共犯
2028年6月12日
瀬川は朝からソファに腰を下ろしたまま、テレビとスマートフォンを交互に見ていた。
勿論見ているのは昨日の新宿事件についてだ。日本中、彼と違わず夜通しで情報を追っている人が多いのか、「ゾンビ」という単語が入っている動画の再生数は短時間で100万を超え、それは瀬川が運営しているアカウントとて例外ではなく、インプレッション数は文字通り爆発的に伸びていた。本来ならば新宿事件を出汁に新しい記事を作るべきなのだろうが、疲れからか、不思議とそのようなことをする気分にはならなかった。
新宿事件については、一晩経って事情がだいぶ整理されてきたようだった。
彼が今見ているニュース番組の左上には、『新宿駅周辺 PMRS患者複数確認』というテロップが出ている。画面の下では、今朝行われた政府の会見についての速報が流れ続けていた。
「政府は今朝、新宿駅及びその周辺で昨日発生した一連の傷害事案について、死亡確認後に運動を再開する死後運動再活動症候群、いわゆるPMRSの患者が複数確認されたことを明らかにしました」
瀬川はスマートフォンを持ったまま、テレビへ視線を戻した。
ついに言った。
今までも、日本にも本当はゾンビがいるんじゃないかという噂はいくらでもあったし、彼自身その手の噂を面白おかしく取り上げ、拡散する側に回ってきた。もっとも、これまではどれも真偽不明の動画や匿名の書き込みに過ぎず、後から別件だったと分かったものも少なくない。
だが今回は違った。政府が公的に、少なくとも新宿にPMRS患者が存在したことを認めた。
画面が切り替わり、昨日瀬川が見ていた配信とは別の映像が流れ始めた。かなり離れた場所から撮影されたものらしく、駅前の一角には何台もの警察車両が並び、その向こうを濃い色の防護服を着た人間が行き来している。途中、車両の隙間を縫うように黒い装備を身につけた一団が映り込み、番組はそこで動画を一時停止して、機動隊員とみられる警察官が投入されていたと説明していた。
他にも、視聴者から提供されたと思われる映像が次々に紹介された。ブルーシートのようなものを被せられて担架で運ばれる何かや、駅の外から撮影された動画に断続的に入る乾いた破裂音。中でも繰り返し使われていたのは、人混みの中で仰向けに倒れていたスーツ姿の男が、突然背中を大きく反らせるようにして痙攣し始める映像だった。
その動画だけは瀬川も昨夜一度見ていた。撮影者は周囲が騒ぎ始めるとその場から逃げたらしく、結局、倒れていた男がその後どうなったのかまでは映っていない。それでも一晩前とは違い、ニュース番組の側も相当に踏み込んだ表現を使うようになっており、スタジオでは「いわゆるゾンビと呼ばれている現象」という言葉まで普通に飛び交っていた。
「……マジだったのかよ」
昨日も似たようなことを思ったはずなのに、政府の発表を聞いた後では意味が違って感じられた。
SNSでは、事件直後から「新宿でゾンビが出た」と断定する投稿が溢れている。むしろ「まだ分からない」「映像だけでは判断できない」と慎重なことを書いている人間の方が、「平和ボケ」「政府に飼い慣らされている」などと叩かれる始末だった。
もはや何も検索していなくとも、タイムラインを少し下へ動かすだけで昨日の映像がいくらでも現れる。中には明らかに外国の古い動画を混ぜたものもあれば、ゲームの映像をAIか何かで加工しただけに見える粗末なものまであった。それでもコメント欄には本気で信じているらしい人間が少なくなく、瀬川は少し呆れながら画面を眺めた。
もっとも、偽物がどれだけ混ざっていようが、国が認めた以上、新宿に「そういうもの」がいたこと自体はもう疑いようがない。
ニュースは再び、今朝の記者会見へ戻った。
政府関係者が壇上に立ち、海外で報告されていた症例や、医療機関、警察、消防などに対して行ってきた注意喚起について説明している。専門用語の多い長い説明を瀬川は半分聞き流していたが、質疑に入ってしばらくしたところで、記者の一人が少し強い口調で質問した。
『今回、警察が事件発生後の非常に早い段階から防護装備を使用し、銃器を携行した部隊まで投入しています。政府は新宿、或いは国内でPMRS事案が発生する可能性を事前に把握していたということでしょうか』
瀬川はスマートフォンから顔を上げた。
壇上の男は少し間を置いてから、答える。
『そのような事実はありません。警察庁では、5月にPMRSが特定健康危機に指定されたことを受け、各都道府県警察に対し、感染が疑われる事案における初動対応、現場規制、負傷者への接触その他の留意事項を通知しております。』
『では少なくとも警察は、新宿事件以前から、国内で死亡者が再活動する事態を想定して訓練していたということですか』
『国外で確認された事案を参考として、必要な準備を行っていたということを申し上げています。国内で同様の事案の発生を具体的に把握していたということではありません』
