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指定施設

2028年6月11日


救護所へ移されてから、時間の感覚が曖昧になっていた。安奈たちは新宿駅東口前に設けられた臨時の救護区域で、一人ずつ怪我の有無を確認された。手足や首筋に傷がないかを見られ、服に血液が付着していないかを確認され、何時に新宿駅のどこにいて、誰と接触し、何を見たのかを何度も聞かれた。最初の数回は丁寧に説明を繰り返していたが、4度目になる頃には、ショックと極度の疲労で頭の中に霧がかかり、聞かれたことに何かを答えていたことしか覚えていない。同じ質問をされるたびに、自分がさっき何と答えたのかすら怪しくなっていった。


足を捻った美月は右足首を冷却材で固定され、簡易の松葉杖を渡されていた。彼女が言うには骨折している可能性は低いらしいが、腫れが強いため、後で改めて診察を受けるのだという。一方で莉子には目立った怪我はなかった。安奈も同じだった。


しかし、3人とも帰宅は許されなかった。


「3人とも、今回の現場に長時間滞在していたこと、それから、活動個体や負傷者との距離が近かったことを踏まえて、健康観察の対象になります。これから指定施設へ移動していただくことになります」


透明なフェイスシールドを上げた女性職員が、手元の端末を確認しながら説明した。


「え、家に帰れるんですよね?」


莉子の声には、確認というより願いに近い響きがあった。


「少なくとも今日は難しいです。観察期間中、指定施設でしばらく過ごしていただく必要がありますね」


「……それって何日くらいですか?」


「現時点では、こちらから確定したことは申し上げられません。これ以上の健康観察が必要ないと判断されれば、順次帰宅していただくことになります」


受け答えは丁寧だったが、”お願い”をしているような口ぶりでもない。選択肢があるようには聞こえなかった。


安奈は昼過ぎにお父さんと電話した時のことを思い出した。無事だと伝えるだけで精一杯で、それ以外のことは何も伝えられていない。


「え、あっ、あの、電話、家族に電話させてください」


莉子が絞り出すような声で、縋るように頼んだ。いつもの元気はそこにはなく、すっかり怯え切った少女そのものだった。安奈も隣で何度も頷く。


「申し訳ありませんが、今はお電話はご遠慮ください。ご家族には、こちらから改めて健康観察施設へ移動する旨を連絡します。施設到着後に電話をしていただくことができます」


職員は淡々と言った。声は柔らかかったが、内容に譲歩はなかった。莉子が安奈の方を見た。目が涙で潤んでいる。


新宿駅でゾンビから逃げていた時とも違う。あの時は、逃げなければ死ぬという恐怖だった。今は何をされるのかも、どこへ連れていかれるのかも、自分たちでは決められない。


しばらくして、3人は他の数十人とともに救護区域の外へ案内された。前を歩いていた老夫婦のうち、夫の方は足腰が悪いらしく、杖を持ったまま職員に腕を支えられている。その少し先には塾のバッグを背負った小学生がいて、若い女性職員と手をつないだまま、ずっと足元を見ていた。皆、言われるままに歩いていた。安奈たちと同じように、もう抗議するだけの元気が残っていないようにも見えた。


ただ一人、列から外れたところで眼鏡を掛けた男が職員に食い下がっていた。


「家で鳥を飼っているんです。一人暮らしだから、俺が帰らないと餌やる人いないんですよ。頼むから一回帰らせてください」


男はその場に座り込み、帰らせてくれと繰り返している。職員たちは怒鳴りつけることも、無理に立たせることもしなかった。誰かに連絡できないか、鍵を預けられる相手はいないかと聞きながら説得を続けていたが、それでも帰宅を認める気はないらしい。安奈は少しだけ男の鳥のことを考えた。


道路にはまだ何台もの救急車や大型車両が停まり、規制線とブルーシートの向こうでは警察官が大勢の野次馬を押し戻している。気づけば、さっきまで散発的に聞こえていた発砲音は止まっていた。


