制圧
2028年6月11日
安奈は美月の腕を肩へ回し、奥の扉へ向かって動き始めた。
背後では、割れたガラスを踏む音が続いていた。最初は店の正面だけだった音が、今では売場の中から聞こえている。何かが商品棚へぶつかり、ハンガーがまとめて床へ落ちる音がした。
大学生が扉の前に椅子を引っ掛け、バリケードのようなものを作る。
女性店員はバックヤードの一番奥まで走り、商品箱の陰にあった扉の脇へ手を伸ばした。壁には小さな数字のボタンが並んでいる。
「待って、今開けるから」
指を動かすと、ピピッと電子音が鳴った。
扉は開かない。
「え……」
店員がもう一度入力する。
中年の女性が後ろを振り返った。売場側の扉が、どんどんと音を立てて揺れている。
「早くしてください!」
「分かってるから急かさないで!」
店員の声が裏返った。
もう一度、電子音が鳴る。それでも開かない。
「ちょっと、待って……何番……」
「来てる!」
莉子が叫んだ。
売場側の扉が大きく内側へ動き、閉めたはずの扉と枠の間に隙間ができた。その向こうから腕が入り込んでくる。
大学生くらいの男が周囲を見回した。
「なんかないすか!」
男がバックヤードを見渡し、何かを掴んだかと思えば、その手には店頭で飾られるマネキンを抱えていた。
片腕を胴体へ回し、もう片方で腰の辺りを掴んでいる。白い脚が床を引きずり、壁へぶつかった。
「これ、使えるだろ!」
男はマネキンの胴を抱え、白い脚を扉の方へ向けた。
扉の前に置かれた椅子が押され、横倒しになる。
最初の1人が入ってきた。
女だった。シャツの袖が裂け、顔の片側が血で濡れている。口からシューシューという気味の悪い音を漏らしながら、こちらへ身体を押し込んでくる。
男がマネキンの脚を女の身体へ押しつけた。
「うおっ……!」
女は倒れない。
大学生は両足を開き、マネキンの胴を胸へ押し当てるようにして踏ん張った。相手が腕を伸ばしてくるたび、間に挟まったマネキンの身体を左右へ動かして距離を取っている。
「まだですか!」
「待って!」
女性店員は数字を押し直していた。
安奈と莉子は美月を支えたまま動けない。
男と奥の扉との距離は数mしかなかった。もし扉が開けば、全員が一気に逃げ込める。
その時、売場から2人目が入ってきた。
最初の女の背中を押すように覆いかぶさる。
大学生はさらに足を開いて踏ん張ったが、靴底が床を滑った。
「くそっ……!」
マネキンの片脚が棚へ引っ掛かり、身体が斜めになる。男はそれを抱え直そうとしたが、その間にも前から押され続けていた。
「クソ! 押される……! まだ!?」
電子音が鳴った。
今度は、それまでとは違う音だった。
女性店員が取っ手を引く。
扉が開いた。
「開いた! こっち!」
中年の女性が真っ先に入る。
「美月、行くよ!」
莉子と安奈も美月を挟んで動いた。
美月が右足を庇いながら敷居を越える。
その時、売場側で大きな音がした。
安奈は振り返った。
大学生が仰向けに倒れていた。マネキンもその身体へ覆いかぶさるように倒れ、3人目が売場から入ってくるところだった。
男はその体勢で顔を上げ、奥の扉が開いていることに気づいたらしい。
「待って!」
立ち上がろうとする。
だが、マネキンの上から女が覆いかぶさった。
「俺も、待って!」
男が起き上がろうともがく。女がその腕を掴んだ。
扉までは数mしかない。
「助けて!」
中年の女性が戻ろうとした。
「ちょっと、あの人!」
その直後、大学生の身体が床の上で大きく跳ねた。
「あぁぁぁぁぁ!」
何が起きたのか、最初は分からなかった。
「あああ、痛い! 痛い痛い痛い!」
女がマネキン越しに大学生の肩口へ噛みついていた。シャツの下がみるみる赤く染まっていく。
