歴史に残る汚点
2028年6月17日 東京都千代田区永田町 総理大臣官邸・地下危機管理区画
園田が地下危機管理区画の特別会議室に入ったのは、午後9時を少し回った頃だった。携帯電話を預ける直前には、福岡県知事から折り返しを求める連絡も入っていた。午後に口をつけた弁当の中身を思い出せない。昼食だったのか、夕方の会議の合間に運ばせたものだったのかさえ曖昧だった。新宿事件から6日、東京都の規制区域と病院の受入状況を確認している間に、大阪、愛知、福岡からもPMRSの疑いがある事案の報告が入る。都から封鎖範囲の拡大を求められた直後に、鉄道の運行維持を求める事業者からの要望が届くという具合で、ひとつ決めるたびに別の仕事が増えた。
今夜の会議は開催自体が公表されていない。入口で秘書官に携帯電話を預け、室内へ進むと、すでに小鷹と藤岡が席についていた。官房長官の永瀬、内閣危機管理監の久世、国家安全保障局長、内閣情報官、警察庁長官の志賀、制服姿の統合幕僚長に加え、関係閣僚も揃っている。各席の手元灯に照らされた資料の表紙には管理番号が振られ、《機密性3情報》《複製禁止・会議終了時回収》と赤字で記されていた。
園田の前にあるのは《PMRS国内発生事案に係る総合情勢評価》だった。その下に、題名のない薄い黒い冊子が重ねられている。こちらには《特定秘密》の表示と管理番号しかなかった。園田は上の冊子を開き、下の方には触れずにおいた。大きな会議の後には、説明のためだけに添えられた資料も珍しくない。しかし今日は、各省の担当者が席を離れず、永瀬もまだ手元の紙を見直していた。
園田は会議室を見渡した。普段なら園田が席に着くなり予算の話を持ち出す森岡も、今夜は財政資料の余白へ数字を書き込んでいる。手元に置いた紙コップには手をつけていなかった。
「皆さん、お疲れ様です。こんな時間に総理と各大臣を揃えなければならない話というのも、あまり聞きたくないがね。これから何を決めることになるんですか」
永瀬は机上の白い資料を指した。
「既存の対処方針をこのまま続けられるか、それから別の国家継続措置について御判断いただきます。正式な閣議に諮る事項も出ますが、先にここで方針を固めなければ、省庁間で準備を進められません」
「議案になっていないのに決断だけ求められるというのも、妙な気分だな。まあ、まずは話を聞こうじゃないか」
永瀬は久世に始めるよう促した。久世は最初の頁を開き、園田の方へ顔を上げた。
「総理、局地封圧の継続を前提とした現在の対処方針について、変更を具申します。新宿の事案を含む直近の情報を検証した結果、発生地点ごとに感染連鎖を封じ込める方式だけで、今後の国内拡大を阻止できる見通しは立たないと判断しました。今日の報告では、その評価の根拠と、現在の方針を続けた場合に起こり得る事態を説明します」
園田は冊子の最初の数行を読み直した。封圧計画からの逸脱については何度も報告を受けている。従来の対処を続けるだけでは足りないと、危機管理監がこの場で明言したことの方が気にかかった。
「対処方針を変えるのなら、これまでのやり方で何ができなくなったのかを聞かせてください。現場はまだ動いているし、既に規制した区域を放っておくわけにもいかないでしょう」
久世は頷き、職員に合図した。大型画面に新宿駅の地下構内図が現れ、右側に原田宗平の顔写真と身元情報が表示された。38歳、都内の情報機器商社勤務。埼玉県所沢市に妻と2人の娘がおり、11日に駅構内で最初に再活動が確認された人物だった。
「原田の身元を確認した後、埼玉県警が自宅に入りました。妻と5歳の長女は室内で死亡後に再活動しており、臨場した警察官が制圧しています。生後8か月の次女も寝室で再活動が確認されました。家族4人の感染は確実と考えていますが、最初に誰が感染し、家庭内でどのように広がったのか、いまだに分かっていません」
園田は家族欄の最後にある月齢から目を離せなかった。妻と長女には顔写真があったが、次女の欄は身元を確認するための情報ばかりで、警察の報告書らしい空白が残っていた。こんな幼い子供まで、と口にしたところで何も変わらない。園田が知るべきなのは、所沢の一家がなぜ警察に発見されるまで感染を把握されなかったのかということだった。
久世は新宿駅の防犯カメラ映像を示した。11時41分、歩行の乱れた原田が男子トイレへ入る。数分後に清掃員が入り、その後に一般客の男性2人が続いた。11時52分、1人が入口から逃げ出し、ほどなく原田が走って出てくる。女子トイレ前にいた女性へ襲いかかるところで映像が切り替わった。
「原田は警察部隊が制圧するまでに、確認されているだけで7人を襲撃しています。出動から制圧までの判断と措置については、警察庁の検証でも重大な遅延は認められていません。問題が大きくなったのは、その間の人の移動です」
志賀が資料を一枚めくった。画面には新宿駅から延びる鉄道と道路の線が映り、時刻ごとの利用客の移動を示す印が首都圏の地図へ広がっていく。
「現場の警察官は、感染者の制圧と負傷者の救護を同時にやっています。駅全体の出入口を閉鎖し、周辺の道路を規制して、発生時に構内にいた人間の所在を確保するには、それとは別の人員と時間が要りました。規制が整った時には、相当数の利用客が既に鉄道やバス、タクシー、自家用車で移動しています。逃げた人たちを責めるわけにはいきません。発砲や襲撃が起きている場所から離れるのは自然な行動ですから」
地図上の印の中には、新宿周辺で止まったものもあれば、埼玉、神奈川、千葉まで延びたものもあった。園田には、一本一本の線が記録の上では簡単に引かれることが気になった。実際には、その移動先で家族と会い、勤務先へ戻り、病院を受診した人間もいるはずだった。志賀は新宿駅で採取した映像記録の一覧へ手を置き、現場を離れた利用客の内訳を説明し始めた。
「駅にいた人の全員が感染を疑われているわけではありません。襲撃を目撃しただけの人も大勢います。ただ、血液や唾液を浴びた人、転倒した際の傷に何かが触れた可能性のある人、負傷しながら申告せずに帰宅した人が混在しています。防犯映像、交通系ICの利用記録、本人への照会などで追跡を続けていますが、居場所が分かったとしても、感染性の体液に曝露したかどうかを判定できない人が少なくありません」
「新宿の外で患者が見つかること自体は、これまでもあったはずだよ。これまではその都度、追跡と観察を続けてきた。今回は何が違うんだろう」
園田がそう言うと、久世は新宿を中心とする規制区域を残したまま、周辺の移動線を拡大させた。
「既存事案では、発症場所から離れた接触者が見つかっても、追跡対象の集団をおおむね限定できました。今回、曝露の可能性を否定できない人たちが、首都圏の広い範囲に散っています。母数も大きく、同じ車両に乗っただけの人と、感染性の体液に触れた人とを確実に分けられません。その全員を一律に隔離することも、所在地の判明していない人を含めて漏れなく健康観察することもできていません」
久世は図面の一角にある新宿の規制線を指した。
「警察が駅周辺の発症者を制圧したことは、現場の対応として成果です。規制線が完成する前に人が出たという事実だけで、作戦の成否を判定しているわけでもありません。これほどの人数を首都圏へ分散させた状態では、その後に誰がどこで発症するかを見通せず、次の事案が起きた場所ごとに同じ規模の追跡と規制を繰り返さなければならない。楔の運用が想定していた処理量を超えるおそれがあるという評価です」
園田は志賀が示した規制の進捗表に目を落とした。新宿駅構内で確認された再活動者は全員制圧され、駅の一部施設は営業を再開している。現地の封鎖と掃討そのものについては、計画した手順を大きく外れたわけではなかった。
「長官。今の説明を聞けば、現場が取り逃がしたせいで封圧が破れたという話ではないんでしょう。楔の成否は、警察庁としてどう評価しているんだ」
志賀は手元の紙を一枚、園田へ向けた。上段の『現場制圧完了』に印が付され、その下の『接触者の捕捉・感染連鎖の終息』の欄には終了予定日が入っていない。
「新宿事案については、楔の目的を達成できなかったと評価しています。以前から小規模な漏れは疑われていましたが、それが首都圏で最も人の動きが激しい場所の一つで、一挙に顕在化した。警察官が感染者を制圧できなかったという意味ではありません。曝露の疑いを除外できない相当数の人間が、最も人の多い地域へ散り、しかもその出発点になった原田本人の感染経路が分からない。ここから先、現場を一つ閉じても次の発症源がどこに残るか見通せないんです」
「楔が失敗した、という言い方になるのか」
園田は資料を閉じかけて手を止めた。3月半ば、国外の再活動事案が増え始めたとき、警察と厚労省に作らせた局地封圧構想を承認したのは自分だった。当時は感染が確定していない者の強制隔離や、自衛隊による強行的な健康危機対処には明確な法的根拠がなく、計画は厳重に秘匿して運用させた。人権上の問題を国会で追及されることを恐れたという理由もあったが、法律がないまま大規模な拘束を始めれば、作戦そのものが持たなくなる。そこで政府は4月に健康安全確保法案を提出し、5月8日に成立させ、翌9日に施行した。10日にはPMRSを特定健康危機に指定している。
あの法案を通すまでに、どれほどの人間を説得し、どれほどの取引をしたか。与党内の慎重派を押し切り、野党の一部に譲歩を示し、政治資金も人脈も使った。園田はそれを、将来の感染拡大に対処するために必要な政治的費用だと考えていた。だが政府は成立した権限を、感染の疑いがある者への観察措置に使う一方、政権の邪魔になる相手を排除する道具としても利用した。川村啓子と秘書を対象にした措置を含め、政治家と民間人に同様の案件は複数あり、誰を観察対象に選ぶかという行政裁量に、政権の都合を持ち込めることは中枢の人間なら理解していた。園田も知らなかったことにはできない。国会でどれほど適法性を説いたとしても、後からその運用が検証されれば、苦しい説明を強いられるだろう。
それだけのことをしてようやく手に入れたのが、感染の拡大を追って一件ずつ封じるための権限だった。今の報告を認めれば、園田自身がその権限を整えるために払わせた政治的代償まで、一緒に問い直される。
「新宿では警察が仕事をした。病院も消防も、できる限りのことをしたはずだ。そこは切り分けてくれ。君の言う失敗は、楔という方式の想定を超える感染疑いが出たということか。それとも、その前から追跡が追いつかなくなっていたのか」
「後者も含みます。新宿だけで想定が崩れたのなら、東京へ人を集中させれば立て直すという答えもありました。今は大阪でも接触候補者の所在確認が終わっていませんし、愛知では医療従事者の接触歴が判明するまで勤務へ戻せない例がある。福岡には搬送先の決まらない観察対象者が残っています。もっとも、その全てがPMRSだと確認されたという意味ではありません。疑いを調べ終える前に、次の疑いが積み上がっているんです」
「福岡は隔離先の問題で、大阪や愛知の案件もPMRSと確認できたわけじゃないんだろう。疑いと確定を一緒にして、全国の楔が全部失敗したような言い方はやめてくれ。それでは、いま各地で働いている人間の仕事まで否定することになる」
「その区別は必要です。ただ、確定しない間にも人手は取られています。総理が一つの仕事を終わらせたいというのは分かりますが、現場では疑いを除外するまで仕事が終わらない。今申し上げているのは、その仕事が首都圏から全国へ膨らんだ場合に、警察がどこまで続けられるかという話です」