案内されたのは、警察の大型輸送車だった。白と紺の車体に小さく警察の表記があり、側面の窓には外から中を見えにくくする濃いスモークが入っている。前方にはパトカーが停まり、後ろにも同じような輸送車と警察車両が連なっていた。


「まるで私たち犯罪者」


車内へ乗り込んだ莉子が、小声で言った。席は自由らしい。莉子は安奈の隣へ座り、美月は通路を挟んだ反対側で、右足を邪魔にならない程度に伸ばして腰を下ろした。松葉杖を座席の脇へ立て掛けるまでにも、美月は何度か顔をしかめていた。安奈たち以外にも、駅から救出されたらしい人が乗っている。額にガーゼを貼った会社員風の男、毛布を肩に掛けたまま俯いている女性、制服姿の高校生らしい2人組。誰も話していなかった。


最後に、鳥のことを訴えていた男が職員に付き添われて乗ってきた。その後から、長い銃を胸元に下げた警備要員が数人入ってくる。彼らは乗客の近くには座らず、扉のそばと車内後方へ分かれて立った。


安奈は銃を見た。新宿で警察官が持っていたものと形は違う。それが何という銃なのかは知らない。ただ、人間へ向ければ人間を殺せるものだということだけは分かる。


あの銃は、私たちを何かから守ってくれる為の銃ではないだろう。少なくとも、それだけではない。


扉が閉まり、ぷしゅ、という音とともに車がゆっくり動き出した。


「美月、足どう?」


安奈が通路越しに尋ねると、美月は固定された右足を少し動かした。


「もうあんま痛くない。動かさなきゃだけど」


「折れてないんでしょ?」


莉子が聞く。


「って言ってた」


「骨折してたら最悪じゃん」


「捻挫でも十分最悪だよ。明日部活あるのに」


安奈は一瞬、美月が本気で言っているのか判断できなかった。莉子も同じだったらしく、美月の顔を数秒見たあとで呆れたように笑った。


「明日行く気だったの?」


「私だって冗談くらいいうわよ」


「びっくりした。本物の部活馬鹿かと思った」


「失礼だな」


声を上げて笑うほどではなかったが、3人の間に少しだけ普段の空気が戻った。


今日の朝、まさかこんなことになるなんて夢にも思っていなかった。昼前にはパスタを食べていた。あの店はどうなったのだろうか。あの時一緒にいた店員たちは逃げられただろうか。


そこまで考えたところで、別の顔が浮かんだ。あの大学生。目の前で手足を食いちぎられながら助けを求めていた大学生。助けてくれと叫ぶ声を遮るように扉を閉めた時の息苦しさまで蘇り、氷の塊を飲み込んだかのような冷たいものが喉の奥を下りていった。


安奈は膝の上で握っていた手を開いた。


車は何度か大きく曲がった。濃い窓越しに外を見ても、建物の明かりがぼんやりと流れていくだけで、どこを走っているのかは分からない。


「どこ連れてかれるんだろう」


莉子が言った。誰も答えなかった。


莉子も最初から答えを期待していたわけではないらしく、それ以上は何も聞かず、ふう、と息を吐いて背もたれへ身体を預けた。


しばらくすると、美月も目を閉じた。莉子は何度か安奈の肩へ頭をぶつけ、そのたびに目を開けて姿勢を直していたが、やがてそれもしなくなった。


エンジンの低い振動が身体へ伝わってくる。


安奈もいつの間にか目を閉じていた。


*


次に目を開けた時、安奈は首筋に鈍い痛みを感じた。いつの間に眠っていたのか見当もつかなかったが、窓の外から街の光が消え、すぐ近くを灰色のコンクリート壁が流れているのを見て、車が既に屋内へ入っていることだけは分かった。天井には細長い蛍光灯が等間隔に並び、床には大型車両を誘導するための黄色い線が奥まで延びている。安奈が姿勢を直したところで、車は一度停止した。わずかに見える前方で大型のシャッターが上がり、その向こうへ進み始めると、隣で莉子も目を覚ました。