大学生は身体を捻り、反対の手で女の頭を押し退けようとした。そこへもう1人が男の脚へしがみつく。
「助けて! 助けてください!」
男がこちらへ手を伸ばした。
指が何度も床を掻く。
「お願い! お願いだから!」
女性店員は扉を掴んだまま動かなかった。
泣いていた。
安奈も動けなかった。
大学生の身体が後ろへ引かれていく。
「置いてかないで! 待って、待って! お願い、助けて!」
中年女性が一歩戻った。
女性店員がその腕を掴んだ。
男の叫び声がさらに高くなる。
「嫌だ! 助けて! 死にたくない! お願いだから――」
女性店員が扉を引いた。
大学生の伸ばした手が、閉まっていく隙間の向こうに残った。
ガタンと重い金属扉が閉まる。
直後、向こう側から何かがぶつかった。
大学生の声は、まだ扉越しにくぐもって聞こえていた。
女性店員は取っ手を握ったまま、額を扉へ押し付けた。
「ごめんなさい……」
中年女性も泣いていた。
安奈は何も言えなかった。
莉子が美月を支えている腕に力を入れる。
「行こう」
美月が言った。
声は震えていた。
「ここは……安全じゃないと思う」
女性店員が顔を上げた。
何度か息を吸ってから扉から手を離す。
「……こっちです」
その先は、売場とは全く違う狭い従業員通路だった。
白い壁と灰色の床が続き、天井には蛍光灯が並んでいる。台車が壁際へ寄せられ、閉じた扉の横には店名や倉庫番号らしい小さな表示が付いていた。照明も空調も動いていて、誰もいないことを除けば、異常事態が起きているようには見えない。
背後の扉からは、まだ時折鈍い音が聞こえていた。
女性店員は早足で先へ進んだ。
「この先に共用通路があります。そこ出れば、たぶん別の階段に――」
途中で美月が遅れ始めた。
安奈と莉子の肩に体重を預けるようにしながら、左足を先へ出し、右足を引きずっている。大学生が死んでから誰も急かさなくなったが、それでも前を歩く2人との距離は少しずつ開いていった。
中年女性は店員のすぐ後ろにいる。
安奈たちはその5mほど後ろだった。
通路が右へ曲がっている。
その手前に人が倒れていた。
紺色の制服のような服を着た男だった。
施設の警備員なのか、配送業者なのか安奈には分からない。壁際へ横向きに倒れ、床には頭の近くから黒っぽい血が広がっている。ピクリとも動かなかった。
女性店員が足を止めた。
「……どうするの?」
中年女性が聞いた。
店員は返事をせず、少し距離を取ったまま男の身体を見た。
動かない。
「触らないで行きましょう」
壁側へ寄り、男からできるだけ離れて通る。
中年女性もその後へ続いた。
安奈たちも近づいた。
美月を支えているため、十分に距離を取ることができない。
安奈が倒れている男の足元を通り過ぎようとした時、莉子が一瞬バランスを崩した。壁に立てかけてあった雑多な荷物へ肩をぶつけ、いくつかが音を立てて床へ散らばる。
全員の動きが止まった。
何も起きない。
そう思って歩みを進めようとした時、男の右手が動いた。
指が一度、床を掻いた。
安奈は足を止めた。
「待って」
「何?」
莉子がこちらを見る。
男の肩が動いた。
今度ははっきり分かった。
「待って、これ……」
床に倒れていた身体がゆっくりとうつ伏せになり、腕を床へついた。壁へ頭を擦りつけるようにしながら、顔が上がっていく。
下顎の大部分がなかった。
露出した口元から、ぐじゅぐじゅと赤黒い液体が垂れている。
「いや……」
莉子の声が漏れた。
男が立ち上がった。
最初は壁の方を見ていた。
安奈たちと、女性店員たちのちょうど間に立っている。
中年女性が振り返った。
「いやぁっ!」
悲鳴が上がる。
男の顔がそちらへ向いた。
直後、走り出した。
「走って!」
女性店員が中年女性の腕を掴んだ。
