安全な場所
2028年6月18日
施設へ来てから7日が経ち、相変わらず部屋から出ることは叶わなかったが、その代わり安奈はこの部屋で時間を潰す方法をいくつか覚えていた。
朝食と検温が終われば、家から届けてもらったゲームをベッドの上で起動する。オンラインゲームはできなかったが、オフラインでも十分時間は潰せる。小言を言う人間もいないので、大抵はダラダラと昼までゲームを続け、途中で目が疲れて本へ持ち替える。本も、家から届いた4冊のうち2冊は既に読み終え、3冊目も半分近くまで進んでいた。
それにも疲れると、床にタオルを敷いて身体を動かした。腕を伸ばし、前屈をして、学校の体育でやった記憶を頼りに何となくストレッチを続ける。運動と呼ぶには物足りなかったが、ほとんど一日中ベッドか椅子の上にいるよりはましだった。
初日はあれほど気になっていた監視カメラも、今では時々そこにあることすら忘れる。夜になっても、果たして開いていてほしいのか閉まっていてほしいのか自分でもよく分からないまま扉のノブを確かめる、ということはなくなり、食事が届く時間や診察の時間も時計を見れば大体分かるようになっていた。
家へ帰りたいという気持ちは変わっていない。ただ、ここで生活すること自体には慣れてしまった。
夕方、ゲームのBGM代わりにテレビをつけると、ニュース番組をやっていた。総理大臣官邸の会見室が映っていて、字幕の上には《園田総理 18時から緊急会見》と表示されている。安奈はリモコンを机へ置き、そのままベッドへ座った。
時計が18時を指す少し前、ニュース番組の画面がスタジオから総理官邸の会見室へ切り替わった。演台の正面には各社のマイクが並び、背後の青い壁を挟んで日本国旗が立てられている。安奈がゲーム機を脇へ寄せたところで園田総理が入ってきた。普段テレビで見る国会答弁の映像より表情が硬いようにも見えたが、記者席に向かって軽く頭を下げる所作はいつもと変わらなかった。
園田は原稿を開き、新宿駅での事件をはじめ、東京、大阪、愛知、福岡などで確認されているPMRS関連事案について説明した。新宿では再活動者の制圧が完了し、規制の一部も解除されている。その報告を聞いた安奈は、あの日の駅をもう誰かが歩いているのだろうかと考えた。自分たちが逃げ込んだ店のことも気になったが、総理の話はすでに感染者との接触が疑われる人々の追跡状況へ移っていた。
『各地の事案に対しては、現在も警察、自衛隊、医療機関などが連携して対処を続けています。確認された発症者の制圧と、感染の拡大を防ぐための措置は、着実に実施されています。一方で、発症前に感染の有無を判断することは難しく、接触者の所在や移動経路を十分に確認できていない事案もあります』
安奈はテレビの音量を少し上げた。総理は、症状のない人が通勤や旅行で移動した先で発症すれば、離れた地域でも新たな対応が必要になると説明している。新宿駅にいた人間のうち、何人があのまま電車やバスへ乗ったのだろう。自分たちは車で施設へ運ばれ、以来ずっと外へ出られずにいるのに、あの日に駅を離れた人たちをまだ捜しているのかもしれない。
『このまま通常の経済活動と大規模な人の移動を続けた場合、感染が確認されていない地域にまで事案が拡大し、封じ込めに必要な人員や医療体制の確保が困難になるおそれがあります。政府としては、現在の対応を維持し、新たな感染の拡大を防ぐため、本日、全国を対象に感染災害緊急事態を宣言することといたしました』
総理が「全国」と述べたところで、会見室のシャッター音が一段と大きくなった。テレビには《感染災害緊急事態を宣言》という大きな字幕が重なり、その下を各地の感染状況を伝える文字が流れていく。安奈は膝の上で指を組み替えた。これまで新宿駅で何が起きたのかを追い続けていたニュースが、今は自分の家のある埼玉まで含めた話をしている。
園田は続けて、国民に不要不急の外出を控え、原則として自宅で過ごすよう求めた。企業には在宅勤務への切替えや出勤者の削減を要請し、学校の臨時休業についても自治体を通じて順次方針を示すという。鉄道、航空機、旅客船、長距離バスなどでは一般旅客の移動を抑え、医療関係者や生活物資の輸送に必要な便を優先させるため、運行計画の見直しを進めると説明した。安奈は毎朝乗っていた電車を思い出した。明日から学校が休みになれば、あの時間のホームも空くのだろうか。そもそも、今の自分には学校が休みかどうかを気にする意味がほとんどなかった。