『その通知には、再活動した者への対処方法も含まれていたんでしょうか』
『個別具体的な警察活動上の対処要領については、今後の活動に支障を及ぼすおそれがありますので、お答えは差し控えます』
そこで別の記者の声が重なり、司会が質問者を指名した。会見はそのまま、警察の対応時間や新宿駅周辺の規制についての質問へ移っていった。
だが、先ほどのやり取りは既にSNSで切り抜かれていた。
『5月から準備してたってこと?』
『警察あれ最初から知ってただろ』
『昨日初めて日本で出ましたって動きじゃない』
『政府なんか隠してんじゃねえの』
そんな投稿が並んでいる。
中には、事件発生から武装した警察官が映像に現れるまでの時間を検証し、最初に異常を知らせる映像が上がってから十数分しか経っていないことを根拠に、政府はわざと新宿で事件を起こさせたという陰謀めいた主張まで行われていた。
切り抜かれた映像だけを繋げた検証がどこまで正しいのかは分からないし、そもそも最初の通報が何時だったのか瀬川には分からない。ただ、あれだけ人の多い新宿駅で、少なくとも異変がネット上に出始めてからさほど時間も経たないうちに防護装備の人員が現れ、銃を持った警察官まで投入されて実際に複数回発砲している。
海外で同じような事件が起きていた以上、日本の警察が対策を用意していても別におかしくはない。それでも昨日初めて化け物を見ました、という動きには見えなかった。
瀬川がそれ以上考えたところで答えが出るはずもなく、タイムラインを閉じようとしたところでスマートフォンが震えた。新村からだった。
『14時』
続けて住所が送られてくる。昨日電話で聞いた場所とは少し違っていた。
『ドライバーは斎藤』
瀬川は少しだけ画面を見た後、『了解』と返した。昨日、自分で予定は空いていると言った以上、今になって断るつもりもなかった。
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指定された場所は、住宅街から少し外れたところにある古い事務所兼倉庫だった。
午後2時を少し回った頃、斎藤の車が建物の前に停まった。前回は後部座席にいたハチの姿が今日はなく、瀬川がそのことを聞こうとすると、斎藤の方から「置いてきた」と言った。
「さすがに今日は連れてこなかった」
「まあ、その方がいいんじゃね」
車を降りると、シャッターの脇にある小さな扉が開き、新村が顔を出した。
「こっち」
挨拶もそこそこに中へ入る。東京中を騒がせた新宿事件について話す様子もなく、新村は一昨日とほとんど変わらない調子で仕事の話に入った。
倉庫というにはそれほど広くない室内には、古い事務机やスチール棚、使われていない台車などが壁際へ寄せられ、その奥に十数個の段ボール箱がまとめて積まれていた。
「今日はこれ、一回別の場所に移すから」
新村が箱を指差した。
「これ全部?」
斎藤が聞く。
「全部。向こうの住所は後で送る」
瀬川は荷物の山を見る。一見しただけでは、中に何が入っているのかまでは分からない。新村は台車を引っ張り出しながら、何でもないことのように続けた。
「新宿の件で警察があっちに結構持ってかれてる。上が今日やれってさ。今が一番都合がいいんだと。あまり怪しまれるようなことすんなよ」
上、という言葉だけが少し引っかかったが、瀬川はわざわざ聞かなかった。警察が手薄になるタイミングを選んで運ぶ荷物という時点で、前回より一段まずそうなのは分かる。
斎藤も同じことを思ったのか、「何入ってんの?」と箱を見ながら聞いた。
「スマホ。あとタブレット」
新村は一番上の箱を持ち上げ、そのまま斎藤へ渡した。瀬川も手前にあった段ボール箱を抱え上げると、見た目ほど重くはなく、中で小さな箱同士がぶつかるような音がした。
二往復ほどしたところで、段ボールの側面に貼られた伝票が目に入った。
家電量販店の名前だった。その下には店舗名と商品名、数量が印字され、赤字で『店舗在庫』と書かれた別のシールまで貼られている。一つだけ口の開いている段ボールを軽く覗き込むと、未開封らしいスマートフォンの箱が何個も並んでいた。
「新村」
「ん?」
「これ、店の在庫じゃないの?」
瀬川が伝票を指した。
新村は一度だけ見た。
「そうだよ」
「そうだよって……」
「店の倉庫かどっかから持ってきた奴がいて、そこから回ってきたの。俺が盗んだわけじゃないからな」
瀬川はその簡単な日本語を咀嚼するのに時間がかかった。
「……それ、盗品じゃん」
やっとの思いで絞り出した言葉に対する返答はない。
新村は別の段ボールを持ち上げた。
瀬川は自分の腕の中にある箱へ視線を落とした。側面には店の名前と店舗在庫のシールが貼られ、破れた角からは未開封のスマートフォンの箱がいくつも見えている。
これをこのまま車へ積めば、自分が何を運んでいるのか知った上で手伝ったことになる。そう考えた途端、思わず唾を飲み込む。喉が渇いている。
