値上げ
2028年6月11日
翌朝、瀬川は床の段ボールへ手を伸ばしたところで、腕の付け根に鈍い痛みを感じた。
昨日の荷運びのせいだろう。持ち上げかけた箱をいったん下ろし、肩を回した。普段から梱包や発送で荷物を運ぶことはあるが、あれだけまとまった量を一度に動かすことは滅多にない。立ち上がると、腿の裏まで少し痛んだ。
とはいえ、これで8万円なのだから文句はない。
瀬川は椅子へ腰を下ろし、パソコンに表示された注文の一覧を眺めた。昨日出かけている間にも、帰ってからも、商品は売れていた。商売は順調だった。少なくとも、昨日の朝まではそう思っていた。
購入希望者とのやり取りを開く。昨夜、まとめて買うから安くしてくれと言ってきた相手だった。多少ならといくらか値引きした金額を提示したが、今朝になって、やはり1セットでいいので、その値段で売ってほしいという返事が来ていた。
「それじゃまとめ買いになんねぇだろ」
独り言を漏らしながら、値引きは複数購入の場合に限ると打ち込んだ。送信すると、今度は別の購入者から発送を急いでほしいという連絡が入る。商品説明にも購入後のメッセージにも、発送予定は書いてある。瀬川は同じ日付をもう一度入力した。
これで、いくらになるんだったか。
売上から仕入れ値と送料、それに手数料を引いても、十分な利益は残る。本来なら喜ぶところだ。しかし、その金を手に入れるまでには、商品を探して仕入れ、写真を撮り、説明を書き、こうして知らない人間の値切りに付き合わなければならなかった。売れた後も梱包と発送があり、届けば届いたで文句を言われることもある。
それに比べ、昨日は、箱を運んだだけだった。
運転は斎藤がしてくれたし、荷台への積み方も、届け先との話も任せておけばよかった。自分は言われた場所へ荷物を持っていった。それで昼前には8万円が振り込まれていたのだ。
瀬川は足元の箱を見下ろした。これをいくつ売れば、昨日と同じだけ稼げるだろう。つい先日まで、部屋を狭くしている箱の山が宝の山のように見えていたが、今では妙に煩わしく見えた。
もちろん、昨日の仕事に何も引っかからなかったわけではない。結局あの作業が合法であるという言葉を引き出せなかったし、だからこその8万なのだろう。倉庫の鍵が本当に使えるのか、途中で持ち主が来ないか。昨日はそんなことも気にしていたはずなのに、金が振り込まれて一晩経つと、ずいぶん簡単な仕事だったように思えた。
昨日を振り返って一番面倒だったことといえば、途中の通行止めと、やたら重かった消毒液の箱くらいだ。
瀬川はスマホを手に取り、新村へ電話をかけた。
呼び出し音がしばらく続いた後、低い声が応じた。
『……もしもし』
「おう、新村。今いいか?」
『何だよ。金なら昨日入れただろ』
「分かってるよ。その件はありがとな」
『おう、で、何の用?』
「ああいう仕事、他にもないのか?」
電話の向こうで少し間があった。
『味占めやがったなお前』
瀬川は笑った。
「そりゃあな。で、ないのか?」
瀬川は椅子の上で脚を組みかけ、腿の痛みに顔をしかめた。脚を戻し、机に肘をつく。
『おまえ、自分の商売は?』
「やってるよ。ただ、時間は融通利くから。人が足りない時とかあるだろ。そういう時に呼んでくれればいいんだよ」
『毎回8万も出ると思うなよ。昨日は急だったから、あの金額になったんだ』
「わかってるよ。とりあえず話くらい聞かせろよ」
新村が鼻で笑った。
『まあ、何かあったら連絡するよ』
「ああ。頼むわ。急でもいいから」
電話を切った。こんなことなら、もっと前から声をかけておけばよかったのかもしれない。
パソコンから通知音が鳴った。先ほどの購入希望者が、1セットでも少しは安くならないかと聞いてきていた。
瀬川は返信欄にいつもの断り文句を貼り付け、送信した。それからスマホの音量を上げ、梱包材に埋もれないよう、机の手前へ置き直した。
スマホが鳴ったのは、それから箱を2つ詰め終えた頃だった。
瀬川はテープを置き、画面へ手を伸ばした。新村からかと思ったが、表示されていたのはニュースの通知だった。
『新宿駅で複数人が負傷 一部路線で運転見合わせ』
記事を開くと、駅の構内で暴れている人物がいるとの通報があり、警察と消防が対応していると書かれていた。けが人も出ているらしいが、人数や容体は分からないという。本文は短く、すぐに関連記事の一覧へ行き着いた。