志賀は園田に向けた資料を引っ込めなかった。説明の口調は丁寧だったが、要求された報告の数字を一つずつ揃えるまでは話を終えるつもりがないようだった。園田は応援元の県別人数を確認するよう指示し、ようやく地図へ視線を戻した。
園田は首都圏の地図を眺めた。新宿駅の周辺だけが規制区域として色を変えている。その外側には鉄道路線が何本も伸び、住宅地と工業地帯を縫うように、別の駅や病院の記号が並んでいた。どれも普段から人を集める場所で、いまこの時間も全て閉じられているわけではない。藤岡は曝露状況の分類が載った別紙を開き、警察庁が示した推計と照らし合わせていた。
「厚労省の立場から一点、釘を刺しておきます。所在が分からない人の数を、そのまま感染者の数として扱わないでください。映像で血液の付着が見えても、体液が粘膜や傷口に入ったかどうかは別です。少量曝露が疑われる症例では潜伏が長い傾向もありますから、いま健康な人を検査して陰性だったとしても、すべての可能性を否定できるわけではありません。警戒を解けない人が多数いるということであって、その全員が発症するという予測ではありません」
志賀は頷き、新宿事件以降の応援要請が並んだ表を開いた。そこには発症者を制圧する部隊とは別に、規制と所在確認を続けるための人員が列挙されていた。
「その区別は現場にも徹底します。ただ、数が確定していないから警察官を減らせるという話にもなりません。今朝の時点で、新宿関係の照会を受けた各県警は、確認作業に人を回し続けています。無関係と判明した人を名簿から外すにも、まず本人と連絡を取らなければならない。発症の通報が入れば、その仕事を中断して部隊を出すことになります」
園田は応援部隊の欄を指し、地図の外側に並ぶ県別の派遣人数を確かめた。
「人数が足りないというなら、警視庁へ追加で回せないのか。地方から集めていると聞いたが、まだ余地がある県はあるだろう」
「神奈川と埼玉からは、これ以上の延長は困るという連絡が来ています。県知事からも抗議を受けました。東京へ送った部隊が戻らない分、両県の機動部隊は交代勤務を詰め、通常の事件や交通事故への対応を後ろへずらしています。東京で起きた事案だから東京を助けるな、という話ではありません。もし応援を出した県の駅で明日同じことが起きたら、そこへ誰を行かせるかという話です」
「県知事からは私のところへも話が来ている。地域に人員が戻らないと困るのは分かるが、新宿が落ち着くまでの間だけでも、応援を厚くできないかね」
「規制を早く解けるなら、人は戻せます。今は何を満たせば解除してよいのか、その基準から判断が割れています。制圧が終わった区域にも接触者の調査、出入口の管理、消毒、搬送先の警備で人を残さなければならない。基準を緩めれば日程は短くできますが、新しい発症が起きた場合には、いったん解除した区域をもう一度広げ直す危険があります」
志賀が示した記録には、感染者の制圧に参加した部隊の大半が任務を終了した後も、規制と照会に多数の人間が拘束され続けていることが記されていた。園田は一番右にある規制解除予定日の欄を見た。空欄が何行も続いている。
「自衛隊を追加で使えばどうだ。健康安全確保法の第55条で派遣を命じられる。法律を通すときに散々議論した条文だぞ」
小鷹が顔を上げた。先ほどまで見ていた資料を机に伏せ、園田の発言を受け止める。
「総理、既に使っています。警察の規制線や輸送、警備の支援に相当な人数を出していますよ。自衛隊には通常の国防任務だってあるんです。領空と領海の警戒、離島の防備、陸上部隊の即応態勢を、PMRSが広がったからといって止めるわけにはいきません。全国の警察官が足りないから、代わりに自衛官を出せばいいという話にされては困ります」
「そんなことは分かっている。だが、いま現に国民が襲われているんだ。外から来る脅威ばかり見ていて、国内で助けを求めている人間を放っておけと言うのか。日本を守るのが自衛隊の仕事だろう!」
園田の声が大きくなり、資料を繰る音が途切れた。森岡がペンを止め、藤岡も表から顔を上げる。言ってしまってから、防衛大臣に自衛隊の職務を教える必要などなかったと園田は思った。それでも腹立たしかった。法律を通すために敵を作り、国民の自由を制限する決断まで重ね、ようやく整えた態勢なのに、また一つできないことが増える。そんなことを承知で自分が総理の椅子に座っているのは確かだった。
小鷹は少し間を置いてから答えた。
「日本を守る仕事だからこそ申し上げています。警戒を緩めた空域や海域で何か起きても、感染災害のせいで人が足りませんでしたとは言えないんです。増援できる部隊はあります。ただ、ここからさらに回すなら、その分どの任務を削るのか、政治の側にも判断していただかなければなりません。自衛隊は警察の予備隊ではありませんので」
久世はその時点で用意していた試算表を開いた。自衛隊の再配置に加え、警戒態勢の一部を縮小して国内対処へ振り向ける案まで並んでいる。園田は思わず永瀬を見た。
「増援を命じることまで先回りしているのか。まあ、こうなると分かっていたんだろうが。どれだけ出せる」
「計算上は、任務を絞れば追加派遣できます。ただし、帰営する予定だった部隊も観察措置に入れば交代が遅れる。派遣先で規制の仕事に拘束されれば、その人数は次の事案に使えません。警戒から人を抜く危険は残り、国内で使える人数が増え続けるわけでもありません」
「観察対象となった隊員は試算から引いているんですね。帰隊までにかかる期間も、曝露の程度で分けてありますか」
久世が頁を示すと、小鷹は統合幕僚長と表を見比べ、足りない欄を指でなぞった。園田は自分が要求した増援の数字が、どの任務を削るかという別の数字へ置き換わっていくのを見ていた。
小鷹は手元の図を見ていたが、原田の顔写真が並ぶ頁に戻した。
「新宿の関係者を全部追跡できたとしても、感染連鎖を押さえたことにはならないんでしょう。原田本人がどこで感染したか分かっていない以上、事案の始まりが一つ前に残っています」
久世は原田一家の接触歴調査を示した。国外渡航歴はなく、既知のPMRS患者との接触や明確な咬傷も確認できていない。家族の誰が最初に感染したかも不明のままだった。
「現在確認されている情報では、原田一家へ至る感染連鎖を既知の事案と結びつけられません。国内のどこかで、行政が把握しないまま感染が続いていた可能性があります。新宿関係者の追跡が進んでも、この上流の問題は残ります」
園田は原田一家の調査票を伏せ、最初の頁に記された楔計画の運用結果を開いた。春先に自分が承認した構想だ。感染が判明した場所へ人員を集中させ、警察が規制し、厚労省と自治体が接触者を追い、必要なら自衛隊にも輸送や警備を頼む。感染の発生地点を押さえるたび、ほかの地域の生活と経済活動を大きく止めずに済んだ。全国一律の制限を避けてきた判断には、それなりの理由があった。
「ここへ来るまでに方針を変える機会はなかったのか。新宿での発症を知ってから全国規模の移動制限へ切り替えるのでは、そもそも遅かったという評価もあるでしょう」
久世は急いで答えなかった。園田は向かいの永瀬が資料を閉じずにいるのを見た。
「新宿以前にも感染機会を特定できない事案はありましたが、発症者の行動範囲と接触した可能性のある集団を限定でき、楔による対処が続いていました。全国の学校、工場、物流を一斉に止めることにも重大な負担が伴います。国外で少量曝露による長い潜伏が疑われていても、日本国内でこれほど広域に曝露の可能性が生じたと評価できる資料は揃っていませんでした。危機管理監としては、当時の情報だけで全国規模の制限を具申しなかった判断を、直ちに誤りだったとは考えていません」
「それなら、君たちに責任を押しつけるわけにはいかないな。私も、あの時点で全国の移動を止めろと言われたら、何人分の仕事と生活を奪うことになるのか聞いたはずだ。もっとも、それを明日の記者会見で説明して納得してもらえるかどうかは、別の話だが」
永瀬は園田が話し終えると、手元の予測表を中央へ寄せた。先ほどから頁の端に挟んでいた付箋を外し、久世へ渡すと、会議の進行を仕切るいつもの口調で発言した。
「制限を広げる判断には政治的な負担があります。ただ、今夜はそれを理由に先延ばしできる段階かどうか、見極めなければなりません。各省には今後48時間の見通しを同じ前提で作らせています。実際に起きてから対応を切り替えるというなら、何を待つのかも明らかにしていただく必要があります」
久世が画面を変えると、国立研究機関が警察と保健所の調査結果に潜伏期間と首都圏の人口移動を重ね、スーパーコンピュータとAIによる反復計算で作成した予測が示された。ここで数えているのは、新たな発症者が確認され、その場所ごとに警察と保健所が初動対応を組まなければならない事案で、同じ感染源でも発症地点が離れれば別件に数えるという。
「今後48時間に首都圏で表面化する件数は、抑えた条件でも30件前後。現在の調査結果を基準にした中央シナリオでは49件です。未把握の感染者から新たな集団曝露が起きていた場合には100件を超える。ただし、未把握の感染者数自体が分かっていませんから、どの条件が現実に近いかは特定できていません」
園田は49という数字を見て、まず幾つの場所へ部隊を送る必要があるのかと考えた。表の横には都心の病院、住宅地、私鉄の駅を示す印が散っていた。現時点での予測だということは分かる。それでも、次にどこから通報が来るのか分からないまま、幾つもの県に待機する警察官を分けておくことになる。
「数字の幅がずいぶん大きい。全国で制限を強める判断を求めるなら、最も悪い条件だけを並べたと言われないだけの説明が必要だろう」
藤岡は予測表の数字よりも、その下の注記を指した。医療側の資料には、数値を出す際に採用した前提と、確認できていない事柄が細かく並んでいた。
「この数字は発症場所を当てているわけではありません。既に把握している患者、未確認の接触候補者、国外の潜伏期間の資料などから、一定の条件で発症事案を推定したものです。私としては、多い少ないの論争に入る前に、発症した後の対応をどこまで維持できるか確認していただきたい」
小鷹は背もたれに身体を預け、志賀へ顔を向けた。
「49件でも100件でも、感染者の制圧だけなら警察と自衛隊に手段はあります。防衛省が追加の支援を出すとして、各県警が本当に困るのはどの部分ですか。人員を動かす判断に必要ですから、そこは分けて聞かせてください」
志賀は、自分の資料にある新宿以降の規制地点を指した。
「現場が住宅一棟で収まるなら、必要な隊員を出して制圧できます。病院で発症した場合には、その病院の患者と職員の確認が加わり、救急搬送を別の病院へ回さなければならない。愛知では病床が空いていても、接触の疑いで医療従事者が観察に回り、患者を受け入れられない事例が出ています。駅や商業施設なら、そこにいた人の所在を追う仕事が発生します。負傷者を搬送した救急隊員が観察対象になれば、次の救急出動にも響く。部隊を一つ派遣して終わる仕事なら、ここまで応援を求めていません。応援をいただけるなら助かります。ただ、発症者を制圧した後の現場規制、接触歴の確認、負傷者の搬送、施設の再開まで、自衛隊が全部引き受けてくれるわけではないでしょう。新宿の名簿を整理している間に、別の駅で同じ仕事が増える。そのうち県警の方も、出せる部隊ではなく、後から調べる職員が足りなくなるんです」
