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新宿事件

2028年6月11日


新宿駅の東口を出ると、人の多さはいつもと変わらなかった。


改札から吐き出されてきた人が次々と広場へ流れ、待ち合わせらしい人たちがスマホを見ながら柱や壁際に立っている。駅前の大型ビジョンでは化粧品の広告が流れ、その下を紙袋を持った若い男女や家族連れが行き交っていた。昨日までテレビで見ていた海外の映像を思い出すようなものは、どこにもない。


安奈はスマホを確認した。


10時3分。


『ついた』


莉子から来ていた。


安奈も到着したと打っていると、少し離れたところで手を振る人影が見えた。


「安奈ー!」


声まで出す必要あるかと思いながら、安奈も手を上げた。


莉子は白っぽい薄手のトップスに短いジャケットを羽織り、いつも学校へ持ってきているものより小さなショルダーバッグを肩に掛けていた。髪も普段より少し時間をかけたらしく、毛先が内側にまとまっている。


「迷ってこないかと思ってた」


「馬鹿にしすぎー」


近づいてきた莉子は、安奈の顔を見るより先に全身へ目を動かした。


「おー! やっぱ似合ってんねぇ、その服」


「やっぱり? 気合い入れてきたんだよね!」


安奈は昨夜ベッドに並べた2枚のうち、莉子と美月が選んだ方を着てきていた。白に近いアイボリーのブラウスは襟元と袖に少しだけ透け感があり、下には黒のフレアスカートを合わせている。普段の休日より少しだけきれいめで、自分でも少し背伸びしている自覚はあった。


自分でもこちらの方がいいと思っていたが、実際に言われると少し自信がつく。


「莉子も今日はちゃんとしてるじゃん」


「今日も、でしょ?」


「学校と全然違う」


「それ褒めてる?」


2人でくすくす笑う。


そこで、今度は安奈のスマホが震えた。


『見つけた』


顔を上げると、美月が人の間をこちらへ歩いてきていた。


背が高い分、少し離れていても見つけやすい。黒髪はいつも通り高い位置で結んでいたが、学校で見るジャージ姿とは違い、細身のパンツに薄い色のシャツを合わせている。普段の美月らしいシンプルな格好だったが、シャツの袖を少しだけまくり、耳元には小さなアクセサリーもつけていた。


莉子が目を丸くした。


「え、美月可愛い」


「何その言い方」


「もっと部活帰りみたいな格好で来ると思ってた」


「休日までジャージ着ないから。何だと思ってるの私の事」


美月も莉子を上から下まで一度見てから、


「莉子は気合い入ってるね」


と言った。


「あーやっぱわかっちゃう? イケメン捕まえようかなーって」


「おぉトラップ」


「安奈それどういう意味よ」


安奈が笑うと、今度は2人の視線がこちらへ向いた。


「安奈は昨日のやつね」


美月が言った。


「うん」


「いいじゃん。似合ってる」


「でしょ?」


「その靴もってたっけ?」


莉子が足元を見る。


安奈が履いてきたのは普段の白いスニーカーではなく、少し厚底になった黒のストラップシューズだった。ブラウスとスカートまで合わせた時、スニーカーでは少し子供っぽく見える気がして、朝になってこちらへ替えたのだ。まだ完全に履き慣れているとは言えないが、鏡で見た時のまとまりはこちらの方がよかった。


「新しく買ったんだ。お店で見たときにビビッときて」


「いいセンス。よく似合ってるよ」


改札前でしばらく立ち話をし、開店時間になるのを待ってからルミネエストへ入った。


館内はまだ歩けないほど混んではいなかったが、開店を待っていた客が一斉に入り始めたため、エスカレーターには絶えず人が乗っている。安奈たちは2階へ上がり、特に店を決めるでもなく並んだ服を見て回った。