また誰か、よくわからない頭のおかしい奴が刃物でも振り回したのか? よくある事じゃないが、全く珍しいという事でもない。
記事に添えられていたライブ配信への案内を押すと、YouTubeが開いた。駅前の映像が表示され、女性アナウンサーの声が流れ始めた。
『現在、新宿駅南口には複数のパトカーや救急車が集まり、警察官や救急隊員が対応に当たっています。詳しい状況が分かり次第、お伝えします』
瀬川はスマホを机の上へ置きかけ、消毒液のボトルに立てかけ直した。音量を少し上げ、詰め終えた箱の蓋を閉じる。
現地の記者への呼びかけが始まった。少し間が空いた後、駅前の騒音に混じって男の声が聞こえてきた。
『こちらから構内の様子を確認することはできませんが、出てきた方の中には、誰かが暴れていたと話す方もいます。ただ、何が起きたのか分からないまま外へ出たという方も多く、情報が錯綜しています』
瀬川はテープを引き、箱の端で切った。駅を出てきた人への取材映像に切り替わったようだったが、話している女も、前の人が走ったので一緒に逃げたとしか言っていなかった。
パソコンから通知音が鳴った。
『今日中に発送できますか?』
午前中に支払いが済めば対応できると返し、発送待ちの一覧へ戻った。商品の種類と数を確かめ、床に置いた在庫から必要なものを取り出す。少し前まで面倒で仕方がなかった作業も、始めてしまえば手は動いた。
配信では運転を見合わせている路線の説明が続いていた。その後、再び駅前の映像に戻ったが、アナウンサーが伝えている内容は先ほどとほとんど変わらなかった。
瀬川は途中で音量を一つ下げた。
次の箱を詰め終え、さらに別の注文に取りかかる頃、スマホから聞こえるサイレンが大きくなった。
顔を向けると、パトカーが駅前へ入ってくるところだった。後ろにも赤色灯が続いている。カメラがそちらへ動き、通行人の頭越しに、窓に金網のついた大きな車両が映った。
『いま、新たに警察車両が到着しています。機動隊の車両も来ていますね』
記者の声にサイレンが重なった。画面の端から警察官が現れ、歩いていた人たちに何かを呼びかけていた。
「んな大げさな……」
瀬川は机へ向き直った。
よほど面倒なやつが暴れているのかもしれない。新宿なのだから人も多いし、こういうこともあるのだろう。まぁ今日、新宿へ行く用事などないのだからなんだっていいのだが。
先ほど発送を尋ねてきた相手から、支払いを済ませたというメッセージが届いた。瀬川は確認の返信を送り、もう一つ段ボールを組み立てた。
配信はつけたままだった。警察車両が増えたことや、駅の出入口で誘導が行われていることが何度か伝えられたが、それ以上のことはなかなか分からない。瀬川は時折画面へ目を向けるだけで、梱包を続けた。
机の上に溜まった包装の切れ端を捨て、発送する箱を入口のほうへ寄せる。肩を伸ばし、飲みかけのペットボトルを手に取ったところで、現地の記者が再び話し始めた。
『先ほどから警察官が、駅の出入口付近にいる方に離れるよう呼びかけています。私たちも今、少し場所を移して――』
不意に声が途切れた。
瀬川はペットボトルを口につけたまま、画面を見た。記者はマイクを持ち、駅のほうへ顔を向けていた。カメラがその視線を追うように動いたが、警察車両と人の背中ばかりで、何を見せようとしているのか分からなかった。
『……今、何か聞こえましたか?』
スタジオからの問いかけに、記者がカメラへ向き直った。
『えー、あ、はい。今、破裂音、破裂音のような音が、続けて何度か聞こえました。ただ、こちらからは何の音なのか確認できません』
瀬川はボトルの蓋を閉め、スマホの音量を上げた。
画面の奥で、立ち止まっていた人たちが動き始めていた。小走りに横切る男がいたが、その後ろではまだ何人もが駅へスマホを向けている。何かを叫ぶ声も聞こえたものの、言葉は分からなかった。
画面には混沌とするターミナル前が映り、記者は同じ話を繰り返していた。
『えー、発砲があったという情報も入ってきていますが、まだ確認は取れていません。繰り返しますが、現時点では未確認の情報です』
瀬川はスマホを手に取った。
発砲といったか?
