乾杯!
物語上重大な矛盾を解消した修正版になります。
2028年6月11日―15日 アメリカ合衆国 ニューヨーク
6月11日、日曜日の17時52分。ダニエル・マーサーはミッドタウンの自宅で、自室の壁際に組んだデスクへ座っていた。正面には大型のモニターが3枚横一列に並び、その両脇には縦置きの画面が1枚ずつ立っている。株価、債券、為替、ニュース、チャットがそれぞれ別の画面を埋めていたが、彼が見ているのは中央に開いた日経225先物の気配値だけだった。
窓の外はまだ明るい。セントラルパークの向こうまで薄い夕日が残り、下の通りでは週末の車列が途切れず流れている。テレビは音を消していたが、画面の左上には東京・新宿の文字が出たままだった。駅前を走る群衆、シャッターを下ろした商業施設、警察官が銃を構える映像が数時間おきに繰り返され、そのたびに別の角度から撮影された動画が追加されていた。
新宿で最初の通報が入った頃、ニューヨークは土曜日の夜だった。ニュースが大きくなった時には米国の現物株市場は閉まっていた。東京の月曜朝が始まるのはニューヨークでは日曜の夜で、CME Globexが再開する18時より少し後になる。ダニエルが待っているのはそこだった。
17時59分。画面の時計が切り替わる。ライアンからチャットが飛んできた。
《NIY opening in 1min. You still want the first print?》
ダニエルは片手で返した。
《nah. let idiots set the first price lmao》
18時を過ぎると、日経225円建て先物の気配が急に下へ落ち込む。最初の数分は値段よりも板の薄さの方が目についた。前週末の終値から大きく下に買いが並び、売り気配だけが次々に更新されていく。円は対ドルで急落し、ドル円は一気に上へ跳ねた。米国債先物とスイスフランには買いが入っていた。
ダニエルは指値を2本だけ置き、約定を待った。新宿で何人死んだかなんぞ微塵も興味がない。10人でも50人でも、東京の警察が現場を閉じ、腐れバカ共を処理し、月曜から通常運転へ戻すならマーケットへの影響は限定される。逆に、死傷者が少なくても政府と企業が出社や移動を止め始めれば話は変わる。
ニュース端末には、日本の鉄道各社が一部の駅で警備を増強する方針、百貨店が営業時間を短縮する可能性、都内の複数企業が週明けの在宅勤務を拡大するという短い記事が並んでいた。
19時18分、ライアンから通話が入る。
『東京、思っていたより荒れてますね。日経は今3.8%下です。TOPIXも弱い。銀行まで売られてます』
「銀行はまだ売らなくていい。何で下げてるのか、材料が混ざりすぎてる」
『内需系はどうです?』
「月曜の現物を見てからだ。小売、鉄道、ホテル、REITは分けて見ろ。慌てて全部まとめてショートするな」
『了解です』
ダニエルは2本目の指値を少し下へずらした。
『ドル円はもう90銭上です。まだ円売りが続いてます』
「ドル円はやらなくていい」
『まだ上がりそうですが』
「もう出遅れてる。今から入る必要はない」
ライアンが少し黙った。
『じゃあ、今夜は日経だけにします』
通話を切った直後、最初の注文が約定した。ダニエルは椅子の背にもたれ、冷蔵庫から炭酸水を取った。スマートフォンには違う女から2件、別々のメッセージが来ている。1人は今夜会えるかと聞き、もう1人は新宿の映像を見たかと送ってきていた。どちらにも返事はおろか既読すらつけなかった。
20時を過ぎると東京の現物市場が寄り付いた。鉄道、百貨店、不動産が先物以上の勢いで売られ、21時には日経平均の下げ幅が4%を超えた。米国株先物もわずかに売られているが、S&P500の値動きはまだ小さい。市場はまだ新宿の一件を日本だけの問題として扱っているようだった。ダニエルはそこだけが気に入らなかった。
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6月12日、月曜日の6時14分。
ダニエルがマンハッタンに本社を構える投資銀行の高層階にあるオフィスに着いた時、東京市場は既に取引を終えていた。日経平均は予想通りの大幅安となり、特に鉄道、百貨店、ホテル、不動産が指数を下回った。円は夜間の乱高下から少し戻し、日本国債先物は上昇している。
彼のチームは6人だった。ライアン・コールが執行を担当し、クロエ・ベントンが金利、オマール・ラーマンがクレジット、残り3人のアナリストが株式とマクロデータを分担する。ダニエル自身の肩書きはポートフォリオ・マネージャー。会社の中では1つのポッドとして扱われ、割り当てられたリスクの範囲で株価指数、金利、信用、為替を使い、利益を上げる。
机に置かれていた紙のレポートを半分だけ読み、残りを伏せた。
「日本株、ざっとまとめてくれ」
エリックは手元の画面を切り替えた。
「鉄道と百貨店が一番弱いです。ホテルもかなり売られてます。コンビニとドラッグストアは寄りで下げたあと戻しました。備蓄需要だと思います。航空も弱いですが、この1か月でもうかなり売られてるので、今から売りを増やすほどではないです」
ダニエルは値下がり率の並んだ画面を見た。
「そうか。ガイダンスを撤回したりIRを修正する会社が出たら教えてくれ」
「了解」
少し離れた席からクロエが声を上げた。
「2年は4bp下です。OISも、年末までの利下げを少し多めに織り込み始めてます」
「まだ足りない。2年はまだホールドしとけ」
