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海ほたる

2028年6月14日


高速道路に入ってしばらくすれば、瀬川はランクルの運転にだいぶ慣れてきた。一般道では交差点を曲がるたびに気にしていた車幅も、本線へ合流してしまえばそれほど気にならない。前を走る新村の車に合わせて速度を保ち、ときどき車間距離を確かめるだけでよかった。むしろ信号のたびに停まったり、狭い道ですれ違う相手を待ったりしていた時より楽だった。梅雨時とは思えないほどよく晴れていて、フロントガラスには高いところから日が差している。車内は冷房が効いていたが、ハンドルを握る手の甲が、日を受けてじわじわと熱くなった。


バックミラーには数台後ろを走る斎藤の白いレクサスが映っていた。間に別の車が入っても、しばらく走るうちにまた姿が見える。新村から目的地の位置情報は送られているので、途中ではぐれたところで道に迷うこともないはずだった。


ラジオでは株式市場のニュースが終わり、道路交通情報が始まっていた。


『首都高速道路は、都心環状線内回りで事故のためおよそ4キロの渋滞。湾岸線では複数の区間で交通量が増えています。また、緊急車両の通行に伴う一時的な車線規制が行われている区間があります――』


その後も事故や渋滞の場所がいくつか読み上げられたが、瀬川は首都高の路線名を聞いても、自分たちがどの辺りを走っているのかよく分からなかった。新村が右の車線へ移れば少し遅れて続き、前方が空けばアクセルを踏む。走っているのは湾岸線らしく、左手には大きな倉庫やコンテナ置場が続いていた。大井ふ頭の辺りでは、赤と白に塗られたクレーンが何基も空へ伸び、その足元に積まれたコンテナの間を小さな作業車が走っているのが見えた。道路より低い場所に水面がちらりと現れることもあったが、すぐに防音壁や倉庫の建物に遮られる。よく晴れた6月の昼近く、コンクリートの路面は白っぽく光り、離れた工場の輪郭は少し霞んでいた。


倉庫の並ぶ一帯を過ぎると、今度は羽田空港の案内が目立つようになった。短いトンネルを抜けた先では、道路の向こうにくるくると回るレーダーと管制塔らしい細長い建物が見え、着陸態勢に入った飛行機が低い位置を横切っていった。ガラス越しでも機体の腹がはっきり見えるほど近く、思わず目で追いそうになったところへ、後方から救急車のサイレンが近づいてきた。瀬川は周囲の車と一緒に速度を落として道を空けた。しばらくすると警察車両が2台続き、さらに十数分後には反対方向を走る消防車も見かけた。ラジオでは事故の話をしていたし、空港や幹線道路が集まる場所なら、緊急車両が何台か走っていても不思議ではなかった。


瀬川はラジオの音量を下げ、ナビに表示されている目的地までの経路を改めて見た。千葉県内の住所ということしかろくに確認していなかったが、地図を広げると東京湾の上を1本の道路が横切っている。


「アクアライン通るのね」


一度くらいは行ってみたいと思っていた場所だった。海ほたるでアイスクリームでも舐めながら休憩するのも悪くないかもしれない。そんなことを考えているうちにラジオの音楽が唐突に途切れ、短い電子音が鳴った。


『ここで速報が入りました』


瀬川はハンドルの音量ボタンを押した。


『東京湾アクアラインの海ほたるパーキングエリアで、PMRSに関連するとみられる傷害事案が発生したという情報が入りました』


「マジかよ」


ちょうど今から通る場所じゃないか。前の新村がテールランプを赤く点灯させたのを見て、瀬川も車間距離を少し空けた。


『警察などによりますと、午前11時前、海ほたるパーキングエリアで「人が人を襲っている」「噛みつかれた人がいる」などの110番通報が相次ぎました。駆け付けた警察官が現場で発砲したとの情報もあります』


発砲という言葉を聞いたところで、瀬川は思わず海ほたるの方角を見た。もちろん、ここからじゃ何も見えない。


『また、同じ時間帯に海ほたるパーキング内で車両火災が発生し、現在消防が消火活動にあたっています。現在、複数のけが人が確認されていますが、詳しい人数や容体については分かっていません』


『東京湾アクアライン本線については、警察などによる交通規制のため木更津方面で渋滞が発生していますが、現時点で通行止めにはなっていません。海ほたるパーキングエリアへの一般車両の進入は一部制限されています――』


通行止めではないという部分に少し安心したものの、ゾンビが出て、警察が銃を撃った場所を通り抜けることになる。ニュースが終わる前に新村から電話がかかってきた。車のスピーカーに声が流れる。


