該当なし
2028年4月18日
千葉県成田市 成田国際空港
到着口の向こうからちらほらと人の流れが見え始めた。
藤井は机の上に置いていた水筒を端へ寄せ、正面のモニターへ視線を戻した。画面の右上では、到着便の情報が数秒おきに更新されている。少し前まで黄色だった便名の横に「到着」の表示が付き、その下に予定人数が出た。
「インディラ・ガンディー空港発の便が到着しました」
隣の職員が言った。
「了解」
藤井は椅子から立ち上がり、首から下げていた職員証の位置を直した。
検疫区域の景色は、1週間前までとはだいぶ変わっていた。
天井付近に取り付けられていた従来のサーモグラフィーはそのままだったが、その手前には銀色の支柱に挟まれた新しい装置が3台並んでいる。正面にカメラらしい黒い窓がいくつかあり、旅客が指定された位置に立つと、体表温だけでなく顔の映像から脈拍や呼吸の状態まで非接触で測る。診断ができるようなものではなく、設定された範囲から外れた人間をもう一度確認するための装置だと説明されていた。
導入されたのは先週だった。
最初の2日ほどはメーカーの人間が脇に立っていたし、職員側も操作手順を確認するたびにもたもたと配られたマニュアルを開いていた。今では一通り動かせるようになったものの、画面の見方まで完全に慣れたとは言い難い。昨日もソフトウェアが更新され、要確認判定が出た時に押すボタンの位置が変わったばかりだった。
装置のさらに先には、腰ほどの高さの仮設ポールと青いベルトでいくつかの通路が作られている。そのうち一つだけ、他より長く折り返していた。
《対象地域滞在者 追加確認》
日本語の下には英語をはじめ、複数の言語で同じ内容が表示されている。
対象になっているのは、バングラデシュ、インド、パキスタンを中心とした南アジアのいくつかの地域だった。対象国そのものも何度か変わっている。昨日までは入っていなかった地域が朝の申し送りで追加されたこともあった。昨日はマレーシアとインドネシアが追加された。
旅客が検疫区域へ入ってきた。
キャリーケースを引く会社員らしい男、子供を抱いた夫婦、リュックを背負った若い旅行者。ほとんどは前を歩く人間について、そのまま通常の通路へ流れていく。
入国前に提出する健康申告の情報と搭乗情報は、検疫側の端末にも必要な範囲で表示される。対象地域への滞在歴や申告された症状があれば、画面に印が付く。何もなければ、旅客側は検疫を意識する時間すらそれほど長くない。
その流れから何人かが職員に声を掛けられ、右側へ分けられた。
追加確認の列はすでに前の便の旅客が残っている。
藤井がそちらへ移動すると、列の前方で日本人の男が職員にスマートフォンの画面を見せていた。
「UAEを出国してクアラルンプールでトランジットしただけなんですけど」
「対象地域の空港で乗り継いだだけで、空港の外には出ていないということですね」
「そうです。大体3時間くらいかな」
職員が端末へ入力する。
その隣では、年配の女性が通訳用のタブレットを挟んで別の職員と話している。さらに後ろでは、幼い子供がぐずって床へ座り込もうとして母親に腕を引かれていた。
列が長くなれば不満を言う人間もいるが、大半は指示された場所へ並び、聞かれたことに答える。テレビやネットで南アジアの感染症について連日報道されていることもあって、以前より事情を理解している旅客は多かった。
藤井が端末へ戻ったところで、正面の装置から短い電子音が鳴った。
画面の一つが橙色に変わる。
通過しかけていた中年の男が足を止め、何が起きたのか分からない様子で周囲を見た。30代くらいの日本人だった。リュックを背負い、片手には書類を挟み込んだパスポートを持っている。
藤井は手を上げた。
「すみません。そこの方、こちらでもう一度確認させてください」
「はい」
男は素直に言われた位置へ移動した。
「今、体調はいかがですか。熱っぽさとか、咳、だるさなんかはありますか?」
「まぁちょっとだるいです。飛行機で全然寝られなくて」
「いつ頃からですか?」
「飛行機乗ってる途中くらいからですね。寝不足だと思ってたんですけど」
藤井は非接触式の体温計を手に取った。
男の額へ向ける。
38.1
「少し熱がありますね」
「ああ、やっぱり」
男は困ったように笑った。
「どちらからですか?」
「デリーです。仕事で」
「デリーには何日くらい?」
「5日ですね」
「現地で病院に行ったり、体調の悪い方と接触したりした覚えはありますか?」
男はしばらく考えた。
「いや、ないと思います。基本的にホテルから出ませんでしたし、取引先の人と話したくらいかな」
藤井は端末へ入力した。
表示されている健康申告にも、出発時点での症状は「なし」となっている。
「念のため、向こうで詳しくお話を聞かせてください。荷物の受け取りはその後になります」
藤井が指した先には、数日前から入口を二重にした健康相談用の区画があった。
「どのくらいかかります?」
「状況によります。担当から説明します」
男は一度時計を見たものの、それ以上何も言わなかった。
藤井が手を上げると、防護具を着けた職員がこちらへ来た。簡単に内容を伝え、男を引き継ぐ。
