巡礼
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2028年6月13日 イラン テヘラン
ハディ・サントソがインドネシアを出国したのは4月27日で、中部ジャワの町からバスを乗り継いで首都ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港まで行き、そこからサウジアラビアへ向かう予定を組んでいた。
目的地はメッカ。一定の条件を満たすイスラム教徒に生涯一度義務づけられる、ハッジと呼ばれる大巡礼を果たすのが目的だった。57歳になったハディにとっては、これが初めての巡礼になる。旅といっても、出発から帰国までの予定はほとんど決まっていた。どこの空港から何時の便に乗り、どこで宿泊し、いつ巡礼に入り、何日にインドネシアへ戻るのか。旅行書類と一緒に渡された日程表には、毎日の予定が細かな字で印刷されている。ところが、実際の旅はほとんどその通りに進まなかった。
飛行機がインドネシアを離れて数時間もすると、機長から行き先変更の説明が入った。ハディには英語もアラビア語も十分には分からないため、同行していた人間同士で話をつなぎ合わせ、ようやく到着予定のサウジ側で何か問題が起きているらしいと知る。その後もアナウンスは何度か続き、到着地についての説明も二転三転した。予定到着時刻を大幅に超え、最終的に飛行機が降りたのはサウジアラビアではなく、イランの首都テヘランにあるエマーム・ホメイニー空港だった。
着陸してもすぐには機外へ出られず、防護服を着た人間が乗り込んできて何人かの体温を測り、体調を尋ねて回る。乗客も何組かに分けられ、そこからさらに長い時間を待つことになった。燃料補給でもするのだろうとハディは考えていた。ところが機外へ出されても搭乗口へは向かわず、そのまま駐機場の一角へ集められる。日差しは強く、舗装された地面からの照り返しもきつい。日陰らしい日陰もない場所で長いこと待ち、夕方になってようやくイラン側が用意したバスへ乗ることができた。
バスが向かった先は、空港からしばらく走ったところにあるホテルだった。最初に聞かされた滞在期間は48時間だったが、翌日には72時間となり、さらにその翌日には一週間へ延びた。部屋に監禁されているわけではないものの、ホテルの外へ出ることは認められない。朝と夕方に体温を測り、食事は決まった時間に配られる。インドネシア大使館の人間も何度か訪れ、サウジ側やイラン当局と調整しているので待ってほしいと説明していった。ハディたちにできることは、ただ待つことだけだった。
廊下の奥にある自動販売機の商品は少しずつ減っていき、ろくに補充されないまま、ついにはすべて売り切れた。ロビーのテレビも、最初の頃にはスポーツやドラマを流していたのに、日が経つにつれてニュースばかりを映すようになる。国外の都市では道路が封鎖され、病院の前に軍用車両が並び、大勢の人間が空港へ押しかけている。そうした映像をハディは何度も目にした。
ホテルの窓から見えるテヘランも、滞在が長引くにつれて様子を変えていく。夜になると遠くで赤色灯が動くことが増え、幹線道路には検問が設けられる。時々、軍用車両らしいものが何台も続けて走っていき、ホテルでは従業員の数が減って、清掃も毎日ではなくなった。それでも水は出て、食事も届く。電気が使えるのでスマートフォンを充電でき、家族への連絡も続けられた。彼らの言う通り、待っていれば何とかなるのだろうと、ハディはまだ考えていた。
5月に入ると、持ってきた日程表の上で巡礼の予定日が一つずつ過ぎていった。本来ならアラファトへ向けて出発しているはずの日、ハディはイランのホテルでベッドに腰掛け、膝の上へ日程表を広げていた。印刷された日付をしばらく眺めたあと、紙を折り畳んでバッグへ戻す。数日後、スマートフォンのニュースを見て、今年のハッジの日程がすべて終わったことを知った。メッカへ移動できるかもしれないという話を待っている間に、参加するはずだった巡礼そのものが終わっていた。それからは、もう日程表を開かなかった。
