片道35万円のドライブ
2028年6月13日-14日
新村から次の連絡が来たのは、翌日の昼過ぎだった。
瀬川は自宅のソファに座り、昨日振り込まれた15万円をどう使うか考えながら通販サイトを眺めていた。特に欲しいものがあるわけではない。それでも普段なら値段を見て閉じるような商品まで何となく開いてしまうのは、口座の残高が増えているからだろう。しばらくそうしていると、手の中でスマートフォンが震えた。
『明日空いてる?』
新村だった。
『空いてる』
そう返して間もなく、今度は電話がかかってきた。
『明日ちょっとでかい仕事あるんだけど、やる?』
「何すんの?」
『結構遠いところまで車を移送するんだ。下手したら泊りになるが…やるか?』
瀬川は通販サイトを閉じた。昨日のように数時間荷物を運んで終わり、という仕事ではないらしい。
「いくら?」
『慣れてきたな』
新村が笑う。
「泊まりになるんだろ?」
『一人35』
「35万?」
昨日の15万円でも十分高かった。それが今度は35万円である。
「車運ぶだけで?」
『車運ぶだけで』
「何の車運ぶんだ?」
『明日見れば分かるよ』
またその言い方か、と思った。
昨日も中身をろくに知らされないまま倉庫へ行き、結局運んだのは盗品だった。今回もまさかレンタカーの返却ではあるまい。だが35万円は大金だ。それに何より昨日の件で完全に一線を越えた自覚がある瀬川にとって、多少違法かもしれないという懸念はやらない理由にはならなかった。
「斎藤さんも来る?」
『来る。朝9時に迎え行かせるから。さっきも言ったが泊まりになるかもしれないし、一応着替えくらい持ってきて』
「分かった」
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翌朝、瀬川は着替えと充電器、歯ブラシなどを適当に鞄へ詰めた。
テレビでは朝から新宿事件の続報が流れていた。駅周辺の規制は一部解除されたものの警戒は続いており、都内ではPMRSとの関連を調べている傷害事件が新たに数件確認された、と。一方、SNSでは転倒した老人や路上で寝ている酔っ払いまで「ゾンビ」として撮影され、逆に本物らしい映像かと思えばAIで作成された動画だったりと、文字通り何でもありの状況であった。
瀬川はニュースを途中で消した。
3日前なら、そういう動画を見つければとりあえず保存していたかもしれない。今は多すぎる。新宿事件以降、「ゾンビ」と検索して出てくるものの大半を確かめるだけでも一日が終わりそうだった。
時計を見ると8時半を過ぎている。鞄を肩に掛けて家を出た。
斎藤との待ち合わせ場所までは歩いて10分ほどだ。大通りへ出ようとしたところで、車道がいつもより混んでいることに気が付いた。よく見ると少し先の交差点に車が何台も溜まっており、その向こうでは数人が車道へ出ている。
近づいてみると、白いミニバンがガードレールへ斜めに突っ込み、その後ろで黒い乗用車が前部を潰して停まっていた。道路には細かな破片が散らばり、二台ともハザードランプを点滅させている。
事故そのものはそれほど大きくないように見えた。ミニバンの運転手らしい男は道路脇に立っているし、黒い車の横では女がスマートフォンを耳に当てている。血を流して倒れているような人間もいない。
ただ、交差点にはまだ警察も救急車も来ていなかった。
「救急車まだなんですか?いや倒れている人がいるとかじゃなんですけど...」
電話をしていた女の声が歩道まで聞こえてきた。
瀬川は一度そちらを見たものの、そのまま事故現場の横を通り過ぎた。野次馬らしい人間も何人か足を止めていたが、既に誰かが通報しているなら自分が混ざっても仕方がない。事故のせいで片側の車線がほとんど塞がり、通行する車は対向車線へ少しはみ出しながら一台ずつ脇を抜けていた。