『ニュース聞いた?』


「聞いた。通れんの?」


『本線は通れるってさ』


「ホントに行けんのか?」


『通行止めだとは聞いていないからな。今から湾岸ぐるっと回ったら余計時間かかるし、そもそも今更引き返せん』


「海ほたるどうすんの?」


『どういう意味で聞いてんの?休憩なんかしねぇしできねえよ』


瀬川もさすがに休憩するつもりで聞いたわけではなかったが、説明するのも面倒になった。


『渋滞になるかもしれんけどぼさってすんなよ』


「言われんでも」


通話が切れると、ナビの画面には変わらず東京湾を横断する経路が表示されていた。新村が行くと言うなら、瀬川もついていくしかない。


---


速報から一時間近く経っても、まだ海ほたるには着かなかった。道路の流れが悪くなり、しばらく徐行したと思うと前方でブレーキランプが連なって光る。停車している間に隣のトラックが少し先へ出て、またこちらが追いつくということを繰り返していた。頭上の案内標識には《空港中央》《湾岸環八》といった地名が現れ、道路の向こうには羽田の滑走路を囲む低い施設や、遠くに並ぶ航空機の尾翼が見えた。瀬川は標識の地名よりも、前の車がどの程度進んだかを気にしていた。


電光掲示板には《アクアライン 交通規制 海ほたるPA 利用制限》と出ており、木更津方面の所要時間は、さっき見た時よりも長くなっていた。日差しを遮る建物が少ないせいか、渋滞で止まるたびに窓の外の明るさが気になった。エアコンの温度を一度下げたものの、サイドウインドーから日を受けている右腕は相変わらず暑い。前方のトラックの白い箱型荷台が光を反射するので、ときどき眩しくて目を細めた。


後方から赤色灯が近づき、周囲の車がじりじりと左右へ寄っていく。警察車両がその間を抜けると、今度は元の車線に戻ろうとする車同士で流れが詰まった。何台も続けて緊急車両が通るものだから、そのたびに渋滞が長くなっている気がする。


斎藤から電話が来たのは、その少し後だった。


『おい、暇だからちょっと話しよーぜ』


「あぁ、俺もちょうど暇してたとこ。ハチはどんな感じだ?」


『落ち着かない感じがするな』


「漏らすんじゃね」


『やめろ』


「おしっこレクサスか」


『やめろ』


瀬川は声を出して笑った。斎藤の車の後部座席で、ハチが落ち着きなく動き回っているところを想像すると余計におかしかった。斎藤は何か言い返していたが、隣を走る大型トラックのエンジン音に紛れてよく聞こえなかった。


通話を終えても、道路は相変わらず詰まっていた。ラジオでは通常の番組が再開され、リスナーの投稿したくだらない話をパーソナリティが笑いながら読んでいる。ニュースの続きを知りたくてしばらく聞いていたが、海ほたるについては何も言わなかった。


そのうち《川崎浮島JCT》《東京湾アクアライン 木更津》の標識が見えてきた。湾岸線は一度多摩川の下へ潜り、トンネルを抜けると高架の道路が幾重にも分かれている。新村の車はアクアライン方面の案内に従って左へ寄り、瀬川も車線を変えた。倉庫の屋根やタンクの向こうには港の設備が並んでいるが、それを眺める間もなく道が下り始める。やがて海底へ続く長いトンネルに入り、窓の外にあった工場や空港の景色は、白い照明とコンクリートの壁に変わった。


トンネル内は思ったより車が流れていた。先ほどまでの渋滞を抜けられたことにほっとした反面、目的地へ近づくほど、ラジオで聞いた通報内容が気になってくる。人が人を襲った。警察が発砲した。車が燃えた。新宿の映像で見たような騒ぎが、トンネルを出たすぐ先で起きたということらしい。


警察も消防も来ていて、本線はまだ通れるのだから、危ない場所へわざわざ車を通すようなことはしないだろう。そう思いながらも、万一この中で車列が止まり、前方から誰かが走ってきたらどうするのかと考えてしまう。周囲は車とコンクリートの壁ばかりで、逃げようにも逃げる方向がない。瀬川は前の車のテールランプを見ながら、またラジオの音量を上げた。


流れていたのは海外の軽快な曲だった。曲が2つほど替わったところでトンネルの先に昼の光が見え始め、車列はそのまま出口へ向かってゆっくり上っていった。


外へ出ると、左右のガードレールの向こうに東京湾が広がった。空はよく晴れていて、海面は太陽光の光を受けてキラキラと輝いている。しかし瀬川が景色を眺めるよりも先に気づいたのは、海ほたるの建物の上を旋回しているヘリコプターだった。1機だと思っていたら、少し離れたところにもう1機いる。建物の向こうから灰色の煙が細く立ち上っていた。


