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上陸

2028年5月2日 広島湾


ノエル・メンドーサがコンテナ船の居住区へ戻ったのは、船尾の係船準備を一通り終えた直後だった。


右手には透明なビニール袋を提げている。中には解熱剤のシートと体温計、経口補水液が2本入っていた。二等航海士から、病人に届けておくよう渡されたものだ。


廊下の奥にある船室の扉は開いていた。


「持ってきたぞ」


声をかけながら中を覗くと、チャン・クオック・フイがベッド脇の椅子に座り、器を片手にベッドへ寝込むミンへ粥を食べさせていた。


ミンは機関部で働くベトナム人のモーターマンで、ベトナムのハイフォン港から乗船してきた時から体調不良を訴えていた。数日前まではそれでも食堂へ顔を出していたものの、2日前に39度を超える熱を出し、それからほとんど船室を出ていない。頬は赤く火照り、髪は汗で額に張りついていた。ベッドのシーツも、背中から腰にかけて濃く色が変わるほど汗を吸っている。


フイは振り返ると、ノエルの持っている袋を見た。


「そこ置いといてくれ。薬は飯を入れてから飲ませる」


「二航士が、次に測った体温も書いとけってさ」


「分かった。こいつがまともに起きてくれればな」


ミンは2人の話を聞いているのかいないのか、半分閉じた目で天井を見ていた。


ノエルは机の端へ袋を置き、壁に背中を預けた。すぐ船尾へ戻るつもりだったが、どうせまだ係船配置の指示までは時間がある。窓の外では、灰色がかった海の向こうに広島湾の島々が重なって見えていた。


「ミン、港までもう近いぞ」


返事はない。フイがスプーンで粥をすくいながら顔をしかめる。


「今朝からずっとこんな感じだ。呼べば目は開けるけど、ほとんど喋らない。昨日はまだ自力でトイレに行けてたんだけどな」


「病院に連れていくんだろ?」


「代理店が手配するって。船長はそう言ってた」


そこで、廊下から足音が近づいてきた。


「フイ、いるか? ミンの体調はどうだい」


バオが扉から顔を覗かせた。ミンと同じベトナム人で、普段は食堂やギャレー周りの仕事をしている。腕には畳んだタオルを何枚か抱えていた。


フイが腕時計を見る。


「見てのとおりだ。で、もう交代の時間か? まだ15分くらいあるぞ」


「お前、船尾担当だろ。さっきボースンが探してたぞ。ここは俺が見るから早く行け」


「食わせてから代わる」


「分かった。薬は?」


ノエルが机を指した。


「そこ。解熱剤と水。二航士から、次に熱を測ったら時間と一緒に書いておけって」


「はいよ」


バオはタオルを机へ置き、ベッドの向こう側へ回った。


「ミン、聞こえるか。俺だぞ」


バオが頬を手のひらで軽く叩くと、ミンの瞼がわずかに動いた。


「日本着いたからな。もう少しの辛抱だ」


フイがミンの身体を支えて上体を起こし、スプーンを口元へ持っていく。ミンはゆっくり口を開いた。粥を飲み込み、もう一口入れられる。3口目を差し出したところで、ミンの胸が急に大きく膨らんだ。