待ち合わせ場所へ着くと、前回と同じ車が路肩に停まっていた。助手席へ回ってドアを開けたところで、後ろから荒い鼻息が聞こえる。
振り向くと、後部座席からハチが前席の間へ顔を突っ込んでいた。
「あ、今日はいるんだ」
「泊まりになるかもっていうからさ。置いとくのもな」
瀬川が助手席へ乗り込むと、ハチは鼻先を近づけて匂いを嗅ぎ、そのまま瀬川の肩へ顎を乗せようとした。
「かわいこちゃんめ、今日は冒険になるぞ」
頭をしばらくなでると、満足したのか後部座席へ戻っていった。斎藤が車を発進させた。
「何やるか聞いた?」
「車運ぶってだけ。それで35万だろ?」
昨日の15万円だけでも時給に直せば馬鹿みたいな金額だった。それが今度は35万円である。
「普通に働くのも馬鹿らしくなりますね」
「普通に働いてから言えよ」
斎藤が笑った。
さっきの事故現場へ近づくと、車列はまだ少し詰まっていた。パトカーらしいものは見えず、事故車の周囲には先ほどより人が増えている。
渋滞を抜けると、車内に流れていたラジオがちょうどニュースへ切り替わった。
『警視庁は昨日夜から今朝にかけて都内で発生した複数の傷害事案について、死後運動再活動症候群との関連を調べています。また東京都内では救急要請の増加により、一部地域で救急車の到着に通常より時間を要するケースが発生しているとして――』
斎藤が音量を少し上げた。
政府は体調不良者や負傷者に不用意に近づかず、異常な行動が見られた場合には警察や消防へ通報するよう改めて呼びかけているらしい。その後は新宿駅周辺の規制状況や鉄道各社の運行情報へ話題が移り、数分もするとニュース自体が終わって、芸能人の話、その次には昨夜の野球の結果が始まった。
「昨日からどこつけてもこれだな」
斎藤が言った。
「新宿の?まあ、実際出ちまったもんはしょうがないでしょ」
瀬川は窓の外へ目を向けた。
道を歩いている人間も、開いている店も、今までと大きく違って見えるわけではない。ラジオからは野球選手の打率が流れ、対向車線には営業車が走り、コンビニの前ではトラックが荷下ろしをしている。
新宿であれだけのことが起きても、東京全部が急に止まるわけではないらしい。
「そういや15万で何か買ったか?」
斎藤が聞いた。
「まだ何も」
「俺、ハチの餌買った」
「15万で?」
「なわけねぇだろ。でもなかなか値段が張るやつを、な」
後部座席から自分の名前が聞こえたせいか、ハチがまた前席の間から顔を出した。
「いいもん買ってもらった?」
瀬川が話しかけると、ハチは口を開けたまま尻尾を一度座席へぶつけた。
「こいつ最近いいもん食ってるからな」
「俺より食費高かったりして」
「ありえるな」
そんな話をしているうちに、窓の外は住宅や商店の多い場所から、小さな工場や資材置場が混ざる地域へ変わっていた。
新村から指定された住所は瀬川の知らない場所だった。幹線道路を外れて細い道へ入り、何度か曲がった先に、背の高い金属フェンスで囲われた敷地が見えてくる。入口に会社名の看板らしいものはなく、閉まった大きなシャッターの横で新村が待っていた。
斎藤が車を寄せると、新村が手を上げ、門が開けた。
敷地は外から見るより奥へ長く、入口付近には古いタイヤや車の部品が積まれ、その先に大きなガレージが建っていた。整備工場と言われればそう見えるし、中古車を扱う場所だと言われても分からない。ただ、表通りから客が入ってくるような場所には見えなかった。
ガレージの前には作業着姿の男が二人いた。一人は日本人らしく、もう一人は外国人のようだったが、どちらも瀬川たちに特に興味を示さず、壁際で煙草を吸いながらスマホをいじっている。
「とりま中はいれよ」
新村がリモコンを操作すると、シャッターが機械音を立てて上がり始めた。
