国民の健康及び生活の安全の確保に関する法律案
2028年4月27日 東京都千代田区永田町 国会議事堂
衆議院第一議員会館の廊下を歩きながら、川村啓子は秘書の中田から渡された紙の束をもう一度めくった。
法案本文、政府提出の概要資料、前日までに受け取った答弁要旨、党の政策調査会がまとめた論点整理、その間には自分で書き込んだ付箋が何枚も挟まっている。赤い線が多いのは第二章と第五章で、同じ頁を何度も開いたせいか、角が少し反り始めていた。
「総理入り、最後の8分です」
中田が言った。
「分かってる。藤岡さんで時間使いすぎたら合図が欲しい」
「どうやってですか」
「時計指差すとか」
中田が苦笑したところで、廊下の先に見覚えのある男がいた。
吉岡だった。
川村より十歳以上年上で、国会議員としても長い。党内では安全保障や危機管理の話になると名前が出る人間で、川村が初当選した頃には、質問の作り方から官僚との付き合い方まで随分教わった。普段なら向こうから余計なことを一つ二つ言ってくるのに、その日は壁際に立ったまま紙コップを持ち、川村の姿を見つけても笑わなかった。
「川村、少しいいか」
吉岡が顎で廊下の端を示した。
川村は中田を見る。中田も何か察したらしく、少し離れた場所で立ち止まった。
吉岡は周囲を確認してから、声を落とした。
「今日、あんまり張り切りすぎるなよ」
川村は一瞬、意味が分からなかった。
「何の話ですか」
「この法案だよ。何を聞くのかは知らないが、この法案そのものを潰すことを目的にするなよ」
「……何故そんなことを?少し前まで、あの法案は相当まずいって言ってたじゃないですか」
「今でもまずいと思ってるよ」
眉間にしわが寄っている。渋い顔だった。
川村は法案を胸元へ抱え直した。
「じゃあ何ですか」
吉岡はすぐには答えなかった。人が通るたびに会話を切り、通り過ぎてから低い声で続ける。
「昨日の夜、俺含め何人かが政府側から説明を受けた」
「…?何の話ですか?」
「例の感染症だ」
"例の感染症"
川村も国会議員として官僚から説明を受けていたので知っている。
2月から、南アジアや中東の一部で、原因のよく分からない感染症が広がっている。高熱や意識障害、重い臓器障害を起こし、死亡率が高いらしいという報道は出ているが、感染経路も病原体もはっきりしない。現地当局が地域を封鎖した、病院で暴動が起きた、軍が出動したという映像も流れていたが、情報が錯綜していて、何が感染症そのものによるものなのかも分からなかった。
その傍らで、この類の出来事にはよくあることだが、死亡した患者が動いたとか、死体が人を襲ったとかいう話まで出回っていた。川村も何度か目にした覚えはあったが、まともに取り合うようなものではないと思っていた。
「もちろん深刻なのは分かっています。でも、言っては何ですがあの地域ではよくある事ではありませんか」
川村は吉岡を見た。
「一体、何を聞いたんですか」
「言えん」
「何故」
「権限がない。あの場に誰がいたかすら言えない。本当はこれもまずいんだよ」
川村は吉岡の顔を見ていた。
彼とは長い付き合いだ。与党が出してきた治安立法を一緒になって批判したこともあるし、災害対応の法案では逆に政府案へ賛成したこともある。何でも反対する頭の固い人間ではない。それだけに、吉岡の行動が理解できなかった。
「俺がお前に言えるのは……事態は、お前と俺が思うよりはるかに深刻かもしれないということだけだ」
川村は眉を寄せた。
「霞が関で俺の知らない何かが動いている。厚労省だけじゃない。警察も防衛も入って、法案を一気に仕上げてきた。俺はそれが気に入らん。ただ、だからこそ不穏なんだ」
川村は手元の法案へ目を落とした。
「だからって、こんな法に賛成出来ません」
「それはそうだ。だから聞け。条文を詰めろ。大臣から答弁を取れ。政府が後で好き勝手に解釈できないよう、記録に残せ。ただ、党も法案そのものを完全に止めるところまではやらないと思う。だから修正と附帯で落としどころを作る。我々とて殴られっぱなしは気が済まない」
廊下の向こうから、委員会室へ向かう議員たちが歩いてくるのが見えた。
吉岡は壁から背を離した。
「もう行け。遅れるぞ」
数歩離れたところで待っていた中田が近づいてくる。川村は歩き出しながら、もう一度吉岡を振り返った。
「頑張れよ」
今度はいつもの調子に近かったが、顔は笑っていなかった。
委員会室には既に半分以上の議員が入っていた。