2人が曲がり角の向こうへ消え、男もその後を追う。
「待って!」
安奈が叫んだ。
追おうとした。
その瞬間、美月の身体が崩れた。
「っ……無理」
右足をついたらしい。
安奈と莉子が慌てて支える。
曲がり角の向こうから、悲鳴と足音が遠ざかっていく。
「どうする?」
莉子が聞いた。
安奈には分からなかった。
追えば、あれがいる。戻れば、大学生を襲ったものがいる。そして美月は走れない。
横に扉があった。
非常口でも店舗でもない、何の表示もない灰色の扉だった。
安奈が取っ手へ手を掛ける。
「開けるよ」
ゆっくり押した。
開いた。
向こうには誰もいない。
安奈は周囲を確認し、誰もいないことを確かめると、3人で中へ入った。美月を支えたまま扉を閉める。
そこは、さっきより広い館内の共用通路だった。
両側には店舗が並んでいるが、どの店もシャッターが下りている。ガラス面の内側では照明が点いたままの商品棚が見え、閉店しているようには見えないのに、人の姿だけがなかった。
床には誰かが落とした紙袋があり、中身の服が半分飛び出している。
少し先には倒れた案内板があり、その横に携帯電話が落ちていた。画面にはひびが入っているが、まだ点灯していた。
血もあった。
大きな水溜まりのようなものではなく、点々と続いた跡が通路の途中で壁際へ曲がり、そこで途切れている。シャッターには複数の血の手形が残っていたが、周りに死体はない。
天井からは館内放送が流れていた。
『――係員及び警察官の指示に従い、駅方面には近づかず――』
普段と変わらない照明の下で、声だけが同じ案内を繰り返している。
「ここ……入れないかな」
莉子が一番近い店のシャッターへ手を掛けた。
持ち上げようとするが動かなかった。隣も閉まっている。
安奈も別の扉を押したが、鍵が掛かっていた。
「全部閉まってる……」
美月が壁へ手をついた。
もう息が上がっている。
通路の先に、ベンチが置かれた少し広い場所があった。柱の横に館内案内図があり、その向こうには別方向へ続く通路が見える。
3人は周りを警戒しながらそこまで移動し、美月をベンチへ座らせた。
安奈もその場へしゃがみ込んだ。
腕が震えていた。
美月を支え続けていたせいなのか、それ以外なのか、自分でも分からない。
莉子も床へ座った。
誰も喋らなかった。
しばらくして、莉子が鼻を鳴らして両手で顔を覆った。声は出していなかったが、肩だけが小さく動いている。
美月も足首を押さえたまま下を向いていた。
「ごめん」
安奈が顔を上げる。
「私がこれやってなかったら……」
「今それいいから」
美月はそれ以上言わなかった。
安奈も続けなかった。
大学生の声が頭に残っていた。
置いてかないで。
助けて。
スマホを見る。
父からの着信履歴が何件も残っていた。母からもメッセージが来ている。
安奈は音量が完全に消えていることを確認した。
電話を返そうとは思わなかった。
今、自分たちがどこにいるのかも分からない。ここが何階なのか、出口がどこなのか、それすら分からなかった。
遠くから銃声が聞こえた。
さっきまでより少し近い。
何発か続き、止まる。
その後に、館内放送とは違う声がどこか遠くから響いたような気がした。
安奈はそっと顔を上げた。
警察が来たのかもしれない。
そう思った時、通路の奥に人影が見えた。
3人いた。
安奈は一瞬、立ち上がりそうになった。
だが、すぐに止まった。
歩き方がおかしい。
先頭の男は私服だった。シャツが腹の辺りまで血で濡れている。その後ろに女性らしい人影があり、さらにその後ろには制服姿の警察官がいた。腕から血で染まった透明のアクリル盾をぶら下げ、頭が少し傾いている。
3人とも、まだこちらには気づいていない。
「伏せて」
安奈が囁いた。
莉子が美月の肩を押す。