中に停まっていたのは二台のSUVだった。
一台は黒のトヨタ車で、もう一台は白。見慣れないエンブレムだった。瀬川は車に詳しくはないが、それでも車の形からなんとなく高そうな車だというのはわかる。
黒いSUVを眺めている瀬川に新村が近づいて肩をたたく。
「これ、なにかわかるか?」
「わからん。トヨタの何?」
「ランクル」
斎藤も隣に立ってフロントを見る。
「おお、これがランクルか」
新村はもう一台の白いSUVを指さす。
「こっちはレクサスな。どっちも新車価格は1千万以上する高級車だ。丁重に扱えよ」
新村が鍵を二つ持ってやってきた。
「これ運転すんの?」
瀬川は黒いSUVを改めて見た。近くで見ると思った以上に車高が高く、自分が普段乗る車とはかなり感覚が違いそうだった。
「運転したことある?」
斎藤に聞くと、首を振った。
「ない。お前は?」
「ないけど、ちょっと運転してみたかった」
「夢叶うじゃん」
斎藤が笑う。
新村は何の話をしているのか分からないような顔をしていた。
瀬川は黒い方へ近づき、運転席側から車体を眺めた。ガレージの照明を映したボディにはほとんど傷がなく、タイヤもまだ綺麗だった。
そこで、前にナンバープレートが付いていないことに気づいた。
白い方も同じだった。
「……これ盗難車?」
振り返って聞くと、新村は特に隠す様子もなく、「そりゃあな。普通気づくだろ」と答えた。
斎藤が横で笑った。
「やっぱりか。こんな形じゃなければ素直に喜べたんだけどな」
新村は「お前らは運ぶだけだから」と言いながら、二本の鍵を見比べた。
何が「だけ」なのかはよく分からない。昨日は盗品のスマートフォンで、今日は盗難車だった。それでも、新村からすればやることは同じなのだろう。
鍵の一つがこちらへ飛んできたので、瀬川は反射的に受け取った。
「瀬川が黒。斎藤は白」
「ハチは?」
「斎藤の方に乗せとけば?」
斎藤が白いSUVと、自分たちが乗ってきた車を交互に見る。
「俺の車ここ置いといて平気?」
「平気。帰ってきたら取りに来ればいい」
「帰ってくるのいつ?」
「早く家に帰りたければとっとと車に乗り込むんだな。ナンバープレート今つけるから」
新村はスマートフォンを取り出し、何かを確認してから続けた。
「俺が前走るから二人ともついてきて。向こうの都合で場所変わるかもしれないから、勝手にナビだけ見て行くなよ」
「どこまで?」
瀬川が聞いた。
「とりあえず今送った場所」
スマートフォンが震えた。
新村から位置情報が届いている。瀬川は画面を開き、地図を少し縮小した。
「千葉の...どこだここ。遠くないか?」
「35万分しっかり働けよ」
新村はそれだけ言って、自分の車の方へ歩いていった。
まさか新村から最初の仕事をもらって一週間もたたないうちに盗難車の移送をする羽目になるとは思わなかった。ただ、前のスマホと比べて仕事内容は明らかに悪くなっているのに、昨日ほど緊張していない自分がいる。それよりも、初めて乗るランクルの方が少し気になる。
運転席に乗り込むと、まず視界の高さに驚いた。斎藤の車より明らかに目線が高く、フロントガラス越しに見えるガレージの景色まで少し違って見える。
シートの位置とミラーを合わせ、ボタンの多いセンターコンソールを一通り眺めていると、新村が窓を軽く叩いた。
「ぶつけんなよ」
新村はそれだけ言うと、自分の車へ戻っていった。
エンジンをかける。車体のどこか低いところから音が響き、瀬川は少しだけ口元を緩めた。
盗難車だということを考えなければ、わくわくする。
斎藤の白いレクサスも少し遅れて動き出した。後部座席にはハチが乗っており、窓越しに頭だけが見える。
新村の車を先頭に三台で敷地を出る。