『食料品や医薬品の供給、電力、水道、通信、医療など、国民生活に欠かせない業務は継続してまいります。生活に必要な買い物や受診まで控えていただくものではありません。必要な物資を確保するためにも、過度な買い占めや、感染の少ない地域への自主的な長距離移動はお控えください。各交通事業者の運行情報については、今後の発表を確認していただくようお願いいたします』
安奈が画面の字幕を読んでいる間にも、総理は原稿をめくり、地域によっては一時避難や広域避難の準備を進めると述べた。自宅で過ごすようにと言ったばかりなのに避難の話が出てきたため、安奈は思わず顔を上げた。園田はその理由を、感染事案が集中した地域の住民を安全に移すことと、医療や警察の対応能力を確保することにあると説明している。避難する区域と日時、集合場所、移動手段については自治体から案内し、指定のない住民は避難所へ直接向かわず、自宅で待機してほしいということだった。
ニュース番組が会見内容を整理する画面へ切り替わると、首都圏の地図とともに、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県の一部で避難や受入れの準備が始まっていると表示された。安奈は埼玉県という文字を見つけてから、もう少し詳しい地名が出ないかと画面を見続けた。しかし、紹介されたのは自治体からの続報を待つようにという案内だけだった。いつものようにスマートフォンで調べようとして、手元にないことを思い出す。家が対象になっているのかどうか、今すぐ確かめることもできない。
画面はやがて、体育館の床に養生シートを敷く職員や、道路脇で停車位置を確認している大型バス、駅の改札前に設置された運行案内などを映し始めた。まだ大勢の避難者が押し寄せている様子はなく、荷物を抱えた職員たちが普段の仕事のように淡々と動いていた。ひとつの映像が終わるたびに、スタジオのアナウンサーは「指定されるまでは移動しないでください」と繰り返した。安奈には、それほど何度も言わなければならないことなのか分からなかったが、避難の知らせを聞けば、とりあえず車に荷物を積んで出発しようとする人もいるのかもしれないと思った。
夕食後、家族との通話時間になった。廊下へ出ると、通話スペースの前では先に電話を終えたらしい入所者が職員へ何かを尋ねていた。安奈の順番が来るまでに、その男は何度も「家の方はまだ何も決まっていないんです」と繰り返したが、職員の返答は安奈のところまで聞こえなかった。自分もこれから同じような話をすることになるのだろうと思いながら、空いた席へ腰を下ろした。
受話器の向こうで母親の声がしたのは、呼出音が数回鳴った後だった。いつもなら最初に食事や体調のことを聞かれるのに、その夜は安奈が話し始める前に、総理の会見を見たかと尋ねられた。背後ではテレビがついたままらしく、知らないアナウンサーの声が低く重なっている。
『こっちもずっとニュースを見てたの。市からお知らせが出たみたいで、お父さんが今調べてる。避難しなさいってことじゃないみたいなんだけど、学校も休みになるって言うし……。安奈、そっちは何か言われてない?』
「ううん。いつもどおりだった。テレビで埼玉も出てきたから気になってたんだけど、うちは大丈夫なの?」
『今のところ、すぐに避難する地域ではないみたいよ。お父さんの方が詳しく見てるから、ちょっと代わるね』
母親が受話器を離すと、家の中の音が少し大きくなった。誰かが廊下を歩く足音に続いて、母親が父親を呼んでいる声が聞こえる。テレビの音がいったん小さくなり、代わりに引き出しか何かを閉めるような音がした。安奈はその間、手首の番号入りのバンドを親指でなぞっていた。
『安奈か。ニュースは見たんだな。市のホームページを確認したんだけど、うちの地区にはまだ避難の指示は出ていない。ただ、いつ連絡が来ても動けるように荷物をまとめて、自宅で待機するようにってことだ。対象の地区や集合時間は追って知らせるらしい。こっちで勝手に遠くへ行かないようにも書いてある』
父親は一度そこで言葉を切り、何かを机へ置くような音を立てた。安奈は、父親が画面に表示された案内を読みながら電話しているのだろうと思った。家から連絡するたび、職員に言われたことを自分がほとんど同じ言葉で説明しているのを、父親が嫌がっていたことを思い出す。
『それから、安奈が通ってた小学校。あそこの体育館を避難者の受付場所に使う準備をするらしい。まだ開設したわけじゃないし、避難指示が出ていない人は来るなって案内だけどな』