6月に入ってようやく、大使館から帰国便を確保できたという知らせが届いた。ホテルに残っていたインドネシア人のほとんどがその話を聞いて喜び、巡礼を果たせなかったことよりも、一か月以上足止めされた異国から家へ帰れることに安堵しているように見えた。その日のうちに家族へ電話をかける者や、廊下で荷造りを始める者も出てくる。
出発日当日、ハディも自分の部屋で荷物を広げていた。ベッドの上には着替えと洗面用品、薬、充電器、モバイルバッテリー、パスポートを入れた小さなケースが並んでいる。使わなかった巡礼用の白い布も、畳んだままその中に残してあった。ハディは充電ケーブルを丸め直し、バッグの横ポケットへ入れた。何週間も自分の整備工場から離れているせいか、指先が妙にきれいになっている。普段なら爪の隙間には洗っても落ちきらない油汚れが残るのに、ここへ来てから機械らしい機械には一度も触れていない。仕事をしていた頃の名残といえば、すっかり固くなった指の皮くらいのものだ。
部屋の扉が開いた。
「まだ終わってないのか?」
同じ階に泊まっていたアグスが顔を出した。彼とはこの1か月あまりで随分話すようになった。出身地も仕事も随分と違うが、このわけのわからない事態を共に経験していくうちにある程度彼とは見知った関係にもなった。アグスは既に上着を着ており、肩には小さなバッグを掛けている。
「バス、あと40分だぞ。下はもう荷物を積み始めてる」
「僕は乗らないよ」
ハディはモバイルバッテリーの残量を確認しながら答えた。アグスはしばらく扉のところに立っていた。言っている意味がわからないと、目を丸くしている。
「…なんだって?それはバスにか?」
ハディは頷いた。
「さっき大使館の人にも話してきた。僕は帰国しない」
アグスは部屋へ入り、開いたままのスーツケースとベッドの荷物を交互に見た。
「お、お前、昨日までそんな...。何故?」
ハディは白い布をバッグの一番下へ入れ、その上から着替えを重ねた。アグスがベッドの端へ手をついた。
「帰国しないってお前それ正気で言ってんのか?この飛行機しかないって言ってただろ。これに乗らなかったら、お前本当に...」
「それは聞いたよ。承知の上だ」
「何故乗らないんだ?家族や友人が心配じゃないのか?僕だって家族が心配だ。妻からは毎日のように電話が来るし、俺は娘をこの手で抱きしめられなくて今にも気が狂いそうなのに。お前、ようやく国に帰れるんだぞ」
アグスの声は途中から少し大きくなった。廊下を通りかかった誰かが部屋の中を見たが、そのまま歩いていった。ハディはバッグのファスナーを途中まで閉じ、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
「アグスは帰った方がいいよ。みんな、そうした方がいいと思う」
「俺は今お前の話をしてるんだ」
「わかってるとも」
アグスは苛立ったように一度息を吐いた。
「じゃあ、帰国しないでどうするつもりなんだ。イラン観光でもするつもりか?この状況で?」
ハディはバッグの中をもう一度確認してから、開いたままのファスナーに手をかけた。
「ここには残らないよ。僕はメッカへ行くつもりだ」
アグスは返事をしなかった。廊下ではスーツケースの車輪が床を転がる音がしていた。
「メッカってお前…ハッジはもう終わったんだぞ」
「知ってるよ」
「...今から行ったって、今年のハッジにはならない」
「それも分かってる」
アグスは額を手で押さえた。
「お前、本気で言ってるのかそれは。家族を国に残して一人メッカまで行くってのか!?今から!?お前メッカがどこにあるのか分かってんのか!?」
ハディはすぐに答えず、手の中のスマートフォンを見た。何度縮小しても、メッカは遠かった。
「うーん。うまく説明できないな。もう終わってしまったのは分かってるよ。でも、何というかな。ここまで来てメッカへ行かずに帰ることを、僕はまだ受け入れられないんだ」