最初に足を止めたのは美月だった。


「これかわいくない?」


手に取ったのは、普段の美月からすると少し意外な、淡い色のトップスだった。


莉子が横から覗く。口笛を吹く。


「いい趣味だね。試着してみなよ」


「いいよ。見るだけ」


「着るだけタダじゃん」


「買う気ないもん。店員さんに悪いでしょ」


「おー真面目」


そう言いながらも、美月はしばらく鏡の前で服を身体に当てていた。


別の店では莉子がスカートを手に取り、安奈に合わせようとしてきた。


「これ絶対似合う」


「ほんと?」


「うん」


「ちょっと攻めすぎてない?」


「安奈はかわいいんだからこんくらいした方がいいって」


莉子はぴょんぴょんと楽しげにハンガーを手に取る。


「それよりこのスカート高くない? 1万超えてるよ」


覗き込んだ美月が言う。それを聞いた安奈は莉子が持っているスカートを取ると静かに元の場所へ戻した。


「解散。かわいいけど今じゃない」


店を出る頃には11時を少し回っていた。


「ご飯どうする?」


安奈が聞くと、莉子がすぐにスマホを出した。


「昨日送ったとこ行こうよ。今ならまだ混んでないんじゃない?」


「もう食べる?」


美月が言う。


「朝あんま食べてない」


「私は食べた」


「私も」


「じゃあ2人は軽いやつにすればいいじゃん」


「自分だけ食う気満々だ」


それでも昼時になってから並ぶよりはいいという話になり、3人は上のレストランフロアへ向かった。


まだ11時を少し過ぎたばかりだったが、既に何組か店の前で順番を待っていた。昨日莉子が送ってきた動画と同じように、店頭の写真にはパスタの上へ大量のチーズが削りかけられている。


