↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/25

事故

2028年6月14日


大通りを外れてから十分もしないうちに、新村の車が速度を落とした。田畑の間に住宅と小さな工場が混じる道で、すれ違う車もほとんどいない。道路脇には資材を積んだトラックが一台停まり、その向こうに背の高い金属フェンスで囲われた敷地があった。門は開いており、奥には屋根の低い建物と、何台かの乗用車が見える。


新村が先に門をくぐり、瀬川もランクルを敷地の奥へ進めた。入口に近い場所には砂利が敷かれていたが、駐車するように指示された一角は舗装されていて、タイヤの跡がいくつも黒く残っている。切り返して車を停め、パーキングブレーキをかけてからエンジンを切ると、今まで車内に満ちていた低い振動がなくなった。窓の外では虫が鳴いていた。


運転席から降りる前に、瀬川はもう一度ハンドルと計器盤を眺めた。朝、新村から盗難車だと聞かされた時はどうなることかと思ったが、海ほたるの検問まで通り抜け、結局ここまで傷一つ付けずに運んできた。幅の広さに慣れるまでは苦労したものの、高速での乗り心地はよかったし、何よりあの大きな車体を自分で動かしているのが楽しかった。盗んだ車でなければ、もう少し乗っていたかったくらいだ。


ドアを閉めると、建物の脇にいた男が2人こちらへ歩いてきた。片方は作業着の袖を肘までまくっており、もう一人は首から細いタオルを下げている。新村が軽く手を上げると、男たちもそれに応じたが、瀬川や斎藤には特に挨拶もせず、ランクルとレクサスの周りを見て回り始めた。


一人がランクルの後部バンパーにしゃがみ込んで何かを確かめ、別の男はレクサスの運転席へ乗り込んだ。エンジンの始動音がして、少し間を置いてから男が窓を下げる。新村がそちらへ歩いていった。


「問題ない?」


新村に聞かれた男は車を降りながら頷き、短く「大丈夫」と答えた。もう1人も立ち上がって何も言わずにランクルの鍵を受け取ったので、瀬川は自分たちの仕事が終わったらしいと理解した。


あれだけ神経を使って走ってきたのに、引渡しはこれまた拍子抜けするほど簡単だった。何か書類に署名するでもなく、車を持ってきた理由を尋ねられることもない。2人の男は既に車体の別の箇所を確かめていて、ドライバーには欠片の興味もさえ示しているようには見えなかった。


斎藤はレクサスから離れたところで振り返り、白い車体をしばらく眺めていた。


「もうちょい乗りたかったな」


「盗難車だけどな」


「そこなんだよなあ」


斎藤が名残惜しそうにレクサスを見たまま言うので、瀬川は少し笑った。新村の車の後部座席にはハチが残されており、斎藤がドアを開けると、すぐ立ち上がって顔を寄せてきた。車内が暑かったのか、口を開けて息をしている。


「お前は楽だったな」


斎藤が首の辺りを撫でると、ハチはその手を舐めた。朝から何時間も車に乗せられているわりには機嫌がよく、斎藤が手を引くと、もっと撫でろとでも言うように鼻先を押しつけてくる。


新村から渡された封筒を開けると、1万円札が揃えて入っていた。瀬川は口を少し広げて束の厚さを見てから、指で何枚か繰り、最後まで数えて確認した。約束どおりの35万円だった。昨日の15万円と合わせれば、たった2日で50万円になる。朝からの運転と海ほたるでの一件を思い出しても、これだけ貰えるのなら悪い仕事ではないような気がしてくる。


瀬川が封筒をバッグの奥へしまうと、新村はさっさと自分の車へ向かった。


「帰るぞ」


帰りは3人とも同じ車だった。新村が運転席へ乗り、瀬川は助手席、斎藤とハチは後部座席に収まった。門を出てしばらくは来た道を戻り、広い道路へ出たところで新村がカーナビの案内を確認する。