クロエは何も言わず、画面へ戻った。市場が織り込み始めた利下げ幅は、まだダニエルの見立てには届いていなかった。ダニエルは自分の画面を開いた。
数週間前から持っているS&P500のプットは、金曜の引け時点ではまだ小さな含み損だった。米国株が大きく下がれば利益になる。北米ハイイールドの信用リスクに対するCDX HYのプロテクションも買っている。企業の信用不安が強まり、CDX HYの価格が下がれば、買っていたプロテクションの価値が上がる。2年物米国債先物はロング。景気悪化で利下げ観測が強まれば短期国債は買われ、こちらにも利益が出る。個別株ではホテル、航空、商業不動産、消費者金融を既にショートしていた。人の移動が妨げられ消費が落ちれば、早い段階で業績に響くと見ていた業種だった。
5月上旬、ラスベガスで米国内初のPMRSによる死後再活動事案が公式に確認された時、株式市場は文字通りパニックとなった。S&P500はその週だけで1割近く下落し、航空とホテルに始まった売りは銀行や不動産にも広がった。ハイイールド債のスプレッドも開き、普段なら景気指標と女と酒以外興味を示さない野蛮な連中まで、テレビで流れる現場の映像を気にしていた。死んだ人間が再び動いて他人を襲う。その事実だけでも十分ひどいが、それが企業や株価に与える影響を誰にも正確に計算できなかった。
米国政府が崩壊した後の話さえまじめに議論され始め、民間防衛マニュアル本の売り上げが前週比2500%増を記録した一方で、そのラスベガスの事案は警察と州兵によって迅速に封じ込められ、閉鎖された地区でも立ち入り規制が少しずつ解除された。当局は感染経路が限られること、再活動者は銃で制圧できることも繰り返し説明した。
次に別の都市で同様の事案が起きた時には、既に手順を覚えた警察と保健当局が現場へ入り、最初の事件ほど世間は長く騒がなかった。航空券の予約は落ち込んだものの、主要な空港が閉鎖されたわけではなく、ホテルも一斉に営業を停止したわけではない。これなら予想していたより被害は小さい、と市場が判断するだけの材料は揃っていた。
S&P500は5月末までには下げ幅の大半を戻し、6月の第1週にはラスベガス以前の水準まで持ち直した。依然として航空会社やホテルは安値圏に残されたが、資金は大型ハイテク株へ流れ、経済指数全体を押し上げた。再活動者が出たという速報で一時は株が下がっても、現場の制圧が発表されると買い注文が戻る。最初の数回は幸運な逆張りに見えた取引も、月末には顧客へ説明しやすい運用になっていた。次の事件が出れば売られた株を拾えばいい。ダニエルも、その取引で儲けた運用者を何人か知っていた。
2020年のコロナ相場を思い出す者も多かった。あの時のS&P500は1か月余りで3割以上下げたが、失業者が溢れ、企業の営業が戻らないうちから株価は切り返し、8月には以前の高値を更新した。FRBの金融緩和と政府の巨額の支援、大型ハイテク株の上昇が相場を支えたことをダニエルも覚えている。今回は政府がどこまで金融・財政政策を動かすか分からなかったが、現実の被害が続く間にも株は上がり得るという教訓だけは、多くの投資家の頭に残っていた。
オランダのロッテルダム港で再活動者が出ても当日夜には港の業務が再開した。ロサンゼルスとロングビーチで労働者の隔離が相次いでも、貨物の取り扱いは止まらなかった。ヒューストンで病院が救急患者の受け入れを中断した際も、州兵と警察が投入されると数日で事態は落ち着いた。ニュースの見出しだけ追っていれば、行政は少しずつ対処に慣れ、企業も感染事案を織り込んで営業できるようになっている。実際、ダニエルの周囲で強気に転じた運用者も、大方はそう説明していた。
しかし5月の後半から、ダニエルは自分のチームに港湾、航空、病院、鉄道の稼働状況を集めさせ、施設の再開後にどれだけの仕事ができているのかを確かめさせていた。結果出てきたのは、企業の発表資料や運航情報、貨物の搬出遅延を知らせる通知が混じった、見栄えの悪い一覧表だった。ロッテルダムの港は再開こそしているものの、滞留した貨物の処理には時間がかかっている。ロサンゼルスの港湾施設では夜間作業の予定が何度も変更され、別の拠点へ振り替えられた貨物もあった。ヒューストンの病院は救急受け入れを再開した後も、通常の診療枠を十分には戻せていない。いずれも個別の不具合として処理され、経済指標を大きく動かすほどの数字にはなっていなかった。ただ、同じ施設に再び感染疑いが出れば、その遅れを取り戻すために使った人員まで、また手を止めることになる。
彼が気にしていたのは、ゾンビそのものではなく、それが処理された後に残る仕事だった。
そもそもPMRSは原因すら特定されておらず、有効な治療法もまだ見つかっていない。ワクチンの実用化にも見通しが立たず、現場を制圧しても次の事案を防ぐ手段はなかった。接触者を何日隔離するのか、その間のシフトを誰が埋めるのか。人員は無限にはいない。その港で代わりの作業員を手配できても、別の港まで同時に人手が足りなくなればどうする。小学校が休校になれば親は出勤できず、航空会社は乗務員を揃えられなくなる。取引先の納品が滞った企業は売上と信用を落とすが、それでも従業員への賃金や家賃の支払いは続く。手元資金の乏しい会社ほど銀行や社債市場に頼らざるを得ないが、信用を供給する側も同じ業界の損失を抱えることになる。各地の感染者を制圧できるかどうかより、制圧のたびに何人が”割を食う”のかをダニエルは確かめたかった。市場が現場の鎮圧を好材料として買い戻すたび、企業の側には欠勤と遅延の埋め合わせが残る。そのツケがいつ数字に表れるかを見ていた。