与党側では若い議員が答弁資料らしい紙を眺めながら隣の席と話し、野党側では秘書から追加資料を受け取っている議員がいる。政府席にも職員が出入りし、机の上へ分厚いファイルを積んでいた。
川村が自席へ向かう途中、向こう側から来た与党議員が目を合わせた。
「川村さん、今日は長くやらないでくださいよ」
「大臣がちゃんと答えれば早く終わりますよ」
「難しい注文だ」
男は笑った。
普段なら川村も何か返したところだったが、さっきの吉岡との会話がまだ頭に残っていた。
与党と野党、右派と左派。敵味方に分かれているからといって、廊下ですれ違うたびに睨み合っているわけではない。昨日まで別の法案で一緒に修正協議をしていた相手と、今日は正面からやり合うこともある。それでも採決になれば、ほとんど全員が決められた側へ立つ。
中田が傍聴席側へ離れていく前に、小さく時計を指差した。川村も自分の腕時計を見る。
やがて委員長が席につき、室内の話し声が減っていった。
「これより内閣委員会を開会いたします」
出席者の確認と手続が進み、法案審査へ入った。
正式名称は、
《国民の健康及び生活の安全の確保に関する法律案》
政府は、国外で確認されている新型感染症を含む未知の健康危機に備え、既存の感染症法制、災害法制だけでは対応できない事態に備えるための包括的な法律だと説明していた。
題名だけを見れば、危険な法律には見えない。問題は中身だった。
午前中から何人もの議員が質問に立った。法案の必要性、感染症法との関係、自治体との権限分担、補償、個人情報、事業者への命令。政府側は、国外で極めて高い致死性が疑われる新たな感染症が広がりつつあり、今後同様の事態が国内で発生した場合に備えて一般的な制度整備を行うものだと繰り返した。
しかし感染症そのものについて聞かれると、感染経路も病原体も確認中、致死率も母数不足で評価できず、現地で軍や警察が出動している理由についても明言を避ける。分からないことが多い新型感染症を念頭に置いているにしては、法案だけはやけに作りこまれていた。
川村の番が来たのは午後だった。名前を呼ばれ、資料を持って質問席へ移る。
マイクを確認してから、正面の政府席を見た。
「野党共同会派の川村啓子です。まず藤岡厚生労働大臣に伺います。本法案について、政府は『未知の感染症その他の重大な健康危機に際して、国民の生命及び健康を保護し、国民生活の安定を確保するための法律』と説明されています。この理解でよろしいですね」
藤岡は答弁書へ目を落とした。
「お答え申し上げます。本法案は、近年の国際的な感染症情勢等も踏まえまして、既存の感染症法制のみでは十分な対応が困難となる重大な健康危機において、政府、地方公共団体その他の関係機関が迅速かつ一体的に対応できる体制を整備するものでございます」
「つまり、そういう法律だということでよろしいですね」
「はい」
川村は手元の法案を一枚めくった。
「では第二十七条について伺います。ここには、特定健康危機に際して、感染が確認された者だけではなく、『感染のおそれがあると認められる者』について、指定施設における緊急観察を命ずることができるとあります。これは検査で感染が確認されていない人も対象になるということですね」
「感染者との接触状況、滞在場所その他の客観的事情に照らして、感染している相当の蓋然性が認められる場合には対象となり得るものと考えております」
「症状がない人もですか」
「症状の有無のみをもって判断するものではございません」
「検査結果が陰性の場合は」
「検査の時期、精度その他の事情も考慮して個別具体的に判断することとなります」
川村は顔を上げた。
「では、健康で、症状がなく、現時点の検査でも感染が確認されていない国民を、行政の判断によって指定施設へ移すことがあり得る。そういう条文ですね」
与党側から「誘導するなよ!」と声が飛び、委員長がすぐに静粛を求めた。
藤岡は、単に疑いがあるだけで広く国民を対象とするものではなく、疫学的な関連性その他の合理的な根拠がある場合に限ると説明した。
「その『合理的な根拠』を最初に判断するのは誰ですか」
「国又は都道府県の指定機関が、専門的知見に基づいて――」
「裁判所ではありませんね」
「行政上の公衆衛生措置でございますので、事前に司法機関の判断を要する制度とはしておりません」
川村は条文へ目を戻した。
「医師の診察はどうですか。第二十七条第三項では、緊急を要するときは、指定医師による事前確認を経ないで措置を開始できることになっています」