フイが何か言うより早く、ミンは粥から顔を背けた。その向きがちょうどフイの側だった。


激しいくしゃみと咳がほとんど同時に出た。


口に残っていた粥と唾液が、そのままフイの顔へ飛んだ。


「うげっ……!」


フイは椅子を引き、反射的に顔を背けた。頬から鼻筋にかけて粥がつき、目元にも細かな飛沫が散っている。


「ちくしょう、マジか」


バオが吹き出しそうになるのを堪えながら、机のタオルを1枚渡した。


「だから代わるって言っただろ」


「笑うなよ。お前も10分後には同じ目に遭ってるかもしれないぞ」


ノエルは笑いながら扉を開けた。


「顔洗ってこいよ。でこに米がついてるぞ」


「あいよ。交代だ」


フイはタオルで顔を押さえ、そのまま船室を出た。ノエルも一緒に廊下へ出ると、後ろでバオがミンに何かベトナム語で話しかける声が聞こえた。


すぐ近くの洗面所へ入ったフイは蛇口をいっぱいまで開き、両手ですくった水を何度も顔へ浴びせた。


「最悪だ、本当に」


鏡を見ながら目尻をこすっている。


ノエルは入口の壁へ寄りかかり、腕時計を確認した。


「あと20分くらいで配置だぞ」


「すぐ行く」


「バオに任せて平気なのか?」


「俺より面倒見いいよ。ミンとは昔からの顔なじみなんだろ」


フイはもう一度顔を洗い、水を止めた。鏡の前で濡れた前髪をかき上げると、ようやく少し機嫌が戻ったらしい。


「なあノエル、今回は日本にどのくらい滞在できるかな」


「さあ。荷役次第だろ」


「俺、ラーメン食いたいんだよな」


「顔に飯吹きかけられた直後によくもまあ食い物の話ができる」


2人はそのまま外甲板へ戻った。


5月の海風が、洗ったばかりの顔にまともに当たったらしく、フイは一瞬だけ肩をすくめた。


船はすでに広島湾の奥へ入っていた。両側には陸地が近づき、海の向こうに港湾施設のクレーンが見えている。そのさらに背後には市街地が薄く広がり、山並みが夕方の霞の中に重なっていた。


船尾甲板では、数人の甲板員が係船索の周囲を片づけていた。


ノエルはABとしてこの船に乗って3年目になる。係船作業では二等航海士の下で船尾側につき、フイもOSとして同じ班に入ることが多かった。船首では一等航海士とボースンが別の班をまとめ、船橋には船長と三等航海士、それにすでに乗り込んでいる水先人がいる。


とはいえ、まだ接岸まで多少時間があった。


二等航海士が準備状況を一度確認し、船橋から呼ぶまで待機するよう言い残して離れると、ノエルは作業用ロッカーの上に置かれていた古いトランプを取った。


「昨日の続き、やろうぜ」


近くにいた2人がすぐ寄ってきた。フイは手袋を外しながら腰を下ろした。


「俺が勝ってたところからな」


「寝ぼけてるのか。お前は15ドル負けてる」


「現金賭けてないだろ」


「お前がまだこの甲板にいるのは俺の慈悲だ」


ノエルはカードを切り、5枚ずつ配った。


待ち時間の暇つぶしにやる程度のファイブカード・ドローで、誰かが本気で勝敗を記録しているわけではない。カードを配っている横では別の船員が索の位置を直しており、無線から指示が入ればすぐ終わる。


ノエルは手札を見て2枚を捨てた。


「今夜、上陸できたらどうする?」


向かいに座ったインドネシア人の甲板員であるアディが聞いた。


「飯。ラーメン」


フイが即答した。


「さっきからそればっかりだな」


「船の飯なんて、犬でも食わずに小便ひっかけてくようなもんばっかりだ。そろそろ人の食い物が恋しい」


「バオに聞かせるなよ。料理担当は敵に回さないほうがいい」


「バオの腕が悪いんじゃない。積んでる食材が悪いんだよ。あいつだって陸なら、もう少しまともなもん作れるだろ」


ノエルは交換用のカードを配りながら笑った。


「俺はコンビニでいい。酒と、何か甘いもの買えれば」


「お前、この前も同じこと言ってなかったか?」


「神戸で買ったやつがうまかったんだよ。名前は忘れたけどパッケージは覚えてる」


フイがカードを1枚引き寄せたところで、不意に顔を横へ向けた。


「……えっくし」


向かいの船員が眉を上げる。


「おいおいおい」


「何だよ」


「ミンのやつ、うつったんじゃないか?」


アディが白い歯を見せながらフイをからかう。


フイは鼻をすすりながら露骨に嫌な顔をした。


「馬鹿言え。さっき顔洗って、そのまま外に出てきたんだ。冷えただけだろ」


「今晩熱出しても俺は看病しないぞ」


「こっちから願い下げだ。お前に飯食わせてもらうくらいなら熱出したまま寝る」


「その口が回るなら大丈夫だな。ほら、さっさと引けよ」


ノエルは最後のカードを配った。


積み上げられたコンテナの隙間から見える岸は、もうかなり近かった。海の上から眺めていたクレーンは巨大な構造物として形を現し、その足元に並ぶコンテナや作業車両まで判別できる。