5月末のリスク会議で投資案を説明した時、ダニエルが最も長く話したのは感染者数でも株価の予想値でもなく、まさにこのツケの部分である、港湾と輸送機関が人員を確保するまでの時間だった。リスク管理部門の男は資料を最後まで聞き、ポジションの一覧が映ると椅子を引き寄せた。港で貨物が遅れていることも、病院が診療を絞っていることも分かる。だが、政府が追加の支援策を打ち出し、相場がさらに5%上がったらどうするのか。男が気にしていたのはその1点だった。ダニエルは保有額と損失見込みを示したが、相手はSPXプットの満期日を指して、「その間ずっと保険料を払って、何も起きなかったらどうする」と念を押した。CDX HYのプロテクションもタダではない。個別株のショートには借株料と踏み上げの危険がある。仮に秋になってから予想どおりの事態が起きても、それまでに日次損失の上限へ達すれば、会社は彼のポジションを維持させない。相手の指摘は、どれも実務上無視できない正論そのものであった。
ダニエルにも、市場がいつそのツケを値段に織り込むかは分からなかったし、5月の相場がどこまで戻るかも分かっていなかった。それでも、感染事案が増えるほど隔離や警備の必要人数が積み重なり、やがて企業が業績予想を維持できなくなるという自分の予想を変えるつもりはなかった。6月中にも業績見通しを撤回する企業が増え、株式や社債の値付けが大きく変わると見ていた。
5月末の相場回復に合わせて買い増したプットは相場の反発に押され、6月の第1週にも評価損が膨らんだ。社内の別のポッドが押し目買いで多額の利益を叩き出している間、ダニエルは毎朝、自分のブックに並ぶ増え続けるマイナスを確認することになった。リスク管理部門から電話が来るたびに、港の稼働状況や運航遅延を示して説明したが、相手が聞いてくるのは次にいくら損をするかという数字ばかりだった。事案が起きても現場を制圧すれば株価は戻るという連中の見方に、会社のリスク枠まで合わせなければならないのが腹立たしかった。
1度は個別株のショートを減らし、オプションの満期と支払うプレミアムを見直した。会社から与えられたリスク枠を使い切れば、いくら自信があっても次の注文は通らない。週末が近づく頃には米国でも感染対策に伴う操業の遅れが改めて材料視され、プットの含み損は小さくなったが、損失を耐えたことを褒める人間はいなかった。今朝、日本の新宿事件を受けて米国株先物が下がっているのを見ても、ダニエルはまだポジションを閉じるつもりはなかった。彼が待っているのは、稼ぎ方を覚え、もはや機械的に急落した株を買い戻す連中までもが、企業の利益予想と資金繰りを見直さなければならなくなる時だった。
9時前、オマールが椅子を半回転させた。CDX HYは信用不安が強まるほど価格が下がり、プロテクションを買っている側には利益が乗る。ただし、ここから追加するなら、既に悪化した値段で新しいポジションを作ることになる。
「CDX HYは寄り前で0.5ポイント安。ディーラーによっては0.6です」
「まだ追加できる?」
「できます。ただ、朝からもう0.5ポイント下がってるので、今から増やすのはあまり得策じゃないと思います」
「それでも少し増やそう。0.7ポイント安までなら、どのくらい入れられる?」
「そこまでなら、1億5000万ドルが限界です」
「分かった。0.7ポイント安までで1億5000万ドル。3回に分けて入れてくれ」
「了解」
ライアンが横から口を挟んだ。
「SPXはどうします?」
「寄りを見てからだ。今のボラで成行を出す奴は明日から来なくていい」
9時30分、ニューヨーク市場が開いた。お仕事の始まりだ。S&P500は2%を少し超える下落で始まる。ダニエルは注文を増やさなかった。金曜までに買っていた短期のSPXプットは、S&P500の下落とボラティリティ上昇の両方が効いて一気に値上がりしていた。下落への賭けは当たっているが、同じ保険を今から買い直すには高すぎる。ライアンが気配値を読み上げる。
「6月23日、5.5%アウトのプットが金曜の2.4倍です」
「半分は利食っておけ」
ライアンが振り返る。
「まだ下がると思ってるなら、残しておいた方がよくないですか?」
「プレミアムを見ろ。今から同じ保険を、この値段で買いたいと思うか?」
「買いたくないです」
「なら半分は売る。利益を確定して、下のストライクにロールする。6月末の4%下と7%下でプットスプレッドを組んでくれ。プレミアムは最初600万ドルまで」
「了解」
「まとめて出すなよ」
「分かってますよ」
昼前には相場が少し落ち着いた。朝に3%近く下げていた指数は1%台後半まで戻り、金融ニュースには「新宿ショックは限定的」「日本政府の迅速な対応を評価」という見出しが増えた。ダニエルは短期プットの気配を確かめ、朝の高値から随分安くなっているのを見て思わず舌打ちした。下がった株を天からのお恵みか何かだと勘違いしている犬のような連中が、また息を吹き返している。
警察が感染者を制圧したという発表で、また一件”元通り”だとでも考えているのだろう。営業を再開した店に客が戻るのか、駅の警備を増やした鉄道会社が従来どおりの本数を走らせられるのか、そうした数字はまだ出てこない。新宿の死者数も、負傷者の容体も、どうだっていい。ダニエルは翌朝の企業発表を知らせるアラートを確認し、画面を元に戻した。
16時の引けで、彼のブックは約1900万ドルのプラスだった。これだけまとまった利益が出たのは、5月末にポジションを組んで以来初めてだった。 ライアンが数字を見て口笛を吹く。