「緊急の場合に限定した例外でございまして、措置開始後、速やかに医学的確認を受けることを義務づけております」
「つまり行政が感染の可能性があると判断すれば、裁判所の事前審査も、医師の事前診察もないまま、症状のない人間を施設へ移すことができる場合がある。私はその点を確認しています」
今度は野党側から声が上がり、与党側から何か言い返す声が重なった。
委員長が再び制した後、川村は国家公安委員長へ質問を移した。
「本人が移送を拒否した場合について伺います。第二十八条では緊急観察措置の執行に際して警察官へ援助を求めることができるとしています。対象者が車両への乗車を拒否した場合、警察官が身体を制止し、本人の意思に反して搬送することは可能ですか」
国家公安委員長は資料を確認し、対象者が正当な理由なく搬送を拒む場合には必要な援助を行うことが想定されていると答えた。
「援助の内容を聞いています。対象者の身体を拘束する等の強制措置で搬送することは可能ですか」
委員会室が少しざわついた。
「対象者の生命、身体の安全にも十分配慮した上で、法令の範囲内において必要最小限度の実力を用いることは、制度上排除されておりません」
川村は一度だけ頷いた。
「つまり、できると」
与党側から声が上がったが、川村はそちらを向かなかった。
次に第四十四条の指定業務従事命令へ移り、医療だけではなく、輸送、通信、燃料供給、食品、宿泊、建設、廃棄物処理なども対象となり得ること、正当な理由なく命令を拒否した場合には罰則があることを確認する。
「では要請ではありませんね。命令です」
「法律上は従事命令でございます」
「さらに第四十九条では、病院だけではなく、ホテル、倉庫、土地、車両、船舶その他の施設や物件を所有者の同意なく使用でき、物資については売渡しを命じ、応じなければ収用できる。これも間違いありませんね」
藤岡は、医療物資の輸送や隔離施設の維持には民間事業者の協力が不可欠であり、損失補償の規定を設けた上で必要最小限度において行うものだと説明した。
「先ほどから『必要最小限』と繰り返されていますが、その必要性を最初に判断するのも政府です。最初に行政判断がありますね」
少し間を置いてから、川村は別の資料を取った。
「続いて小鷹防衛大臣に伺います。第五十五条です。特定健康危機に際し、都道府県知事からの要請、または特に緊急を要する場合には要請を待たず、自衛隊の部隊を『健康危機対処派遣』として出動させることができるとなっています。患者及び住民の輸送、検疫、消毒、医療支援までは理解できます。なぜ、区域の封鎖、施設警備、対象者の搬送支援まで任務として規定しているんですか」
小鷹防衛大臣は、大規模な感染症の発生時には警察、消防、自治体その他の機関のみでは十分な対応が困難となる場合があると説明した。
「災害派遣では足りないんですか」
「もちろん既存の災害派遣による対応が可能な場合にはその枠組みを活用いたしますが、本法案では、重大な感染危機が長期化した場合における継続的な区域管理その他の任務について、明確な根拠を――」
「では第五十六条について聞きます」
川村は該当頁を開いた。
「健康危機対処派遣中の自衛官には、一定の場合に武器使用が認められています。自己または職務上保護すべき者の生命、身体を防護するため、やむを得ない必要がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用できる。人に危害を加えることが許される場合まで条文上用意されている。これは事実ですね」
「自衛官の生命又は身体を防護する場合その他、法律に定める極めて限定された要件の下での武器使用であり、一般的な実力行使を認めるものではございません」
「それは読めば分かります。私が聞いているのは、なぜ健康危機への対処で、自衛官が国内で人に対して武器を使わなければならない場面まで、政府が今から想定しているのかということです」
小鷹は、多数の住民が混乱状態となる場合や、危険物を所持する者が隔離施設等へ侵入する場合など、不測の事態への備えだと答えた。
「国外でいま起きている混乱は、治安悪化への備えとして説明できる。それなら警察を中心に考えるべきです。政府は、この新型感染症そのものが、自衛隊を武装させて投入しなければならない性質を持つと考えているんですか」
「特定の感染症について、そのような評価をしているということではございません」
「では何を想定しているんですか」