「これ?」


安奈が聞く。


「そう」


「絶対重い」


美月がメニューを見る。


「こっち普通のもあるよ」


「ここまで来て普通の食べるの?」


「別にチーズ食べに来たわけじゃないし」


「私はこれ食べる」


莉子は迷わず写真と同じものを指した。


席に案内され、それぞれ注文を決める。


安奈は少し迷った末、莉子ほどではないがチーズの多いパスタを選んだ。美月だけはトマト系のものにしていた。


料理が来ると、莉子はすぐにスマホを構えた。


「待って。まだ食べないで」


「私のも撮るの?」


「並べたい」


「早くして。伸びる」


「パスタは伸びない」


「麺なんだから伸びるでしょ」


「はい、撮れた」


安奈も自分の皿を1枚撮ってからフォークを取った。


目の前で削られたチーズが思っていた以上に多い。ひと口食べると味はおいしかったが、数口でかなり重く感じた。


「これやばいな」


安奈が言う。


莉子は満足そうだった。


「おいしいでしょ?」


「おいしいけど、何カロリーあるんだろ」


「気にしたら負けだよ」


美月が笑う。


莉子がスマホを置いた。


「今日は歩くからいいの。プラマイマイくらいだな」


「どんくらい歩けばこれ消えるの」


「知らなーい」


「美月は部活してるからいいよね」


そんな話をしながら食べていると、窓の外からサイレンが聞こえた。


1台ではないらしい。


安奈は一度そちらへ顔を向けたが、新宿なら救急車やパトカーの音を聞くこと自体は珍しくないだろう。莉子も美月も特に気にした様子はなく、そのまま食事を続けていた。


少しして、近くの席の男がスマホを見ながら連れの女性に何かを話し始めた。


「なぁ、新宿駅でなんかあったって」


声だけが耳に入った。


安奈はフォークを動かしながら、もう一度窓の方へ目を向けた。サイレンはまだ聞こえている。


今度は莉子も気づいたらしく、スマホを手に取った。


「電車止まってる?」


「え?」


「通知来た」


画面を見せてくる。


一部の路線で運転を見合わせているという内容だった。理由には、安全確認とだけ書かれていた。


美月も自分のスマホを見る。


「げ、帰れんの?」


「まだ帰らないでしょ。これから行くとこあるんだから」


「そうだけど」


「待ってりゃ動くよ」


莉子がSNSを開いた。


「うわ。新宿駅ホームで人暴れてるって。ゾンビかな」


「はぁ?」


安奈もスマホを手に取った。


検索すると、新宿駅という言葉が既にかなり増えている。暴れている人間がいる、救急車が何台も来ている、書いてあることはばらばらだった。


その中に、


《PMRSじゃね?》


という投稿があった。


その下にはすぐ、


《何でもゾンビにすんな》


という返信がついている。


安奈は画面を閉じた。本気でゾンビだと考えるやつがいるのか。


「こんなわかりやすいデマに騙されるなんて、莉子もまだまだおこちゃまでちゅな?」


「うるっさい」


にやにやしながら煽る。いつもの好きいじりに対するささやかなお返し。


美月が窓の方を見る。


「でも救急車やけに多くない?」


さっきより増えている気はした。


店の中でもスマホを見る人が目立ち始めていた。入口では店員同士が何かを話している。1人が奥へ入った。


それでも食事を途中でやめる人はいなかった。


安奈たちも同じだった。


「とりあえず食べよ」


莉子が言った。


安奈もそうした。


食べ終わる頃には、運転見合わせになっている路線が増えていた。


「一回下降りて駅見に行く?」


美月が言った。


「行ってどうすんの」


「一応確認というか。駄目なら別のとこから帰ればいいじゃん」


「地下鉄とか?」


「最悪ね」


買い物を続けてもよかったが、帰れなくなるのは困る。昨日、父親から人ごみは避けて、何か変な騒ぎがあったらすぐ帰ってこいと言われたことも少しだけ頭をよぎった。


JRが駄目なら、地下鉄か別の出口から離れればいい。どちらにしても、駅がどうなっているのか分からなければ帰り方も決められなかった。


会計を済ませ、3人はレストランフロアを出た。


7階では、まだ普段の日曜日とほとんど変わらなかった。店の前にはこれから昼食を取るらしい人が並び、エスカレーターにも上へ来る客と下へ降りる客の両方がいる。少し前まで自分たちもそこに並んでいたことを思うと、駅で何か起きているという話の方が、どこか別の場所のことのように感じられた。


3人はエスカレーターを何度か乗り継いで下へ向かった。


5階でも、まだ大きな変化はなかった。通路の端でスマホを見ながら立ち止まっている人が少し多い程度で、店内では普通に客が服を見ている。


4階を抜け、2階へ近づいた頃から、明らかに人の流れが変わった。


上りのエスカレーターに人が途切れない。


大きな紙袋を胸に抱えたまま早足で歩く女、子供の手を引き、何度も後ろを振り返る父親、スマホを耳へ押し当てながら「だから今、駅から離れてるって」と話している男が安奈たちの横を通り過ぎていく。


莉子がその人たちを目で追った。


「なんか変じゃない?」


「うん」


美月はエスカレーターの下を覗いた。


「みんな上がってきてるね」


駅がどうなっているのか確認しなければ帰り方も決められない。3人は少し迷ったものの、そのまま1階へ下りた。


そこでは人の動きがさらにばらばらになっていた。建物の外へ出ようとする人、上階へ戻ろうとする人、何が起きているのか確認しようと通路の途中に立ち止まる人が入り交じっている。店員が店先へ出て「通路を塞がないでください」と何度も声を掛けていたが、立ち止まった人が動くたびに別の人が止まり、流れはすぐ詰まった。


駅へ繋がる地下へ下りるエスカレーターの前まで来ると、下から聞こえてくる声はそれまでより明らかに大きくなった。


安奈たちが乗ろうとしている下り側にはまだ人がいたが、反対の上りエスカレーターは、地下から上がってきた人でほとんど隙間がなかった。キャリーケースを引いた男が前の人にぶつかり、子供を抱いた女性が手すりへ身体を寄せてその横を避ける。さらにその脇の階段からも人が上がってきていて、こちらは歩くというより、下から押し出されるような流れになっていた。


3人が下りのエスカレーターへ乗ったところで、館内放送が入った。


『ただいま、新宿駅構内の混雑に伴い、一部出入口付近で通行を制限しております。お客様は係員の案内に従って――』


途中から、下の方で誰かが叫ぶ声に重なって聞き取れなくなった。


「戻ってください! 駅方面には行かないでください!」


男の声だった。店員が客へ呼び掛けている声とは違い、かなり強い。


続いて、


「走らないで! 押さないでください!」


と別の声が響いた。


莉子がエスカレーターの下を覗こうと身を乗り出した。


「これ、ほんとに下行って大丈夫?」


「もう乗っちゃったし」


美月も下を見たまま答えた。


上りエスカレーターでは、下から次々に人が運ばれてくる。その人数が途中から明らかに増え、降り口で前の人が詰まったせいか、後ろから「止まるなって!」「前行って!」と怒鳴る声が聞こえてきた。階段では誰かが躓き、数人がまとめて前へよろめく。悲鳴が上がり、それを避けようとした男が、今度は空いている下りエスカレーターを逆向きに駆け上がってきた。


安奈たちの横を、その男が肩で息をしながら通り過ぎた。普段なら誰かに注意されそうな行動だったが、その男を止めようとする者はいなかった。


「なんかまずそう。降りたら別ルートで駅から離れたほうがいい」


美月が言った。


安奈も頷いた。


下へ近づくにつれて、エスカレーターの先にあるB1の様子が見えてきた。地下の売場の向こうには天井から案内板が下がり、《JR線・東改札》や地上出口を示す表示が並んでいる。ただ、安奈にはその先の通路がどこへ繋がっているのかまでは分からなかった。新宿へ遊びに来ることはあっても、駅の地下を案内なしで歩けるほど詳しいわけではない。