「悪くないですね。これならボーナスも期待できそうです」
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6月13日、火曜日。
夜8時を過ぎてから、ダニエルはマディソン・アベニューから2ブロック先にあるレストランへ向かった。オリバー・グラントとはハーバードのビジネス・スクールでの同期だった。今は大手PEファンドのパートナー。ピーター・ハンは投資銀行で金利と為替を扱い、マヤ・スローンは再建と倒産を専門にする法律事務所のパートナーになっている。3人ともダニエルと同じくらい忙しく、誰かが会おうと提案してから最終的に4人揃うまで毎回数週間かかっている。今回、この4人が集まるのは3か月ぶりだった。
席に着くと、オリバーがワインリストを閉じた。
「遅刻癖が抜けないな。マーサー?」
「たかだか2分だ。神経質なんだよお前は」
「俺は5分前についていたぞ」
「ずいぶん暇らしい」
「お前より稼いでる」
「今週は無理だ」
ピーターが笑った。
「また始まった」
マヤは先にシャンパンを飲んでいた。
「会って30秒で年収マウント合戦?38歳なのにまるで大学生ね」
「年収じゃない。今週のP&Lの話だ」
ダニエルが答えると、オリバーが眉を上げた。
「で、そこまで自信ありげなら、いくら稼いだんだ?」
「まだ火曜だぞ。聞きたいなら、まず自分から言え」
オリバーはしばらく考えた。
「うちは公開株を扱ってないから、君とは比較できないな」
「逃げたな」
「PEの人間に日次P&Lを聞く馬鹿がどこにいる?」
ピーターがグラスを持ったままダニエルを見る。
「その気持ち悪いにやけ面を見る限り、新宿で相当稼いだな?」
「稼いだのは事実だけど、大半は新宿の後だ」
「俺は最初に円売りをしかけた。そこまではよかったけど、東京市場が開いてから読みにくくなって、途中で半分切った」
ダニエルは笑った。
「珍しくまともな判断だな」
「死ね。お前はどうせ為替はやってないんだろ」
「そうだよ。あそこから為替に入る気はなかった」
「後からなら何とでも言えるな」
「注文履歴、見せようか?」
「やめろ。飯がまずくなる」
料理が運ばれてきた。マヤがナイフを手に取ってから言った。
「日本はそんなにまずいのかしら。旅行の計画があるんだけど」
ピーターが答えかけたが、ダニエルが先に口を開いた。
「さあな。ただ、マーケットとしては面白い」
「もうアンタ達は病気ね」
「何だよ」
「人が噛み殺されてる映像見て『面白い』って言えるところ」
「ンなこと言ってないだろうが。値付けが面白いって言ってる」
「どうかしら。あなたたちにとって、その2つは区別が必要なもの?」
オリバーが笑い、ピーターも頷いた。
ダニエルは気にしなかった。話題はそのまま仕事へ移った。
オリバーはギリシャのホテル事業に投資した件で、現地の運営会社から連日電話が来ているとこぼした。エーゲ海の一部の島では政府が観光目的の渡航を制限し、夏の予約を当て込んでいたホテル側が、客への返金と銀行への返済について相談を持ちかけてきたらしい。
「うちのホテルじゃゾンビなんか出てないんだぞ。客が来ないなら宣伝や値下げで何とかできるが、そもそも島に入れないんじゃどうしようもない。予約を取り消した客に返金して、そのうえ借入金の返済までどうしろっていうんだ」
ダニエルはオリバーを慰める代わりに、自分がショートしているホテル株の残高を思い返していた。ピーターがスマートフォンを取り出し、画面を見ながら言う。
「パナマ運河、また止まってるの知ってるか?」
「完全に止まったのか?」
「新閘門側だけだ。貨物船が閘門の手前で止まってる。船内でPMRSが出て、ブリッジ要員が足りなくなったらしい。今は曳船でなんとかしてんだとよ」
オリバーが肉を切る手を止めた。
「前にも似たようなのあったな」
「あったがこれとは性質が違うな。パナマ当局は数時間で再開するって言ってるけど、それをすんなりと受け入れられるほどアイツらに信用はないのは皆さんご存じのとおり」
4人の間で軽い笑いが起きる。
「LNGの調子はどうだ?」
画面を操作し続けるピーターにダニエルが聞いた。
「少し買われてる、が、コンテナ運賃に連動する方が反応は大きい」
「保険株は? ルイスあたり」
マヤが答えた。
「お金の話じゃないけど、海上保険ならうちの事務所にも相談が来てるわ。PMRSが出て船員が職務を続けられなくなった場合に、遅延損失をどこまで補償するのかって。感染症免責を書き足した契約もある。でも古い契約書に、死体が蘇って人を襲う場合を想定している程の先見性はないわ」
オリバーが笑った。
「君みたいな弁護士は、世界が終わってもゾンビに条文を読み上げて死刑判決を言い渡してそうだな」
「あら、高等教育を受けていないのかしら。私は弁護士よ。ゾンビを弁護するの。適正手続もなしに頭を撃ち抜かれたって、政府を訴えるわ」
「死人に適正手続があるのか?」
「そこから争うのよ」
ダニエルが口を挟んだ。
「海運は詳しくないんだけど、パナマが止まったからって船会社まで全部売られるのは違うんだろ?」
ピーターが頷いた。
「そうだな。通航量が落ちれば、短期的には運賃が上がる。ロンドンの同期は船会社を買ってる。向こうの銀行も在宅勤務を増やしたとかで、あいつは今週から家でガキの喧嘩を止めながら取引してるそうだ。ロッテルダムの時も、運賃上昇を見込んでかなり稼いだらしい」
「いくら?」
「本人は1200万ポンドだとさ」
「じゃあ実際は良くて600万ってところだな。他人に話す稼ぎは大体2倍になる」