近づくにつれ、パトカーや消防車、救急車が建物の周囲に集まっているのが見えてきた。海ほたるへ入る分岐はカラーコーンで塞がれ、黄色い作業車のそばで道路管理会社の係員が一般車両を本線へ誘導している。入口の奥には緑色の大きなトラックが2台停まっていた。自衛隊の車両だと気づいて、瀬川は思わず身を乗り出しかけた。


「マジかよ……」


本線の車列が詰まり、ランクルは建物の脇をゆっくり進んだ。駐車場の開口部から、消防車の向こうに黒く焼けた車の側面が一瞬見えた。別の車は斜めに停まったまま動かされておらず、地面に白い消火剤が残っている。白いシートで仕切られた一角には防護服を着た人が数人いたが、何をしているのかまでは分からなかった。


車が前へ進むにつれて駐車場の奥はコンクリートの壁に隠れた。その代わり、本線寄りの柱のそばに黒い防護具を着けた警察官が立っているのが見えた。胸の前に構えているのは、交番で見る拳銃とは比べものにならない長い銃だった。柱の表面には何かが当たって欠けたような跡があり、瀬川はもう一度確かめようとしたが、後ろから来る車に押されるようにして通り過ぎてしまった。


現場が見えなくなる頃、車列の速度がさらに落ちた。先の方でカラーコーンによって車線が絞られ、フェイスマスクを着けた警察官が通過車両を順番に止めている。そのうちの1台が脇へ誘導され、助手席の人間が窓越しに何かを説明していた。


新村から電話がかかってきた。


『おい、警察が検問か何かやってる。今から引き返すなんて無理だから』


いつもより早口だった。瀬川は、さっき見た黒い防護具の警察官を思い浮かべながら、ここで新宿と同じようなことが起きたのなら検問くらいするだろう、と考えた。


その次に、今自分が運転している車のことを思い出した。朝、新村のところで付けられたナンバープレートも、このランクルも、まともなものではない。


「は? おい待て、どうすんだよ」


『知るかよ。うまくやってくれ。なんかあっても俺の名前出すなよ』


新村は言いたいことだけ言って電話を切った。ちょうど前の車が検問の手前で止まり、新村もブレーキを踏んでいる。あいつが乗っているのは普通の車だ。自分だけ通ってしまえば、あとは知ったことではないのだろう。


フロントガラス越しに、新村の運転席へ警察官が近づくのが見えた。窓が下がり、何かを話した後、新村が財布を探っている。瀬川はサイドミラーで車列を確認したが、後ろには斎藤のレクサスがいて、そのさらに後ろにも車が続いていた。


また電話が鳴った。今度は斎藤だった。


『これ、やばくね?』


「やばい」


『ナンバーとか調べられたら終わりじゃねぇか』


「終わりだよクソ。あーもうどうすんだよ」


瀬川は前方へ目を戻した。新村が警察官へ免許証を渡している。そういえばランクルの車検証がどこに入っているのかも知らない。グローブボックスを開ければ何か出てくるのだろうか。いや、今さら助手席を漁り始めたらかえって怪しい。車の持ち主がもう盗難届を出していて、車について調べられたら終わりだ。


『逃げる?』


「どこにだよ」


両隣には車が詰まり、路肩の向こうはガードレールと海だった。瀬川は斎藤の方を見ようとしたが、バックミラーにはそのフロントガラスしか映らない。


『……だよな』


「電話切るぞ」


新村の車が動き出した。警察官が免許証を返したらしく、そのまま木更津方面へ進んでいく。瀬川はアクセルを少し踏んで前へ詰め、停止を指示する警察官の掌が見えたところでブレーキを踏んだ。


窓を下げると、海からの風と一緒に無線機の音が入ってきた。警察官はマスクを着け、手袋をした片手に何かの用紙を持っている。


「こんにちは。ご協力お願いします。免許証見せてもらえますか」


「はい」


拒んだらかえって怪しくなる。瀬川は財布から免許証を取り出した。警察官は写真を見てから瀬川の顔へ視線を移し、助手席と後部座席も確かめるように覗いた。車内に積んであるものといえば、自分の荷物くらいしかない。それでも車内をじろじろ覗かれるのは落ち着かない。