ほどなく無線が入り、二等航海士が船尾配置につくよう指示した。カードはまとめて箱の中へ放り込まれ、ノエルたちは手袋をつけて持ち場へ散った。


船はゆっくりと岸壁へ寄っていった。岸からヒービングラインが受け取られ、そこから係船索が渡る。ウインチが回り、船体が少しずつ岸壁へ引き寄せられる間、さっきまでの雑談は途切れ、無線の声と機械音だけが船尾甲板を満たした。


午後6時を少し過ぎたころ、船は広島港出島地区の岸壁に落ち着いた。


まだ日は残っていた。荷役の準備をする作業車両が岸壁を行き来し、ガントリークレーンの下では作業員が動いている。手続きが終わるまでは当然船を下りられず、ミンの体調についても、朝から船長と代理店の間で交わされていた連絡に追加して、容体が悪化していることが伝えられていた。


ノエルは手袋を外し、使った道具を片づけていた。


隣でフイが無線機を取り出した。


「そういえばバオから何も来ないな」


「何かあったら呼ぶって言ってたのか?」


「熱を測ったら教えろって言ってある」


フイがバオを無線で呼び出した。


返事はなかった。


少し待ってから、もう一度呼ぶ。それでも応答しないのを見て、ノエルは道具をロッカーへ押し込みながら言った。


「どっかに忘れてるんじゃないか」


「バオが? ありえない」


「内線で呼び出してみろ」


「病人にあのうるさい着信音は酷だ。1回見てくる」


「俺も着替えに戻る。一緒に行こう」


2人は船尾甲板を離れた。


外から居住区へ入ると、岸壁の音が防火扉の向こうへ遠ざかった。主機の負荷が落ちた船内は航海中より静かで、そのぶん空調の音や床を伝わる小さな振動がはっきり聞こえる。


階段を上がり、ミンの船室がある廊下へ曲がったところで、フイの足が止まった。床に食事用のトレーが落ち、横倒しになった器から粥と水が廊下へ広がっていた。


「何だ、これ」


フイが先に近づいた。


船室の扉は半分ほど開いている。


「バオ?」


返事はなかった。


フイが扉へ手をかけて押すと、蝶番が細く軋んだ。その隙間が広がるにつれ、部屋の向こう側に誰かの脚が見えてくる。


「おい、バオ」


フイが中へ踏み込んだ直後、動きを止めた。


ノエルも肩越しに室内を見る。


バオは床に仰向けに倒れていた。その胸の上に、ミンが背を向けて跨がっている。


最初は2人が揉み合っているように見えた。ミンはバオの首元へ顔を伏せ、肩を小刻みに動かしていた。バオの左手が床に投げ出され、もう片方の手だけがミンの服を弱く掴んでいる。


「ミン。何をしてる」


フイが呼んでも、反応はなかった。


「何してるんだ。離れろ」


ミンが顔を上げ、振り返った。


口元から顎、首筋にかけて、まだ乾いていない血で濡れていた。青ざめた顔には高熱の名残の汗が残っているのに、さっきまで赤く火照っていた頬からは生気だけが抜け落ちたように見えた。見開かれた目は焦点が合わず、顔を動かしても視線だけが少し遅れてついてくる。


バオの首には大きく裂けた傷があり、床へ流れた血がシャツの背中まで回り込んでいた。身体はまだ細かく痙攣している。


ノエルが状況を理解するより先に、フイが一歩下がった。


「……ぐっ、うっ」


何かを言おうとしているらしいが、喉の奥で音が詰まり、言葉にならない。ミンは唸るような音を漏らしながらゆっくり立ち上がったが、次の瞬間には、高熱で寝込んでいた人間とは思えない勢いでフイへ腕を伸ばした。