「感染症の性質、社会の混乱の程度その他によって様々な事態が生じ得るため、あらかじめ具体的な態様を限定して申し上げることは困難でございます」
川村は数秒黙った。
吉岡の言葉が頭をよぎった。向こうは何か知っている。
川村は頁をめくった。
「再び厚生労働大臣に伺います。第六十一条です」
藤岡が顔を上げる。
「ここには、『死亡後において感染を拡大し、又は他人の生命若しくは身体に危害を加えるおそれがある死体』について、指定職員、警察官または健康危機対処派遣中の自衛隊が、移動、収容、隔離その他必要な措置を講ずることができるとあります」
「はい」
「『感染を拡大するおそれがある死体』なら理解できます。感染症ですから。しかし、なぜ死体が『他人の生命若しくは身体に危害を加える』んですか」
藤岡は手元の資料を見た。
「感染性を有する体液への接触、病原体に起因する身体反応、処置中の事故その他、遺体に由来する危険を幅広く想定した規定でございます」
「体液への接触なら、前段の『感染を拡大するおそれ』で読めます。それ以外とは、例えば何ですか」
答弁が少し止まり、政府席の後ろで職員が紙を回している。
やがて藤岡が、国外では重度の神経症状や全身性の痙攣、意識障害など、既存の感染症では十分に整理されていない身体反応が報告されており、情報の信頼性を含め確認中であるため、包括性を持たせた規定だと答えた。
「死亡した後の話をしています。死亡した人間そのものが、他人へ物理的な危害を与える事態を政府は想定しているんですか」
委員会室が静かになった。藤岡はすぐには答えなかった。
川村にも、自分が妙な質問をしている自覚はあった。死体が自発的に人を傷つける。そういえばネットではそんな馬鹿げた話まで出回っていたが、まさか国会に出された法律の条文で向き合うとは思っていなかった。
藤岡は慎重に答えた。
「現在収集しております国外情報には、事実関係の確認に至っていないものが多数含まれております。政府として、確認されていない個別の事例を前提としてお答えすることは差し控えます」
野党側がざわつき、「未確認情報を根拠にしているのか!」と声が上がった。
「政府がそうした情報を法案の根拠にしているなら、その真偽を含めて国会に説明するべきではありませんか。海外で広がっている新型感染症について、政府は国会や国民に説明していない情報を持っていますか」
「政府として収集しております感染症に関する情報には、国外政府、国際機関その他から提供を受けたもの、確認途上のもの、情報提供元との関係から公表に制約のあるものがございます」
「それは、この法案の必要性を判断する上で重要な情報ですか」
「個々の情報の内容についてはお答えを差し控えますが、政府としては収集した情報を総合的に勘案し、必要な法制度を提案しております」
質問の答えになっていない。
川村はそれ以上追わず、資料を閉じた。
ちょうどそこで、委員長から総理出席のための短い休憩が告げられた。
再開までの十数分、委員会室の外は急に人が増えた。秘書や省庁職員が行き来し、総理の随行員が席を確認している。川村は廊下へ出て、紙コップの水を一口飲んだ。
中田が近づいてくる。
「予定より4分押してます。総理は8分です」
「分かってる」
そこへ吉岡が向こうから歩いてきた。
「お前、やっぱり張り切ったな」
「張りきった、のうちに入りません」
「カメラの前で随分思い切ったことを聞くな、と」
「書いてある事を聞いただけです」
吉岡は紙コップの水を持った川村をしばらく見てから、声を落とした。
「総理には何を?」
「この法律そのものについて。なぜ、ここまでの権限が必要なのか。それと、政府が何を知ってるのか」
吉岡の表情が僅かに変わった。
「ほどほどにしろ」
「またそれですか。いくら吉岡さんといえど、私にも曲げられないプライド、信念があるんです」
吉岡は何かを言おうとして、やめた。
「分かった。お前の好きにしろ。ただ、あいつらが本当に何か隠してるなら、委員会のテレビ中継で全部喋るわけがない」
「それでも記録には残ります」
吉岡は僅かに笑った。
「そう言うと思ったよ」
委員会室の方から再開を知らせる声がした。
「行ってこい。ただ、本当に少しは加減しろよ」
川村は返事をせず、中田から資料を受け取って委員会室へ戻った。
「これより内閣総理大臣出席の下、質疑を続行いたします」
園田内閣総理大臣が政府席に座っていた。
数人の質問を経て、川村の名前が呼ばれる。残り時間は短い。