小鷹は返答せず、手元の人員表に目を戻した。園田は警察庁の資料にある規制継続中の地点を数えた。封鎖区域を地図に赤く塗る作業は簡単でも、その場所に常時人を置き、住民や事業者の問い合わせを受け、医療と物流の迂回を調整する仕事は、制圧の報告が上がった後も終わらない。
久世は関東圏の地図を表示したまま、別紙の運用見通しを園田へ差し出した。
「楔は今後も続ける必要があります。発症を確認した地点での封圧と接触者の追跡を緩めれば、被害をさらに拡大させるだけです。ただ、現状の人員と処理能力では、新しい事案の発生を十分に抑え込むための時間を確保できなくなる可能性が高い。各地で処理できる件数を超える前に、楔によって得られる時間をほかの準備へ充てるという方針へ移す必要があります」
久世が次に示したのは、交通と医療の機能を同じ地図に重ねた予測だった。首都圏の駅や病院で規制と感染疑い者の観察が連続して発生した場合、応援を送る県の部隊と医療従事者も減り続ける。鉄道が止まれば通勤できない職員が増え、物流の遅れで病院の備蓄が尽き、役所が指示しても現場に人を集められなくなる。悪い条件が重なれば、1か月以内に首都圏の行政と物流が連鎖的に機能を失う可能性があるという。条件付きの試算で、決まった未来ではない。それでも園田が見ていたのは、警察の規制区域の外側にまで広がった、業務停止の色だった。
「待ってくれ。官邸がここから命令を出せても、命令を受ける病院も役所も会社も動けなくなるということか。そんな状態になるまで、残り1か月という予測なのか」
「最悪寄りの条件が継続した場合です。実際には規制を解除できる場所もありますし、応援を前倒しすることもできます。ただ、その応援自体が鉄道や道路を使って動くことを前提にしています。交通が止まってから部隊を再配置することは難しい。予測は日付を当てるためより、どの機能から失うかを検討するためのものです」
「藤岡さん。医学の方はどうだ。いつまでもこの仕事を続ける必要があるのか。少しでも事態を変えられる見込みはないのか」
藤岡は何度も修正の入った研究報告を閉じず、園田が問うた成果と未解明の部分を区別しながら答えた。
「感染因子の同定について、決定的な成果はありません。ワクチンも治療薬も、実用化を見込んだ対処計画を立てられる段階ではないです。曝露量と潜伏期間の関係は以前より分かってきましたが、発症前の全員を確実に見つける方法はありません」
「2月のダッカでは、C-2輸送機で邦人を退避させながら、特殊作戦群まで動かして検体を持って帰らせた。小鷹さんにも現場の隊員にも、ずいぶん無理をさせたんだよ。あの作戦じゃ、帰りの便を失ったら自力で脱出するところまで考えさせた。あれだけの危険を冒して持ち帰った検体でも、まだ何も分からないのか」
小鷹は黙ったまま園田を見ていた。問いは厚労大臣に向けたものだったが、命じられた作戦の重さを承知しているのは彼らも同じだった。
「何も分からないわけではありません。あの検体から得られた情報のおかげで、少量曝露からの潜伏と、再活動者を停止させるための有効な措置については早い段階で検討を進められました。ただ、症候群の原因を特定できたわけではない。あのとき救った人や検体を運んだ隊員の努力を、いまここで治療薬がないという結果だけで無駄だったとは言いたくありません」
園田は続けて藤岡を問い詰めるのをやめた。あの作戦で得たものを無にしたくないのは自分も同じだった。それでも、現場へ命じる仕事の数は増え続けている。警察には追跡を続けろと言い、医療には隔離と救急を両方維持しろと言い、自衛隊には国内へ増援を出しながら本来の国防を怠るなと言う。どれも必要な命令である一方、同じ人数と輸送手段を複数の任務へ割り振っていた。
園田は久世の差し出した紙を受け取った。今までの楔は、発症者を見つけて閉じ込めれば残りの社会を動かし続けられるという見通しの上にあった。新宿で追跡すべき人間が首都圏へ広がったうえ、その発端の感染連鎖さえ分からない。何かを続けるために時間を稼ぐのなら、その間に動かすものを決めなければならなかった。
「時間を稼いで、何をする」
久世が内閣情報官へ視線を向けると、内閣情報官は別冊の国際情勢資料を開いて職員へ合図した。園田は2人の間で交わされた目配せを見て、用意された報告がまだ続くことを知った。
「これからお示しする内容は、各国政府から計画の存在を正式に知らされたものではありません。衛星画像や交通・物流の記録、政府間連絡、商取引の情報を照合した分析です。各国の意図について確認できていない部分は、推測と分けて報告します」
園田は中国へ移る前に、資料の冒頭にある南アジアの地図へ目を留めた。国外情勢の頁には、2月に邦人を退避させたダッカの南東に、赤い表示が広がっていた。
「その前にバングラデシュを聞かせてくれ。ダッカから持ち帰った検体が役に立っているのは分かった。だが、現地では正規軍が戦車まで出していると聞いている。あの国はどうなっているんだ」
内閣情報官が国境地帯の地図に切り替えた。バングラデシュ南東部のチッタゴン丘陵地帯からミャンマー西部、インドのミゾラム州にかけて、各国軍の展開位置と連絡が途絶えた地域が書き込まれている。小鷹も部隊配置表を伏せて、地図に向き直った。
「バングラデシュ政府軍は主要道路に戦車、装甲車、重機関銃を展開し、航空戦力による空爆も実施しています。それでも阻止線の突破が続いており、政府の実効支配が及ばない地域は国土の約4割に達したと分析しています。現在はダッカやチッタゴンなどの主要都市と、それを結ぶ一部の幹線道路を優先して保持している状況です」
園田は説明を止めずに聞いた。地図の色は国境を越えて続いている。
「戦闘地域から逃れた多数の住民が、インドとミャンマーの国境へ集中しています。越境を試みる集団に警備部隊が発砲した事例も複数確認されました。ミャンマー側では国内の感染拡大が重なり、一部の国境地帯で政府軍が防御線を後退させています。インド側も検疫と国境警備に部隊を増やしていますが、詳しい受入人数は確認できていません」
「国土の4割だと。戦車も戦闘機も使っているのに、そこまで追い込まれるものなのか」
内閣情報官は現地で撮影された映像を再生した。チッタゴン丘陵地帯の道路を、夥しい数の再活動者が埋めている。道路脇の陣地から重機関銃が撃ち込まれ、装甲車の砲撃で先頭の身体がまとめて倒れた。その後ろにいた群れが倒れた者を踏み越えて前へ詰め、地面を這う者まで混じって銃火の方向へ進んでいく。映像には断続的な銃声と、撮影者の近くで何かが割れる音が入り、やがて兵士が車両へ向かって走り始めたところで画面が切れた。園田は停止した画面を見た。砲撃が効いていないわけではなかった。むしろ画面に映る数十、数百の個体は確実に倒されていた。
「この戦闘で政府軍は相当数を無力化したとみられます。ただ、別方向からも集団が接近して補給路を維持できなくなり、陣地を放棄しました。推定数千から数万規模の集団が複数の道路に分かれており、撤退先で別の集団に遭遇した部隊も報告されています」
「これだけ撃っても、まだ足りないのか」
小鷹は映像の端に映った車両の位置を指した。
「撃っている武器は役に立っていますよ。装甲車も戦車も、目の前の再活動者を倒している。ですが総理、人間同士の戦争なら、これだけ損害を受けた部隊は普通、もう戦い続けられません。指揮官を討ち、補給を断ち、拠点を奪って、相手の戦闘意思と組織的能力を奪う。軍隊はそうやって敵を退かせ、戦争を終わらせようとします」
小鷹は話しながら資料をめくったが、次の頁に移るのをやめた。
「ところが、あいつらには指揮官も司令部もない。何百体倒れても、残った連中の士気は崩れません。恐怖で退くことも、降伏も、交渉も期待できない。負傷した個体がまだ襲って来るなら止まるまで撃つほかないし、掃討した町の住民が潜伏期間を経て発症すれば、守っている線の内側から襲われる。兵士は弾薬と燃料を補給して休まなければならず、曝露の疑いが出れば無傷の隊員まで任務から外れます。前線を押し返せば後方が安全になるという前提で、同じように戦争を続けるわけにはいきません」
園田は先ほどのやり取りを思い出した。日本を守るのが自衛隊の仕事だと小鷹へ言ったが、目の前では正規軍が道路を一つ確保するのに、次の道路と補給路を失っていた。
「そもそも、こいつらには恐怖がないという話だったな。何を考えているのか、そこまで分かっているのか」
藤岡が身を乗り出した。小鷹の説明に口を挟むというより、軍事上の判断に用いた言葉の確度を訂正する様子だった。
「恐怖を感じないというのは、観察された行動からの推定です。脳の広い範囲に重い障害が見られるという病理報告はありますが、それでも身体が動く理由すら説明できていません。痛みや危険を避ける反応はほとんど見られず、生きた人間を追って噛みつく。肉を食いちぎる行動が摂食なのか攻撃の一部なのかも不明です。『恐怖がない』という一言で、生態や意識が分かったつもりにはなれません」
園田はその答えを手元へ書き留めた。防衛大臣は戦場の問題を説明し、厚労大臣はその前提となる生物学的な理解が未確定だと告げている。二人の話は矛盾していない。前者は部隊を動かすために判断しなければならず、後者は判断を急いでも解明されていないことがあると知っていた。その間に内閣情報官は地域会合の予定表を開いていた。
「ASEANの緊急会合も中止されました。各国が軍と警察を国内対処へ戻していて、代表団の移動や会場の警備を確保できないためです。国境では互いに応援を求めていますが、その応援を送る余裕を持つ国が減っています」
「……では、まだ政府が広い範囲を統制できている国はどうしている。中国やアメリカは封圧を続けているんだろう」
画面が中国へ切り替わった。上海をはじめとする沿岸部の工業地帯から、四川、陝西、貴州へ向かう鉄道路線が色分けされていた。日別の貨物輸送量の横には衛星画像が並び、工場の構内から搬出された大型工作機械や発電装置、通信設備とみられる貨物が確認できる。内陸の一部施設では夜間の列車発着と電力使用量が増え、技術者とその家族らしい集団の移動も重なっているという。
「部隊の移動については、沿岸から引き揚げたものと内陸の警備を増強したものが混在しています。軍の再配置として説明できる部分もありますが、こちらをご覧ください」
内閣情報官が示した写真では、工場建屋の外に機械が並び、まだ取り外されていない設備の傍らに梱包資材が積まれていた。小鷹が軍用車両の数を確認していると、経産大臣の倉田が画面を拡大するよう頼んだ。
「そこ、配管の取り合いが見えるようにしてもらえますか。……ええ、そこです。連中、本当に外しているな」
園田が見ている間も、倉田は拡大された配管の付け根から目を離さなかった。
「大型の設備を据え付けたことがある人間なら、これがどれほど面倒な仕事か知っています。工場というのは、機械だけ運べば別の場所で翌朝から稼働するものじゃありません。設置した後の調整も要るし、精度を出すまでに試運転を重ねる。その間は元の生産ラインだって使えない。2週間ほど操業を止めるためにやる仕事ではないですよ」
「中国は元の工場を再開するつもりがないのか。そこまで分解した設備を戻すには、同じ時間がかかるだろう」