3人がエスカレーターを降りると、すぐ目の前を何人もの人が横切った。


右手奥、《JR線・東改札》と書かれた案内の方向からこちらへ来る人が特に多い。反対側には地上や別の出口へ向かう表示があり、東改札側から逃げてきた人たちの多くが、そちらや上階へ向かって流れていた。


「駅から離れなきゃ。東改札あっちだから……」


美月が右手の案内を確認した。


莉子が逃げていく人の方を見る。


「じゃあ反対。こっち行こう!」


3人もその流れに加わった。


しかし、安奈たちが降りてきた位置には上階から来た人も集まり、東改札側から逃げてくる人、出口を探して横切る人、状況を確認しようと立ち止まる人まで重なっていた。美月を先頭に、安奈、莉子の順でなるべく離れないよう歩いたが、何度も肩が他人とぶつかった。


少し進んだところで両側にあった売場が途切れ、目の前の空間が急に広がった。


東改札前に延びる、広い地下のコンコースだった。


安奈たちから見て右手奥に東改札があり、その周辺から大量の人がこちらへ流れてきている。流れはコンコースの横幅いっぱいに広がり、途中で地上出口や上階への階段、別の通路へ分かれていた。流れに入りきれず壁際へ寄っている人もいれば、何が起きているのか見ようとして逆に改札の方へ顔を向けている人もいる。


さっき上階ですれ違った人たちは、ここから逃げてきたのだとようやく分かった。


長い壁面のビジョンではまだ広告が流れていた。照明も普通に点いている。その下を、人だけが異常な動きで走っていた。


床には倒れたキャリーケースや紙袋、片方だけの靴が残されている。誰かが落としたペットボトルから水が流れ、踏まれた紙袋の中身が散らばっていた。その少し先には赤い跡があり、そこから細い筋がいくつも延び、人に踏まれて白っぽい床の上へ引き延ばされている。


「……血?」


近くにいても危うく聞き逃しそうな、震えた声で莉子が言った。


安奈は答えなかった。


コンコースでは制服姿の警察官が何人も動いていた。


安奈たちに近い側では、数人が逃げてくる人へ向かって両腕を大きく振っている。


「立ち止まらないでください! 駅から離れて!」


「そのまま先へ進んでください! 押さないで!」


警察官の横を、何十人もの人が途切れることなく通り過ぎていく。


そのさらに奥、東改札に近い側には別の警察官たちがいた。


こちらは避難誘導ではなく、全員が改札側を向いている。透明な盾を持った警察官が前に2人、その後ろには警棒を持った警察官がいて、さらに後方の1人は無線機へ何かを叫んでいた。


誘導している警察官と、何かを押し止めようとしている警察官。その間にも一般客が次々と走り抜けている。


安奈たちから制圧側の警察官まではまだ距離があり、逃げてくる人が何度も視界を横切るため、警察が何を相手にしているのかまではよく見えなかった。


「行こ。ここにいない方がいい」


美月が言った。


その通りだった。


3人は東改札から離れる流れに乗って地上へ出られる方向へ進もうとした。しかし広いコンコースを埋めるほどの人が同じ方向へ動いているせいで、思ったようには進めない。前方では地上へ向かう階段やエスカレーターへ人が集まり始め、横幅いっぱいに広がっていた流れが、出口へ近づくにつれて何本かの細い流れに絞られていた。