「総理に伺います。この法案によって政府は、感染が確認されていない人間であっても本人の意思に反して指定施設へ移し、必要な場合には警察官の実力を用いることができます。民間の財産と労働力を動員し、自衛隊を国内へ展開させ、一定の場合には武器使用まで認めている」
園田は川村を見ていた。
「私は感染症対策が必要ないと言っているのではありません。感染者を隔離するなとも言っていませんし、政府が危機に備えて法的根拠を整えること自体にも反対していません」
川村は一度息を継いだ。
「しかし、これは通常の感染症対策法の範囲を明らかに超えています。政府が人を動かし、止め、収容し、民間の財産と労働力を使い、自衛隊まで動かすための非常事態法に近い。しかも政府は、その必要性の根拠となっている国外の感染症について、確認中である、公表できない、情報提供元との関係がある、と説明を避けている。なぜ国民にも国会にも十分説明できない危険を理由に、これほど広範な権限だけを先に政府へ与えなければならないんですか」
園田総理が咳払いをして答弁する。
「川村委員御指摘のとおり、本法案には国民の権利に一定の制約を及ぼし得る規定が含まれております。だからこそ、それぞれの措置について要件を法律上明確にし、国会への報告、事後的な審査、損失補償その他の手続を設けております」
総理は川村の目を見て続けた。
「重大な感染症の危機に際し、政府が法的根拠を欠いたまま、その場その場の判断で国民の権利を制約する。私はこれは法治国家として適切ではないと考えております。必要となる可能性のある措置について、あらかじめ国会の御審議をいただき、法的根拠と限界を定めておく。これは法治国家として必要な備えであります」
その答え自体に、川村は反論しにくかった。
「では総理、この具体的な権限は何を想定して設けたんですか。感染が確認されていない人を強制的に収容できる。警察だけでは足りず自衛隊まで動かす。武器使用まで用意する。そして、死亡した人間が他人の生命や身体へ危害を与える場合まで法律に書いてある。これを単なる将来への一般的な備えだと言われても納得できません」
委員会室が静かになった。
「総理。政府は国外で広がっている新型感染症について、我々が知らされていない重大な情報を持っているんじゃないですか」
園田はすぐには答えなかった。やがてマイクへ顔を寄せる。
「政府として収集しております感染症に関する情報には、国外の関係機関から提供を受けたもの、確認途上のもの、あるいは公表することによって情報提供元との関係に支障を生じ得るものがございます。そうした情報の一つ一つについて、この場で有無を含めてお答えすることは差し控えます」
川村は総理から目を離さなかった。
「最後に一点だけ伺います。国民に説明できない危険を根拠に、国民の自由を制限する法律だけ先に成立させることが、本当に適切だとお考えですか」
園田は少し間を置いた。
「国民の生命に重大な危険が生じてから法制度の不備を悔やむことがないよう、必要な備えを進めることは政府の責任であります。同時に、国民への情報提供につきましても、情報の正確性を確認し、関係国との調整を行った上で、適時適切に行ってまいります」
質問時間終了を知らせる表示がゼロになった。川村は時計を見てから、マイクへ向き直った。
「終わります。ただ、政府が国民への十分な説明を欠いた状況で、政府の裁量だけを広げるこの法案に、私は賛成できません」
席へ戻る途中、野党側から机を叩く音がした。
その日の夕方、委員会は法案の採決へ進んだ。
野党側の一部は継続審議を求めていたが、党執行部は審議拒否には踏み切らなかった。数日前まで徹底抗戦を口にしていた議員の中にも、朝から妙に静かな者がいた。
川村には、その理由が何となく分かってしまった。
討論へ入り、賛成、反対双方の意見が読み上げられた後、採決が行われた。
「本案に賛成の諸君の起立を求めます」
人が立った。川村の正面にいた与党議員も立っていた。
「起立多数。よって、本案は原案のとおり可決すべきものと決しました」
それで終わりだった。
資料を読み込み、何時間質問しても、最後の採決そのものは数十秒だった。
法案は翌28日に衆議院本会議を通過し、参議院へ送付された。
ーーー
5月4日、WHOが緊急記者会見を開いた。
それまで原因不明の感染症として扱われてきた症例について、死後運動再活動症候群――PMRSという呼び名が示され、死亡が確認された患者に説明のつかない運動の再開が見られること、再活動した患者による攻撃的な行動、咬傷などの体液曝露による感染が確認されていることが公表された。