ノエルは反射的にフイの作業着を掴み、後ろへ引いた。


「逃げろ!」


2人が廊下へ飛び出すと、ミンも扉の枠へ肩をぶつけながら追ってきた。


フイは走りながら無線機を掴んだ。


「船橋、船橋! 居住区で――」


そこで言葉が止まった。何が起きているのか、フイ自身にも説明のしようがなかった。


ノエルが振り返ると、ミンは足をもつれさせ、何度も肩を壁へぶつけながら、それでもこちらから目を離さず追ってくる。足取りは不安定なのに、距離はほとんど開かなかった。


「人が襲われた!ミンがバオを襲った!警察を呼んでくれ!」


フイがようやく叫ぶと、船橋からすぐに場所を尋ねる返答があった。


2人が階段を下りたところで、下から誰かが上がってきた。さっき船尾で一緒にポーカーをしていたアディだった。


「どうした?」


「戻れ!」


ノエルが叫んだ直後、上からミンが降りてきた。


アディは状況を理解できないまま階段の途中で立ち止まった。ミンは階段を転がるように落ちて、アディを下敷きに2人は踊り場へ倒れ込んだ。


ノエルとフイが慌てて戻り、ミンの肩と作業着を掴んだ。引き剥がそうと力を入れたところで、下敷きになった甲板員が突然絶叫した。


「ああっ、痛い! 痛い、離せ!」


ミンが左腕へ噛みついていた。アディが右手で頭を殴っても、フイが肩を引いても顎が離れず、引き剥がした時には作業着の袖が裂け、その下の肉まで大きく抉れていた。流れ出した血が瞬く間に手首まで伝い、アディは傷口を押さえながら踊り場の壁へ背中をぶつけた。


叫び声を聞きつけ、上下の階から船員が集まってきた。


「何があった!」


「ミンだ!こいつおかしい!」


「離せ、まず離せ!」


狭い踊り場で声が重なり、誰が誰へ指示しているのか分からなくなった。ミンは腕を掴んだ船員へ身体を捻って食いつこうとし、避けられると今度はノエルへ手を伸ばした。ノエルたちは階段を下がり、ミンが追ってくればまた距離を取るしかなかった。


そこへボースンが消火器を抱えて現れた。


「どけ!」


船員たちが左右へ退いたところで、ボースンは消火器の底をミンの肩へ叩きつけた。ミンは階段の手すりへぶつかって倒れたものの、身体を起こそうとする。もう一度、今度は側頭部に近いところへ当たると、鼻から血を流しながら床へ崩れた。


「もういい、やめろ!」


二等航海士が遅れて駆け込み、負傷したアディを見ると表情を変えた。


「そいつを座らせて、圧迫しろ、タオルを持ってこい。フイ、船橋に状況を上げろ」


言われたフイが無線へ手を伸ばした時、床に倒れていたミンの腕が動いた。


最初は痙攣かと思った。


ところがミンは床へ両手をつき、自分の血で滑りながら膝を立てた。ボースンが呆気に取られている間に立ち上がり、最も近くにいた船員へ向かって突っ込んだ。


「下がれ!」


一斉に人が廊下へ逃げた。


ミンはその後を追った。狭い通路では追い越すことも横へ避けることも難しく、前の人間が角を曲がれば後ろも同じ方向へ走るしかない。ノエルは途中で一度振り返ったが、ミンは壁へ腕をぶつけても、開いた扉へ肩を取られても、ほとんど速度を落としていなかった。


廊下の先に防火扉があった。


ボースンが最後まで残り、ミンを引きつけてから扉の向こうへ飛び込んだ。ノエルたちが重い扉を引き寄せ、ミンの腕が隙間へ入りかけたところを数人がかりで押し返す。扉が閉まると、直後に反対側から大きな衝撃が伝わった。