「……どこ、ここ」


寝起きの掠れた声で呟きながら窓へ顔を近づける。美月は先に起きていたらしく、松葉杖を抱えたまま、莉子とは反対側の窓をぼんやり眺めていた。


車は緩い下り坂を進み、さらにもう一枚の扉を越えた。その先には、安奈たちが乗ってきたものとよく似た大型輸送車が2列に並び、それぞれの車両から何十人もの人間が降ろされていた。奥には救急車や白いマイクロバスも停まり、職員が到着者をいくつかの列へ分け、防護服を着た別の職員が名簿や端末を確認しながら次々と奥へ送っている。安奈たちの車が空いた場所へ入っている最中にも、後方でまたシャッターが開いた。新しい輸送車が1台、その後ろには赤色灯を点けた車両まで続いている。


新宿から連れてこられた人間がこれほどいるとは思っていなかった。救護所にいた時には自分たちの周囲しか見えていなかったが、ここまで運ばれてきて初めて、あの駅から同じように選別され、どこかへ移されている人間が他にも大勢いることを実感した。


壁を見ても施設名らしいものはなく、《搬入区画B》《一般車両進入禁止》《第三区画》といった白い案内板が取り付けられているだけだった。


「秘密基地みたい」


莉子が声を落として言うと、美月は窓の外から目を離さないまま、「少なくとも普通の病院じゃないよね」と返した。


車が止まり、職員に促されて外へ降りると、大型車両のエンジン音が高い天井へ低く反響していた。上部には太い配管やケーブルが何本も走り、壁際には担架や樹脂製の箱が積まれている。ただ、安奈の目を最も引いたのはそうした設備ではなく、出入口の近くに配置されている数人の警備要員だった。新宿駅で見た制服警官とは違い、紺色の服の上から防護用の装具を着け、胸元には長い銃を下げている。誰かへ銃口を向けているわけではなく、到着者へ威圧的に接しているわけでもなかったが、彼らの視線は人の流れと出入口からほとんど外れなかった。


あの銃は、安奈たちを外の危険から守るためだけに用意されたものではないのだろう。もしこの中の誰かが発症すれば、その時には自分たち自身が、銃を向けられる側になる。そのことだけは、説明されなくても分かった。それでも、入口から目を離していなかった。


安奈たちは他の乗客と一緒に金属製の大きな扉の前へ集められた。


「こちらは感染症健康観察のために指定された施設です。これから施設内では職員の指示に従って、決して自分の判断で動かないようお願いします」


説明の途中、一人の男が手を上げた。


「ここ、どこなんですか?」


職員は一拍置いて答えた。


「施設の所在地については、安全管理上お伝えすることはできません。ご家族には、皆さんが行政管理下の健康観察施設へ移送されたことを連絡します」


「東京ですよね?」


「申し訳ありませんが、所在地に関する質問にはお答えできません」


男はまだ何か言いたそうだった。周囲からも、小さな不満の声が上がる。安奈も聞きたかった。しかし少し離れたところには、長い銃を抱えた人間が何人も立っている。彼らが何か言ったわけではなかった。それでも、それ以上食い下がる人はいなかった。


やがて金属扉が開いた。


施設内へ入ると、車両区画の無骨さは急に薄れ、明るい色の床や壁、顔写真付きの身分証を胸から下げた職員の姿が目立つようになった。受付で氏名を確認され、手首に番号の入ったバンドを巻かれた後は、検温や血圧測定などを順番に済ませ、そのまま一人で診察室へ通された。女性医師に促されて服を脱ぐと、首筋や頭皮、背中、手足、股下まで順番に確認された。自分では傷と呼ぶほどでもないと思っていた膝の擦り傷まで見つけられ、いつできたものかを聞かれる。