数日前まで怪情報の一つだった話を、今度はWHOが公式に認めた。
川村が思い出したのは、第六十一条だった。
政府は法案を作った時点で一体全体何を知っていたのか。死体が起き上がる、それだけなのか。
連休明けの8日、法案は参議院でも可決されて成立し、その日のうちに公布された。附則により翌9日から施行されたが、法律に定める強制措置の大半は、政府が特定健康危機を指定するか、さらに重大な場合には感染災害緊急事態宣言を発出しなければ動かない仕組みになっていた。
翌日、5月10日深夜。
23時を過ぎても、川村の都内事務所には明かりがついていた。
国会議員になってから、深夜まで資料を読むこと自体は珍しくない。翌週の委員会質問があり、地元から上がってきた陳情があり、党内会議の資料があり、そのどれも誰かが読まなければ机の上に残り続ける。
中田はネクタイを外して椅子の背へ掛け、コンビニで買ったおにぎりの包装を丸めていた。
テレビだけが音を出している。
WHOの会見以降、PMRSという呼び名は急速に定着した。国外では都市封鎖が行われ、軍が投入され、病院の機能停止や大規模な避難が報じられている。それでも日本政府は、国内でPMRSへの感染が確認された事例はないとしていた。
画面がスタジオに切り替わる。
『政府は本日、PMRSを憂慮すべき新型感染症として「特定健康危機」に指定しました。これにより、同法に基づく感染疑い者への健康観察や、一定の場合の強制的な搬送などが可能となります。政府は今回の指定について、国外での感染拡大を踏まえた予防的な措置だと説明しています』
川村が顔を上げる。
その後、専門家らしい人物が制度の説明をし、次のニュースは為替と株価だった。
川村はテレビを見たまま言った。
「終わり?」
中田も画面を見る。
「あれだけ揉めた法律が、これだけ?」
「海外の方が映えますからね」
「そういう問題かしら」
「先生、テレビ局に電話します?」
「しないわよ」
中田が笑い、丸めた包装をゴミ箱へ投げた。
川村は机の上の資料へ目を戻した。そこには、翌週の委員会で提出する予定の質問項目が並んでいる。
緊急観察措置の対象者の選定基準。指定施設の数と所在地。指定医師による事前確認を省略する場合の基準。警察援助を伴う搬送の運用。
2週間前の審議では将来の話だったものが、法律の施行から1日で実際の運用を尋ねる話へ変わっていた。
川村は赤いペンで一か所に線を引いた。
「中田、この『警察援助を伴う搬送の運用基準』、政府から資料来た?」
「まだです。今日も催促しました」
「いつまで確認中なのよ」
「明日の午前中までにはって」
「何回目なのよそれ」
中田は苦笑しながら席へ戻った。
テレビからは明るいCMの音が流れている。
川村は手元の資料を見たまま、4月の委員会を思い出していた。
あの時、吉岡は何かを知っていた。園田総理も、藤岡も、小鷹も、少なくとも自分たち一般の議員よりは知っていた。
今は少しでも情報格差を埋めなくては。
インターホンが鳴ったのは、その時だった。
2人とも時計を見る。
「来客のアポはないはずだけど」
中田が立ち上がり、入口横のモニターを確認した。
画面の前に男が立っている。濃い色の上着を着ており、その後ろにも人影があった。
「宅配じゃないですよね」
「こんな時間に来ないでしょう」
中田が通話ボタンを押した。
「はい」
『川村啓子衆議院議員事務所でよろしいでしょうか』
「そうですけど」
『内閣健康危機対策本部の者です。中田和彦さんはいらっしゃいますか』
中田が川村を見る。
「僕?」
川村は立ち上がった。
「何の用件か聞いて」
「御用件は何でしょうか」
『健康安全確保法に基づく措置について御説明に参りました。身分証を提示しますので、開錠をお願いします』
川村がモニターへ近づく。
「対策本部のどこの部署ですか」
『緊急観察調整室です』
「担当者の名前は」
男が姓と所属を答えた。
川村は数秒考えた後、中田へ言った。
「開けて。廊下で話しましょう」
「いいんですか」
「誰かに見られたら困るわ」
中田が扉を開けた。
外には4人いた。先頭の男は紺色のスーツを着ていて、首から身分証を下げている。その後ろにも同じ格好の男がいた。
残る2人は違った。
黒に近い防護装備の上から防弾衣を着け、手袋と透明な顔面保護具を装着している。胸元には小さな《POLICE》の表示があり、1人は長い銃を身体の前へ下げていた。