もう一度。さらにもう一度。


扉そのものが壊れるほどではないが、金属板が殴られるたびに鈍い音が廊下へ響いた。


「何なんだよ、あいつ……」


誰かが呟いたが、答えられる者はいなかった。


やがて扉の向こう側から誰かの悲鳴が響き、扉を叩く音は消えた。


二等航海士は無線で船橋へ報告を続けていた。ミンが乗員を襲い、1人が腕に重傷を負ったこと、バオも船室内で重傷を負っていること、ミンを居住区の一角へ閉じ込めていることを順番に伝える。船橋からは、船長が代理店を通じて救急と警察へ連絡しているから、それ以上ミンへ近づかず、負傷者の止血を優先するよう返答があった。


噛まれた甲板員は食堂へ運ばれた。


ノエルも肩を貸した。数分前までカードを挟んで向かいに座っていた男は、傷口へ押し当てられたタオルを右手で握り、歯を食いしばっていた。血は止まりきらず、タオルの白い部分が見る間に狭くなっていく。


「救急車、来るんだよな」


アディが二等航海士に尋ねた。


「もう呼んでる。座ってろ。できるだけ腕を動かすな」


「ミンはどうなった?」


「今は考えるな」


アディは何か言い返そうとしたが、その前に身体を震わせた。


「寒い」


ノエルは聞き間違えたと思った。食堂は空調が効いているとはいえ、寒いというほどではない。


「血が出たからだろ。横になったほうがいい。もう喋るな」


アディは返事をせず、両腕を胸元へ寄せるようにして肩を震わせていた。それから10分もしないうちに、様子が明らかに変わった。


額に汗が浮かび、呼吸が速くなっていた。水を渡してもほとんど飲まず、唇を濡らしただけで顔を背ける。ノエルが腕へ触れると、さっきまで海風に当たっていた人間とは思えないほど皮膚が熱かった。


「おい、熱あるぞ」


二等航海士が体温計を持ってこさせた。アディは反応する気力もないらしく、壁へ頭を預けたまま測定を待った。


表示を見た二航士が眉を寄せる。


「39.8」


「そんな馬鹿な。さっきまで普通だったぞ」


ノエルが言うと、アディが薄く目を開けた。


「俺...死ぬのか?」


誰もすぐには答えなかった。


「馬鹿なこと言うな。医者に診てもらえばすぐ治る」


二航士はそう言ったが、声に張りはない。


岸壁では、ようやく慌ただしい動きが見え始めていた。作業員たちが船の近くから離れ、荷役の準備も止まっている。誰かが通報したのか少し離れたところへ救急車が入り、その後からパトカーが1台やってきた。すぐに誰かが乗り込んでくるわけではなく、岸壁では代理店の人間らしい男、救急隊員、警察官が集まり、船を見上げながら何度も話し合っていた。


唯一の日本人船員である近藤三等航海士が船橋と外甲板を往復し、彼らと何かを話し合っている。外国から来た船に高熱の患者がいることはすでに連絡されていたため、検疫側にも話が回っているらしいが、ノエルには誰が何を決めているのかまでは分からなかった。


船の上では、その間にも状況が悪くなっていた。


アディは長椅子へ横にされた。全身の震えが一度激しくなったあと、逆にほとんど動かなくなった。


「おい、聞こえるか?」


ノエルが肩を叩いても目を開けない。


二等航海士が名前を呼び、頬へ触れた。呼吸を確認しようと顔を近づけたところで、表情が変わった。


「脈、分かるか?」


別の船員が手首を取った。


「待って……分からない」


「嘘だろ」


胸元を見ても、さっきまで速かった呼吸の動きが見えなかった。


二航士はすぐ船橋へ無線を入れ、救急隊から指示を受けながら蘇生を始めた。胸を押すたびに身体がわずかに揺れたが、甲板員は反応しない。ノエルは邪魔にならないよう壁際へ退き、つい20分ほど前まで笑いながらカードを持っていたアディの靴だけを見ていた。