「これは?」


安奈は医師が指した場所を見下ろし、しばらく記憶を探ってから、「前からです。多分、新宿に行く前から」と答えた。


医師はそれ以上追及せず、その内容を端末へ入力した。自分の身体にある傷を、自分よりも相手の方が細かく記録しているという状況には妙な感じがしたが、嫌だと言ったところで確認を省いてもらえるわけではない。


着替えながら観察期間を尋ねると、現在の基準では数日程度を想定しているものの、今回の事案については接触状況の確認が続いているため、退所時期は個別に判断されると説明された。少なくとも今のところ症状はないので、必要以上に心配する必要はないとも言われ、その言葉を聞いた時には、自分でも分かるほど身体の力が少し抜けた。


診察を終えて次の場所へ案内されると、女性職員が透明な保管袋を机に置いた。


「携帯電話、タブレット、通信機能のある端末については、観察期間中はこちらでお預かりします」


「全部ですか?」


「はい。ご家族との連絡手段はこちらで用意していますので、必要な場合はそちらを利用してください」


安奈はポケットからスマホを取り出し、画面を点けた。LINEやInstagram、学校の友人からの連絡が通知欄を埋めていて、一番上のメッセージを開こうと指を動かしかけたものの、目の前では職員が待っている。全部を確認し始めれば終わらないだろうし、内容を読めばその場で返信したくなる気もした。しばらく迷った末、安奈は何も開かずに電源を切った。


「お願いします」


スマホは目の前で袋へ入れられ、封をされた後、自分の名前と手首のバンドに記されたものと同じ番号のシールが貼られた。財布やバッグは内容を確認された上で返されたが、着ていた服については洗浄処理を行うため預けるよう言われ、代わりに用意された衣類へ着替えることになった。


更衣室には新しいタオルと、無地のTシャツ、紺色のスウェット、下着や靴下が一式ずつ袋に入れられていた。


シャワーを浴びて髪を洗うと、足元へ流れる水がわずかに灰色へ濁った。自分では気づかなかったが、かなり埃を被っていたらしい。安奈は首筋や腕、脚、背中まで石鹸で洗い、一度泡を流した後、また同じところへ手を伸ばした。


駅の床に広がっていた血や、銃撃を受けて倒れた男、そしてバックヤードに残してきた大学生の姿が頭から離れなかった。自分の身体には感染性の体液は付着していないと何度も確認されている。それでも、どこかに目では見えない何かが残っているように感じられ、腕を洗い直し、指の間まで擦り、もう一度湯で流した。理屈では十分だと分かっているのに、洗っても取れない”汚れ”のようなものが身体に付着している感覚だけが、なかなか消えなかった。


「佐伯さん、大丈夫ですか?」


外から職員に声を掛けられ、そこでようやく安奈は、かなり長い時間シャワーを浴びていたことに気づいた。


「あ、はい。すみません」


「急がなくても大丈夫です。気分が悪くなったら、そのまま呼んでください」


安奈は返事をして湯を止め、更衣室へ戻った。支給された下着はいまいち身体に合わず、着替えながら何度か位置を直すことになった。髪を乾かしている途中には、ふとスキンケア用品は頼めば持ってきてもらえるのだろうかと考え、自分でも今そんなことを気にしているのが少し不思議だった。ただ、こんな状況になったからといって、顔が乾燥することまで止まるわけではない。そう考えると、余裕があるのか能天気なのか、自分でもよく分からなくなった。


更衣室を出ると、美月が職員に呼ばれていた。右足首は救護所で見た時より腫れているように見える。


「画像撮るって」


美月が松葉杖を少し持ち上げた。


「折れてたらどうしよ」


「さっき明日部活行くって言ってた人が?」


「それは冗談」


「分かってるよ」


「じゃ、また後で」


美月は職員に付き添われ、別の廊下へ消えていった。


安奈と莉子はその後、家族への連絡を希望する人が待つ区画へ案内された。廊下沿いにいくつか小さな通話スペースがあり、それぞれの中に固定電話が置かれている。順番を待っている間、職員から差し入れについて説明を受けた。衣類や書籍、娯楽用品、市販の食品などは、指定された受付を通せば家族から受け取れる。ただし内容物は全て確認されるという。


