、心の奥底では別の声が囁いていた。
――本当に違うのか?
――あの夜の記憶は曖昧じゃないか?
翔太郎は立ち上がり、鏡の前に立った。映し出された自分の顔は、疲れ果て、目の下に深い影を落としていた。
「俺は……俺じゃない。あれは俺じゃない」
鏡の中の自分に向かってそう呟いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
翌日、警察から呼び出しがあった。取調室に座る翔太郎の前で、刑事はノートを机に置いた。
「君の記録だ。これをどう説明する?」
翔太郎は唇を噛み、必死に言葉を探した。
「真犯人を見つけるために……」
刑事は首を振った。
「いや、これは君自身が事件に執着し、犯人であることを裏付ける材料に見える」
その言葉に、翔太郎の視界は揺れた。自分が犯人であるという現実が、じわじわと迫ってくる。だが、彼は心の奥で必死に否定した。
「俺じゃない……俺じゃないんだ……」
取調室を出た翔太郎は、夜の街を歩いた。街灯の下で人々の視線が突き刺さる。誰もが彼を犯人として見ているように感じられた。孤立は極限に達し、彼の心は「自分」と「社会」の境界を見失い始めていた。
マンションに戻り、翔太郎はノートを開いた。そこには自分の筆跡で「俺は犯人じゃない」と繰り返し書かれていた。だが、その文字は次第に「俺が犯人だ」と変わっていった。ペンを握る手は震え、汗で紙が滲んだ。
「俺は……誰なんだ……」
その声は、部屋の闇に溶けていった。