「再開を諦めたとまでは言えませんよ。ただ、元の場所で以前どおり動かせるという見通しだけに賭けるつもりではないでしょうね。向こうで据え付ければ、今度は向こうで技師を集めなければなりませんから」
「三線建設みたいなことを、また始めたのか」
園田の言葉を受け、内閣情報官が歴史資料を開いて、過去の輸送図を表示した。
「冷戦期に軍需産業を沿岸や国境地帯から離れた内陸へ分散した政策です。発想に共通するものはありますが、今回の移転が同じ目的で行われていると断定できる材料はありません。中国政府は重要産業の防疫体制と供給能力の強化という説明にとどめています」
「発表文はどうとでも書けるでしょう。気になるのは向こうが再設置を終えるまで何を失ってもいいと考えているかです。これほどの生産能力を動かすなら、少なくとも沿岸の工場を今までどおり使い続けられるとは見込んでいない。日本の企業が同じことを始めたら、私のところには、なぜ操業停止の損失を承知で移す必要があるのかという電話が殺到しますよ」
倉田が言い終えても、中国の地図はしばらく表示されたままだった。園田は長い貨物列車の写真をもう一度見た。官報の文面より、取り外された配管の方がよほど雄弁だった。
次の画面には米国が映った。ワシントン周辺の連邦施設からロッキー山脈周辺、西部内陸、アラスカへと線が延び、脇に通信量と人員移動の推移が添えられている。別の色でハワイ、グアム、在日米軍の基地が示された。
「マウント・ウェザー、レイヴン・ロック、シャイアン・マウンテンの関連施設で、通信と運用体制の変更が確認されています。訓練や設備の更新として説明できる動きも含まれますが、政府継続措置に関わる複数の機関で同時に見られています」
内閣情報官は外務省と防衛省が受け取った通知を配らせた。ワシントンの従来の窓口から連絡が途絶えた場合、どの連邦機関の署名と認証を有効と扱うか、その確認手順が細かく記されていた。
園田は資料を裏返して発行日を確かめた。核攻撃を受けた後に同盟国へ回すような文書を、平時の書式で送ってきている。外務省と防衛省に別々に届いた通知の内容は、ほとんど同じだった。
「正式な政府移転の通知ではありません。米政府が代替指揮拠点をどこに定めたかも確認できていません。ただ、首都の各機関が機能しなくなった場合に、国外との行政手続を止めないための準備には見えます」
「ロッキー山脈より西へ政府の機能を移すという話もあるが、アラスカまで含める根拠は何だろう。施設の稼働と政府の移転は違うでしょう」
国家安全保障局長は人員と物資の推移を示した。
「山脈周辺と西部内陸の連邦施設で通信と人の出入りが増え、アラスカでも機材搬入が増えています。ですが移転先だと確認できた施設はありません。アラスカは軍事・輸送拠点としての意味も大きい。ワシントンの機能が失われてから代替先を決めるつもりではなさそうだ、というところまでが現段階の評価です」
「認証手順が決まっているなら、こちらもそれに合わせるしかない。ただし、先方の正式な権限が誰へ移るのかは、引き続き確認してくれ。こちらが勝手に相手を政府だと認めるわけにはいかん」
小鷹はすでに太平洋の基地一覧を開いていた。
「米軍について、ここで一つ申し上げておきます。グアム、ハワイ、アラスカでは基地警備と指揮通信の独立運用を強め、燃料と補給物資を集積しています。横須賀では第7艦隊の艦艇が予定を変更して出港し、沖縄の海兵隊は従来のグアム移転を前倒しする方向で調整中です。家族の退避は一部で勧告から指示に変わっています。横田でも代替の指揮通信手段を準備している。艦を海へ逃がすのも、家族を移すのも軍としては理にかなっていますが、部隊の使い方まで我々に明かしているわけではありません」
小鷹は別紙を園田の前へ差し出した。FMSで取得予定のAIM-120D-3及びC-8、航空自衛隊の戦闘機へ装備する空対空ミサイルについて、次回納入分が保留されている。通知には米国内の緊急な運用所要と供給計画の見直しとだけ記され、引渡しの再開時期はなかった。園田はAIM-120の文字を確かめた。PMRSの患者を制圧するために消費する種類の装備ではない。
「これも本日付です。しかも日本だけではありません。把握している限り、欧州諸国、オーストラリア、イスラエルなどへの完成弾や誘導兵器の引渡しにも延期と保留が出ています。PMRSで空対空ミサイルを使うわけじゃありません。向こうが兵器を自国内へ残しておこうとしているということです」
「アメリカは、この感染災害の最中に別の戦争が起こることまで考えているのか」
「そこまでは断定できません。ただ、感染対策で米軍の出動先が変わる一方、完成した兵器を同盟国へ渡さないという選択が始まった。その影響を日本の防衛計画から外すことはできません」
外務大臣が欧州の軍用飛行場を示した別紙を開いた。
「英国のフェアフォードからは戦略爆撃機が、ミルデンホールからは空中給油機が引き揚げています。英国やポーランドから懸念が伝えられていますが、米政府は欧州の抑止態勢についても明確な説明を出していません」
小鷹は園田の手元に置いた納入保留の通知を指先で示した。
「米軍の都合が悪くなれば、約束した兵器の納入だって止まるわけです。国内の感染対応へ部隊や輸送機を回すなら、通常の国防任務を何で補うか、我々自身で考えなければなりません。在日米軍が従来の配置で日本を支え続けると見込んだ計算は出せませんよ」
韓国では世宗の行政機能について代替運用を増やしている。オーストラリアはタスマニアと西オーストラリアで通信設備、医療物資、非常用発電設備などを集積し、軍の戦略輸送機による国内輸送も増えていた。連邦政府は民間倉庫と輸送枠の一部を長期契約へ切り替えているという。ロシアでもウラル以東へ向かう軍需輸送が増加しているが、それぞれの国が具体的にどこまで移転を計画しているかは確認できていない。園田は南半球の地図にあるタスマニアの印を指した。
「タスマニアの方まで動かしているのか」
「本土での検疫支援というだけなら、島への電源設備と通信資材の移送を長期契約で組む必要は薄いでしょう。ただ、政府機能を分散させる準備だという評価は推測です。各国が国民へどこまで公表しているかも一様ではありません」
榊原が資料を見ながら口を挟んだ。
「公表を先にしたら、その港へ国民が向かいます。避難先を知らせるのは結構ですが、受け入れる道路と荷役ができていなければ、港から人を動かせません。隠す理由があることは、私には分かる気がします」
園田は各国の地図を見比べた。中国には広い内陸があり、米国はロッキー山脈の両側に施設を分散できる。オーストラリアには海を隔てたタスマニアという選択肢まであった。日本政府も2月から情報を集め、4月に法案を提出し、5月に法制度と警察の備えを整えてきた。ただし今机上に並んでいるのは、感染を封じるための準備よりさらに先へ進んだ仕事だった。
園田は日本列島の人口密度と交通網を表示するよう求めた。山地の多い国土に、人口の集中する平野と沿岸の都市が点在し、それらを結ぶ幹線道路と鉄道が細く延びている。東京の隣で大量の避難者が動けば、その移動経路を警察の応援も救急搬送も物資輸送も使うことになる。先ほどまで議論していた楔は、こうした都市の交通と行政が普段どおり動くことを当てにしていた。首都圏の人口密度は、感染疑いのある人間が少数でも各方面へ散れば、追跡すべき接触者と必要な封鎖地点を急激に増やす。平野と沿岸に人と社会基盤が集まるという事情は、道路の一本をふさぐだけで複数の市町村へ影響が及ぶことでもあった。
「中国は工場を内陸へ運べるし、アメリカには首都の外にも政府を動かす施設がある。日本は人が暮らせる場所に、住居も病院も工場も固まっている。余った土地へ人を逃がせば済む話じゃないんだ。首都圏で規制が重なれば、避難する人も応援に向かう部隊も同じ道路へ集まる。そこで詰まれば次の地域まで手が回らなくなる。そのうえ北海道へ政府を移すとなれば、海を渡る船まで必要になる。その船も港も、いま楔を動かすために使っているんだぞ。政府の仕事を優先したら、ほかに何を諦めることになるか、そこまで説明してくれなければ決めようがない」
久世が永瀬へ目を向けた。園田は視線を追い、官房長官が白い資料の下から黒い冊子を抜き出すところを見た。黒い表紙には管理番号しかなく、ほかの資料と違って、どの省が作成したものかも記されていない。
「その不自由な条件を承知で準備した案があります。総理、今夜は優先順位だけでなく、国がこれから何を維持しようとするのか、その方針について御判断いただきたいんです」
永瀬は冊子を園田の前へ押した。最初の頁には《非常事態における国家中枢機能の継続及び代替配置に関する基本計画》という名称があり、その下にHYDRAと印字されていた。園田はすぐには頁をめくらなかった。就任直後に受けた説明では、冷戦期に原型が作られた政府継続構想で、核攻撃や首都直下地震などで東京が使えなくなっても、他の拠点から行政と自衛隊の指揮を続けるための備えだと聞いている。実際に使うことがあるとは考えず、神話に由来するその名称だけが記憶に残っていた。
改訂履歴の最終欄には、今年4月の日付があった。園田がそこへ指を置くと、危機管理監の久世が説明を始めた。
「国外で長期潜伏と低用量曝露を疑わせる事例が増えた段階から、感染災害への転用を検討していました。文書上の改訂と輸送能力、受入能力の机上評価は進めていますが、実施命令は出していません。今日お諮りするのは、その準備を現実の移転作業に移すかどうかです」
「この一覧には、政府職員より先に医療機関や民間工場の設備が出てくる。首都機能の代替というだけなら、元の地方で働いている人間まで動かす理由にはならない。いま使える生産ラインを止める危険も含めて、説明してもらいたい」
園田は冊子に挟まれた産業設備の一覧を見た。行政データや政府職員に交じって、保守技術者、医薬品製造設備、電力と通信の運用要員が並んでいる。官庁を移す計画にしては、そこに載っている民間の仕事があまりに多かった。
「従来の計画では、首都を離れた先の病院、送電網、金融機関、物流は動いている想定でした。今回は地方の行政にも同時に感染対応の負荷がかかります。指揮する職員を移しても、電気が止まり、薬が届かず、銀行間の決済もできなくなれば、命令を出すことすら難しくなる。そこで政府の継続に必要な産業と人員を、移転先の生活基盤ごと維持する案に改めています」
久世が画面へ北海道の地図を出した。道央の既存施設を中心に、港湾、空港、青函トンネル、電力施設、病院が色分けされる。既存の政府継続施設については地下の断面図も添えられ、独立電源、浄水設備、備蓄と通信系統が示されていた。ただし、そこに行政機関の名前をすべて書き込めるほど広い施設ではない。収容できる人員と、そこで働く人間を支える道内の設備は別に考える必要があった。その周囲に、政府要員、医療、金融決済、研究、産業の移送対象が重なり、原種子や遺伝資源、研究資料の保全についても項目が置かれている。園田は政府の印より、港から道央へ向かう線の少なさが気になった。
「国家中枢の代替拠点は北海道を中核とします。あわせて四国、沖縄、島嶼部、本州、九州で、生活基盤を維持できる区域の候補を選定しています。佐渡、対馬、種子島、馬毛島、伊豆・小笠原諸島などは地理的な条件を評価していますが、いずれも確定した受入先ではありません。島を分ければ防御に適する一方、港の荷役と船腹、それに現地の食料と水に制約があります。既存の道路、河川、山地を利用して出入りを管理し、警察と医療の能力を集中させる。住民の避難は受入先の準備が整ったところから、地域と人数を区切って実施する構想です」