川村はその銃を見てから、先頭の男へ目を戻した。
「お茶でもお出ししましょうかしら」
「夜分に失礼いたします。内閣健康危機対策本部、緊急観察調整室の杉本です」
身分証が差し出された。
川村は手に取らず、表示だけを確認した。
杉本はタブレットを開く。
「中田和彦さんに、本日22時48分付で、国民の健康及び生活の安全の確保に関する法律第二十七条第一項に基づく緊急観察措置が決定されています。指定観察施設へ搬送しますので、必要最小限の所持品をお持ちの上、同行してください」
中田はしばらく答えなかった。
川村が先に口を開いた。
「つまり彼の感染が確認されたんですか」
「いいえ」
「症状は?」
「現在確認している範囲ではありません」
中田が自分を指した。
「僕、何ともないですけど」
杉本はタブレットを操作した。
「5月9日午後、議員会館内で面会された来訪者のうち1名が、現在PMRSに係る緊急観察対象となっています。入館記録及び面会記録から、中田さんには一定時間の同室歴が確認されています」
中田が川村を見る。川村にも覚えがあった。
運輸関係の団体から来た3人と話した日だった。翌週の物流政策についての要望で、中田が主に対応し、川村自身も本会議へ向かう前に十数分だけ顔を出した。
「その来訪者は感染者なんですか」
「個別の対象者に関する情報ですので、お答えできません」
「感染が確認されているかどうかも?」
「お答えできません」
「何の情報も共有されないで、中田を連れて行くんですか?」
「緊急観察措置は、感染確認を要件としておりません」
2週間前に聞いた答弁と、ほとんど同じだった。
川村は杉本のタブレットを指した。
「通知を見せてください」
杉本が画面をこちらへ向ける。
対象者の氏名、措置決定時刻、法的根拠が表示され、搬送先については「指定観察施設」とだけ記載されていた。川村は下まで読んだ。
「指定医師の事前確認がないですね」
「緊急措置として開始されています。医学的確認は搬送後、法定時間内に行います」
「本人が拒否した場合は」
「第二十八条に基づく搬送措置へ移行します」
「警察官の援助を受けて?強制的に?」
「必要がある場合には」
川村は後ろに立っている警察官を見た。
中田も同じことを思ったらしく、小さく息を吐いた。
杉本が続ける。
「現在のところ、中田さんが感染していると判断されているわけではありません。指定施設で医学的確認を受け、措置を継続する必要がないと判断された場合には解除されます」
「何時間ですか」
「原則として24時間以内に医学的確認を行います。その後については確認結果及び接触状況によります」
「仕事があるんですけど」
「承知しています」
中田が困ったように川村を見る。
「拒否したらどうなります?」
杉本の口調は変わらなかった。
「緊急観察措置への自発的な同行に応じていただけない場合には、法に基づく搬送措置を執行します」
川村が横から言った。
「有無を言わさず連れていくといいなさいよ」
杉本は川村を見る。
「法律上の手続を御説明しております」
「えぇもちろん知ってますとも。あなた方の誰よりも法案を読み込んだ自信がありますからね」
川村は中田へ向き直る。
「党本部に電話して。顧問弁護士にも。通知の画面も撮らせてもらって」
中田がスマートフォンを取り出した。杉本は止めなかった。
「連絡を理由として措置の開始を延期することはできません」
「5分くらい待てるでしょう」
「申し訳ありませんが、私が判断することではありません」
「誰なら判断できるんです」
「措置決定機関です」
「そこへ電話してください」
「執行段階で措置の停止を求める手続にはなっておりません」
川村は数秒、杉本を見た。
4月の法案審議で、事後審査がある、異議申立てができる、必要がなくなれば速やかに解除する、と政府は何度も説明していた。
その言葉がどういう意味だったのか、今になってよく分かった。
まず連れていく。争うのはその後だった。
中田がスマートフォンを耳に当てたまま言った。
「党本部、誰も出ないです」
「当直は」
「今かけてます」
杉本がタブレットを操作した。
「それから、川村先生」
川村は顔を上げた。
「何ですか」
「先生についても、同時刻付で緊急観察措置が決定されています」
中田の動きが止まった。
川村も、すぐには言葉が出なかった。
「……私も?」
「はい」
杉本が別の通知を表示する。
対象者の欄には、川村啓子と書かれていた。その下には、第二十七条第一項。