ハディはスマートフォンの画面を消してテーブルへ戻した。
「僕はね、若いころから妻と、子供たちが大きくなったら2人で一緒に行こうってずっと話してたんだ。僕がいなくても工場が回るようになったり、或いは畳んだりして余裕が出来たらね。お金も貯まってるだろうから、その時に行こうって。まぁ結局、いろんな入用があって今までずっと先延ばしになってしまったんだけど」
アグスは黙って聞いていた。ホテルへ来てから、妻が既に亡くなっていることは話していた。何年も前に病気で亡くなったことも、それでも数人の仕事仲間たちとまだ細々と工場を続けていることも。
「やっとなんだ。念願なんだ。それなのに僕はまだサウジアラビアにすら入れていない」
「でも...来年があるだろ」
「あるかもしれないね。来年また日常が戻ってきて、僕も元気なら、行けるかもしれない」
アグスが黙った。ハディ自身、口にしながら、それがいくつ条件の重なった話なのかを数える気にはならなかった。彼はもう57歳。若くはない。
「だからって、ここからメッカまで行くつもりなのか?飛行機も飛んでないんだぞ」
ハディはスマートフォンの地図をもう一度開いた。
「別に無計画に行こうってわけじゃないよ。ホテルの人に聞いたら、南へ行くバスはまだ動いてるらしい。まずコムって街まで行ける。そこから先も、動いているバスがあれば乗るし、乗せてくれる車があれば頼む。歩かなきゃならないところは歩く。宿がある町では宿に泊まる」
指で地図を動かす。
「昔から陸路で巡礼へ向かった人はいくらでもいるんだ。今は道路も町もある。僕だって砂漠の真ん中を突っ切るような無謀なことはするつもりはないよ」
もっとも、今の状況で57歳の男が一人、テヘランからメッカまで陸路で向かうこと自体、十分に無謀な話だという自覚はハディにもあった。ただ、その考えは胸の内にしまったまま、アグスには見せなかった。
「国境だって閉じているだろう」
「かもしれないね。でも行ってみないと分からない」
「それを計画があるとは言わないだろ」
アグスは呆れたように言った。ハディは少し笑った。
「ニュース見てないとは言わせないぞ。イランだってこの有様なのに、イラクやクウェートや、そしてサウジアラビア自体がどうなってるか分かっていないのか?」
「分かるよ」
「じゃあ、あんな死人共に襲われたらどうするんだ。死んだ人間が土にも還らず、人を襲って肉を噛みちぎるんだぞ。お前まであんな姿になって、誰にも身体を清めてもらえず、祈りも受けられず、最後はどこかの道端で頭を砕かれて終わりかもしれない。そんな死に方をして、ちゃんと天国へ行けるのかだって…。それに道が閉鎖されていたら?途中で大けがを負ったら?それでも行くのか?」
「僕だって死にに行きたいわけじゃない。危ないと思ったら進まないし、道が閉じていたら待つ。戻れるなら戻る。それくらいはちゃんと考えてるよ」
ハディがそう言うと、アグスは口を閉じた。ハディはスマートフォンを持ち上げた。
「こいつが動く間は頑張ってもらうよ」
アグスは大きく息を吐き、椅子を引いてハディの前へ座った。
「お前、いつからそんなこと考えてたんだ」
「昨日の夜からかな」
「昨日?」
「帰国便が決まって、荷物をまとめてた時に考えた。この飛行機に乗ったら、僕は多分もうここへ戻ってこないんだろうなって」
ハディはベッドの上に残っていた薬を小さな袋へまとめた。
「僕の故郷からここまで来るのに、ずいぶん時間がかかってしまったよ。妻にも先立たれてしまった。それでもようやくここまで来た。なのに、メッカと反対方向の飛行機に乗って帰ってしまうのは、少し嫌なんだ」
アグスは何も言わなかった。
「妻が今ここにいたら僕を止めてると思うな。あの人は僕よりずっと現実的だった」
思い返すと、ほとんど確信できた。工場で仕事が長引いて夕食の時間を過ぎただけでも電話を寄越す人だった。こんな状況でテヘランからメッカへ行くなどと言えば、何を考えているのかと怒られただろう。それを想像すると、可笑しい気持ちになった。アグスは両手を組んで俯いたまま言った。