3人でベンチと柱の陰へ身体を低くした。
不規則な足音と唸り声が近づいてくる。何歩か聞こえた後に止まり、また歩き始める。
安奈は自分の呼吸がうるさく感じた。
莉子が口元を手で塞いでいる。美月は足首を抱えたまま、痛みに耐えるように目を閉じていた。
足音が止まった。
長い間、何も聞こえない。
通り過ぎたのかもしれない。
安奈は確認するつもりで、ほんの少しだけ頭を上げた。
通路の奥を見る。
3人のゾンビが、さっきよりもだいぶ近くまで接近していた。
そして警察官と目が合った。
安奈はとっさに身を隠した。
気づいていませんように。気づいていませんように。こっちに来ませんように。
距離はまだある。少ししか顔を出していないのだから、気づかれていない可能性だってある。
叫びに近い唸り声が上がった。
続いて、複数の足音が一斉に近づいてくる。
走っている。
気づかれていた。
「来る!」
残りの2人も動いた。
さっきまでゆっくり歩いていたのが嘘のように、3人ともこちらへ向かって走ってくる。
「美月、立って!」
莉子が腕を掴む。
「待って、もう無理……!」
安奈も反対側から引き起こした。
美月が右足をついた途端、身体が沈んだ。
「痛っ……!」
後ろは閉じたシャッターだった。左右の店も閉まっていて、さっき入ってきた扉までは距離がある。
美月を支えながら走ることはできない。
通路の奥から、制服姿の男を先頭に3人が迫ってくる。
安奈は美月の腕を引いたが、ほとんど動かなかった。
あと十数m。
「私はいいから早く逃げて!」
美月が叫ぶ。
その時、ゾンビが向かってくる通路の途中、右へ分かれた脇道から人影が出た。
1人ではなかった。
濃紺なのか黒なのか分からない装備を着た人間が、5人続けて現れた。全員がヘルメットと防弾衣を身につけ、顔には透明な保護具とマスクを着けている。
手には、安奈がそれまで近くで見たことのない長い銃を持っていた。
先頭の2人が左右へ広がり、後ろの3人も互いに重ならない位置へ動いた。走ってくる3体の側面を取るように、ほとんど止まることなく通路へ展開する。
「正面、活動3!」
先頭の男が叫んだ。
「射撃!」
すぐに銃声が響いた。
地下で聞いた拳銃より低く、何発かがほとんど重なって聞こえる。
先頭を走っていた制服姿の男の腰が崩れ、身体が前へ落ちた。そのまま勢いに押されるように床を滑る。
すぐ後ろを走っていた女にも数発が当たり、片脚がもつれるように横向きへ倒れた。
「1、転倒!」
「2、転倒!」
警察官たちはその場に固まらなかった。
前にいた2人がわずかに位置を変え、その後ろにいた1人が倒れた制服姿の男へ銃口を向ける。
再び銃声が響いた。
倒れていた男の頭が動き、そのまま床へ落ちる。
「1、停止!」
女にも続けて銃声が響いた。
「2、停止!」
3人目はまだ走っていた。
私服の男だった。
倒れた2人を避けることもなく、その間を踏むようにして突っ込んでくる。
「3、来る!」
前にいた警察官が左へ切り、後ろの1人に射線を空けた。
数発。
男の腰から大腿の辺りに当たり、片脚が支えきれなくなったように身体が回って床へ倒れる。
すぐに別の銃声が続いた。
「3、停止!」
「正面クリア」
銃声が止んだ。
安奈はベンチの陰で美月の肩を抱えたまま、動くことができなかった。耳の奥では高い音が鳴り続けている。
黒い装備の男たちは、こちらを見なかった。
先頭の2人は倒した3体の向こう側へ銃を向けたままで、その後ろの1人が無線へ手をやる。残る2人は左右と後方を警戒していて、誰も全員で同じ方向を見ていなかった。
「HQ、S2。E3共用部、活動3、停止。隊員被害なし」
雑音の後、すぐに返答が来た。
『HQ了解。S2、北側検索継続。S5、東改札側、状況送れ』