信号待ちで車が停まると、ナビがいつもの案内とは違う電子音を鳴らした。


『ルート上に交通規制があります。新しいルートを検索します』


「ん?」


新村は画面に目を向けた。東京湾を横断するはずだった青い線が消え、検索中の表示がしばらく続いた後、千葉県側を北へ大きく回る経路へ切り替わった。


「なんだこれ」


瀬川もスマートフォンの地図を開いた。朝通ってきたアクアラインの上には通行止めを示す赤い印が付き、海ほたるの周辺は経路の候補から外れている。


「アクアライン通行止めだ」


「は?」


新村が信号待ちの間に画面を覗き込んだ。道路交通情報には、海ほたるパーキングエリアでの事案に伴う安全確認と交通規制のため、東京湾アクアラインを上下線とも通行止めにしたと書かれていた。いつからという時刻はあるが、解除の見込みはまだ出ていない。


「さっき通れたじゃん」


斎藤が後部座席から身を起こした。ハチもつられて頭を上げ、二人の間から顔を覗かせる。


「俺ら危なかったな。運が良かった」


「で、これどっから帰んの?」


新村はナビを拡大し、指で経路を追ってから舌打ちした。


「上回るしかねえな」


「何時間かかる?」


「知らねー。混み次第」


瀬川も地図を縮小してみた。海の上を一本で渡れるはずだった道が使えなくなると、木更津から市原、千葉の方へ上がり、東京湾の縁をぐるりと回らなければならない。渋滞を示す赤い線はその経路にも何か所か付いている。新村が運転してくれるのはありがたかったが、帰るのは随分遅くなりそうだった。


助手席の背もたれを少し倒すと、朝から握り続けていたハンドルの感触がまだ手に残っている気がした。車窓には低い住宅やチェーン店の看板が続き、信号待ちの車の横を自転車の学生が通り過ぎていく。海ほたるではヘリコプターが二機も飛んでいたのに、今ここで見えるのは、昼食を買いに店へ入る人や、駐車場で荷物を積み込む人ばかりだった。


ーーー


迂回を始めてから一時間ほど経った頃、新村が館山自動車道の市原サービスエリアへ入った。高速に乗ってからも車の数は多く、ところどころでブレーキを踏まされた。斎藤がハチを一度外へ出したいと言い出し、新村も腹が減ったらしく、案内標識を見つけると迷わず入口の車線へ寄せた。


サービスエリアへ入るための短い道路から既に車が並んでおり、駐車場の中でも空きを探す車がゆっくり走っていた。停まっているのは家族連れのミニバンや営業車、それに大きなトラックが何台もある。運転手が窓を開けて隣の車へ何か言っている一方、建物の出入口では買い物袋を提げた人たちが途切れず出入りしていた。


新村は小型車の区画を2周ほどして、ようやく建物から少し離れたところに1台分の空きを見つけた。隣の車との幅を確かめながらバックで入れると、エンジンを止めて腕時計を見た。


「15分な」


「しょんべんしてくるわ」


言い終わる前に新村はシートベルトを外し、ドアを開けていた。斎藤はハチのリードを取り出し、後部座席で立ち上がった犬を落ち着かせながら首輪に金具を留めた。


「俺ハチの散歩」


外へ出ると、アスファルトから昇る粘り気のある熱気が全身を撫でる。朝はまだ気持ちよかった風も、日なたでは少し生ぬるい。瀬川は軽く伸びをし、運転の疲れが残っている腰を拳で叩いた。斎藤の足元ではハチがすぐに鼻を地面へ近づけ、リードの届く範囲を忙しなく嗅ぎ回っている。


建物の前には房総の土産物を紹介する幟が並び、ガラス戸が開くたびに冷房の冷たい空気と食べ物の匂いが外へ漏れてきた。瀬川が中へ入ると、食券機の前に数人の列ができ、売店では子供が箱菓子を手に取って親へ見せている。窓際の椅子には作業服姿の男が二人並び、紙コップを持ったままテレビを見上げていた。


テレビでは朝通った海ほたるの映像が流れていた。遠くから撮影したパーキングエリアの建物の上をヘリコプターが飛び、画面下の字幕には《東京湾アクアライン 上下線通行止め》とある。周囲の客も何人か顔を向けていたが、食券機の列はそのまま進み、店員は番号を呼んでいた。


トイレから戻った瀬川は自動販売機で水を買った。隣の機械ではジュースやお茶のボタンに売切れの表示がいくつも点いている。ペットボトルを取り出してから少し迷ったが、何も食べずに外へ戻ることにした。新村が15分と言っていたし、今から列に並んでも間に合わないだろう。