「ちょっと待って、無理」


莉子が安奈の腕を掴んだ。


前へ行こうとする人に後ろから押され、安奈たちは人の流れから逃れるようにコンコースの端へ寄った。


安奈のすぐ前を、泣きながら電話をしている女が通り過ぎる。


「分かんない! 今新宿! だから分かんないって!」


その後ろを、スーツ姿の男が走っていく。


「何があったんだよ」


壁際に立っていた別の男が、誰に聞くでもなく言った。


「人刺したって」


「違う、噛んでるって」


「ゾンビとか言ってるぞ」


「んなわけねえだろ」


会話は断片ばかりだった。


東改札側の警察官が動いた。


逃げてくる人の隙間が一瞬だけ開き、その向こうから男が1人走ってくるのが見えた。最初、安奈はその男もこちらへ逃げてくるのだと思ったが、すぐにおかしいと気づいた。


白いシャツの胸元から腹にかけて血で濡れている。それなのに痛がる様子もなく、周囲の人間とは逆向きに、前にいる警察官へ向かって全力で走っていた。


「止まれ!」


前にいた警察官が叫んだ。


男は速度を落とさない。右腕が肩から力の抜けたように垂れ、走るたびに身体の脇でぶらぶらと揺れているのに、それを庇う様子もなく警察官だけへ向かって距離を詰めていく。


「止まれ! 止まりなさい!」


もう一度警告が飛んだ。


男が止まらないと見ると、警棒を持った警察官が盾の横から一歩前へ出た。走り込んできた男の肩口へ警棒を振り下ろし、鈍い音とともに男の上半身が横へ大きく崩れた。


それでも倒れなかった。傾いた身体のまま無理やり足を踏み直し、警察官の胸元へ突っ込んだ。


「え……」


莉子が声を漏らした。


警察官が後ろへよろめき、横にいたもう1人がすぐ男の腕を掴んだ。2人で身体を押さえようとするが、男は腕を捻られてもまるで気にせず、口を開けたまま警察官の肩へ顔を寄せていく。


逃げてきた何人かが安奈の前を横切り、一瞬だけ視界が塞がれた。次に男の姿が見えた時には、警察官が顎を押し返そうとしていた。


その手がわずかに遅れ、男の口が制服の肩口へ食いついた。


「クソ、離せ! 公務執行妨害だぞ!」


警察官が声を荒げ、男を突き放そうとする。


横から透明な盾が割って入り、2人の間を強引に引き離した。


「下がれ!」


盾が男の胸へ押し付けられる。


警察官が体重を掛けると男は2歩ほど後ろへ下がったが、転ぶことも逃げることもなく、再び前へ出て自分から盾へ全身をぶつけた。


1度目は警察官が受け止めた。男はそのままもう一度身体をぶつけ、盾が大きく揺れる。構えていた警察官の足が半歩後ろへ下がり、噛まれた警察官は別の警官に肩を支えられて制圧線の後ろへ下げられていった。


その間にも男は盾へぶつかり続けていた。


横から別の警察官が入ろうとしたところで、今度は東改札の方から別の悲鳴が上がった。


安奈の周囲にいた人間が一斉にそちらを見る。


長い髪の女が走ってきていた。


逃げている人たちに混じっていたため最初は区別がつかなかったが、女だけは前の人間を避けようとしていない。肩からぶつかり、押し退けながらこちらへ進んでくる。


人の流れの切れ間から見えた口元から顎までが、赤黒く濡れていた。


「ちょ、あれ……」


美月が言った。


女の正面には、スマホを掲げて警察の方を撮影している金髪の男がいた。


だから気づくのが遅れた。


振り返り、慌てて逃げようとした男の足がもつれて、その場に尻餅をつく。女は止まらず、そのまま男へ覆いかぶさり、首元へ顔を埋めた。


男の叫び声がコンコースに響いた。両手で女の頭を押し返そうとしているが、女は離れない。白っぽい床へ赤い飛沫が散った。


「ゾンビだ! 早く逃げろ!!」


安奈たちの近くで誰かが叫んだ。


その言葉が、その場に辛うじて残っていた秩序を壊した。


「逃げろ!」


「やばい、来る!」


「押すな!」


「子供いるんです!」


声が一斉に重なった。


それまで珍しい出来事でも見るように警察の方を見ていた人間も、スマホを向けていた人間も、安奈たちと同じように壁際へ避けていた人間も、全員が東改札と反対方向へ動き始めた。


広いコンコースいっぱいに散っていた人の流れが、地上や上階へ通じる数ヶ所の階段とエスカレーターへ一斉に収束する。そこまでは走れていた人間も入口では前につかえて止まり、それでも後ろから来る人間は止まらないため、人の密度が急激に上がった。


安奈の身体も横から押された。


「莉子!」


「いる!」


莉子の手首を掴んだ。


美月が2人の前へ入り、


「離れないで! こっち!」


と声を張る。


3人も駅から離れる方向へ進んだが、自分で歩いているというより、周囲の人間に運ばれていた。肩と肩がぶつかり、後ろから背中を押され、足を止めればそのまま倒されそうになる。