別の男の声が無線へ割り込んだ。
『S5。第2線保持中。活動複数、数不明。一般人残留あり。これ以上の前進困難』
『HQ了解。第2線維持。深追いするな。S3、北側店舗区画どうだ』
少し間があった。
『S3。再活動1、停止。民間人なし。E5監視映像は落ちてる。店舗内部は未検索』
『了解。S3、その場保持。単独で奥へ入るな。S4合流待て』
「S2、北側継続する」
『了解』
安奈には何を言っているのか、ほとんど分からなかった。
ただ、目の前にいる男たちが警察官であることだけは、背中に大きく書かれた《POLICE》の文字で分かった。
先頭の2人がゆっくり前へ出る。
その後ろの男も無線から手を離し、銃を構え直した。
「S2、移動――」
声が途中で止まった。
後方を警戒していた警察官の1人がこちらを見ていた。
安奈と目が合う。
次の瞬間、長い銃が安奈の方へ向いた。
「人影!」
他の警察官もすぐに反応した。
「動くな! そのまま!」
安奈の身体が固まった。
莉子が息を呑む。
安奈は反射的に両手を見える位置へ出した。隣で莉子も手を上げ、美月もベンチに座ったまま両手を胸の前へ出す。
警察官はすぐには近づいてこなかった。
1人がこちらへ銃を向けたまま、別の1人が周囲を確認している。
「応答できるか?」
「……はい」
自分の声が思ったより小さかった。
「3人だけか?」
安奈は頷きかけて、
「は、はい。3人です」
と答えた。
警察官が一歩だけ近づいた。
銃口は安奈たちの身体から少し外れたが、構え自体は解いていない。
「手は見える位置。そのまま。咬まれた人はいる?」
「いません」
「引っかかれた人は? 血が目か口に入った人」
安奈は莉子を見る。
莉子も首を振った。
「多分、ないです」
「多分?」
声は強かったが、怒鳴ってはいなかった。
安奈は自分の服と腕を見た。
「ないです。私たちは噛まれてません」
警察官の視線が美月へ移る。
「そっちの子、怪我してるな」
「階段で足捻りました」
美月が答えた。
「右足?」
「はい」
「咬傷じゃない?」
「違います」
警察官がようやく銃口を床側へ下げた。それでもまだ、身体の前で銃を保持したままだった。
後ろにいた別の警察官がこちらへ来て、美月の右足と服を目で確認する。
「応答あり。民間人3。咬傷なし申告。1名、右足負傷、歩行困難」
最初の警察官が無線へ手をやった。
「HQ、S2。E3で民間人3を保護。全員応答あり、咬傷なし申告。1名右足負傷、歩行困難」
『HQ了解。民間人3、1名歩行困難。E2搬出路使用可。東口臨時救護へ搬出。S1をE3へ回す』
「S2了解」
続けて無線の向こうで別の通信が入った。
『HQ、S6。南側連絡路まで到達。防火シャッター閉鎖、通過不能』
『HQ了解。S6、その位置送れ』
『E4南端。西側通路へ迂回可能』
『了解。西へ回れ。S7はどこだ』
今度は別の声が答えた。
『S7、東改札第2線後方。一般人6保護、うち1名咬傷疑い』
『了解。咬傷疑いは分離。救護Bへ。一般負傷者と混在させるな』
無線を聞いていた警察官が安奈たちへ視線を戻した。
「ここから一緒に出る。安全とは言えないから、勝手に走らないで。こっちの指示だけ聞いて」
安奈は何度も頷いた。
「他に一緒だった人は?」
その言葉で、大学生の声が頭に戻ってきた。
女性店員。
中年の女性。
「2人……女の人が2人いました」
「どっちへ行った?」
安奈はさっき入ってきた扉とは別方向を指した。
「向こうです。廊下で死んでた人が急に起きて、その2人を追っていって……私たちは足が遅くて、別れました」
警察官が指した方向を見る。
「どのくらい前?」
「分かりません。そんなに経ってないです」
「他には?」
安奈は少し黙った。
「男の人が1人」