その間にも旅客は流れている。
新しい装置がまた電子音を鳴らしたが、今度は再確認すると体温も正常で、本人にも症状はなかった。長時間歩いた、或いは寝不足のようにちょっとした体調の変化でもこの機械は動作する。最初の頃はいちいち身構えていた職員も、今ではまず体温を測り直すようになっていた。
昼を過ぎる頃には、長かった列もようやく短くなった。
最後に残っていた家族連れが追加確認を終えて入国審査の方へ進んでいくのを見届け、藤井は事務スペースへ戻った。
椅子へ座ると、朝から履いていた靴の中で足が蒸れているのが分かった。
机の上には、さっき健康相談へ回した男の処理記録が残っていた。旅券番号、便名、座席、体温、症状、滞在地域。必要な欄を埋め、引き継ぎ済みの印を付ける。
途中で、隣の席の電話が鳴ったので、藤井は画面から目を離して受話器に手を伸ばした。
「はい、成田空港検疫所です」
『お忙しい時間に申し訳ございません。私、厚生労働省、感染症対策部の三浦と申します』
男の声だった。
「あぁ、はい。お疲れさまです」
『お疲れ様です。入国時の記録について、確認をお願いしたい案件が2件あるんですが、今よろしいでしょうか』
藤井は開いていた画面を閉じ、照会用の画面を立ち上げた。
「大丈夫です。お願いします」
『では1件目です。氏名、山岸浩平。男性。生年月日、1991年7月16日』
藤井の指がキーボードを動く。
続けて東京都内の住所と携帯電話番号が読み上げられた。
「はい」
『出入国在留管理庁への照会では、今月13日にフランスのシャルル・ド・ゴール空港を出国して、14日に成田で帰国しています。そちらで検疫時の記録を確認できますか』
「少々お待ちください」
すぐに1件出た。
「あります。14日ですね」
『本人で間違いなさそうですか』
藤井は表示された情報と、今聞いた住所、電話番号を見比べた。
「はい。住所と電話番号も一致しています」
『入国時の健康状態の記録は残っていますか』
「えーっと、残っています。体温36.6度。自覚症状の申告なし」
藤井は画面を少し下へ送った。
新しいスクリーニング装置の判定も記録されている。
「追加確認なし。健康相談室への案内もありません。特記事項なしです」
『対象地域への滞在歴については』
「申告上はありません。過去14日間はフランスのみになっています」
『バングラデシュ、インド、その周辺への渡航はなし』
「はい」
一度、電話の向こうが静かになった。
藤井は画面を見たまま待った。
『分かりました。こちらの記録については保存をお願いします。正式な照会は後ほど送ります』
「承知しました」
藤井は照会番号の横へ回答済みと入力した。
パリから帰ってきた人間の記録を、本省がわざわざ調べる理由までは聞かなかった。感染症関係で入国したときの状態を確認してくれという電話自体は、何もこれが初めてではない。ここ1週間で少なくとも一日に1件はある。
『続けてもう1件、お願いできますか』
「どうぞ」
今度は別の名前が読み上げられた。
田辺雅人。男性。1978年11月3日。
住所は埼玉県内だった。電話番号まで聞き、藤井は同じように検索欄へ入力した。
何も出なかった。
名前を確認する。
間違っていない。
生年月日だけでも検索したが、該当する記録はない。
「すいません、いつ頃の入国か教えていただけないでしょうか」
『それが、こちらで確認できていないんです』
藤井は手を止めた。
『入管側の記録では、この方は少なくとも今年に入ってから出帰国した記録がありません。ただ、念のためそちらの記録でも確認をお願いしています』
「今年に入ってから、ですか」
『はい。1月1日以降です』
藤井は検索期間を広げた。
1月1日から今日まで。
該当なし。
名前の漢字を一文字ずつ確認する。読み方を変え、ひらがなとローマ字でも試す。
やはり出ない。
「こちらにはないですね」
『氏名以外でも確認できますか』
「生年月日でも見ました。該当ありません」
念のため、電話番号、住所でも試す。
住所は表記の違いで検索にヒットしない可能性も考慮し、市区町村まで削ってから、氏名の読みと組み合わせる。
それでも該当はなかった。
「今年に入ってからだと、該当する記録は確認できません」
『健康相談だけの記録もないですか。通常の入国処理とは別に残っているものがあれば』
藤井は別の画面を開いた。
健康相談、検体採取、要確認者の対応記録。
「ないですね。少なくとも成田では確認できません」
『分かりました』
相手は少し間を置いた。
『もし後から該当するものが見つかった場合は、照会番号を付けて連絡をお願いします』
「承知しました」
『お手数をおかけしました。ありがとうございます』
「はい。失礼します」
電話が切れた。
藤井は受話器を置き、2件目の回答欄に「回答済み」と入力した。
保存を押したところで、事務スペースの外から声が飛んだ。
「藤井さん、メルボルン発の便が到着しました」
「了解です」
画面の端に新しい到着便が表示されていた。
藤井は水筒からお茶を一口飲むと椅子から立ち上がり、机の上に置いていた職員証を胸元へ戻した。