岸壁から警察官が何かを叫び、近藤が外へ返事をしている声が遠く聞こえた。


やがて二等航海士が胸骨圧迫を止めた。


「交代する。もう1回――」


その言葉の途中で、長椅子に横たわっていたアディの右手が動いて、二航士の袖を掴んだ。


「は?」


次いで目が開いた。


二航士が名前を呼ぶ間もなく、アディは上体を起こし、自分のすぐそばにいた船員へ身体ごと掴みかかった。


食堂に悲鳴が上がった。


ノエルは椅子を蹴るようにして後ろへ下がった。倒れた椅子へ別の船員が躓き、テーブルの端に身体をぶつける。二等航海士が掴んでくるアディを引こうとし、別の2人が横からアディを押さえ込もうとしたが、数分前に呼吸が止まったはずのアディが、首を振りながら目の前の人間へ噛みつこうとしていた。


「離れろ!離れろ!」


誰の声か分からなかった。


ノエルは食堂を出ようとした。


廊下へ出たところで、前を走っていた船員が急に立ち止まり、ノエルは顔をぶつけてしまう。


「バオ?」


角の向こうから、人影がゆっくり現れた。


最初に見えたのは肩だった。続いて血の染みたシャツと、傾いた頭が壁の陰から出てくる。


「おい、バオ。歩けるのか?」


前にいた船員が一歩近づいた。


「大丈夫か。首――」


バオが顔を上げた。


首元から胸まで乾きかけた血で黒く汚れ、その下には裂けた傷が残っている。ノエルには、それでどうして立っていられるのか分からなかった。


「待て。近づくな」


ノエルが言った時には遅かった。


バオが駆け出した。


声をかけていた船員が反射的に腕を上げ、そこへバオがぶつかった。背後では食堂から別の悲鳴が聞こえ、前からはバオが押さえようとする船員を振り回している。どちらへ逃げるべきか迷った一瞬で、廊下にいた全員の動きがばらばらになった。


「外へ出ろ! 甲板へ出ろ!」


誰かが叫んだ。


ノエルはフイの背中を見つけ、その後を追った。


船内放送から船長の声が流れたが、途中から周囲の叫び声と重なって聞き取れなくなった。少なくとも、居住区を離れることと、勝手に下船しないことだけは何度か繰り返していた。


防火扉を抜けて外へ出ると、岸壁の様子は接岸直後とは完全に変わっていた。


ガントリークレーンは止まり、船の近くにいた作業員は遠くへ退いている。救急車の脇には新たにパトカーが何台か増えていたが、警察官も救急隊員も船へ近づいてこない。岸壁側から日本語で何かを叫ぶ声が聞こえ、少し遅れて船内放送から近藤の英語が流れた。


『岸壁へ降りるな。繰り返す、勝手に下船するな。現在、警察と救急が対応を協議している。可能なら部屋に戻り鍵をかけ、身の回りの安全を確保しろ。繰り返すーーー』


背後の防火扉が激しく開き、誰かが叫んだ。


ノエルの前にいた数人が一斉に走り出し、フイもつられて船尾側へ走った。ノエルはそのすぐ後ろにつく。外甲板まで出れば少なくとも狭い廊下より逃げやすいと考えたが、同じことを考えた人間が多く、階段の前では互いに押し合うようになった。


船尾甲板へ降りたところで、フイが後ろを振り返った。


「ノエル、こっちだ!」


走りながら向きを変えた右足が、濡れた鋼板の上で横へ滑った。


フイは咄嗟に手すりへ手を伸ばしたが、身体の勢いを殺しきれなかった。腰が手すりへ強く当たり、そのまま上半身が外側へ持ち上がる。


「フイ!」


ノエルが手を伸ばした時には、指先がフイの袖を掠めただけだった。


身体が手すりの向こうへ消え、わずかに遅れて船腹の下から水音が響いた。


ノエルは船縁へ駆け寄った。


薄暗くなった海面に白い泡が広がり、その中心から一度だけ腕らしきものが見えたような気がした。


「フイ! おい、フイ!」


浮き輪を探そうと振り返ったところで、上の階段から複数の足音が響いた。誰が降りてくるのか確認するより先に悲鳴が聞こえ、ノエルは船縁から離れざるを得なかった。


それからしばらく、ノエルは船の外甲板を行き来しながら、追ってくる者から逃げ続けた。


居住区へ戻ろうとしても、内側から聞こえてくる叫び声や物の倒れる音に阻まれた。船尾側で2人の船員と合流したものの、上の通路にバオが現れると1人は別の階段へ走り、もう1人は物陰へ逃げ込もうとしたところをバオに掴まれた。ノエルも一瞬足を止めたが、助けに戻る勇気を奮い起こせなかった。