園田は北海道の図をめくった先に、全国の候補区域が細かく塗られた地図を見つけた。色のない部分にも市役所や病院の記号は並んでいる。今夜、維持すると決められない町の住民も、明日の朝には仕事へ行き、学校へ子供を送り出す。その暮らしをいつまで支えられるのか、冊子にはまだ答えがなかった。
総務大臣の野崎が維持区域の図面をめくり、いくつかの候補地に付けられた県境を指で押さえた。
「県境を越えるものもありますね。知事に何を説明しているんですか。県庁には日々の感染対応だけでも無理を頼んでいるのに、今度は国が県内のこの部分だけを守ると、地図に線を引いて見せるおつもりですか」
「自治体へはこれから具体的な協議を求めます。選定と必要資材の積算は進めましたが、区域境界は確定していません。フェンスや障壁の工事もまだ始めていません」
「それなら知事へ出せるのは計画書だけですね。候補地の役場が工事へ職員を回せば、いま続けている楔の仕事が止まる。そのことを説明して、同じ知事に協力を求めるんですか。区域から外れる町の首長だって、なぜ隣だけ守るのかと聞きに来るでしょう。国が何を続け、何を終えるのかまで示してくれなければ、私から県庁へ話を持っていけません」
久世が各省で積算すると言いかけたところで、野崎が首を横に振った。
「各省の見積もりを足したら、一人の職員が同時に三つの仕事をすることになるんですよ。総理、実施を決めるなら県ごとの既存任務を洗い直させてください。知事から上がってくる数字の方が、こちらの一覧よりよほど容赦ないはずです」
園田は頷いてから、北海道の受入見積もりを開いた。『数百万人』という数字の横には『所要の施設整備後』と小さな但し書きがあり、燃料、病床、冬季の暖房、道路と港湾の処理能力に留保が付されている。
「大きい数字は目につく。ここに書いてある数百万人というのは、古畑知事が明日から引き受けられる人数じゃないんだな。議員ばかり叱れないな、大臣だってこの表なら読み間違える」
久世は見積表の脚注を示した。『所要の施設整備後』の文字が、人数よりひと回り小さな活字で印字されている。
「施設の増強と継続的な輸送が成立した場合の計画上限です。初期の受入可能人数は別途算出中です」
今井は受入人数を眺めるより早く、燃料と肥料の所要量を読み始めていた。
「人の上限を増やす前に、もともと北海道で暮らしている人の分を確保してください。農業生産が多いから食料に困らない、という計算をする人が時々いるんですが、畑は燃料がなければ耕せません。飼料も肥料も外から来ますし、冷蔵設備を維持できなければ収穫したものも失います。避難者を運ぶ船に港を譲って、道民の生活物資が後回しになれば、受入計画の数字を競っている場合ではなくなります」
榊原が試算表を広げて輸送量の欄を示すと、今井はその横にある船腹確保状況へ指をずらした。
「試算を拝見したうえで伺っています。船はどこにあるんですか。いま走っている定期便を外さずに、その量を道へ持ち込めるんですか」
榊原は赤字の欄を見た。空欄のままの船名もいくつかある。今井はその先を追及せず、輸送表を受け取って席に戻した。
「古畑知事の受入条件も、今のうちに確かめたい。先方はどこまで承諾している?」
「協議には応じています。ただし、流入を国の責任で管理すること、道民の生活を優先すること、警備と医療の不足を政府が補うことを条件に挙げています。正式な受入要請はまだ出していません」
「こちらが支えると約束したところで、その支える人員を本州から運んで来られるかどうかも決まっていない。知事にはまだ具体的な承諾を求めないでくれ。向こうが押さえておきたい条件を、こちらも軽く扱わないことだ」
黒い冊子の別表には、船会社の名前と出港予定日、船員と荷役の担当窓口が列記されていた。園田はしばらくその表を読み、用意された数字の細かさに引っ掛かった。輸送能力を把握するよう命じた覚えはあるが、特定の日付での船の使用まで照会させてはいない。
「永瀬さん、この出港日の欄は、どこまで先方に伝えてあるんだ」
榊原の視線が官房長官へ移った。
「今月に入って、調査を具体的な手配の可能性を確かめる照会へ切り替えました。私の指示です。契約と移送命令は出していません」
「契約したかどうかは、資料を見れば分かるよ。聞いているのは、君が船会社に日付まで示して相談したということを、私がなぜ今日になって初めて知るのかということだ」
永瀬は手元の冊子を閉じた。
「判断を求めるときには、何を動かせるか示すべきだと考えました。調査を命じた段階では実施が決まっていない以上、総理の承認を要する行為には踏み込んでいません」
「そこは信用している。だが、実施を前提に各社へ照会した以上、君の仕事はもう、私が断ったら終わりになる調査じゃない。今夜決めろと言われて、私が断れば、出せた船を逃した責任は私に残る。そういう段取りを組む前に相談してほしかったね。もし私が今夜、HYDRAに反対したら、君はどうするつもりだったんだ」
「その場合は準備を中止します。ただ、いま使える船が次にいつ使えるか分からない以上、実施する理由を最後まで説明して、考え直していただくよう説得はします」
園田は永瀬の顔を見た。自分を説得するためにどこまで準備したのかと、つい問い返したくなったが、机に並んだ船会社の名前と期日を見れば答えは十分だった。
「先に御相談すれば、実際に手配できるか分からない段階で判断を求めることになりました」
「その場合は、調べろと言ったかもしれない。今夜は君が調べた結果を見せられた。二つは似ているようで、私にとっては違うんだ」
永瀬は返答しなかった。園田はこれまで、危機が起きてから厄介な事柄ほど官房長官と相談してきた。今回も準備の必要性自体には異存がない。それだけに、机の上で動き始めている計画を今日初めて見せられたことが、簡単には収まらなかった。
「榊原さん、期限が迫っている便から見せてください。これ以上、表紙を眺めている余裕はないようだ」
榊原は回答期限を赤で囲った数件を示した。いずれも未契約で、政府の先行要員と通信の予備機材を運ぶ想定だった。
「明朝までに回答を求められている便です。船の空きだけならもう少し待てるものもありますが、船員と荷役を同じ日に手配するとなると話が違います。明日になれば別の荷主が取るかもしれません。港側の作業枠も含めて、今夜のうちに押さえる必要があります」
園田は通信設備の欄にあるデータセンターの機器名を指した。倉田がその横へ経産省の照会票を広げた。
「経産省とデジタル庁で機材の選別をしています。ただ、サーバーを箱に入れて運ぶという話なら結構ですが、現用系の一部まで切り離すなら、運んだ先の電源と通信を先に確保しなければ使い物になりません。名簿だけ先に作られても、私から荷主へ説明はできませんよ」
「その確認が済むまで便を遊ばせておけないんです。船会社に積載量と作業時間の見込みを伝えなければ契約できませんし、機材の一覧が出る頃にはその船がなくなっているかもしれない。国交省は船を生み出せませんから、どこで見切るか決めていただくしかない」
今井が表の別の欄を示した。
「見切る前に、この便が使う港の荷役を確認してください。道へ入る燃料と肥料の定期便と重なっています。船だけ押さえて埠頭で待たせるようなことをされたら、農水省としては困ります」
「定期便を全部止めろとは言っていませんよ。荷役時間をずらせる可能性もあります」
「その可能性は港へ聞いたんですか。国交省が大丈夫だと言うから農水省は了承した、という記録だけは残したくありません。物資が届かなければ私が道民に説明するんですから」
榊原は表をたぐり寄せた。回答しようとしたところへ倉田が別の紙を重ね、発電施設の保守要員の欄を示した。
「ついでに、この方々の移送も保留していただきたい。重要技術者の一覧に発電所の保守要員が入っていますが、いま使っている設備を維持する技師を抜けば、別の技師を育てるまで現地の保守が止まります。代替要員を決めずに動かせる名簿ではないですよ」
経済安全保障担当大臣が半導体と医薬品の項目を指した。
「企業の設備が無事なうちに必要人材を退避させることにも意味があります。工場が維持できなくなってから熟練者を集め直す方が難しい。倉田さんは、残す場合の危険をどう評価していますか」
「そちらの危険を軽く見ているわけじゃありません。だから、どこを残し、どこを解体するかを現場と一緒に選びたいと言っています。机上で『代替可能』と書かれた技師が、その工場で替えのきかない設備を見ていることもある。人数だけ抜けば予定どおりになるという考えは捨ててください」
「もし移送を見送った工場で多数の感染者が出れば、どう説明するんです」
倉田は相手の顔を見た。
「責任の話なら、どちらになっても私が問われるんでしょう。だったら仕事の選び方くらい任せてください。現場へ『重要な人間だけ出してくれ』と言えば、明日から残る社員が何を考えるか、想像がつくでしょう」
森岡は財政資料の余白で計算を続けていたが、ここでペンを置いた。
「その社員へ何を説明するか、という話なら財務省にも関係があります。政府が設備と技術者を移すと決めれば、相手は金融機関でも取引先でも事情を聞きに来ます。国家機能を移してまで守ろうとしているのは結構ですが、国内の事業継続を政府自身が見限ったという受け取られ方をすれば、企業の資金調達も揺らぐ」
園田は森岡の資料にある国債利回りと為替の欄を指した。
「そこまで売られるかは市場次第です。危機下で円が買われる可能性だってありますから、決めつける気はありません。ですが、国債が売られて金利が急に上がれば、企業の借換えに響きます。金融機関が融資先の信用を疑えば新しい資金を出し渋る。政府の指示で設備を移した企業が、翌月の資金を借りられなくなれば、船と倉庫を用意しても実際の仕事は止まります。補償だけで済む話でもない。政府が何を残すために動いているか、せめて協力を求める企業には筋を通して説明する必要があります」
永瀬は企業向け通知の草案を机へ出した。本文には、各社へ伝える情報の範囲が項目ごとに分けられている。
「協力企業へ説明した結果、移転先と輸送の日程が広がれば、指定していない港へ住民が集まります。施設の警備も検疫も整っていない以上、必要な情報を必要な範囲でしか伝えられません」
「その『必要な範囲』を後で財務省へ言わないでくださいよ。社長に操業継続を頼む一方で、腕のある社員を家族ごと政府が送り出す。その理由を本人にも会社にも説明するなと言うなら、協力は任意なのか、命令なのかを決めてもらいたい。私の省が窓口になる以上、先方の反応は全部こちらへ返ってくるんです」
「企業ごとに説明の範囲が違えば、かえって情報が広がります。どこまで伝えるか統一したい。作業の依頼だけ先に進めて、説明は後からというわけにもいきません」
「なら、その説明の中身を今日決めましょう。相手も従業員と工場を預かっているんですよ。社長の机を叩けば船が出るわけじゃありません」
永瀬は倉田に向き直った。
「企業への説明なら、経産省の仕事でしょう。相手の経営者が何を知っているか、こちらだけでは分かりません」