やがて電話が空いた。


安奈は椅子へ座り、自宅の番号を押した。呼び出し音はほとんど続かなかった。


『安奈?』


母親だった。


「うん」


その声を聞いただけで、身体の奥に入っていた力が少し抜けた。


「私は大丈夫。怪我もないし。今なんか施設みたいなところにいる。莉子ちゃんと美月ちゃんと一緒に」


『さっき連絡があってね。健康観察施設に移送したって。場所教えてほしいと頼んでもできないの一点張りで、お母さんすごくあなたのこと心配して……』


途中から母親の声が崩れ、鼻をすする音が聞こえた。安奈は何か言おうとしたが、すぐには言葉が出なかった。


『とにかく、あなたが無事でよかった。お父さんに代わるね』


少しして父親の声へ変わった。


『扱いは大丈夫なのか?』


声には安堵と一緒に、場所を教えない行政への不満も滲んでいた。


「普通。むしろ思ってたよりちゃんとしてる。シャワーも浴びられたし、個室だって」


『スマホは?』


「取られた」


『取られた?』


「預けただけ。退所したら返すって。」


電話の向こうで父親が息を吐いた。


『まあ……この状況じゃ仕方ないのかもしれないけどな。今こうして連絡もできるしな。差し入れもできるんだろう? 何か必要なものあるか?』


安奈は少し考えた。


着替えは支給されている。本も施設にあるらしい。食事も出る。


それでも、自分の持ち物をほとんど預けてしまった状態でいると、急に家にあるものが欲しくなった。


「うーん。Switch 2と充電器……あと、部屋に置いてある本、適当に何冊か。それと、まあ、お菓子?」


『分かった。明日には持っていく』


「ありがとう」


少し間が空いた。


『本当に怪我してないんだな?』


父親の声が低くなる。


「してないよ」


『噛まれたりも?』


「ない」


『血が入ったとかも?』


「何回も聞かれた。大丈夫」


『そうか』


また少し沈黙した。


「数日で帰れるかもって」


安奈は自分から言った。父親を安心させたかったのか、自分に言い聞かせたかったのかは分からない。


『分かった。何かあったらすぐ言えよ』


「うん」


電話を終えてからも、安奈はしばらく受話器へ手を置いたまま座っていた。家族の声を聞けて、初めて心から安心できた気がした。


家族との電話を終えた後、安奈は職員に居室まで案内された。


部屋は想像していたよりも生活することを前提に作られていて、シングルベッドのほかに机と椅子、壁掛けテレビ、小型冷蔵庫があり、奥には洗面台とトイレまで備えられていた。机には水と施設利用の冊子が置かれ、病室というより、ミニマリストに憧れて必要なものだけを残した一人暮らし用の部屋に近い。


その印象を壊しているものが二つあった。外の様子を確認できる窓が一つもなく、天井の隅には黒い半球型の監視カメラが取り付けられている。


安奈がカメラを見上げると、案内してきた女性職員がその視線に気づいた。


「観察のため、居室内にはカメラがあります。トイレと着替えのスペースは撮影範囲に入っていません」


「ずっと見てるんですか?」


「映像は常時記録されていますが、転倒や意識障害などの異常を早く発見するためのものです。何か体調に変化があれば、扉の横にある内線か呼出ボタンを使ってください」


そのまま職員は冊子を開き、扉は施設側で管理されているため勝手には外へ出られないこと、食事は部屋まで運ばれること、検温と診察を毎日行うことなどを簡単に説明した。


「基本的には部屋で過ごしていただくので、本の貸し出しもしています。夕方に職員が回りますから、読みたいものがあれば言ってください。具体的なタイトルでも、こちらにある範囲なら探します」