大学生の姿が頭に浮かんだ。
「店の中で……噛まれてました」
「店の場所分かる?」
「分かりません。服屋で、奥に倉庫みたいなのがあって、そこから従業員の通路に出ました」
警察官はそれ以上問い詰めなかった。
無線へ手をやる。
「HQ、S2。追加。E3西側従業員通路へ女性2名逃走、活動1が追尾。店舗内に男性1、咬傷あり、取り残し。店舗位置不明」
数秒置いて返答が来た。
『HQ了解。S1合流後、西側従業員通路を優先検索。店舗側は位置確認後に回す。S2は民間人搬出を継続』
「了解」
続けてHQが別班を呼んだ。
『S3、HQ。北側の進捗送れ』
『S3。店舗入口保持中。S4まだ未着。奥から物音あり、目視なし』
『了解。入るな。S4到着まで保持』
別の声が割り込む。
『HQ、S5。東改札側、一般部隊さらに後退。活動個体、少なくとも5。流入継続』
一瞬だけ無線が静かになった。
『S5了解。第2線まで下がれ。射線取れない時は撃つな。民間人の退避優先。S6、S7は東改札方向へ寄るな』
それぞれ短い応答が返った。
大学生を助けに戻るとは言わなかった。
安奈も聞けなかった。
通路の奥から、同じ黒い装備をした警察官が3人現れた。
先頭の1人が手を軽く上げる。
「S1」
S2と呼ばれていた男が、安奈たちを一度見た。
「民間人3、1名歩行困難。E2から搬出する。西側従業員通路に女性2、活動1追尾。店舗内に咬傷者1。位置不明。HQから西側検索優先」
「了解。こっちで引き継ぐ。西側入る」
必要な言葉だけを交わすと、S1の3人のうち2人が安奈たちの来た方向へ銃を向け、残る1人が通路の角を確認した。
美月のところへS2の警察官が近づく。
「立てる?」
「ゆっくりなら」
「右足、無理に着かなくていい。ここ掴んで」
美月が差し出された腕を掴んだ。
安奈も反対側へ回ろうとしたが、
「君はそっちの子と一緒に中央にいて。負傷者はこっちで支える」
と言われた。
美月の片側を警察官が支え、もう片側には莉子がついた。安奈はそのすぐ横へ移動する。
S2の5人は前に2人、その後ろに美月を支える1人と安奈たち、さらに後ろに2人という並びになった。
最後尾の2人は安奈たちとは反対を向き、今来た通路を交互に確認している。
先頭の警察官が耳元の無線へ短く告げた。
「HQ、S2。民間人3伴い、E2へ移動開始」
『了解。E2搬出路維持。交差部はS5が保持中。接触時は現場判断、民間人を遮蔽物側へ寄せろ』
「S2了解」
先頭が歩き出す。
それに合わせ、隊列全体がほとんど同時に動いた。
安奈たちは、その中央に挟まれるようにして歩き始めた。
さっきまで3人だけで通った館内とは、同じ場所とは思えなかった。人の姿はほとんどない。
照明は点き、店の看板も光っている。その下に、混乱だけが残っていた。
エスカレーターの前には何足もの靴が散らばり、片方だけのサンダルが血の上へ落ちていた。柱の脇ではキャリーケースが開き、衣類が床へ散っている。閉じたシャッターの前には誰かが座っていた跡のような血の擦れた線があり、その先には動かなくなった男がうつ伏せに倒れていた。
頭の近くに血が広がっている。
安奈は見ないようにした。
少し先には別の遺体があった。
こちらは制服姿だった。
さっき倒された3人とは違う警察官だ。仰向けになり、片腕を伸ばしている。
その横を通る時、前を歩いていた警察官の1人が一度だけ足を止めた。
遺体へ視線を落とし、すぐに前を向いた。
無線が鳴る。
『HQより各隊。東改札側、活動複数。一般部隊を第2線まで後退。E2搬出路は維持。検索班は民間人確認を優先、東改札方向へ深追いするな』
すぐに別の声が入った。
『S5了解。中央階段北側、民間人4保護。咬傷疑い1』
『HQ了解。咬傷疑いは救護Bへ分離搬出』