最初の数分は、瀬川は車幅ばかり気にしていた。普段なら何とも思わない細い道でも左右が妙に近く感じられ、対向車が来るたびに少しだけハンドルを握る手に力が入る。それでも幹線道路へ出る頃には多少慣れ、アクセルを踏めば大きな車体が思ったより軽く前へ出ることも分かってきた。
「すげえなこれ」
誰に言うでもなく呟く。
信号待ちでカーオーディオを弄っていると、ラジオが入った。
『――続いて海外情報です。アメリカ西海岸では、PMRSへの警戒が続くなか、警察官や市民による発砲事案が相次いでいます。
カリフォルニア州では、警察官がPMRSを発症したとみられる人物に発砲する事案が複数確認されているほか、市民が感染者と誤認して他人に発砲するケースも相次いでいます。
州都サクラメントでは、現地時間11日夜、ガソリンスタンドの駐車場で42歳の男性が銃で撃たれ、搬送先の病院で死亡する事件がありました。地元警察によりますと、男性は近くで発生した交通事故で負傷し、助けを求めてガソリンスタンドへ向かったところ、居合わせた別の男に拳銃で撃たれたということです。
発砲した男は警察の調べに対し、「血を流し、ふらつきながら近づいてきたため、感染者だと思った」と話しているということです。死亡した男性にPMRSの症状は現在確認されておらず、警察は発砲に至った詳しい経緯を調べています。
こうした事態を受け、カリフォルニア州当局は声明を発表し、感染が疑われる人物を発見した場合でも、市民が独自の判断で武器を使用することは極めて危険だとして、注意を呼びかけています。また、不審な行動を取る人物を見かけた場合は、むやみに接近せず、安全な場所へ避難したうえで警察に通報するよう求めています』
瀬川は音量を少しだけ上げた。
『また中国では、上海など一部の沿岸都市で、数日前から携帯電話やインターネットがつながりにくい状態が続いています。中国政府は通信設備の一時的な障害によるものと説明していますが、海外メディアの一部は、PMRSをめぐる情報の拡散を抑えるため、当局が通信を制限している可能性があると伝えています。現地からの情報は限られていて、詳しい状況は分かっていません。』
目の前の車線変更に集中する。ぶつけたりでもしたらシャレにならないだろう。ウインカーを出して隣の車線へ移る。車体が大きいせいか、ミラーに映る後続車との距離感がまだ掴みにくい。
信号を二つ越えたところで、斎藤から電話がかかってきた。
ハンズフリーに切り替える。
『これ楽しいな!ほしくなってきたぜ』
「分かるわ。俺も今それ思ってた」
『35万貰ったら買える?』
「無理だろ」
『じゃああと30回くらい仕事すればいいな』
「買う前につかまんなよ」
斎藤が笑った。
ラジオはまだニュースをやっている。普段から積極的にニュースを見るタイプではなかったが、無音なのも何か寂しい。
『こうした感染拡大への懸念から、金融市場でもリスクを避ける動きが急速に強まっています。ニューヨーク株式市場ではPMRSの感染拡大への懸念から売りが続き、ダウ平均株価は5営業日連続で下落しました。週間の下落率は、2008年の世界金融危機以来の大きさとなっています。また、今日の東京株式市場では取引開始直後から売り注文が膨らみ、日経平均株価は一時、前日の終値から2000円を超えて下落しました。ほぼ全面安の展開となっていて、市場ではPMRS感染拡大が世界経済や物流に与える影響に懸念が高まっています...」
とはいえ、瀬川はほとんど聞いてはいなかった。
「ハチ大丈夫?」
『後ろで寝てる』
「余裕だな」
『こいつの方が俺らより肝据わってるよ』
前を走る新村の車が右へ車線を変えた。瀬川も少し遅れて追い、バックミラーの中で斎藤の白いSUVが続いてくるのを確認する。
しばらくすると、高速道路の入口を示す緑色の標識が見えてきた。