監視カメラがあり、外へ自由には出られない一方で、読みたい本の希望まで聞いてくれるらしい。その組み合わせがどうにも妙で、安奈は説明を聞きながら、やはり普通の病院とも刑務所とも違う場所なのだと思った。


職員が出ていった後、扉から短い機械音がした。安奈は少し迷ってからノブへ手を掛けてみたが、予想していた通り扉は開かず、その事実を実際に確かめると、思っていたよりも閉じ込められている感覚が強くなった。


ベッドへ横になってしばらくすると、内線電話が鳴った。安奈が受話器を取るなり、『もしもし、安奈?』と莉子の声がした。


「莉子? どうやってかけたの?」


『職員さんに聞いたら教えてくれた。安奈307、美月519、私318だって。美月にもかけたけど、まだ戻ってないみたい』


安奈は身体を起こし、机の上にあったノートへ番号を書き留めた。


『ていうかさ、本当にここどこなんだろ。多分地下だよね。秘密の人体実験とか始まったらどうする?』


「さすがに映画見すぎ」


『でも死人が動いてる世界のほうがよっぽど映画ぽいよ』


莉子は冗談のつもりなのだろうが、安奈はすぐには笑えなかった。受話器の向こうでも、その反応が伝わったらしい。莉子は何かを察したのか、自分から話題を変えた。


「美月大丈夫かな。足、結構腫れてたし」


『折れてなきゃいいけど。帰る時もあの松葉杖だったら大変そう』


「車椅子とか貸してくれるんじゃない?」


『じゃなかったら安奈がおんぶしてよ。私は腰が弱いから無理』


「同い年の人が何言ってるの。美月の方が私より大きいし、普通に潰れるよ」


そんな話をしているうちに、莉子の声から少しずつ硬さが取れていった。安奈自身も、目の前に友人がいるわけではなくても、聞き慣れた声が同じ施設のどこかから聞こえてくるだけで、さっきより呼吸が楽になっていることに気づいた。10分ほど話したところで、『また後でかけるねー』と言って莉子が電話を切った。


夕食は19時を少し過ぎた頃に届いた。職員の声がして扉のロックが解除される。トレーを受け取ると、またすぐ扉が閉じた。


白米、味噌汁、焼き魚、小さなサラダ。


恐ろしく味気がないというのを除けば、普通の定食だった。というより、病院食に近い。


半分ほど食べたところで内線が鳴った。今度は美月だった。


骨折はしていなかった。ただ、かなり強い捻挫らしく、しばらく松葉杖を使うように言われたらしい。


『最悪。これじゃ練習できんて』


「また部活か……」


『私の人生の一部なの』


途中から莉子も通話に加わった。


『美月さあ、学校自体どうなってるか分かんないよ』


『学校なくなったわけじゃないでしょ』


『明日はさすがに休みじゃない?』


「新宿だけだし、うち埼玉だから普通にあるんじゃない?」


『えー、こんな目に遭った翌日に授業とか嫌すぎる』


施設の内線には3者通話の機能まであるらしく、莉子が職員に聞いてやり方を教えてもらったという。


それから3人で1時間近く喋った。後になれば、ほとんど思い出さないような話ばかりだった。


学校が休みになるのか。美月がいつ部活へ戻れるのか。施設の夕食は全員同じなのか。差し入れに何を頼んだか。安奈がSwitch 2を頼んだと言うと、莉子も自分も頼むと言い出した。


新宿の話だけは、誰からも出なかった。誰も、わざわざ思い出したくなかった。


通話を終えた後、安奈はベッドの端へ座り、壁掛けのテレビをつけた。この時間はどの局もニュース番組を放送しており、チャンネルを変えても新宿駅周辺を上空から撮影した映像ばかりが映った。赤色灯を点けた緊急車両が道路を埋め、昼間まで人で溢れていた駅前の一部は規制線によって完全に塞がれている。画面下には、警視庁や東京都が現時点で確認しているという死傷者数が表示されていた。