犯人が大暴れしているのか、相当に深刻な状況らしい。画面を見続けたが、記者は警察官に促されて移動を始め、映像はスタジオへ切り替わった。アナウンサーが、複数人が負傷していることから説明し直していた。
そこはもう聞いたぞ。
瀬川は配信を離れ、SNSで新宿を検索した。
電車が止まったという投稿に交じって、駅から逃げ出す人の動画が次々と出てくる。短い映像を開くと、撮影者が走っているらしく、床と人の背中が激しく入れ替わった。誰かが怒鳴っていたが、何と言っているのか聞き取れない。
『人に咬みついてたらしい』
『新宿でPMRS感染者マジ?』
『ゾンビ出たとかいってるデマ吐き野郎多すぎて草』
瀬川は画面を送る指を止めた。
同じ映像が、別の人間の投稿にも付いていた。こちらには、警察官が襲われたと書かれている。元の投稿を探そうとしたが、転載ばかりが出てきて、誰がその場で撮ったものなのか分からなかった。
普段なら、その程度のことは気にしなかった。自分が記事を作る時だって、全部を確かめているわけではない。しかし、今は知りたいことに辿り着けないのが腹立たしかった。
もう一度検索結果を更新すると、さっきはなかった投稿がいくつも増えていた。話題の一覧には新宿駅だけでなく、PMRSやゾンビという言葉まで並び始めていた。
まさか、本当にゾンビなのか? 朝っぱらの新宿駅でゾンビが出たのか?
瀬川は画面を少し戻し、さっきの動画をもう一度開いた。走りながら撮影しているのか手振れが激しく、ほとんど何を映しているのかもわからない。誰もかれもがざわめく雑多な声の向こう側に、駅員の「落ち着いて」というアナウンスがかろうじて聞き取れた。
アナウンスは、途中から「走らないでください」になった。だが、撮影者は走るのをやめず、画面の中の人間も次々とその脇を駆け抜けていった。
一体全体何が起きているんだ。誰が最初にPMRSだと言い始めたのかも分からないし、映像を見ても、頭のおかしい奴が暴れているだけなのか、本当にゾンビなのか判断のしようがない。というかそもそも、この時間の新宿駅で都合よくゾンビが現れましたなんてことがあるのか?