「息子さんたちはまだ元気にしているんだろ。だったら帰れよ。上の子はジャカルタに、下の子はシンガポールにいるんだろ。インドネシアから会えない距離じゃない」
ハディはファスナーを最後まで閉じた。
「あの子たち2人とも僕なんかよりはるかに頭のいい子たちだ。家族を持って、自活している。僕が何かしてやらなきゃ生きていけない歳じゃない」
「心配じゃないのか?」
「心配だよ」
ハディはアグスを見た。
「でも、ずっとあの子たちには自分のことは自分で決めろって言って育ててきたからね。父親だけ例外というのも、少し格好が悪い」
ハディは少し照れくさくなって笑ったが、アグスはにこりともしなかった。廊下から声がした。
「アグス! 荷物もう積むぞ!」
アグスが振り返る。
「あぁ、今行く!」
返事をしてから立ち上がったが、すぐには部屋を出なかった。
「仮にだぞ」
アグスは扉の前でハディを見る。
「本当にメッカまでたどり着けたとして、その後どうするんだ。どうやって国に帰るんだ?」
それについては、昨夜から何度考えても答えが出ていなかった。
「そこまでは決めてないよ」
アグスの顔が歪んだ。
「お前なあ」
「着いてから考える。もしかしたら飛行機か、船で帰れるかもしれないし、大使館に相談できるかもしれない。その時また考えるよ」
アグスは髪をかき上げ、ハディには聞き取れない声で何かぶつぶつ言った。
「いいか。気が変わったら、すぐ下に来い。バスが出るまではまだ時間があるからな。バスに乗れなくても、空港につけば多分飛行機には乗せてもらえると思う」
「分かった」
「本当に分かってるのか、お前は」
アグスはハディに近づくとハディの肩を強く叩き、目を見て強く頷くとそのまま部屋を出ていった。
ハディはしばらく椅子に座っていた。廊下から人の声が減っていく。スマートフォンを取り、メッセージアプリを開いた。家族のグループには、昨日、自分が帰国便に乗ると送ったばかりだった。長男からは《空港に着いたら連絡して》と返ってきている。次男からも、飛行機がどこを経由するのか分かったら教えてくれとメッセージが来ていた。ハディは文字を打った。
《今日の飛行機には乗らないことにした。僕は元気だから心配いらない。メッカに行くことに決めた。夜にまた詳しく連絡する。》
送信して、既読が付く前に画面を閉じた。
荷物を持ってロビーへ下りると、入口の前には大型バスが停まっていた。ホテルに残っていたインドネシア人たちが次々に荷物を預け、名前を確認してもらっている。何週間も同じ建物にいた人たちが、久しぶりに出発する旅行客らしい姿へ戻っていた。ロビーの隅には大使館の職員が何人か立っている。ハディが近づくと、そのうちの一人がすぐに気づいた。
「サントソさん」
朝に話した職員だった。
「もう一度確認しますが、本当に搭乗されませんか」
「はい。すみません。せっかく席を用意してもらったのに」
「謝る必要はありませんが、我々としては帰国を強くお勧めします。今後、同じような便をいつ確保できるか分かりません。国内移動についても状況が変わっていますし、陸路でサウジアラビアへ向かわれるのであれば、大使館として移動の安全を保証することはできません」
「分かっています」
職員は手元の書類を確認した。
「イラン側との手続きは済んでいますので、ホテルを出ること自体に問題はありません。ただ、地域によっては外出制限や検問があります。必ず現地当局の指示には従ってください」
ハディは頷いた。
「この電話番号は、まだ使えますか?」
大使館から渡されていた緊急連絡先をスマートフォンで表示する。職員は番号を確認した。
「現時点では使えます。ただし、通信状況によって繋がらないことはあります。それから、国外へ移動された場合は、その国のインドネシア公館にも連絡してください」
「分かりました。ありがとうございます」
職員は書類の一か所を示した。
「では、帰国便を利用しないという意思確認だけ、こちらに署名をお願いします」