オリバーはまるで心当たりがあるとも言わんばかりに、笑いながらグラスを上げた。
「その通りだ」
全員が笑った。
そのあと話は、夏の旅行、オリバーの離婚しかけた知人、ダニエルがまだ結婚していないことへ移った。
「まだあの3人の女の子を侍らせてるわけ?」
オリバーが声を上げて笑った。
「まだ彼女らと付き合いがあんのか。お前はほんと最低だな」
「結婚したいなんて誰も言わないからな」
「あら。結婚したくないってはっきり聞いたのかしら?」
「急かすなよマヤ。どんな物好きがこんなサイコ野郎と子供作って、ウン十年も同じ食卓囲んで、最後は隣の墓に入りたいんだよ。普通なら幸せそのものだが、こいつとなら終身刑だ」
マヤは少し呆れた顔をした。ピーターが話を戻した。
「で、FRBはどう出ると思う?」
ダニエルはすぐ答えた。
「次の会合までに25bp。状況が悪ければ、臨時なりでその前に動くと思う」
「供給がズタボロだ。運賃も食品も燃料も上がるぞ」
「分かってる」
「それでも利下げすると思うか? インフレ過熱が冷え切ってない今、利下げできるタマはあの老いぼれ共にあるのか」
「失業保険の申請が跳ねて、CPが出なくなって、クレジットファンドから解約が出始めた時、それでも『供給インフレだから据え置きます』と全国中継で言うよりはマシじゃないかな」
ピーターはワインを飲んだ。
「俺はまだ、そこまで悪くなるとは思ってない」
「お前は今何を持ってる?」
「2年をロング、HYのプロテクション。それとS&Pは下落に賭けてる」
「ドルはどうしてる?」
「大きくは、ね」
「チキンだな」
ダニエルが笑う。
ドルは新興国通貨に対しては資金逃避とドル需要で買われやすい。一方で米国自体の感染状況が悪化すれば、安全資産であるスイスフランや円に対して同じ動きをするとは限らない。FRBの利下げ観測まで加われば、金利差も崩れる。ピーターがようやく言った。
「メキシコペソと豪ドルは売ってる。円はやりたくない」
「悪くないな」
「そりゃどうも、閣下」
店内の照明が一度だけわずかに揺れた。しばらくして4人のスマートフォンがほぼ同時に震えた。ニューヨーク市緊急管理局から、クイーンズ北部の数ブロックで警察活動が続いているため近づかないよう求める通知が来ている。オリバーは画面を1度見て伏せた。
「最近多いな」
ピーターも同じように置いた。
「PMRS?」
「さぁね。スパイダーマンがヴィランと戦ってるのさ」
「お前は何だってそんなにジョークが下手くそなんだろうな」
ダニエルは通知を閉じた。マヤが彼を見る。
「あなたの家、クイーンズじゃないものね」
「仮にマンハッタンだとしても同じこと。眠りを邪魔されないのならなんだっていいさ」
ピーターが笑った。
「さすが、倫理教授を激怒させた男だ」
ダニエルはワインを飲んだ。その日の会計はオリバーが払った。一番最初に酔いつぶれたからだ。
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6月14日、水曜日の10時42分。
ダニエルはリスク管理部門から電話を受けていた。5月末にポジションを組み始めてから、この番号が画面に出るのは何度目か分からない。反発相場で損を出していた間は日々の評価額を聞かれ、今週に入って利益が急に増えると、今度は値動きが逆になった場合の損失について電話が来るようになった。
『ネットのダウンサイド、昨日より増えてるぞ』
「個別株のウェイトは減らした」
『指数を含めればむしろ増えているだろうが。クレジットも同じ方向だ』
「分かってる」
『相場が5%戻るストレスをかけると、日次リミットの82%まで使う。5月の相場を忘れたわけじゃないだろ。今度は利益が出てるうちにポジションを減らしてくれ』
ダニエルは画面上の数字を見た。5月末の会議で指摘された通り、同じ方向に賭けている株式とクレジットが一斉に逆行すれば損失は重なる。あの時に比べれば市場の値動きは自分の想定へ近づいていたが、会社から与えられたリスク枠が広がったわけではない。
S&P500のプットは高くなっている。航空やホテルのショートにもかなり利益が乗っていたが、借株料も上がった。何銘柄かは前日終値から10%以上下げ、SECのRule 201による空売り価格規制が発動している。相場全体がまだ下がるという見方は変わらなくても、個別株をショートし続けるコストと反発リスクは増えていた。
「個別ショートをもう20%、SPXのデルタも15%減らす」
『SPXは20%減らしてくれ』
「15%で十分だ」
『間を取って18%』
「分かった。18%でいこう」
『2年とCDXはどうする?』
「そこは残す。今は動かさない」
数秒の沈黙があった。
『5月から同じことを言ってるが、予想が当たっても先にリミットを踏んだら終わりだ。明日また増やすつもりなら先に電話してくれ』
「努力しよう」
電話を切って、ダニエルは個別株のポジション一覧を開いた。
「ホテル3銘柄は半分買い戻してくれ。航空は全体で3割。商業REITも少し減らす」
「まだ下がると思ってるんですよね?」
「思ってる。だから指数は残す」
「それなら、個別も残した方がよくないですか?」
「みんなが同じ銘柄を売ってる時に、借株料を払って個別ショートを持ち続ける意味は薄い。会社固有の材料で戻されたら余計な損が出る。下方向を取りたいなら指数で十分だ」
ライアンは頷いて注文へ戻った。