「仕事は引き受けますよ。ただ、残った社員に仕事を続けてもらうよう要請して、その一部は政府が先に家族ごと運ぶ。その判断を私の省だけで決めたということにはしないでください。協力を求めるなら総理名の依頼書を出していただきたい。どの段階で誰が決めたのか、企業もあとで知りたがるはずです」
榊原が黙っているのに気づき、園田はその手元へ目を向けた。国交大臣の指は、さっきから明朝の期限が迫る便の上を動かなかった。
「総理、今ここで企業への説明文まで仕上げるおつもりなら、その前に船社へ返事をさせてください。先方は会議が何時に終わるか待ってくれません」
園田は机の中央へ輸送表を寄せた。今井が必要とする燃料の便と、榊原が確保したい人員輸送が、同じ港の同じ作業枠を奪い合っている。倉田が動かしたくない発電所の技師が、別表では最優先の移送対象に入っていた。
「既存の食料と燃料の輸送を圧迫する便は、別にしてくれ。その枠については農水と経産の了解が取れるまで私の承認を求めないこと。政府の先行要員を運ぶなら、北海道へ着いてからの勤務先と受入施設を確定している人間に限る。船の契約だけ先に進める場合は、何を積める見込みで、何を積めないままになるのか、榊原さんの名前で明記してほしい」
「その条件では、今夜返事を出せない便が残ります。先方には断る理由も伝えますが、次に空きが出る保証はありません」
「その便を失えば、どの予定が遅れるかを書いて持ってきてくれ。費用をかければ解決するなら森岡さんと話してほしい。数字の合わない計画に私が署名したところで、港の荷役が終わるわけじゃない」
今井が榊原の隣へ席をずらし、輸送表に書かれた燃料の便名を確かめ始めた。倉田の秘書官も技術者名簿を持って席を離れた。園田はその動きを見届けたが、厚労大臣の藤岡が別の表を重ねたため、輸送表を閉じることはできなかった。
「先行要員の話のところへ戻して申し訳ありませんが、その人たちを道内で受け入れる方の数字がまだありません。船の定員を埋める前に、到着後どこで観察を続けるか、決めていただきたいんです」
藤岡の表では、受入予定者と観察施設の人数が別々に記載されていた。出発地で確認する身元と接触歴の記録、乗客を追跡できる集団単位、到着時の検査と健康観察に必要な職員数が並び、幾つかの港では施設数に不足が出ている。
「潜伏感染を全員見分けられる検査はありませんし、全員を2週間隔離するだけの余地もありません。低リスクの集団は記録と継続監視を条件に先へ進めるとして、感染の疑いが強い人や同じ集団で発症した人には追加の観察が要ります。これを船が着いてから現場で決めさせるなら、私は受入人数に責任を持てません」
「こちらも船を出してから泊める場所がないと言われては困ります。出発地に人を集めておいて、直前に欠航を決めれば、今度はその港の規制に警察を増やすことになります。仮に定員に余裕があっても、乗せる人数を減らせということですね」
「必要なら減らしてください。北海道へ連れてきた人を、埠頭からどこへ動かすつもりなのか、私の省では確認できていません。道内の病院を埋めてしまえば、そこで暮らす人にも避難してきた人にも治療ができなくなります」
「船が足りないと国交省が言っておきながら、確保できた船に空席を残して出せば、今度は私が責められる。そこも御承知ください」
園田は2枚の表を重ねた。船の最大定員の列だけ数字が揃っているのが、かえって不自然に見えた。
「1便ごとに、乗せる人数と受入先を対応させてください。国交省は最大定員をそのまま避難可能人数として報告しない。藤岡さんは施設別の健康観察能力を出してくれ。急な事案で予定外の人を移す必要が生じたときのために、予備の受入先も置く。空席が出る理由は国交大臣に説明させず、私が説明する」
「それを記録へ残していただければ、国交省もその人数で船社と話せます」
森岡はその発言の横へ何か書き込んでいた。
藤岡が秘書官を呼んだ。北海道の受入施設の一覧を持ち帰らせると、今井は港の欄について榊原と話し始めた。別々だった数字が、ようやく同じ表へ集まろうとしている。
小鷹はその間に部隊配置図を広げていた。港湾、鉄道、幹線道路、発電所、浄水施設を警備するための所要人員が示されている。本州から転用する予定の部隊には人数が記されていたが、転用元の欄は幾つも空白のままだった。
「久世さん。北海道に必要な兵員を積算するのはいいとして、ここの空欄を埋めないまま総理へ出すのはやめていただきたい。新宿の警備に出ている隊員をいつ引き揚げられるか、防衛省ですらまだ分かっていないんです」
「現在の任務を完了した部隊から、順次――」
「それは部隊が予定どおり戻って来るという前提の計算でしょう。今夜、楔が計画どおりに進まなくなったと報告しているのに、別の資料では全部隊が定刻に帰営することになっている。そんなに都合よく人が増えるなら、こちらだって苦労はしませんよ」
小鷹の言葉に久世が口をつぐむと、警察庁長官の志賀が全国の応援部隊の一覧を机へ出した。
「防衛省が動かす分を警察へ戻すおつもりなら、うちも同じ表を出させてもらいます。各県警は感染疑いの確認だけで人手を取られ、通常の事件や交通事故にも対応しなければならない。撤収される地域で新たな発症者が出たとき、警察だけで全部引き受けられると思われては困るんです」
「警察へ丸投げする話はしていません。ただ、通常の国防任務まで放棄して北海道へ部隊を集めるわけにもいかない。在日米軍の事情も先ほど申し上げたとおりです。防衛省としては、楔を縮小する地域と、残す部隊の所要を併せて出すしかありません」
園田は配置図の空欄を押さえた。
「各省の必要人数を足して総員を上回るなら、ここで決めるのは優先順位だろう。防衛省は任務を終えられる地域と、引き揚げた場合に必要な代替措置を出してくれ。志賀さんのところにも、警察だけで受け止められない場所を出してもらう。何人足りないという話で止めず、何をやめたら何が起こるのかまで揃えてほしい」
統合幕僚長が、それまで読んでいた配置図を机へ置いた。
「総理、その際、撤収の判断を現場へどう伝えるか、先に整理していただく必要があります。例えば最後の避難便が出て、予定上は部隊を引き揚げる日になったとします。それでもその町から住民が消えるわけではありません。動けない患者も、自宅に残る人も、避難の通知を受け取っていない人もいます」
統合幕僚長は別紙を開いたが、読み上げる代わりに園田を見た。
「予定どおり撤収させれば、後から届いた救助要請に応じられないかもしれません。任務を延長すれば、その部隊が次に救助へ向かうはずだった地域で人が足りなくなる。現地指揮官が住民を目の前にして決断する場面は避けられないでしょう。ただ、何を守るためにどの任務を終了するのか、指揮官が自分で国の方針を作るわけにはいきません」
園田は配置図の部隊名と転用予定日を見比べた。図面には、その日の病院に何人残っているかも、出発できなかった住民がどこへ集まっているかも書かれていない。
「撤収条件は政治の責任で定める。通信が切れた場合に現場で判断してよい範囲も必要だろう。ただ、避難完了という報告だけは、何をもって完了としたのか必ず書かせてくれ。残る住民を確認しているなら、その人数と救助を続けられない理由まで報告する。後から記録を読んだとき、誰もいなかったことにできる書式にはしたくない」
「その基準ができるまでは、部隊に撤収日だけを先に示さないようお願いします。住民を助けようと現地へ入った隊員に、まだ救助要請が来ているのに出発しろと言うなら、誰の命令で、何のために引き揚げるのかを答えられるようにしていただきたい」
園田は統合幕僚長が指を置いている転用予定日を見た。いま机上で動かそうとしている部隊には、昨夜も住民の救出や病院の警備に当たっていた者がいるだろう。同じ部隊に、ある日を境に町を離れるよう命じる。その日になっても助けを求める人がいると分かっていながら、次の地域へ向かわせる理由を自分は説明できるだろうか。園田は署名の代わりに付箋を挟み、転用元が空欄になった行を折り返した。
「撤収を命じるための条件は政府で作ります。少なくとも、残っている人を数から消して『避難完了』とする報告は認めない。小鷹さん、統幕と警察庁で例外の扱いまで考えてください。そういう命令を出すのは私たちですから」
統合幕僚長は配置図を閉じなかった。園田はそれ以上答えを探すのをやめ、久世が示す次の地図へ目を向けた。維持区域の境界には川や山地に沿って幾つもの線が引かれ、橋とトンネルの位置に赤い記号が付いている。
榊原が図面を引き寄せた。凡例には『物理的な使用不能化』という文字があった。
「この記号、県境をまたぐ幹線道路にも付いていますね。『使用不能化』というのは、通行止めや障害物の設置とは別なんですか」
「人員を常時配置できない橋や道路について、車両が通行できない状態へ変える選択肢です。出入口を限定しなければ、区域内の警備が成立しない箇所があります」
「橋を爆破するんですか!」
榊原が席を立ったため、椅子の脚が床を擦った。久世は身を引かずに説明を続けた。
「橋梁だけではありません。トンネルや高速道路の一部についても、ほかの方法で車両の流入を阻止できない場合に備えた検討項目です。実施する地点は決定していません」
「検討項目だからといって、道路規制と一緒の表に入れないでください。橋を落とせば、向こう岸の病院へ薬を届ける車も通れません。作業員が戻れない設備も出る。私のところへは、地震や水害のたびに橋一本が使えなくなっただけで、何年もかかって直した報告が上がってくるんです。『使用不能化』の四文字で済ませるつもりなら、その紙に署名した人間の名前も残しておいてください」
「警備する部隊を永続的に置けるわけではありません。主要施設を守るために、侵入経路を限定する必要はあります。車両が規制を突破すれば、病院や浄水施設まで封鎖せざるを得なくなるかもしれない。その危険も見ていただきたい」
「では、その橋の向こうに何人残るのか、代わりの道路があるのかを調べてください。軍用車両が最後に渡ってから橋を落とせる、という計算だけなら認めませんよ。国交省に国民向けの避難路を確保しろと言っておいて、同じ政府がその道路を壊す準備をしているんです。少なくとも私は、これを同じ表に載せたことに異議があります」
「仮に道路を残して侵入が続けば、その区域へ避難させた人間も危険にさらされます。今ここで手段を全て封じられては困るんです」
「手段を残すというなら、壊さずに済ませる手段を先に全部示してください。今の計画では、橋を爆破する方法は書いてあっても、向こう側に取り残される人の扱いが見当たりません。人を置けないから自国の橋を壊して回るなんて、焦土作戦でもやるつもりですか。橋一本を架け直すのに何年かかるか、こちらへ相談した人間はいるんでしょうね」
小鷹が地図の境界線を指した。
「自衛隊へ実施を命じるなら、橋を警備している部隊の撤収計画も同時に考えてもらいます。爆破の準備だけしてその地点に隊員を残すようなことはできません。それから、防衛省としては感染者と感染していない住民を一括りにして車両の通行を止める計画には賛成できない。避難してきた人が規制線の前へ集まったとき、どう扱うかが抜けています」
園田は法務大臣の白石へ向き直った。白石は内閣法制局長官と条文を確かめていた。
「健康安全確保法で交通を規制するのは分かるが、橋を壊すことまで現在の権限に入っているのか」