ハディはペンを借り、名前を書いた。何十年も工場の伝票や部品の受領書へ書いてきたのと同じ署名だった。
外へ出ると、既にほとんどの人がバスへ乗っていた。アグスが窓際の席からこちらを見つけ、手を上げた。ハディも手を上げる。バスの扉が閉まった。しばらくエンジン音だけが続き、入口にいた職員が合図すると、車体がゆっくり動き始めた。アグスは窓越しにまだこちらを見ていた。ハディはバスが道路へ出て見えなくなるまで、その場に立っていた。残ったのはハディと、入口で警備をしているイラン人の男、それに荷物を片づけているホテルの従業員くらいだった。
スマートフォンが震えた。長男からだった。
《何を言っているんだ父さん》
続けて長男から着信が来る。ハディは画面を見たが、今は出なかった。拒否もせず、鳴り終わるまで待ってからポケットへ戻した。夜には話すと送った。それまでは、自分の考えをもう少しちゃんと説明できるようにしなくてはいけない。
フロントで南へ向かうバスについて尋ねると、従業員はスマートフォンの翻訳画面と紙の地図を使いながら、テヘラン南部のバスターミナルを教えてくれた。コム方面なら、少なくとも今日の便はまだ出ているらしい。ホテルの前でタクシーを呼んでもらった。車が来るまでの間、ハディはスーツケースの伸縮式の取っ手を何度か動かした。途中で少し引っ掛かる。何度か上下させていると、右側だけわずかに遅れて伸びていることが分かった。こんな時でも、気になるものは気になる。自分の工場なら工具を出して開けているところだったが、今はどうしようもない。壊れるまでは使えるだろうと判断して、そのまま取っ手を縮めた。
黄色いタクシーがホテルの前へ入ってきた。運転手にスマートフォンで行き先を見せ、荷物をトランクへ入れる。後部座席へ座ると、車はホテルを離れた。窓の外を、テヘランの街が流れていく。開いている店もあれば、シャッターを下ろしたままの店もある。交差点には警察車両が停まり、少し大きな道路へ出ると、土嚢と柵で車線を絞った検問所を通った。兵士が車内を一度覗き込み、運転手から何か説明を受けると、そのまま通された。道路には普通の乗用車も走っていた。バイクもいる。歩道では買い物袋を持った女性が歩き、路地の入口では男が2人、故障したのか停めた車のボンネットを開けて中を覗き込んでいる。
南部のバスターミナルに着くと、ハディは翻訳アプリを使いながらコム行きの窓口を探した。電光掲示板には行き先がいくつも並んでいたが、半分近くには赤い表示が付いていた。ペルシャ語の表示を読めないハディには何が書いてあるのか分からない。それでも窓口でスマートフォンに表示した《Qom》の文字を見せると、係員は時計を指し、紙の切符を一枚出した。16時20分。まだ1時間以上あった。
ハディは待合室の椅子へ座り、足元にスーツケースを置いた。スマートフォンの地図を開く。テヘランからコムまでは、画面上ではそれほど遠く見えない。そこから先へ地図を動かすと、道路はさらに南西へ伸びている。国境を越え、イラクを通り、その先にサウジアラビアがある。メッカを表示させるには、何度も画面を縮小する必要があった。ハディはしばらくその地図を見てから、もう一度拡大した。表示はテヘランとコムの間へ戻った。
16時を少し過ぎると、係員が何かを呼び、周囲に座っていた人たちが立ち上がった。ハディも切符を確認し、同じ方向へ歩いていく。停車場には古い大型バスが待っていた。スーツケースを荷物室へ預け、階段を上がる。車内には既に半分ほど人が乗っていた。ハディは空いていた窓際の席へ座り、バッグを膝の上へ置いた。
しばらくすると扉が閉まり、エンジンの振動が座席を通して伝わってきた。バスがゆっくり停車場を離れる。ハディは窓の外を見た。ターミナルの建物が後ろへ流れ、広い道路へ出る。遠くには乾いた山並みが見えていた。スマートフォンを開くと、地図の現在地を示す青い点が少しずつ南へ動いている。まずはコムまで行けばいい。ハディはスマートフォンを膝の上へ伏せ、窓の向こうへ続く道路を見ていた。