斎藤は建物から少し離れた植え込みのそばでハチを歩かせていた。犬はさっきまで車内でじっとしていたのが嘘のように、草の根元へ鼻先を突っ込んでは別の場所へ移っている。新村の姿は見えなかったが、建物の横に喫煙所の案内があったので、たぶんそこにいるのだろう。


瀬川が水の蓋をひねりながら斎藤の方へ歩いていると、駐車場の入口側からクラクションが聞こえた。短く2度鳴った後、今度は途切れずに長く続く。周囲の何人かが顔を上げ、瀬川も車の並ぶ方へ振り返った。


入口を入ったところに灰色の乗用車が見えた。前の車を急かしているのかと思ったが、車は減速するどころか、駐車区画の間を妙な速度で進んでくる。曲がり角で片方の前輪が縁石に乗り、車体が大きく跳ねた。反動でハンドルを取られたのか、いったん斜めになってからも速度が落ちない。


その先を横切ろうとした軽自動車が、急ブレーキをかけて鼻先を止めた。灰色の車はぎりぎりその前を抜け、駐車している車の列へ突っ込んでいった。


「おいマジか!」


斎藤が声を上げた直後、金属を押し潰すような大きな音が響いた。灰色の車が停まっていたミニバンの後部へ斜めに衝突し、その反動で隣の車にもぶつかってようやく動きを止めた。前の部分は大きく潰れ、ボンネットが持ち上がっている。周囲では何台もの防犯装置が同時に鳴り始め、瀬川は手に持っていたペットボトルを思わず握り直した。


「うわ……」


建物の近くにいた人たちが足を止め、駐車場の奥からも何人か走ってきた。衝突した車の周囲には砕けた部品が散らばり、ミニバンの後ろのガラスが細かく割れている。近くの男がスマートフォンを取り出して通報し、サービスエリアの制服を着た職員が2人、建物から急いで出てきた。


「救急車!」


「誰か電話して!」


何人も口々に叫んでいたが、既に通報している人間もいるらしい。駐車場を横切って走る人、荷物を置いて見に行く人、離れたところから携帯電話を向ける人が混じり、事故車の周囲にはすぐ人垣ができ始めた。


喫煙所の方から新村が戻ってきた。手に持っていた煙草を地面へ落とし、少し離れたところから車の前部を覗き込んでいる。


「なんだなんだ。何が起こった」


「事故だ。突っ込んできやがった」


「はぁ?」


瀬川も人垣の外側へ近づいた。助けるつもりで来たわけではない。制服の職員がもう動いていたし、電話をしている人も何人か見える。ただ、あれほど派手な事故で、運転していた人間がどうなっているのか気になった。斎藤もハチのリードを短く持ったまま、少し後ろへ付いてきた。


そのハチが不意に立ち止まった。リードが斎藤の手の中で張り、喉の奥から低い唸り声が聞こえる。


「ん?どうした?」


斎藤はリードを緩めたが、ハチは一歩も進もうとしなかった。さっきまで地面の匂いを嗅ぎ回っていた鼻先を上げ、事故車の方を見たまま身体を低くしている。尻尾は後ろ脚の間へ入り、呼吸に合わせて胸が小刻みに動いていた。


「ハチ?」


斎藤が呼びかけても、犬はそちらを見ない。大きな音に驚いたのだろうか。瀬川が屈んで頭を撫でようとしたところで、ハチが突然吠え始めた。


一声ごとに前脚が突っ張り、吠えながら後ろへ下がろうとする。リードを持った斎藤の腕が引かれ、近くにいた人が迷惑そうに振り向いた。


「おい、どうしたお前」


「おかしいな、こいつマジで吠える犬じゃないのに。びっくりしたのか?」


斎藤はハチの首の辺りを押さえて落ち着かせようとしたが、唸り声は止まらない。瀬川は事故車と犬を交互に見てから、人と人の肩の隙間へ顔を向けた。


灰色の車の運転席ではエアバッグが開いており、その向こうに女性が座席へもたれていた。頭を横に傾け、額から流れた血が頬へ伝っている。右の袖も肩から肘の辺りまで濡れていた。ドアの外側にいた職員が取っ手を引き、もう一人と力を合わせてゆがんだ扉を開けると、女性はゆっくり顔を上げた。