「一般的な規制権限と橋梁の破壊は区別しなければなりません。特定の危険を防ぐために何をどこまで許容するか、現行法の枠組みで可能な範囲は検討します。ただ、全国一律の包括的な許可を、今の資料だけから出せるとは考えていません。所有者や利用者への影響に加え、必要性と代替手段についても地点ごとの判断が要ります」
永瀬は橋梁の封鎖手順に付された日程を示した。
「法的な整理を待っている間に区域の警備が破綻する可能性も、考慮してください」
「もちろん考えます。だから法制局と事前に整理するんです。非常時だから何をしてもよいという命令の方が、実際の現場を困らせます。破壊してから適法だったか調べるというわけにはいきませんので」
園田は赤い記号が集中する橋をもう一度見た。境界のすぐ外側には病院の印があり、その先の道は別の区域へつながっている。橋を守る人員を置けば別の場所から抜く必要があり、壊せば病院の患者をどう運ぶかという問題が残る。
「久世さん、候補地点は消さずに残しておいてください。ただし、破壊を許可した印だと受け取られる書き方は今夜中に直してくれ。壊さなければ守れないものと、壊すことで失うものを一緒に示してほしい。住民の数と代替経路、病院などの施設、撤収する部隊まで含めてだ。白石さんにはその後で法的に何ができるか判断してもらう」
藤岡が地図の病院を指した。
「透析の患者や救急手術が必要な人は、区域の線を引いたからといって待ってくれません。病院を閉じるなら、移送先と人員を決める必要があります。救急車を何台用意するかだけで済む話でもありません」
「車両をどこから調達するかによって別の地域の避難は遅れます。個別の事情を積み上げれば、維持区域そのものを造れなくなる可能性もあります」
「だから患者の人数を尋ねているんです。何人をどこへ運ぶか決まれば、必要な時間だって計算できます。決めないまま線だけ引いて、後から病院が残っていましたと言われても、私の省ではどうにもできません」
園田は2人の資料を並べた。境界線を一本ずらすだけで、警備に必要な兵員も医療の受入人数も変わる。その計算をどちらの省へ先に命じても、もう一方の条件が変わればやり直しになる。
「野崎さん。都道府県の中にこういう区域を作ることについて、知事にはどこまで引き受けてもらえると思いますか」
野崎は地図の中央に置かれた赤い線より、その外側の市町村名を指で追っていた。
「選ばれた区域の管理なら協力する知事はいるでしょう。問題は選ばれなかった町です。知事は区域内の住民だけを預かっているわけじゃありません。道路の反対側に住む県民の避難先が決まらないまま、こちらの区域だけフェンスを造りますと言っても、県議会だって通せませんよ。そちらをどう扱うかは、国が責任を持って示さないと」
「区域外の救援についても、国の責任で方針を出します。選ばれなかった町を、地図から消すつもりはありません」
「その言い方で構いません。ただ、国の指定を受けた区域だけに人と物資が集まるなら、指定されなかった自治体へは何を渡せるのか、その答えも必要になります。知事との協議には総務省の職員を付けますが、政治的に引き受ける部分まで地方へ預けないでください」
警察庁長官の志賀が紙を一枚広げた。新宿事件以降の規制地点と通過車両の記録だった。
「警察側からも申し上げます。感染が確認された建物を封鎖するのと、避難先を求めて来た住民を区域の外へ戻すのとでは、現場の仕事が違います。乗船名簿にない人間が港へ来ることは避けられません。指定された便に乗れると聞いて、家族を連れて遠くから車で来る者も出るでしょう。帰れと言うだけで整然と帰る人数なら、そもそも警備部隊は要りません」
「指定された集団以外の流入を規制しなければ、北海道へ感染を持ち込む確率が上がります。受入側が対応できる数を超えてしまえば、区域の維持そのものが危うくなる」
「ですから、追い返した人をどこへ誘導するか、受け皿を決めてください。規制線の手前で何百台も車を止めて、その場に置き去りにするわけにはいきません。道路上の集団を安全に移動させる任務と、感染者の侵入を防ぐ任務を同じ人数でやれと言われても困る」
小鷹が口を開いた。
「防衛省としては、部隊へどの段階の措置を命じるのかが必要です。誘導と警備なら任務は組めます。しかし、居座る人間がいた場合に、どこまで実力で排除するのか。感染の疑いがない住民については特に、規制の根拠を明らかにしていただきたい。港の入口に兵を置いた後で、出入りの判断を全部現場へ委ねることは避けるべきです」
永瀬は規制案の下段を確認した。そこには警備の人員数だけがあり、住民が規制に従わなかった場合の扱いは書かれていなかった。
「現時点で、武器の使用を命じる案は出していません。警備と出入管理の具体的な措置を詰める段階です」
「そこはもちろん承知しています。ただし、銃を持った隊員を配置することと、発砲を命じることの間にも、いくつもの判断があります。私が気にしているのはその間です。何を拒否し、何なら通すのかを政治と行政が決めておかないと、現場が住民との押し問答を引き受け続けることになる。橋を爆破して人が通れなくなっても、何千人もの避難者が集まってきたらどうするんです。まさか、その人たちの上に爆弾でも落とせという話じゃないでしょうね」
永瀬は規制案の下段にある人員表から顔を上げた。小鷹の言葉に反応した大臣たちの視線が、官房長官へ向く。
「誰もそんなことは言っていません」
「ええ、今は。極端な言い方をしているのは承知していますよ。だからこそ、そういう命令を出すか出さないかまで決めておかなければ、追い詰められた現地の隊員が判断することになる、と申し上げているんです」
「感染の疑いがある個人への強制措置と、一般の住民に対する広域の移動規制では、根拠も要件も違います。政府が受入順位を決めたからといって、現場であらゆる有形力の行使が認められるわけでもありません。実施の必要性が高いのは理解していますが、どの行為を誰の判断で認めるのか示されない限り、法務省として包括的な許可に同意することはできません」
今井は途中から北海道の輸送表を見返していた。
「指定便へ乗せないと決めた人が、元いた場所へ戻れるとも限りませんよ。住んでいた町の病院も商店も閉まっていて、ガソリンも手に入らないという人が港へ来たら、何を渡して帰ってもらうんです。追い返すという方針だけ先に決めて、受入先のない人間の食事を警察に何とかしろという話にはしないでください」
園田は志賀の資料へ目を落とした。港の入口で制止された車両については、現状の規制でも迂回先が必要になる。今後は行き先そのものを失った人間が同じ場所へ集まる。警察が通してくれなかったという苦情だけでは済まないだろう。
「統合幕僚長、警察庁長官が言ったような状況になれば、現地から必ず照会が来ると思う。事前に判断の範囲を決めるとして、現場へ一番知らせておきたいことは何ですか」
「何を守るための警備か、です。入域者を制限するのは受入側の能力を超えないためでしょう。その場合、現地の隊員が住民を危険な集団だと断定して押し返す必要はありません。誰が受入を決定し、どこへ誘導し、何が起きれば応援を求めるか、それを命令として示していただきたい。武器の使用については、既存の法令と定められた任務の範囲を越えたことを現地で始めさせないでください」
「その整理は政府として引き受けます。白石さん、警察庁、防衛省と一緒に作業してくれ。各省の見解が違うなら、無理に一枚へ整えないで私に上げてほしい。知事が聞かれて答えられないことを、港の若い警察官や隊員へ答えさせるわけにはいかん」
小鷹は初めて配置図を閉じたが、指は表紙から離していなかった。園田はまだ議論が終わったとは思わなかったものの、少なくとも、何を決めないまま現場へ渡してはいけないかは明確になってきた。
森岡が薄い名簿を取り上げた。
「それなら、受入の順番についても今夜のうちに考え方を決めてください。工場や発電所の技術者を先に移すとして、その家族をどこまで含めるのか。政府の要員だけ決めれば済む話ではありません」
永瀬は名簿の別紙を開いた。
「長期間、移転先で任務に就いてもらう人員については、同居家族の同行を認めることを検討しています。家族を残したままの赴任では、継続的な勤務を求められない人もいますから」
「その理屈は分かりますよ。私が聞いているのは、誰の家族までです。閣僚の秘書官も、行政の継続に必要な職員と言えばそうでしょう。閣僚本人はもちろん、国会議員も党の幹部も、自分の仕事が重要だと言い出します。役所ごとに推薦名簿を出していると、早く提出した省から船に乗れるようなことになりかねません」
園田は書類を受け取った。通信設備の運用員、発電所の保守技師、医薬品の製造担当、行政データの管理者。仕事の項目と専門技能は細かいのに、家族の欄は『同居家族等』とだけ記されている。
「国会と司法機関について、どこまで調整している?」
「両院議長と各党の理解が必要になります。司法機関についても内閣の判断だけで移転を進められるものではありません」
永瀬は別紙に記された宮内庁との連絡状況を示した。
「皇室に関しては宮内庁、皇宮警察との別途の検討を始めています」
森岡は名簿の『同居家族等』に視線を戻した。
「政府の仕事を続けるには家族も必要だと言う。それ自体はもっともです。ただ、同じ理屈を民間へ求めるときはどうします。道へ移してもらう発電所の技術者には家族を認め、その発電所に残って保守を続ける技術者には何も約束できない。これでは協力のお願いができなくなります」
倉田が資料を閉じた。
「さっきからそれを申し上げています。会社には操業を続けてもらわなければならないし、必要な社員の一部は政府の判断で移す。残る人間に危険がないとは言えない以上、少なくとも経営者が従業員へ説明できる材料は渡していただきたい。『国家のために必要なことです』だけでは、翌朝のシフトも組めませんよ」
園田は名簿を閉じた。4月の国会で川村啓子に、危険が起きる前に法的な根拠と限界を定めておくべきだと答えたことを思い出した。政府はその法律を成立させ、批判を承知で強い観察措置を使った。その対象には政権にとって厄介な政治家も含まれていた。今度は同じ行政機構を使って、誰を先に避難させるかを決めようとしている。ある名簿に載せることで相手の自由を奪い、別の名簿に載せることで安全へ近づける。決裁者がどんな人物かによって運用が変わる余地を、自分たちは既に使ってしまっている。今この表を承認し、選定の理由は説明できないとするなら、あの時の答弁を自分でも持て余すことになる。
「肩書きを選ぶのではなく、その人が北海道へ行って何の仕事をするかで決めてくれ。誰を移さなければならないかと同時に、誰が残れば元の業務を続けられるかを各省に出させる。家族の扱いも任務の期間や事情を踏まえて統一基準を作る。私の事務所から推薦が出たとしても同じ条件だ」
「一律の基準を作れば、特殊な事情を持つ要員の扱いが残ります。家族の介護や、任務を続けるうえで同行が不可欠な場合などです。そこまで例外を禁じると、肝心の要員が赴任できなくなるおそれがあります」
「例外を全て禁じるつもりはないよ。認めるなら理由と決裁者を記録してほしい。氏名を一般に公表する必要はないが、選ぶ基準すら説明できない名簿を私は承認しない」
永瀬はその指示を書き込んだ。倉田が自分の資料を園田の方へ押した。
「企業へ要請する文書は、総理の名前で出していただきたい。各社に個別の計画を明かす必要はありませんが、協力することで何が変わるのか、社員へどこまで伝えてよいのかは決めてください。私の省で勝手に技術者を選び、勝手に船へ乗せたという扱いだけは困ります」