死者3人、負傷者17人。安奈は、その数字を何度も見直した。


自分が地下で見ただけでも、動かなくなった人間は何人もいた。警察官も倒れていたし、活動個体として銃撃された人間もいる。何より、店のバックヤードに残した大学生がどうなったのか、安奈には分からない。あの人は、この3人の中に入っているのだろうか。


もちろん、安奈が倒れているところを見ただけで、本当に死亡していたのか分からない人間もいた。活動個体を死者としてどの時点で数えるのかも知らない。それでも、自分が見てきた新宿の大きさを「死者3人、負傷者17人」という数字に押し込めようとすると、どこかが大きく欠けているように感じられた。


少しして映像が記者会見へ切り替わり、死傷者数について質問を受けた担当者が、現在公表している数字は身元と状態まで確認できた人間に限られており、駅構内には依然として立入制限区域が残っているため、確認作業を続けていると説明した。


その話を聞けば、数字が少ない理由そのものは理解できた。隠しているというより、まだ国家の側でも全てを数え終えていないのだろう。


しかし理由が分かったからといって、違和感まで消えるわけではなかった。


テレビの中では、数時間前まで自分がいた場所が地図と数字、会見での説明へ次々と置き換えられていく。画面を見ているうちに、自分が本当にあそこにいたことの方が現実味を失い始めたような気がして、安奈はリモコンを手に取ってテレビを消した。


部屋には、低く一定の空調音だけが残った。


22時を過ぎた頃、安奈は照明を落とした。完全な暗闇にはならず、床際の小さな常夜灯だけが残る。窓がないせいか、夜になったという感覚が薄い。


布団へ入り、目を閉じると、疲れはすぐに身体を沈ませた。


*


安奈はまた新宿駅の地下を走っていた。通路はどこまでも同じ幅で続き、何度角を曲がっても出口へ近づかない。少し前を美月と莉子が走っていて、安奈は待ってと叫びながら追い掛けているのに、声だけが喉の奥へ吸い込まれて、2人には届かなかった。背後から誰かが走ってくる音がして振り返ると、血の付いたワイシャツ姿の男がいた。その後ろには倒れていた警察官や、店の前で噛まれていた女、それから顔を思い出せない何人もの人間が続いている。


逃げなければならないのに、突然足が動かなくなった。前にいる莉子が振り返り、口を大きく開いて何かを叫んでいるが、何を言っているのかは聞こえない。代わりに、すぐ耳元で銃声が鳴った。


安奈は身体を跳ねさせて目を覚ました。


暗い部屋の中で数秒間、自分がどこにいるのか分からなかった。息を吸っても胸の奥まで入ってこないような感覚があり、掛け布団を握った手には汗が滲んでいるうえ、喉もひどく乾ききっていた。床際の常夜灯、小さな机、消えたテレビ、天井の隅にある監視カメラが順番に目へ入り、ようやく自分が施設の個室にいることを思い出した。動悸が激しく、まだ眩暈まで残っていたため、安奈は水を飲んで呼吸が落ち着くのを待ってから、もう一度横になった。


目を閉じると、誰かが扉を叩いているあのどんどんという金属音が聞こえた気がしたが、身体を起こして耳を澄ませても、実際に聞こえているのは空調の低い唸り声だけだった。


その後も何度か眠りに落ち、そのたびに短い夢から引き戻された。何を見たのか覚えていない時もあったが、目を覚ますたびに心臓だけが速く動いており、最後には眠ること自体を諦めた。


安奈は布団を胸元まで引き上げたまま暗い天井を見ていた。美月も莉子もこの施設のどこかにいて、職員もいるうえ、何かあればベッド脇の内線を取ればいい。少なくとも今は廊下から異常な物音は聞こえず、空調も照明も動いている。そう考えながら、安奈は監視カメラの小さな作動灯を見つめ続けていた。


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