その時、銃声が響いた。


安奈のすぐ近くで何人も悲鳴を上げ、頭を抱えた。人の流れが一瞬だけ乱れ、安奈も反射的に振り返った。


東改札側で、警察官が拳銃を構えている。


さっき男を襲った女の上半身が跳ねた。倒れない。再び発砲音が響き、女の身体がよろめいたが、それでも男から離れると、今度は警察官へ向かって走り始めた。


「嘘でしょ……」


莉子の声が聞こえた。


さらに銃声が鳴り、女の肩が跳ねて上半身がねじれた。それでも足は止まらない。


「頭部を狙え! 頭だ!」


制圧側の警察官から怒鳴り声が上がった。


その声には、何をすればいいのか分からない人間の迷いはなかった。


次の発砲音が響いた。


女の頭が弾かれ、前へ走っていた身体から急に力が抜けて床へ崩れ落ちる。


だが、さらに奥から別の人影が走ってきた。1人ではない。逃げてくる人に混じっているため、どれが感染者なのか遠目にはすぐ分からない。


安奈の前を何人もの人間が横切るたび、東改札側の様子は途切れ途切れにしか見えなくなる。次に視界が開いた時には警察官が拳銃を上げていたが、その射線を一般客が横切り、すぐに銃口が下がった。


「進んで! 止まらないで!」


安奈たちに近い側で避難誘導をしていた警察官が、逃げてくる人へ叫んでいる。


その奥から、


「後ろ下げろ!」


「負傷者、こっち!」


と別の声が重なった。


さっき肩を噛まれた警察官が2人がかりでさらに後ろへ運ばれていく。制圧側の列も位置を下げ始め、透明な盾を前に向けた警察官が数歩ずつ後退していた。


人影に遮られながら見えたその後ろでは、別の2人が倒れた仲間を両脇から引きずっている。さらに奥では数人の人間が1人へ重なるように倒れ込み、誰が警察官で誰が逃げ遅れた一般人なのか、安奈には判別できなかった。


逃げる人間が間を横切るたび、拳銃を構えた警察官は撃つのを止める。人が多すぎる。


安奈には、走っている人間が逃げているのか、それともこちらへ襲いかかろうとしているのか、もう見分けられなかった。あそこにいる警察も同じなのかもしれないと思った。


「後退! 線下げろ!」


制圧側の警察官がさらにこちらへ下がる。


さっきまで東改札の近くにいた警察官たちが、避難誘導をしている警察官の位置へ近づいていた。


それを見た周囲の人間が、さらに強く前へ押し始める。


「痛い、押さないで!」


莉子が叫んだ。


人の流れが向かう先には、上階へ続くエスカレーターと、その少し横に階段があった。


エスカレーターの乗り口は既に人で詰まっていた。前が進めないのに後ろから人が押し寄せ、手すりへ身体を押し付けられている人もいる。


階段の方も混んでいるが、まだ流れ自体は上へ動いていた。


「こっち!」


美月が前を指した。


「階段!」


3人は階段へ向かう流れに移ろうとした。


しかし、左右から同じ場所を目指す人が入り込んでくるため、真っ直ぐ進めない。安奈は莉子の手を掴んだまま、前を行く美月から離れないよう必死についていった。


後ろから肩を押され、横から身体が当たり、誰かの鞄が腕に引っ掛かる。


「美月!」


「ここにいる!」


何人もの身体に挟まれながら、ようやく階段の入口まで辿り着いた。


美月が先に一段目へ足を掛け、その後ろへ安奈、莉子が続く。下ではまだ銃声が鳴っていて、発砲音が響くたびに後ろの群衆がざわめき、階段へ押し込もうとする力が強くなった。


「早く! 上行って!」


誰かが後ろで叫んだ。


美月が二段、三段と上がった、その時だった。


後ろから階段へ飛び込んできた男の肩が、美月の背中へまともにぶつかった。


「わっ!」


美月の身体が前へ押し出され、右足だけが次の段へ届かなかった。靴の半分を段差の縁へ乗せたまま体重が掛かり、足首が外側へ折れる。


「痛っ!」


美月が階段の上へ崩れ落ちた。


「美月!」


安奈もすぐにしゃがみ込んだ。


後ろから来た人が慌てて身体を横へ捻り、3人を避けて駆け上がっていく。その後ろからはさらに人が来ていて、


「止まらないで!」


と怒鳴る声が聞こえた。


安奈は美月の腕を掴んだ。


「立てる?」


「待って、足……」


美月は右足首を押さえた。


階段の途中に3人で座り込んでいるわけにはいかない。莉子が反対側へ回り、美月の腕を肩へ掛ける。


「とりあえず上行こう」


安奈ももう片方の腕を自分の肩へ回した。


美月が立ち上がり、右足を階段へついた瞬間、息を詰めた。


「痛い?」


美月がうなづく。


「歩ける?」


首を横に振る。


2人が両側から肩を貸しても、美月の身体そのものを持ち上げて運ぶことはできなかった。安奈や莉子より背が高く、運動部で身体もしっかりしている。2人にできるのは転ばないよう身体を支えることだけで、美月自身が左足へ体重を掛け、痛む右足を庇いながら一段ずつ上がるしかなかった。