「文書は私の名前で出します。対象の企業へは必要な範囲で事情を説明してくれ。秘密を守ってもらう扱いは白石さんと詰めてほしい。国民向けの発表と企業への要請を同じ文章で済ませるつもりはありません」
「秘密は漏れますよ。正式な書面を出すなら、いずれ取引先や金融機関にも分かります。そこまで織り込んで市場への説明を作らせてください」
「お願いします。作業を頼む相手に理由も知らせず、ただ協力だけ求めるわけにはいかんでしょう」
永瀬が会見案を差し出した。翌日18時からの緊急会見を想定したもので、感染災害緊急事態宣言、広域移動の抑制、指定業務の継続、受入準備の整った地域からの段階的な避難について各省の修正が入っている。園田が読む限り、政府機能の移転先も、維持区域の候補地も伏せられていた。
「昨日の段階から文案を作成しています。今夜の判断を受けて各省と修正し、明日までに会見の準備を整える予定です」
園田は会見案の発行日を確かめた。船会社への照会にしてもこの文案にしても、正式な決定を待ってからでは間に合わないのだろう。何も用意しなかった官房長官なら、いまごろ全員が手をこまねいていたかもしれない。そう分かっているのに、彼の知らないところで翌日の記者会見まで組まれていることには引っ掛かるものがあった。
「君のおかげで、決めた後の仕事は少なくなりそうだね。決めるまでの仕事も、もう少しこちらに残しておいてもらいたかったが。まったく、私が何を言うかまで準備が済んでいるんじゃないだろうね」
永瀬は会見案を開いたまま園田を見た。
「総理が決めるために必要な準備をしたつもりでした」
「それは分かっている。だから今夜はこの話を続けても仕方がない。久世さん、計画を実施へ移す場合と、2、3日判断を延ばして楔を強化する場合の差を、もう一度聞かせてくれ」
久世は比較表を園田の手元へ置いた。
「楔による封圧が改善すれば、移転の範囲を絞れる可能性はあります。一方で、予備の船、港湾の荷役、民間事業者の運行要員をその期間確保し続けられる保証はありません。感染が広がった地域から順次機能を移す必要が生じても、後から輸送枠を増やせなければ実行できる計画は小さくなります」
「今夜決めても、明朝から全国で一斉に避難を始めるわけではない。準備のための契約と体制を先行させ、実際の移動は受入の整った便から進める。それで間違いないですね」
「はい。初期に始めるのは政府の継続要員と設備の選別、輸送枠と受入施設の確保、自治体との調整です。住民の移動については、区域と輸送手段が確定してから順次行う計画です」
園田は小鷹と藤岡の資料を見た。必要な警備人員の一部は未確定で、検疫と受入施設の数字もまだ合っていない。いま全国の港と駅に人を集めれば、かえって処理できない集団を増やす。だが、感染の拡大を見届けてから改めて輸送の準備を始めることもできない。
黒い冊子の別表には、優先輸送する人員と設備、候補区域、撤収を検討する任務が項目ごとに並んでいた。園田はそこへ、今日の会議で何度も問題になった『残留者』の文字を書き足した。統合幕僚長の求めに応じて報告欄を増やしても、救いに行ける部隊が増えるわけではない。港では定員に達していない船を出し、道路では救助要請の残る町から隊員を引き揚げる。その決裁のどこかに、必ず総理大臣の判断が残る。
会議の初めには、楔の限界を認めるだけでも相当に重い決断だと思っていた。いま求められているのは、その先だった。救えないかもしれない人数を承知で、救助に使っている船や人員を別の場所へ割り振る。何百万人という計画上の上限を報告させる一方、輸送に乗れなかった者についても、何が起きたか記録に残すよう命じる。園田の目は、その二つの数字の間を何度も往復した。
「森岡さん。明日これを発表する時、政府が日本の本州を諦めたという話にだけはしないでくれ。現に警察も病院も楔を続けているし、その仕事をやめるための決定でもない。だが、それを維持するために何かを別の地域へ回さなければならないなら、誰が何を失うかまで明らかにしておく必要がある。そういう説明を準備してほしい」
森岡は資料に書き込んでいた赤字を見直した。
「市場向けの説明では、実際にできることだけを申し上げます。ただ、国民には先に移る人間が見えます。残って働く人間より先に政府職員が動けば、どんな理屈をつけても『諦めた』と言う人は出るでしょう。その時に反論できる材料を、総理の方でも残しておいてください」
園田は応じなかった。名簿の外側に残る人間の数を知っているのは、この会議室にいる自分たちだった。
「榊原さん、今夜判断すれば確保できる便は残っていますか」
「残っています。ただし、どれを優先するか決めていただいた上で、既存の物流を圧迫するものは分けて契約します。明朝までの返答が必要な便については、今のうちに関係する省へ持ち回ります」
園田は腕時計を見た。すでに午後10時を回っていた。閣僚たちの席には、それぞれが持ち帰るはずの資料が積まれている。昨夜まで維持するとされていた業務を、今夜の判断を境に縮めていく。ある県では救助のための兵員を増やし、別の県では同じ理由で引き揚げることになる。現場にいる人間には、隣の県の事情など見えないだろう。
園田は4月の国会審議を思い出した。法的な根拠と限界を事前に整えておくのが政府の責任だと、川村啓子に答えた。あのときは、危険に備えることについて語っていた。いま手元にあるのは、備えを使うために誰を先に乗せ、誰への救援をどこで終えるかという書類だった。
この計画が後にどう記録されるのか、園田には見通せなかった。国家を保った決断として扱われるのか、救えるはずだった国民を選別した決断として裁かれるのか。港で乗船を断られた家族も、部隊が去った後の町に残る患者も、後から記録を読む人間には報告書の数行でしか伝わらないかもしれない。もっと早く始めればよかったと言われるかもしれないし、なぜそこまで急いで諦めたのかと問われるかもしれない。どちらにせよ、理由を知らなかったとは言わせてもらえない。今夜これだけの報告を聞いたのだから。
自分の名前が、あの黒い冊子と並んで歴史に残ることを考えた。政治家として名を残したいと願ったことがなかったわけではない。しかし、判断の中身を知られるより先に、見捨てた人数だけで呼ばれるようになるのではないかという恐れを、園田は打ち消せなかった。今なら、決定を先延ばしにして各省へ再調査を命じることもできる。法務省の検討も、輸送先の数字もまだ揃っていない。判断を保留する理由はいくらでも見つかるだろう。だが、その間に港や鉄道が使えなくなった時、そこから移せたはずの人間の名前が、別の名簿に増えていくことにもなる。
園田は議事録を取る職員の方を見た。彼が何を記録しているかは確認できないが、説明の途中で何度かページをめくり、園田の発言を拾っていた。この先、言葉を慎重に選んだところで、命じる仕事の内容は変わらない。机の端に置いた黒い冊子を引き寄せ、表紙の管理番号を一度確かめてから顔を上げた。
「HYDRAを実施段階へ移してください。北海道を中核とする国家機能の分散と、全国の維持区域の具体化を進めます。楔による封圧は続ける。ただし、救助や警備の任務を全国で同じ水準のまま維持することは約束できません。終了させる任務については、救援が必要な人が残ることを前提に、その影響と理由を私に報告させてください」
記録担当が書き取りを始めた。園田は各省の資料を手元へ引き寄せ、付箋の位置を確かめながら指示を続けた。
「国交省は既存の食料と燃料の輸送を維持することを優先し、追加の輸送枠を確保してほしい。受入先と勤務内容の決まらない要員は先行輸送の対象にしない。厚労省は便ごとの受入能力と検疫体制を国交省へ示す。経産省は技術者の移転によって現地の操業が止まらないか、企業と詰めてください。防衛省と警察庁には撤収と代替警備の案を出してもらう。政府として任務を終了する条件は、現場へ一任しない」
記録の手が止まらないうちに、園田は維持区域の地図を開いた。
「橋梁や道路の破壊については、今夜の決定を一般的な許可と解釈しないでほしい。実施を検討する地点ごとに、代替の通行路、残る住民、医療施設、部隊の移動と法的根拠を揃えて、改めて私に上げること。法務省は、実施の可否を判断する権限と手続きを先に整理してください」
榊原が数枚の資料を抱えて秘書官へ指示を出し始めた。今井は席を立って彼のところへ歩き、定期便の資料を横から開いた。藤岡が受入施設の一覧を部下に渡すのを見て、園田はまだ会見のことを話していないと気づいた。
「永瀬さん。明日18時、感染災害緊急事態を宣言します。広域移動の制限と、仕事を続ける必要がある人の扱いは、一般の国民に分かるように説明したい。ただし、北海道へ行けば助かると受け取られるような表現は避けてください。国民全員をすぐに避難させられるという期待も持たせたくない。準備のできていない港に人が集まれば、こちらの仕事を増やすだけです」
「北海道の施設名と維持区域の候補は、現時点では非公表とします。政府要員の移転について質問を受けた場合の回答も用意します」
「人を選ぶ基準と、企業へ協力を求める理由は説明できるようにしてくれ。誰を何時の船へ乗せるかまで発表する必要はない。私が答えるべき質問なら、会見で私に回してもらえばいい」
永瀬が頷くと、園田は先ほどの船の一覧をもう一度見た。回答期限の赤字が幾つも残っている。明朝までに全ての欄が埋まるとは思えなかったが、各大臣はすでに自分の省へ持ち帰る仕事を決め始めていた。
「それから、今度こういう準備を進めるときは、途中で私にも知らせてください。相談されたからといって、毎回反対するわけじゃないんだよ。相談していれば同じ調査を命じたかもしれないし、もっと早く別の指示を出したかもしれない。今夜の結果を見て、そのことだけは申し上げておきたい」
永瀬は会見案の端を揃えた。
「承知しました。次からは、途中の段階で御報告します」
園田はそれ以上追及しなかった。準備を止めたかったわけではないという説明を繰り返すより、これから報告される仕事に目を通す方がよかった。
会議の終了が告げられても、閣僚たちはすぐには席を立たなかった。榊原は船社への回答期限を秘書官に確かめ、今井はその横で道内の燃料所要量を照合している。小鷹と統合幕僚長は部隊配置図を開き直し、白石は法制局長官を呼び寄せて橋梁の欄を指した。倉田と森岡は、企業に渡す依頼文書の担当者について話していた。
職員が各席を回り、管理番号の付いた黒い冊子を回収し始めた。園田は最後に、部隊配置図へ挟んだ付箋がそのまま残っていることを確かめた。冊子が運ばれると、机の上には白い表紙の《PMRS国内発生事案に係る総合情勢評価》だけが残された。翌日の午後6時、園田が国民に話すのは白い資料から公表できる範囲のことだけだった。黒い冊子に載った計画を知らない人々が、今夜も北海道へ渡る船やまだ選定中の区域を知らず、各地で警察の規制が解除されるのを待っている。園田は会見で何を語らずにおくのか、もう一度考えなければならなかった。
時計へ目を落としたとき、秘書官が次の報告を持って入口で待っていた。園田は冊子のあった場所へ手を伸ばしかけ、何も置かれていないのを見て、そのまま秘書官を呼び入れた。
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