昼過ぎ、ロサンゼルス港の一部ターミナルで夜間シフトが組めなくなったという記事が出た。ゾンビではなく、接触者として隔離された労働者と自主欠勤が原因だった。ダニエルは記事を最後まで読んだ。港湾当局は貨物の取り扱い自体は続けると説明していたが、夜間作業の予定は取り消され、隔離された労働者がいつ戻るかは書かれていない。5月末に集めさせたロサンゼルス港の作業予定の変更履歴を呼び出すと、今週分の遅延がまた1行増えることになる。ようやくこちらの数字が埋まってきた。ダニエルは記事のリンクを保存し、オマールを呼んだ。
「小売で、まだクレジットが動いてないところは?」
「ディスカウント系はまだ強いです。ホームセンターも意外と粘ってます。自動車部品とアパレルの方が反応は遅いですね」
「在庫日数と借り換え時期を並べてくれ。現金に余裕のある会社は外していい」
「今日から売ります?」
「いや、今日はまだ売らない。価格だけ確認しておいてくれ」
感染者が出ていない企業でも、港が遅れれば在庫が減る。売上が落ちれば固定費は残る。資金繰りに余裕がなければ社債のスプレッドが開く。
ニュース端末の欧州欄では、オーストリアからドイツへ入る高速道路に車が連なっていた。国境での健康確認が強化され、貨物トラックまで検査待ちの列に巻き込まれている。ギリシャとブルガリアでは一部の病院が患者の受け入れを絞り、ドイツやフランスなら診察を受けられるのではないかと、住民や移民の家族が北へ向かい始めていた。難民申請中の人々も含まれるというが、何人が実際に国境を越えたのかは報道によって数字が違う。検査を増やした国々では、運送会社が納品予定を次々に変更していた。
EU理事会では人の移動を制限しながら貨物輸送を維持する方法について緊急協議が続いていた。ドイツの一部議員はギリシャとブルガリアの感染者管理を非難し、両国をシェンゲン圏から事実上切り離せと要求している。両国政府は強烈に反発していたが、ダニエルはその応酬を読み飛ばし、ドイツで滞留する貨物に自動車部品が含まれるという続報を開いた。
ダニエルはドイツ側で滞留している自動車部品の納入先を、エリックに調べさせることにした。何日分の在庫があり、いつ借り換えを迎えるのか分かれば、国境で何キロの渋滞ができたという見出しも株と社債の売買に使える。彼はエリックへ記事のリンクを送り、オマールから返ってくる小売企業のリストを待った。
午後2時前、フロアの大型テレビがロウアー・マンハッタンの映像へ切り替わった。地下鉄駅の入口を警察が閉鎖し、防護服姿の救急隊員が担架を運んでいる。PMRS感染の疑いがある患者が列車内で倒れ、駅到着後に再活動した可能性があるという。ライアンが画面を見るが、すぐに自分のモニターに視点を戻す。
30分後、警察が感染者を制圧し、接触者を隔離したという速報が出た。指数はほとんど反応しなかった。ダニエルは指数の歩み値をしばらく確かめた。先月なら制圧の報道を合図に買い戻しを入れていた連中が、今回は目立った注文を出していない。たまたま市場の関心が薄かっただけかもしれないが、彼は再びロサンゼルス港のシフト変更の資料を開いた。
その日のP&Lは約300万ドルのマイナスだった。彼は久しぶりに機嫌が良かった。プットの値段がボラティリティの低下で削られたことは腹立たしかったが、港湾の欠勤と配送の遅れは彼が予想した通り積み重なっている。地下鉄の制圧速報にも買いは集まらず、明朝の企業発表が俄然楽しみになった。ダニエルは航空会社とホテルの業績見通しを引け後にも確認するようエリックに伝え、帰る準備を始めた。
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6月15日、木曜日の7時37分。
S&P500先物は1.2%安。ダニエルは席に座って10分もしないうちに、今日は市場の空気が違うと経験から判断できた。悪材料は1本ではない。
前夜、ニュージャージー州が3郡で一定規模以上の集会を禁止した。シカゴでは病院2施設が新規患者の受け入れを制限。カリフォルニア州は港湾、空港、主要物流拠点への州兵支援を拡大した。ニューヨーク市内では前日の地下鉄事案を含め、PMRS関連として調査中の案件が複数残っている。どれも単独なら指数を5%落とす材料ではない。
8時20分、大手航空会社が通期見通しを撤回した。つい先週まで維持していた夏場の需要見通しについて、旅行予約の減少と乗務員の隔離が重なり、現時点では合理的な予測ができないと説明している。ダニエルは会社名を見て、月曜の朝にエリックがまとめた航空株の一覧を呼び出した。
8時30分、米労働省が発表した週次の新規失業保険申請件数は市場予想を大きく上回った。先月から積み重なっていた休業や雇用調整が、労働市場の数字にも表れ始めた可能性がある。8時34分には別の航空会社も速報として通期見通しを撤回し、ダニエルは失業保険の申請件数をもう一度確かめた。
8時41分、北米にホテルを多数持つ大手が、直近7日間の予約キャンセル率が急上昇したとしてIRの業績予想を撤回した。8時49分、東海岸の鉄道事業者が乗務員の隔離と欠勤を理由に、翌日から一部路線を減便すると発表した。
先物が2%安を越えた。企業が将来の見通しを撤回する理由は、個々の感染者の発生から、乗務員の確保、予約キャンセル、減便へと広がっていた。先週まで押し目を買っていた投資家が、同じ売上予想で株を評価し続けられるかどうか、ダニエルには疑わしかった。ダニエルは椅子を少し前へ寄せた。
「ライアン、SPXの板はどうなってる?」
「昨日より広いです。近いストライクならまだ値段は出ますけど、下の方はかなり薄いです」
「売る準備だけしておいてくれ」
クロエが言った。
「2年は9bp下です。OISは次回25bpを7割近く織り込んでます」