まだ箱は腕の中にある。置いて帰ることもできるが、瀬川はすぐにはそうしなかった。
「……今回いくら?」
抱えている段ボールを見下ろしながら新村に聞く。
新村は作業を続けながら答えた。
「言ってなかったか。一人15万」
警察が新宿へ人員を割いている日のうちに盗まれた商品を別の場所へ移す。そのための金だと考えれば前回より高い理由も分かるし、もちろん見つかればまずいことになるんだろう。
それでも瀬川は箱を床へ戻さなかった。
抱え直してそのまま倉庫の外へ出ると、斎藤の車の荷室へ置いた。少し遅れて斎藤も箱を抱えて出てきたが、目が合ってもどちらも何も言わなかった。
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全部積み終える頃には、荷室の大半が段ボールで埋まっていた。
届け先はそこからそれほど離れていない場所で、新村から斎藤のスマートフォンへ住所が送られてきた。新村も自分の車で向かうらしく、「向こうで合流な」と言って先に倉庫を出ていった。
斎藤が運転席に座り、瀬川は助手席へ乗った。
車が走り出してからもしばらく、会話はなかった。
外の景色は、昨日一昨日と比べて劇的に変わった感じはしない。普通に車が走り、歩道には買い物袋を提げた人が歩いている。コンビニも飲食店も開いているし、信号もいつも通り順番に色を変えていた。
ただ、意識して見れば昨日までとは違うものも少しずつ混ざっている。ドラッグストアの入口にはマスクや消毒用品の購入数を制限する紙が貼られ、駅前の大型ビジョンでは朝から何度も見た新宿の映像が繰り返されていた。信号で止まった時、瀬川が交差点の方を見ると、歩道にいる何人かも顔を上げてニュース画面を眺めている。
反対車線から救急車が一台サイレンを鳴らして通り過ぎ、少ししてもう一台が続いた。
警察が本当に今手薄なのかどうかは、瀬川には分からなかった。普段から街を走るパトカーの数など数えたことがないし、今日になって意識して探しているから少なく見えるだけかもしれない。
「本当に警察いねえな」
斎藤が言った。
「そうか?」
「なんか少なくね?」
信号で再び停まると、横断歩道を母親と小学生くらいの子供が渡っていった。二人ともマスクをしていたが、子供の方は顎までずり下げ、母親に何か言われて渋々鼻の上まで戻している。
6月の暑さなら無理もない。
斎藤もその親子を見ていたようだったが、横断歩道を渡り終えたところで視線を前へ戻した。
「なあ」
「ん?」
「俺ら今、犯罪者?」
瀬川は返事に困った。
「知らね」
「知らねって」
「犯罪だったら俺ら共犯だろ。新村もな」
「それはそう」
斎藤が少し笑ったので、瀬川もつられて笑った。
最初の仕事以来、前よりは斎藤と話しやすくなった。真面目に今やっていることが何罪になるのか、警察に見つかったらどうなるのかまで話し始めれば、余計なことを考える羽目になる。今は冗談にしておいた方が楽だった。
信号が青になり、車が再び動き出す。
しばらくすると、瀬川のスマートフォンにニュースアプリから通知が届いた。新宿駅周辺の交通規制がさらに拡大されたという速報で、現場周辺には警視庁の部隊が追加投入され、一部道路でも規制が始まっているらしい。
瀬川は画面を斎藤の方へ向けた。
「新宿の規制また広がったって。すごい数の警官いるらしいぞ」
斎藤は運転しながら一瞬だけ見た。
「やっぱりか」
届け先に着くと、知らない男が二人待っていた。片方は普通のシャツにジーンズ、もう一人は作業着のような服を着ており、特別に柄が悪いわけでもない。
挨拶らしい挨拶もなく、そのまま荷下ろしが始まった。男たちは箱の中身を確認することもなく、受け取るたびに数だけを確認している。瀬川たちも言われた通り車から段ボールを運び、最後の一箱を渡すと、新村と男の一人がスマートフォンの画面を見ながら短く何か話した。
それで終わった。
瀬川が想像していたようなことは、今日も何一つ起きなかった。警察が突然やってくることも、誰かに呼び止められることもない。男たちも普通に荷物を受け取り、最後には「お疲れ」とまで言った。
帰りの車に乗ってしばらくすると、瀬川は銀行口座を確認した。
15万円が振り込まれていた。
「入った?」
斎藤が聞いた。
「入った」
「俺も。早いな」
「うん」
瀬川はもう一度表示された数字を見てから、スマートフォンを閉じた。仕事は終わった。
窓の外では、交差点の大型ビジョンに新宿駅前が映っていた。規制線の向こうを防護服の警察官が歩き、その下には『政府 PMRS国内発生を正式確認』という文字が流れている。
斎藤も見ていたらしい。
「マジで、これからどうなるんだろうな」
瀬川は少しの間ビジョンを眺めた後、「さあ」とだけ返した。
車は信号を抜け、そのまま新宿とは反対の方向へ走っていった。