それまで走っていた3人の速度は、一気に落ちた。


階段の端へ寄って後ろから来る人へ道を空けながら、一段ずつ上がる。美月は右足へ少しでも体重が掛かるたびに顔をしかめ、息を漏らした。


最初のうちは後ろから次々と人が追い越していったが、それも長くは続かなかった。人の流れそのものが、先へ行ってしまったのだ。


ようやく上の階へ出た頃には、さっきまで周囲を埋めていた群衆はずっと先へ消えていた。


遠くではまだ銃声がしていて、館内放送も続いている。


『お客様は係員の指示に従い、駅方面には近づかず――』


安奈は周囲を見回した。


照明はすべて点いていて、店内の音楽も流れている。数分前まで人で埋まっていた通路には、落とされた紙袋や飲み物のカップが残り、店の入口では店員がシャッターを下ろそうとしている。別の店では、客らしい数人を奥へ誘導しているのが見えた。


「どこ行けばいいの?」


莉子が聞いた。


安奈には分からなかった。下へは戻れず、美月は走れない。外へ出られる方向へ行ったとして、その先が安全なのかどうかも分からない。


「こっち!」


横から声がした。


振り向くと、近くの店の入口に若い女性店員が立っていた。安奈たちより少し上、20代前半くらいに見えた。


「その子、怪我してる?」


「足捻ったみたいで」


「歩ける?」


美月が頷いた。


「ギリギリ...」


女性店員は一度、通路の奥を見た。


その方向から、また銃声が聞こえる。


「じゃあ中入って。早く」


3人は言われるまま店内へ入った。


小さなアパレル店だった。


通路に面した正面の大部分がガラスで、入口には透明なガラス扉がある。さっきまで客がいたらしく、床にはハンガーが数本落ち、入口近くには誰かが置いていった紙袋も残っていた。


女性店員は3人が入ったのを確認すると、店頭まで戻ってガラス扉を閉め、内側から鍵を掛けた。


「奥、こっち」


カウンターの脇を抜け、《STAFF ONLY》と書かれた扉を開く。


その先は人1人が通れる程度の狭い通路だった。


3人で美月を支えながら奥へ進む。


突き当たりの扉を開けると、段ボール箱や商品が積まれた小さなバックヤードに出た。


中には既に2人いた。


中年くらいの女性が壁際の床に座り込み、スマホを両手で握っている。その隣では息を切らした大学生くらいに見える男が立ったまま画面を何度も更新していた。


女性店員が空いていた椅子を引いた。


「ここ座って」


美月が腰を下ろす。


安奈と莉子もその両側へしゃがんだ。


女性店員は売場へ続く扉まで戻り、しっかり閉めた。


それだけで、外の音がかなり遠くなった。館内放送も、人の声も、時折響く銃声も、薄い壁や扉を挟んだ向こうから鈍く聞こえている。


それまで周囲が騒がしすぎて気づかなかったが、安奈は自分がかなり息を切らしていることに気づいた。莉子も顔色が悪く、呼吸を整えようと何度も口を開いている。


美月は椅子に座ったまま右足を床から少し浮かせ、足首を押さえていた。


「見せて」


安奈が言う。


「腫れてない?」


「分かんない。触ると痛い」


女性店員が棚を探し、小さなタオルを出した。


「冷やした方がいいと思うんですけど、今ここ何もなくて……」


「大丈夫です」


美月が答えた。


普段より声が小さい。


壁際に座っていた中年の女性がスマホから顔を上げた。


「警察が発砲したって……ニュースに出てる」


大学生くらいの男が答えた。


「俺、下で見ました」


全員の視線がそちらへ向く。


男は一度口を閉じ、何を言うか迷ったようにスマホへ目を落としてから、


「人に撃ってました。何発も。でも止まんなくて」


と言った。


安奈はスマホを出した。通知が大量に溜まっている。


SNSの投稿を一つ開くと、さっき自分がいた辺りとは別の場所らしい動画が出てきた。画面は激しく揺れ、人が走る背中ばかり映っている。別の投稿には警察官が発砲したと書かれているが、その下では「デマ」という返信も付いている。