2週間前、自分が何度も読み上げた条文だった。
「私はあの面会、15分もいなかったはずよ」
「はい。ただ、中田さんを含む接触者と継続的な接触があること、当該事務所内に長時間滞在していること、その他の事情を総合し、措置対象と決定されています」
「ならば私は二次接触でしょう」
「措置対象は、感染が確認された方との直接接触者に限定されておりません」
「症状はない」
「承知しています」
「検査もしていない」
「感染確認は措置の要件ではありません」
また同じ言葉だった。
川村は通知書を見たまま、ゆっくり息を吐いた。法律が施行されたのは昨日で、PMRSが特定健康危機に指定されたのは今日だというのに、対象者の接触歴は既に拾われ、夜には担当者と武装した警察官が事務所まで来ている。
「誰が私を対象に決めたんですか」
「通知書記載の指定権者です」
川村は決定者欄を見る。
厚生労働省から対策本部へ出向しているらしい官僚の名前だった。知らない名前だ。
「その人が、私の接触状況を見て決めた?」
「制度上はそのようになります」
「私がこの法律に反対していたことは、判断材料に入っていますか」
初めて、杉本の返答が一瞬遅れた。
「措置決定の理由として私どもに示されているのは、感染曝露の可能性に関する情報のみです」
「質問に答えてください」
「政治的立場を理由として措置対象を選定する制度ではありません」
「制度の話はしていません。私の決定に入ったかと聞いています」
「お答えしかねます」
川村は追及しようとしたが、中田がスマートフォンを耳から離した。
「先生、当直につながりました。今、国対に回すって」
「代わって」
川村が手を伸ばす。
杉本は時計を見る。
「申し訳ありませんが、これ以上は待てません」
「国会議員本人が党の国対と連絡を取ってるんですよ」
「連絡を継続されることは妨げません。移動中にも可能です」
「どこへ連れていくかも言わないのに?」
「指定施設は移動開始後に通知されます」
川村は中田のスマートフォンを受け取りかけて、やめた。
そのまま杉本を見た。
「同行を拒否します」
「先生」
中田が言った。
川村は中田を見た。
「あなたは自分で決めなさい」
中田は数秒迷った後、スマートフォンを下ろした。
「……僕も拒否します」
杉本は一度だけ頷き、タブレットへ入力した。
「中田和彦さん、川村啓子先生、双方について自発的な同行の拒否を確認しました。第二十八条第二項に
基づく搬送措置へ移行します」
後ろにいた警察官2人が前へ出た。
中田が一歩下がる。
「ちょっと待ってください。電話だけ終わらせます」
「中田さん、抵抗しないでください。電話はそのままで構いません」
警察官の1人が中田の腕へ手を掛け、もう1人が反対側へ回った。
川村はその間へ入ろうとしたが、杉本が前に出る。
「先生、離れてください」
「本人は逃げようとしてないでしょう」
「安全に搬送するためです」
「銃まで持ってきて?」
杉本は答えなかった。
警察官の1人が川村の前へ回る。間近で見ると、透明な顔面保護具の奥の男は川村よりずっと若かった。
「川村先生、これから腕に触れます。抵抗しないでください」
「私は国会議員ですよ」
言ってから、自分でも嫌な言葉だと思いつつ続ける。
「国会議員だから特別扱いしろと言ってるんじゃない。ただ感染確認もなしに、深夜に武装した警察官まで連れてきて拘束する。その意味が分かっていますか」
「私からお答えできることではありません」
「そうでしょうね」
川村は腕を差し出したわけではなかったが、振り払うこともしなかった。
警察官が両腕の位置を確認しながら、身体の横へ付いた。
「中田、時間」
中田が壁の時計を見る。
「23時41分です」
「覚えておいて」
2人は事務所から出された。廊下には誰もいなかった。
エレベーターを待つ間、中田はまだスマートフォンを持っていた。画面には通話中の表示が出ていたが、向こうから誰かが呼び掛けても、警察官に挟まれたままではうまく話せないらしい。
1階へ降りると、夜間警備の男がカウンターの向こうからこちらを見た。驚いた顔をしたが、杉本が身分証と書類を提示すると、何も言わなかった。
自動ドアの向こうに、黒いワンボックスが停まっていた。
車体に組織名も官公庁の標章も見当たらず、窓には濃いスモークが入っている。
杉本が後部ドアを開け、川村は車内へ入った。
後ろからドアが閉まると、しばらくしてエンジンが掛かり、車がゆっくり動き出す。
窓は黒く、外から中は見えなかった。