瀬川は動画を閉じた。口の中が乾いていた。机のペットボトルへ手を伸ばしたが、新しい投稿が表示されると、蓋を開けないまま置き直した。
『新宿のやつ、やっぱりPMRSらしい』
誰がそう言っているのか。投稿を開いても、別の人間が載せた映像が貼ってあるだけだった。その下では、ただの傷害事件だという人間と、政府が隠していたのだという人間が言い争っていた。
こんなものを読んでも分かるわけがない。普段、自分が拾っているのと同じ類の話だ。そう思って閉じたのに、次の投稿に「現場にいた」という言葉を見つけると、また指が止まった。
パソコンから購入の通知音が鳴った。
瀬川は顔を上げ、売れた商品の名前を見た。マスクと消毒液のセットだった。続いて、まだ在庫があるかという問い合わせが届く。
購入金額は1万円だった。瀬川はその数字を見つめた。つい先ほどまで十分すぎると思っていた値段なのに、今売れてしまったことが、少し惜しくなった。
先ほどから、値下げの相談が来ない。そのことに気づくと、瀬川の頭には新宿で何が起きているのかとは別の考えが浮かんだ。
まだ国内でPMRSの発生が正式に確認されてもいないうちから、あの値段で買う人間がいた。もし新宿のが、仮にだが、本当にゾンビなら、1万円どころか、1万5000、2万、いやもっとでも売れるのではないか。
瀬川はスマホを机に戻し、出品画面を開いた。ライブ配信も再開しておく。金額を入力し直していると、記者が「構内にいた方によりますと」と話し始めた。
手が止まった。
証言は途中までしか聞けなかった。誰かが倒れていて、近づいた人も逃げ始めたという。アナウンサーが聞き返したが、記者の説明は要領を得ず、結局、詳しい状況は確認中だと話を締めた。新しい情報はほとんどない。期待していただけ無駄だった。
瀬川はスマホへ手を伸ばしかけ、パソコンの画面を見た。変更した値段が、まだ保存されていなかった。
入力欄の1万7000円という数字をもう一度見てから、保存を押した。購入者への返信を済ませ、詰めかけの箱を引き寄せる。早く終わらせなければ発送が遅れる。分かっているのに、配信で少し長い間が空くと、何かあったのかと思って顔を上げてしまう。同じ説明が始まれば作業へ戻れたが、聞いたことのない言葉が交じるたびに、また手が止まった。
箱の蓋を閉じたところで、ふと中身に自信がなくなった。マスクはちゃんと入れたか? 消毒液の本数は合っているか? 瀬川は蓋を開け直し、緩衝材をどけた。その間にも、耳はスマホから流れる声を追っていた。
スマホでは、駅の周辺にいる人へ近づかないよう呼びかけていた。瀬川は顔を向けたが、映っていたのは先ほども見た駅前の映像だった。
できるなら追加で仕入れておいたほうがいいかもしれない。多少高くなろうが、その3倍の値段でも売れるだろう。しかしどこから買えるのかは皆目見当もつかない。ほかの連中も、同じことを考えているのだろう。
パソコンに新しいメッセージが届いた。
『2セット買います。今日発送してもらえますか?』
瀬川は時計を見て、今日の発送には間に合わないと打ちかけた。手を止め、入口へ寄せておいた荷物を見る。もう少し急げば、一緒に出せないこともなかった。
返信を書き直してから、新しい段ボールを引き寄せた。
*
荷物を発送して帰ってくると、瀬川はまた配信を開いた。
留守にしている間にも、報道は続いていたらしい。駅前には規制線が張られ、カメラは午前中より遠くから出入口を映していた。警察官による発砲があったことは確認されたようだったが、その経緯についてはまだ説明がなかった。
瀬川はコンビニで買ってきた弁当を机に置き、箸を割った。アナウンサーが現場にいた人の証言を読み上げていたが、途中で商品の問い合わせが入り、後半は聞き逃した。
午前中より分かったことは増えていた。発砲があったことも、複数の負傷者が搬送されたことも、駅の一部が止まっていることも、もう未確認の噂だけではない。
それなのに、瀬川が一番知りたいことだけは分からなかった。
結局あれはゾンビなのか。国内でPMRSが確認されたのかどうか。それを知りたかった。しかし、配信は負傷者の搬送や鉄道の運行状況へ話を移し、同じ駅前の映像をまた流していた。
瀬川は口の中のものを飲み込み、商品の在庫数を修正した。
売れた分を取り分けると、部屋の隅に積んでいた在庫は、目に見えて減っていた。自分で使う分まで売ってしまってはいないだろうか。
瀬川は消毒液を1本とマスクを1箱抜き取り、机の下へ置いた。それから椅子に戻り、仕入れ先を探し始めた。配信の音は流れ続けていたが、新しい話なのか、さっきも聞いた説明なのか、時々分からなくなった。
すっかり日が沈んだ夜になってから、新村から電話があった。
「もしもし」
『おう。今、話せるか?』
「大丈夫。何?」
『仕事の話なんだけど。明日、空いてるか? 急な用事だ。金は出す』
瀬川は椅子に座り直し、机の端からメモ帳を引き寄せた。
『空いてる。どこ行くんだ?』