「聞こえますか!? 今救急車呼んでますから!」


女性の口が動いた。車の警報と周囲の声に紛れ、瀬川には何を言っているのか聞き取れない。職員はそのまま声をかけ続け、誰かが道路側から回り込んでいった。


「おい、子供が助手席にいるぞ」


声のした方を見ると、助手席にも人がいた。小学生くらいの男の子らしく、シートベルトを着けたまま上体を前へ倒している。頭が垂れているせいで顔は見えず、足元には小さな靴の先が並んでいた。


助手席側へ回った白髪の男がドアノブを引いた。フレームがゆがんでいるのか1度目では開かず、足を踏ん張って何度か引っ張ると、ドアが鈍い音を立てながら外へ開いた。男は車内へ身体を屈め、子供の顔を覗き込んだ。


その時、運転席の女性が不明瞭に何かを叫んだ。


「……ないで……!」


男が振り返り、「大丈夫です。今助けますから」と答えたが、女性は苦しそうに息を吸い、もう一度言おうとした。


「違う……その子、触らないで……」


瀬川にも今度ははっきり聞こえた。子供を助けようとしている男は、女性の言葉を聞いても動きを止めなかった。何か言い返しながら、子供のシートベルトに手を伸ばしている。


すぐ横でハチが甲高く吠え、斎藤がリードを両手で握った。


「瀬川、新村」


「何?」


「ちょっと下がろう」


斎藤は言いながら既に後ろへ下がっていた。ハチがしきりにリードを引いているので、斎藤は人垣に背を向けるようにして犬を落ち着かせようとしている。瀬川はもう一度事故車へ目をやった。


白髪の男はベルトの留め具を外し、子供の肩に手を添えていた。その時、うなだれていた頭が持ち上がった。ようやく気がついたのかと思う間もなく、子供の腕が男の前腕を掴み、身体を引き寄せた。


「大丈夫か君? しっかりしろよ、今助けてやるからな」


男が言い終えるより早く、子供の顔が腕へ押しつけられた。ふざけて噛みついたようにも見えたが、白髪の男が身体を引こうとしても腕は離れず、すぐに悲鳴へ変わった。


「いっ、痛っ! おい!」


近くにいた別の男が助手席へ駆け寄り、子供の肩を掴んだ。


「ちょっと、離しなさい!」


二人がかりで引き離そうとしているうちに、噛まれている腕から血が落ち始めた。瀬川の位置からでも、男の袖がみるみる赤く染まっていくのが分かった。


「いたたたたた!!! ボウズコラ離せ!」


白髪の男は空いている手で子供の頭を押した。ベルトの外れた子供の身体が座席の端までずり落ち、それでも腕にしがみついたまま放そうとしない。無理に引っ張られた腕の辺りで、衣服が裂けるような音がした。


ハチの吠え声が耳元で続いていた。瀬川が一歩後ろへ下がると、斎藤が袖を掴んだ。


「戻るぞ!ありゃまずい!」


「え?」


「いいから行くぞ!」


斎藤は瀬川の腕を引き、事故車から離れる方へ歩き始めた。新村はまだ人の間から車内を見ようとしていたが、斎藤に呼ばれてようやく振り向く。人垣の前の方では、噛まれた男を助けようと何人かが手を伸ばし、その後ろでは何があったのか分からないまま携帯電話を掲げている人間もいた。


瀬川は歩きながらもう一度振り返った。白髪の男は腕を引き抜いたらしく、尻餅をついて後退している。助手席から落ちた子供が肩をアスファルトにぶつけ、そのままうつ伏せになった。痛がる様子もなく手を突いて身体を持ち上げ、ぎくしゃくとした動きで起き上がろうとしていた。


瀬川は似たものを何度も動画で見ている。画面の中では再生を止めたり、拡大したりできたが、今は数メートル先で、誰かが負傷した男を引きずっていくのが見えた。


「瀬川!」


後ろから走ってきた男が瀬川の肩へぶつかった。バランスを崩して横へよろけたところを、斎藤が腕を掴んで引き戻す。事故車の方では誰かが怒鳴り始め、それに別の声が重なった。