数十分前なら笑っていたはずの言葉だった。


安奈は画面を閉じた。


外から、また銃声がした。今度はさっきより遠いようにも、壁に遮られてそう聞こえるだけのようにも思えた。何発か続いた後、しばらく何も聞こえなくなる。


バックヤードにいた全員の手が止まり、誰も話そうとしなかった。


その静けさの中で、今度は人の声が聞こえてきた。最初は何を言っているのか分からなかったが、女の声で、売場の外、通路の方から少しずつ近づいている。


「助けて!」


安奈は売場へ続く扉を見た。


カツカツと走る足音も聞こえる。


「お願い、誰か!」


女性店員が反射的に立ち上がり、売場へ続く扉へ向かって2歩ほど歩いた。


大学生くらいの男が、


「待って」


と小さく言った。


店員の足が止まった。


全員が耳を澄ませていると、外を走っていた足音が急に乱れ、何かにぶつかったような鈍い音がした。


女の悲鳴が上がった。


安奈の身体が固まる。


悲鳴は一度長く伸び、途中でさらに高くなった。それから、途切れた。


誰も動かなかった。


美月の手が安奈の腕を掴んでいた。かなり強く、爪が皮膚に食い込んでいる。しかし振りほどかなかった。安奈はその痛みすら忘れるほどに緊張していた。


莉子は両手で口元を押さえている。


女性店員がゆっくり人差し指を唇へ当てた。


声を出さないで。


言葉にはしなかったが、それだけで全員に伝わった。


しばらく何も聞こえず、館内放送だけがずっと遠くで流れている。


『――安全確保のため、駅方面には近づかず、係員の――』


途中から何を言っているのか分からなくなった。


その時、売場の方で何かが倒れた。金属製のラックか何かが床へ当たったような、大きな音だった。


莉子が肩を跳ねさせる。


続いて足音が聞こえた。一人ではないようだった。


何歩か歩いて止まり、また歩く。何かが店の前の通路を移動しているのか、それとも既に店内へ入っているのか、バックヤードからでは分からない。


安奈は知らないうちに息を止めていた。


女性店員は扉のすぐ横に立ったまま、耳を澄ませている。


足音が一度遠ざかり、誰かが小さく息を吐いた。


その直後だった。


安奈の手の中で、スマホが鳴った。


ピピピピという着信音が、狭いバックヤードの壁に反響して異様なほど大きく聞こえた。


「っ……!」


安奈は飛び上がるように画面を見た。


《お父さん》


安奈は慌てて画面へ指を滑らせた。


うまく反応しない。手に汗をかいていた。


着信音がもう一度鳴る。


「早く……」


莉子の声も震えている。


安奈は両手でスマホを持ち直し、ようやく着信を切った。


音が消えた途端、バックヤードがさっき以上に静かになった。全員が微動だにせず、呼吸を止め、耳を澄ませている。


さっきまで聞こえていた足音が消えていた。安奈は最初、それが遠ざかったからだと思ったが、違った。


何秒かして、売場の外から床を蹴るような音が聞こえ、そのすぐ後に別の足音が重なった。


さっきまで歩いていた足音とは違う。今度は走っていて、こちらへ向かっている。


女性店員の顔から血の気が引いた。


「……まずい」


店の正面で激しい音がした。


何かがガラスへぶつかったような、ドンという鈍い音だった。安奈の身体が反射的に縮こまる。


一度では終わらなかった。二度目の衝突で売場側からガラスの震える音が響き、三度目には、硬いものが割れ始める細かな音が混じった。


中年の女性が泣き始めた。安奈も視界がぼやけてくる。


大学生くらいの男が扉へ一歩近づいたものの、すぐに止まって目を見開いた。


「おい、他に出口はないのか!?」


女性店員は返事をせず、バックヤードのさらに奥へ目を向けた。安奈もつられてそちらを見る。


商品箱の向こうに、もう一つ扉があった。


その瞬間、店頭側で今までより大きな衝撃音が響いた。


ガラスが割れ、続いて細かい破片が床へ一斉に落ちる音がした。


女性店員が振り返った。


「奥行って! 早く!」


美月が椅子から立とうとする。


安奈と莉子が同時に身体を支えた。


売場の方から、またガタガタと何かが倒れる音がした。もう店の中へ入ってきている。


安奈は美月の腕を肩へ回し、奥の扉へ向かって動き始めた。


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