「お1人ですね」


「はい」


「東京から?」


「はい」


「11日以降、新宿駅周辺か、その他警察が立ち入りを規制していた区域に入ったことはありますか」


瀬川は一瞬、何を聞かれたのか考えた。車のことではなく、新宿のことらしい。


「いや、行ってないです」


「きょう午前11時前後、海ほたるに滞在していましたか」


「してないです。今初めて来ました。通り抜けるだけで」


「分かりました。ご自身か身近な方で、ここ数日急に熱が出た人、意識を失った人、ひどく具合が悪くなった人はいませんか」


瀬川は朝から会っている斎藤と新村のことを思い出した。少なくとも二人とも元気そうだった。


「いないです」


「噛まれたり、他人の血や唾液が目や口に入ったりしたことも?」


「ないです」


警察官は用紙へ目を落とし、何かを確認してから頷いた。瀬川の免許証はまだ相手の手にある。顔写真を見ているのか、名前を調べようとしているのか、手元が動くたびに視線を追ってしまう。もう一度車内を覗かれたらどうしよう、車検証を出せと言われたらどこを探せばいい。頭の中でそんなことを考えているうちに、警察官が免許証を差し出した。


「この先、海ほたるには入れません。そのまま木更津方面へ進んでください。途中で停車もしないようお願いします。もしご自身か同乗者に急な発熱や意識障害が出た場合は、そのまま移動せず警察か消防へ連絡してください」


「……はい」


「ご協力ありがとうございました」


瀬川は免許証を受け取り、財布に戻すのも後回しにして助手席へ置いた。窓を閉め、ウインカーを戻してから車列へ合流する。バックミラーに検問の警察官が映らなくなるまで、アクセルを踏む足に妙な力が入っていた。


「っぶね……」


声に出すと、肩の辺りが急に重く感じられた。盗難車だと気づかれていなかったのか、そもそも車の情報まで調べる余裕がなかったのか、瀬川には分からない。何しろ警察官は、新宿と海ほたるの話しかしなかった。免許証も返ってきたし、止められたのはほんの数分だったはずだ。それなのに、いまだに口の中が乾いている。


少し先で速度を落とし、斎藤のレクサスが来るのを待った。ミラーの中では、運転席の脇に警察官が立ち、後部座席の窓からハチが外を覗いている。やがて警察官が1歩下がると、白い車がゆっくり走り出した。


斎藤から電話が入った。


『マジで詰んだかと思った。免許証出せって言われた瞬間、心臓止まったぜ』


「俺も。案外なんともなかったな」


『俺、車のこと何か聞かれたらどうしようかずっと考えてた』


「何て言うつもりだった?」


『新村に借りました』


「新村売る気満々じゃん」


『死なばもろともだ』


瀬川は笑った。あれだけ怯えていたわりに、斎藤が考えついた言い訳もたいしたものではない。そういう自分も、もし車の持ち主を聞かれていたら、たぶん似たようなことを答えていただろう。


斎藤はまだ何か愚痴っていたが、瀬川はハンドルを持つ手の汗をズボンで拭きながら前の車列へ目を戻した。左手には海が広がり、海ほたるの建物はもう後ろへ流れている。バックミラーの端で赤色灯がいくつか点滅し、その上をヘリコプターが旋回していた。


海の上の道路へ出ると、ようやく流れがよくなった。斎藤の車も後ろからついてきており、前方には新村の車が見える。木更津の料金所を過ぎる頃には、さっきまでの渋滞が何だったのかと思うほど、周囲の車が普通の速度で走っていた。


高速を降りると、道路脇には広い駐車場のある飲食店やホームセンターが並び、コンビニの前にも何台か車が停まっていた。歩道を自転車で走る学生らしい2人組がいて、信号待ちでは農機具を積んだ軽トラックが隣へ並んだ。運転している老人は窓を開け、青信号になる前から前方の車を気にしている。


海ほたるでは自衛隊のトラックまで出ていたのに、こちらでは誰もそんなことを気にしていないように見える。瀬川も赤信号で停車するうちに、ようやく助手席に置いたままの免許証を財布へ戻した。


新村から電話がかかってきた。


『あと少ししたら目的地に着くからな。ぶつけんなよ』


「はいはい」


結局あいつは1度も、検問は大丈夫だったかと聞いてこなかった。せめて少しくらい気にしてくれてもよさそうなものだが、新村にとっては車を傷つけず届ける方が大事らしい。瀬川は返事をした途端に馬鹿らしくなり、さっさと車を引き渡して35万円を受け取ることを考えた。日本がどうなるにせよ、今このタイミングで盗難車を運んだ罪で刑務所に入るのは御免だ。


前を走る新村が左折し、3台の車は大通りを離れた。建物の間隔が少しずつ広がり、田畑の向こうに低い住宅が並んでいる。離れたところを少数車両編成の電車が走っていくのが見えた。瀬川はその車両を目で追いかけてから、交差点の先へ進んでいく新村の車へ視線を戻した。


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