「アレじゃねえのか!? PMーー」


「ゾンビだ! 離れろ!」


叫び声が通ると、それまで車へ向かっていた人たちの動きが逆になった。後ろにいた人間は事情が分からず、急に押し戻されて怒鳴っている。転びかけた女性の腕を誰かが掴み、抱き上げられた小さな子供が泣き始めた。走り出した人が植え込みの縁石につまずき、その横を別の人が避けていく。


瀬川たちは人の流れが駐車場全体へ広がる前に、自分たちの車へ向かっていた。新村が運転席に回り、斎藤は暴れるハチを後部座席へ押し込むようにして乗せる。瀬川が助手席へ滑り込んだ時には、新村はもうエンジンをかけていた。


「閉めたか!?」


後部座席のドアが閉まる音を聞き、新村が車を動かした。駐車区画を出ると、車と車の間から何人かが駆け出してくる。新村は出口へ向けてハンドルを切り、前を横切ろうとした一人の男に気づいてブレーキを踏んだが、間に合わなかった。


「うわっ!」


低い衝撃音とともに、男の腰の辺りが車の前部へぶつかった。上体がボンネットに乗りかかり、そのまま横へ滑って地面へ落ちる。瀬川はシートベルトに身体を引っ張られ、反射的にダッシュボードへ手を突いた。


「やべっ!」


車が止まると、新村はシートベルトの留め具へ手を伸ばした。瀬川はその腕を掴んだ。


「待て待て、降りんな!」


「いや、でも今」


男は地面で一度身体を丸めてから、すぐ片膝を突いて起き上がった。顔をしかめ、腰の辺りを押さえてこちらを見たが、事故車の方からまた悲鳴が上がると、何も言わずに立って走り出した。瀬川は男の足取りを追った。少なくとも自分で走ることはできるらしい。


「行け、行け!」


新村は男が車から離れたのを確かめると、もう一度アクセルを踏んだ。駐車場の出口には同じように出ようとする車が増えており、方向指示器を点けたまま動かない車の横を、別の車が強引に抜いていく。クラクションと警報音があちこちから聞こえた。


瀬川が振り返ると、事故車の周りにできていた人垣は崩れ、開いた車のドアだけが人の間から見えた。何人かが駐車場を走っているが、男の子の姿はもう見えない。サービスエリアの職員が建物の前で腕を広げ、そこへ向かおうとする人たちを止めていた。


新村は前の車に続いて出口の車線へ入り、本線の車列へ合流した。ようやくサービスエリアが遠ざかってからも、誰も口を開かなかった。新村は速度計を確かめながら前の車との距離を取り、斎藤はハチの背中を何度も撫でている。車内には犬の荒い呼吸と、時折鼻を鳴らす音が続いた。


瀬川は助手席に座り直したものの、さっきの子供の動きが頭から離れなかった。小さな靴を履いた、普通の男の子に見えた。男が腕を押さえて叫んでいる顔も、その袖から落ちていた血も覚えている。あの場にもう少し残っていたら、誰かに引き離すのを手伝えと言われていたかもしれない。


「……見たよな」


新村が前を見たまま言った。


「見た」


斎藤が短く答えると、新村はハンドルを握り直してから、もう一度口を開いた。


「アレ、そうだよな」


「それ以外なにがあるってんだ。食いしん坊のガキか?」


「そうだよな……」


新村は普段なら何か言い返すところだったが、そのまま黙って車間距離を確かめていた。瀬川はバッグからスマートフォンを出し、何となくカメラを開いた。画面には助手席の足元が映っただけで、指を止める。肝心な時に一枚も撮っていない。あれほど近くで起きたのに、撮ろうという考えすら浮かばなかった。


事故車の周囲では何人もスマートフォンを向けていた。誰かが撮っているはずだと思い、瀬川はXを開いて、サービスエリアの名前と「事故」で検索した。表示されたのは交通情報と、アクアラインの通行止めに文句を言う投稿がほとんどだった。検索結果を更新してみても、さっきの子供が映ったものは出てこない。


斎藤が後部座席から言った。


「こいつが吠えてなかったら、俺もっと前行ってたわ」


瀬川が振り向くと、斎藤はハチの首を撫でていた。犬は横になろうとしてはまた頭を上げ、時折窓の方へ耳を向けている。


「お前、分かってたのか」


もちろんハチは答えない。斎藤の手を少し舐め、再び荒い息を吐いた。


「犬ってやっぱ分かんのか」


「血の臭いとかじゃね」


斎藤はそう言ったきり、ハチを撫でることに戻った。瀬川もそれ以上は聞かず、スマートフォンを膝に置いた。犬が何を感じ取ったのかは分からないが、斎藤が引き返そうと言い出した時、瀬川はまだ事故車の中を覗くつもりでいた。