続けて別班から通信が入る。
『S4、HQ。S3位置へ到着。北側店舗区画、進入準備』
『了解。S3と組め。店舗内、監視映像なし。内部状況不明』
『S4了解』
安奈は美月を見た。
美月もこちらを見ていた。
誰も何も言わなかった。
前方の警察官が拳を上げる。
隊列が止まった。
右側の通路から物音がした。
先頭の2人がすぐにそちらへ銃を向ける。
「右、活動1!」
「民間人、左寄れ!」
美月を支えていた警察官に促され、安奈たちは左のシャッター際へ身体を寄せた。
中央にいた警察官が3人の前へ入り、身体で通路側を遮る。
棚の陰から人が飛び出した。
血の付いたワイシャツ姿の男が、こちらへ走ってくる。
「射撃!」
安奈が息を呑むより先に銃声がした。
男の腰が崩れ、床へ倒れる。
前方の1人が数歩だけ位置を変え、倒れた男へ銃口を向けた。
さらに短い発砲音。
「停止」
それだけだった。
「前進」
隊列がまた動き始める。
安奈は後ろを振り返らなかった。
進むにつれて、人の声が増えてきた。
最初は無線と警察官の声だけだったものが、遠くから拡声器の案内、泣き声、救急隊員らしい呼び掛けへ変わっていく。
そして、空気が変わった。
外の光が見えた。
大きな出入口へ近づいている。
そこだけは、それまでの館内とは比べものにならない人数の警察官がいた。
入口の内側には、盾と長い銃を持った警察官が横へ間隔を取りながら並んでいる。全員が外ではなく館内側を見ていた。
その後ろでは黒い装備の警察官が数人ずつまとまり、無線を聞きながら待っている。
『HQ、S6。E2到着』
『S6了解。S2搬出通過後、E3南側へ入れ』
「S6了解」
別の声が重なる。
『S7、東改札側第2線到着。一般部隊と交代開始』
『HQ了解。S5、S7合流後に人員数送れ』
『S5了解』
指示を受けた一団が動き、入口から安奈たちが歩いてきた方向へ入っていく。
その横を、別の警察官たちが負傷者を外へ運んでいた。
地上へ出ると、さらに人がいた。
パトカーが何台も停まり、その間に救急車と消防車が並んでいる。駅前の一部は規制線で区切られ、普段なら人で埋まっている場所に救急隊員や警察官が集まっていた。
道路脇にはブルーシートが張られている。
その向こうに何があるのかは見えなかった。
地面へ座らされている人が何人もいる。頭に包帯を巻いている人、腕を洗われている人、毛布を肩から掛けられたまま電話をしている人。泣いている子供の横では、父親らしい男が救急隊員に何かを説明していた。
救急隊員がこちらへ来た。
「3名ですか?」
美月を支えていた警察官が答える。
「3名。1名右足関節負傷、階段転倒。3名とも咬傷、体液曝露なし申告。再確認お願いします」
「分かりました」
安奈たちはそこで初めて、黒い装備の警察官たちから離された。
美月が簡易椅子へ座らされ、莉子もその横へ座った。
安奈は立ったまま、新宿駅の入口を振り返った。
黒い装備の警察官がまた何人か中へ入っていく。入口の内側では銃を構えた警察官が、ずっと同じ方向を見ている。
そのさらに奥から、銃声が聞こえた。
外にいる人間のほとんどは、もう振り返らなかった。
救急車のサイレン。無線。拡声器。泣き声。圧倒されるような新宿のビル群。
大型ビジョンでは、まだ広告が流れていた。
安奈のポケットでスマホが震えた。
一瞬、身体が固まった。
音は鳴らない。
画面を見る。
《お父さん》
安奈はしばらく画面を見ていた。
今度は、通話ボタンを押した。
「もしもし」
声を出した瞬間、喉が詰まった。
『安奈か?』
それを聞いた途端、それまで止まっていた涙が一気に出た。
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