2年債利回りの低下は、利下げ観測で短期国債が買われているということだった。ダニエルが持っている2年物先物のロングには、その分だけ利益が乗る。オマールが別の電話を切った。
「CDX HYは昨日の引けから0.8ポイント安。現物社債は、値段が返ってこないものが増えてます」
「プロテクションはまだ買える?」
「買えます。ただ昨日より0.2ポイントほど悪いです」
「追加はしない。今日は利食いを考える」
9時30分。現物市場が開いた。S&P500は寄り付きで2.7%下。航空、ホテル、商業不動産、消費関連が大きく売られた。銀行も下がった。9時47分には3.4%。
10時過ぎ、ニューヨーク州知事が会見を始めた。州兵を市内と周辺郡の病院、鉄道駅、物流拠点へ追加派遣する。感染者と戦うためではなく、警備、輸送、検疫、医療物資搬送の補助として投入する。市内で確認されたPMRS事案は全て局地的に封じ込められており、電力、水道、通信、主要交通網は機能している。
ダニエルは知事の言葉ではなく、その下に出る株価を見た。市内の事案は全て封じ込めたと知事が繰り返す間にも売り注文は止まらず、航空株だけでなく銀行や商業不動産にまで広がっていた。ダニエルは椅子の背にもたれ、リスク管理部門に言われて減らしてきたポジションの残高を確かめた。
3.9%。
4.1%。
4.3%。
「2年債の利回り、今どのくらい下がってる?」
「利回りで前日比17bpです」
「3分の1は利食っておいて」
5月末から持っていた2年物先物のロングには十分な利益が乗っていた。3分の1をここで利益確定し、注文が執行されるとクロエの画面からポジションが減った。ダニエルはSPXへ移った。
「ライアン、金曜から残してる短期プットは4分の1売ってくれ。6月末のスプレッドはまだそのままでいい」
「了解」
10時52分、ホワイトハウスが13時に会見すると発表した。議題は複数州でのPMRS関連事案と、連邦政府職員の勤務体制を含む追加対策だという。市場がさらに売られた。
11時を過ぎると、ディーラーから返ってくる社債の気配が目に見えて悪くなった。買値と売値の差が広がり、オマールが電話で価格を聞いても「サイズ次第」としか返さない相手が増える。CDXならまだ売買できる。オマールが受話器を肩に挟みながらダニエルへ手を上げた。信用不安に賭けて買っていたプロテクションは、CDX HYの価格下落で大きく値上がりしている。今度は追加で買うのではなく、利益を確定する場面だった。
「HYは昨日から2.4ポイント下です。プロテクションの半分なら、この水準で売れます」
「どのくらい?」
「1億ドルです」
「じゃあ売ってくれ」
「1社にまとめます?」
「いや、5000万ずつ2社に分けて」
12時06分。S&P500は5.1%安。
フロアの声が普段より大きくなっていた。注文をチャットで流していた人間まで電話を使い始め、隣のポッドでは誰かがディーラーへ怒鳴っている。ダニエルのP&Lは朝から4300万ドル増えていた。まだ終わっていない。
12時58分、ホワイトハウスの会見が始まる。複数州でPMRS確認件数が増加していることを受け、連邦政府職員の一部を在宅勤務へ移す。感染確認地域への不要不急の移動を控えるよう勧告し、各州に対して学校、大規模集会、公共交通について追加措置の準備を求める。州境は閉じず、国内線も止めず。全国的な外出禁止令も出さない。
十分だ。企業は政府命令をちんたらと待たない。従業員が死んだ時の訴訟リスクを抱えてまで出社させる会社は少ない。学校が閉じれば親は働けない。鉄道を減らせば通勤はさらに難しくなる。ホテルや航空会社は需要予測を捨てる。銀行は融資枠を見直す。政府が1歩動けば、民間はそれぞれ別の理由で2歩動く。
13時02分、指数は5.8%安。
13時05分、6.2%安。ライアンが声を上げる。
「6.5%まで来ました」
ダニエルはS&P500の現物指数を見た。
「余計な注文は出すなよ。」
「分かってます」
「止まる直前に慌てて売るなよ。再開直後の方が板は薄くなる」
13時08分。前日終値から7%下落したところで、価格更新が止まった。フロアのあちこちから歓声が上がる。市場全体のLevel 1サーキットブレーカー。15分間の取引停止。ライアンが椅子へ背中を預けた。
「初めて見ました」
ダニエルはチームの画面を順番に見る。
「再開したら、SPXの短期プットをもう3分の1売る。成行は使うな。クロエ、2年は残りの半分も利食ってくれ。オマール、CDXは気配が戻るまで待ってくれ。個別ショートはそのまま。Rule 201が入ってる銘柄が多すぎる」
エリックがテレビを見ながら言った。
「ニュージャージーで学校閉鎖が拡大するそうです」
「株価に影響が出そうな会社だけ拾ってくれ」
「言われなくても」
取引停止中にもP&Lは参考値として動いた。
5140万。
5290万。
上がり続ける。ダニエルは表示を消すと、ライアンが怪訝そうな顔をする。
「何で消しちゃうんですか」
「止まってる市場のP&Lを見ても仕方ないだろ」
「でも気分はいいですよ」
「この数字でシコってこい。お前の成績が上がるならな」
13時23分。市場が再開した。最初の数十秒で値段が文字通り地面に叩き落された。買い気配が浅く、指数は一時7.8%近くまで下げたあと、6%台後半へ急に戻した。SPXオプションの気配は通常より大きく開き、ライアンは4回に分けて売った。
「1本目、約定しました」
「次もそのままで」
「2本目、少し戻りました」
「約定を急がなくていい。指値はそのままで」