新村がラジオをつけると、ちょうど道路交通情報を伝えていた。東京湾アクアラインは上下線とも引き続き通行止めで、首都高速では渋滞区間が増えている。事故による車線規制の場所もいくつか読み上げられたが、さっきのサービスエリアの名前は出てこなかった。


ーーー


東京へ戻る頃には、窓の外がかなり暗くなっていた。西の空にはまだ明るさが残っていたが、高架の下では街灯が点き、道路沿いの店は看板を光らせている。迂回のせいで帰りは予想以上に長くなり、途中で見た事故処理の車両や救急車が、どれも妙に気になった。窓から見える範囲では大きな騒ぎは起きておらず、渋滞を抜けた後は新村も黙って車を走らせていた。


斎藤の家の近くで車を停めると、ハチは後部座席からすぐに降りて歩道の匂いを嗅ぎ始めた。しばらく車内で丸くなっていたのに、地面へ降りるといつものようにリードの先を引っ張っている。斎藤はその様子を見て、ようやく少し表情を緩めた。遠くではヘリコプターの音がしていたが、姿は建物の陰で見えなかった。


「じゃあな」


「おう」


瀬川が返すと、斎藤はドアを閉めかけてからハチを見下ろした。


「今日はこいつに飯多めにやるわ。ご褒美だ」


「太るぞ」


「今日くらいいいだろ」


新村が運転席の窓を下げた。


「早く帰れよ。もう外うろつくな」


「お前に言われたくないわ」


斎藤はそう言ってドアを閉め、ハチを連れて歩き出した。2人が角を曲がるまで新村は車を出さず、やがて前方が空いたところでウインカーを出した。


瀬川を降ろす場所まではそれほど遠くない。新村は信号で停まると前の車を見たまま待ち、青に変われば黙ってアクセルを踏んだ。いつもならスマートフォンをいじったり、次の仕事のことを話し始めたりするのに、今日は何も言ってこない。瀬川もバッグを膝の上へ乗せ、奥に入れた封筒の位置を手で確かめていた。


見慣れた通りへ入ったところで、新村が路肩へ車を寄せた。


「ここでいいか?」


「あぁ」


瀬川がバッグを持ってドアを開けると、後ろから「金、無駄遣いすんなよ」と声がした。軽く手を上げて礼を言い、歩道へ降りる。新村の車はそのまま走り去り、角を曲がるところで赤いテールランプが一瞬だけ見えた。


コンビニの窓は明るく、レジの前に制服姿の客が立っている。交差点では信号に従って車が流れ、少し離れた道路を路線バスが走っていった。瀬川はバッグを肩にかけ直し、スマートフォンの時刻を見てから自宅へ向かった。思い出したかのようにどっと疲れが身体の内側から湧き出してくるような感覚を覚えた。結局泊まりになるほど遠くへ行ったわけでもないのに、朝から何日分も車に乗っていたような気がする。


家まであと少しのところで、朝斎藤と待ち合わせに向かう途中で通った交差点へ出た。白いミニバンが、ガードレールに突っ込んだ時のまま斜めに停まっている。少し後ろの黒い車も前部を潰したままで、昼間には路上に散っていた細かな破片が道路脇へ寄せられていた。


朝、スマートフォンを耳に当てていた女の姿はない。周囲に集まっていた人間もいなくなり、事故車を避けて走る車のヘッドライトだけが次々に横切っていく。警察官も救急車もレッカー車も見当たらず、車体の周りにはオレンジ色のカラーコーンが並べられているだけだった。


「……まだあんのか」


瀬川はそれ以上足を止めなかった。コーンの脇を抜ける時、ミニバンの割れたランプに街灯の光が当たっているのが見えたが、そのまま前を向いて家の方へ歩いていった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

続きが気になると思っていただけたら、ぜひブックマークをお願いします。また、面白かったと感じていただけたら、ページ下部の★評価で応援していただけると嬉しいです。

感想も一言から大歓迎です。皆さまの反応が、今後の執筆の大きな励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。