岸壁では人と車が増えていった。


最初に来た救急車やパトカーのほかにも車両が入り、港の一角が封鎖されているらしく、普段なら行き来しているはずのトラックも見えなくなった。それでも船へ乗り込んでくる者はいない。船側から伝わる情報が錯綜しているのか、岸壁の人間も何度か前へ出ては戻り、船橋とやり取りを続けていた。


日が落ちきるころには、広島港は昼間より明るく見えた。


岸壁の照明、回転する赤色灯、遠くの市街地。そのすべてが正常な世界の明かりに見えるのに、船と岸壁の間だけが切り離されている。


ノエルは上部甲板へ向かった。


高い場所なら岸から自分を見つけてもらえるかもしれないと思った。外階段を上がり、救命艇のあるデッキまで出ると、岸壁にいる人間の数がさっきより増えているのが見えた。警察官らしい制服も見えるが、その後ろにいる者たちが何者なのかまでは分からない。


「おい!」


ノエルは手すりから身を乗り出した。


「ここだ!助けてくれ!」


岸側で何人かがこちらを向いた。


拡声器から声が返ってきたが、日本語が不自由な彼には強風も相まって半分も聞き取れなかった。


ノエルがもう一度叫ぼうとした時、背後の外階段で靴底が金属を擦る音がした。


振り返る。


1人の船員が階段を上がってきていた。


数十分前、船尾でノエルの向かいに座り、フイのくしゃみをからかっていたアディだった。


腕には応急処置で巻かれた布が残っていた。その布もシャツも血で濡れている。


「おい」


ノエルは手すりから離れた。


アディは階段を上がり切った。


「アディ、止まれ。こっちに来るな」


返事はなかった。


顔の半分には乾いた血がこびりつき、口がわずかに開いている。ノエルが横へ動くと、それを追うように頭の向きが変わった。


逃げられる方向を見た。


救命艇の反対側を回れば、もう1本の階段へ出られる。


ノエルが走り出したのと、アディがこちらへ駆け出したのはほとんど同時だった。


甲板の端までは十数メートルしかない。救命艇の架台を回り込もうとしたところで肩を掴まれ、ノエルの身体が半回転した。


咄嗟に顔を殴る。拳が頬に当たり、アディの頭が横へ振れる。それでも掴んだ手は離れず、もう一度殴ろうとしたところへ身体ごと押し込まれた。


ノエルは胸へ腕を入れて押し返そうとした。


その瞬間、アディの口が左頬へ食いついた。


顔の奥まで熱いものを突き込まれたような痛みが走り、ノエルは叫びながら相手の頭を両手で押した。アディは離れず、顎をさらに強く噛み込んでくる。押し返せば押し返すほど頬の皮膚が引かれ、口の端から耳の下まで焼けるような痛みが広がった。


ノエルは何度も拳を振り下ろした。


アディの身体がわずかに揺れたが、噛みついた口だけは離れない。


2人はもつれたまま甲板の端へ下がった。


ノエルの腰が鋼製の手すりへぶつかる。


それ以上後ろには下がれなかった。


アディを押し返そうと最後に力を入れた瞬間、噛みついた頭が横へ動き、左頬の肉が引き裂かれた。ノエルの身体が痛みから逃げるように反対へ捻れ、その勢いで腰が手すりへ乗り上げる。


足が甲板から離れた。


岸壁の照明が視界の端を流れ、船の甲板と夜空が一度に大きく傾く。ノエルは手すりを掴もうと腕を伸ばしたが、指先が触れただけで、そのまま身体は完全に船外へ出た。


噛みついていたアディも一緒だった。


上下が逆になり、船の明かりが頭上へ流れていく。左頬から血を撒き散らし、アディの身体と絡み合ったまま、ノエルは港の照明を背にして頭から黒い海面へ叩きつけられた。


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