「了解」
クロエは2年物先物の一部を利食った。短期金利市場では次回FOMCまでの25bp利下げがほぼ織り込まれ、2年債は大きく買われている。一方、10年債は供給制約によるインフレ懸念から同じほどは買われず、2年債との金利差が広がっていた。クロエがカーブを見ながら言った。
「2年と10年の金利差、朝からかなり開いてます」
「まあ、そうなるだろ」
「昨日、ピーターには言ったんですか?」
「言ってない。相談料を受け取ってないからな」
14時を過ぎる頃には、CDX HYの価格がさらに下がり、買っていたプロテクションの価値も上がった。オマールがようやく一部のプロテクションを売った。
「1億ドル、売れました」
「どの水準で?」
「朝から2.8ポイント下です」
「残りの1億はそのままにする」
「了解」
14時37分、ダニエルのブックはその日だけで6100万ドルの利益になっていた。
15時を過ぎると、指数は7%前後で荒く上下した。市場参加者の関心は、もはや感染者数ではなく、翌日に何が開いていて何が閉じるかへ移っていた。
複数の銀行がマンハッタン勤務者の大半を翌日から在宅勤務へ切り替える。
ブロードウェイの公演が週末まで中止。
学校閉鎖を検討する州が増加。
航空会社が追加減便。
ホテルチェーンが一部施設の一時休業を発表。
15時41分、リスク管理部門から再び電話が来た。
『そろそろ本気でリスクを減らしてくれ』
「これ以上か?もう手は打ったじゃないか」
『P&Lじゃなくてエクスポージャーの話だ』
「分かってるよ」
『今日だけで、いくら稼いだんだ?え?』
ダニエルは数字を確認する。
「6900万ドル」
電話の向こうが少し黙った。
『……6900万?』
「そうだよ」
『おめでとう。早く減らせ』
ダニエルは笑った。
「SPXは引けまでにもう20%減らす。CDXも1億ドル売った。2年も半分以上利食ってる」
『それならいい。調子に乗って明日同じサイズに戻すなよ』
16時。
現物市場が閉じた。
S&P500は前日比7.6%安。
終値ベースの数字がシステムへ反映されるまで数分かかった。
月曜日から積み上げた利益は1億1700万ドルを少し超えた。
木曜日だけで約7200万ドルの利益。
ライアンが数字を確認して、黙ったまま両手を上げた。オマールが笑う。
「1億1700万ドル」
クロエが椅子から立ち上がった。
「これ、今年もう仕事しなくてよくないですか?」
隣のポッドから2人が入ってきた。
「マーサー、いくらよ?」
ダニエルの代わりにライアンが言う。
「1億1700万」
「hell yeah」
誰かが拍手した。
フロアの奥でも笑い声が上がった。ダニエルはようやく椅子から立ち上がり、伸びをする。
もちろん1億1700万ドル全部が自分のものになるわけではない。それでも会社の報酬体系と自分の持分を考えれば、この数日間だけで何年分かの報酬が決まる可能性がある。自分の経歴にも色がつく。だが何より、5月末に社内で「早すぎる」と言われたポジションが、今週になって一斉に利益へ変わったことが気持ちよかった。
「ワイン、あっただろ」
ライアンが振り向き、にやりと笑う。
「開けちゃいますか。でも大丈夫かな」
「今週だけで会社に1億1700万ドル稼がせてやったんだぞ」
「全部マーサーさん一人の利益じゃないでしょう」
「細かいこと言うな。人数分のグラス持ってきてくれ」
会社にあるワインセラーから、誰かが来客用に置いていたボルドーを1本抜いた。ラベルにあるシャトー名とヴィンテージを見れば、気軽に開けるような代物ではないことくらいは分かる。クロエがラベルを見る。
「それ、結構高いやつじゃないですか?怒られやしませんか?」
「だから何だ。俺宛に請求書を書けっていってやろうじゃないか」
オマールが派手に笑った。
16時11分、大型テレビがニューヨーク市長の会見へ切り替わった。市内で確認されたPMRS事案は現時点で全て封じ込められている。電力、水道、通信は正常。地下鉄も大部分が運行を続ける。その説明のあとに、追加措置が並んだ。主要病院、駅、物流施設への州兵配置。地下鉄数駅の一時閉鎖。マンハッタンへ入る一部道路での夜間車両検査。23時以降の不要不急の外出自粛。ダニエルはコルクを抜きながら聞いていた。
窓の下でサイレンが鳴った。オマールが窓際へ行く。
「また州兵だ」
レキシントン・アベニューの向こうを、迷彩色のハンヴィーとトラックが数台まとまって南へ走っていく。交差点では警察官が一般車を止め、路肩を空けさせていた。
スマートフォンが震えた。1人目の女性から、今夜は来ない方がいいとメッセージが来ている。自宅の近くでゾンビが射殺されたらしい。2人目は週末のハンプトンズをどうするか聞いていた。3人目はただ声が聴きたいとだけ書いていた。ダニエルは3件とも既読をつけずに閉じた。その下にピーターからメッセージが来ていた。
《u made a fucking killing, didn’t u? how much? 》
こんな状況でmake a killing(大儲けする)という言葉を選ぶピーターのセンスはやはり見上げたものだ。
《117.3》
数字だけ返信する。
《FUCK YOU》
ダニエルは笑った。オマールがグラスを上げる。
「何に乾杯します?」
ライアンがすぐ答えた。
「1億1700万ドルに」
ダニエルは自分のグラスを掲げる。
「1億1700万ドルに乾杯」
チンと軽い音がフロアに響いた。
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