「私の小学校?なつかしー!あの体育館ってそんな大きかったっけ?」
はははと受話器の向こうから笑い声が聞こえる。
『最後にあそこに行ったのは小学校6年生の運動会とかだったか?まぁそんなに広くはなかったと思うぞ。ともかくまぁ、明日また市から詳しい案内があるそうだ』
小学校の体育館には、卒業してからほとんど行っていない。しかし、卒業してから何年もたった今でも、入口で上履きに履き替え、行事のたびに床へ並べられた椅子を片づけたことや、舞台袖に積まれた古いマットのことまで思い出せる。あの場所がテレビでしか見たことがないような避難所として運用されようとしているのは少し奇妙な事のように思えた。
『皆、少しずつ荷物をまとめ始めてるよ。学校も当分休みになりそうだし。和樹も心配するな。真っ先にゲームを引っ張り出してくる程度には元気だから。まあ、本人は今どういう状況なのか分かっているかどうかすら怪しいけどな』
父親が小さく笑ったので、安奈もつられて少し笑った。あのバカな弟は、避難を遠足か何かと勘違いしているのではないだろうか。せっかく荷物をまとめても、夜になればゲーム機だけ取り出して遊び始め、結局避難先で早々にバッテリー切れを起こして不機嫌になる姿も容易に想像できる。もっとも、施設へ来た時に自分が真っ先に差し入れを頼んだのもゲーム機だったから、あまり偉そうなことは言えない。和樹が今どんな顔をしているのか想像しているうちに声が聞きたくなったが、父親はそれより先に安奈の退所のことを尋ねてきた。
『それで、そっちの退所の話はどうなった? 今度こそ何か決まったのか』
「今日も聞いたけど、まだ決まってないって。毎日熱も測ってるし、ずっと何ともないんだけどね。新宿で誰と接触したかとか、そういう確認が続いてるみたい」
『もう1週間だろう。お父さんも問い合わせてるんだけど、移された施設の場所も教えてもらえないし、いつ帰せるかも答えてもらえないんだ。これでうちに避難指示が出たら、お前とどう合流したらいいのかも分からない』
父親の声が少し速くなった。安奈は受話器を持ち直したが、かける言葉が見つからなかった。ここへ来た初日には数日で帰れるかもしれないと思い、そのことを父親にも伝えている。何度も聞いた説明を繰り返しても、今夜はもう納得してもらえない気がした。
「私に決定権はないんだよね。職員さんに聞いても、今日はまだ帰れないって。それ以上は私も分からない」
『分かってる。安奈を責めてるわけじゃないよ。お父さんが何をするにしても、どこに連絡すればいいのかは知っておきたいんだ。市にも聞いてみるけど、お前のいるところからも、避難するときには家族へ知らせるのか確認しておいてくれるか』
安奈は返事をしながら、机の端に置かれた小さな時計へ目をやった。まだ通話を終えるようには言われていなかったが、外で待っている人もいる。父親にとっては今すぐ答えの欲しい話ばかりなのに、自分にできるのは明日また職員へ尋ねることだけだった。
『もしこっちが先に避難することになったら、そのときは必ず連絡する。お前を置いていくとか、そういうことじゃないからな。向こうに移ってからでも、連絡が取れるようにするから』
「それは分かってるよ。こっちも何か決まったら伝える。……お父さんも、勝手に遠くまで行ったりしないでね」
『ああ。今は家にいるよ。明日も仕事がどうなるか分からないし、まずは市からの連絡を待つしかないな』
父親の後ろから母親の声が聞こえた。何を言っているのかまでは分からなかったが、父親が「分かったから」と少し面倒そうに返している。
そのやり取りを聞いていると、急に家がことさらに恋しくなった。自分の部屋で寝たい。母親の作った食事を食べたい。学校へ行きたいと思うほどではなかったが、友人と直接顔を合わせて話したかったし、夜になれば勝手に風呂へ入り、寝る前にスマートフォンを見ながら時間を潰したかった。今なら弟を抱きしめることさえいとわないかもしれない。
電話を切った後、安奈はしばらく受話器へ手を置いたまま座っていた。
それでも部屋に戻り、扉が施錠される音を聞くと、少し別の考えも浮かんだ。家族に会えないのは嫌だったが、今テレビに映っている避難所へ行くより、この施設にいた方が安全なのではないか、と。
食事は毎日届く。水も電気もあり、医師や看護師がいる。体調がおかしくなれば呼出ボタンを押せばいいし、入口や施設内では銃を持った警備要員も見た。誰が収容されているのか分からない避難所とは違い、ここでは一人ずつ診察を受け、部屋も分けられている。閉じ込められているという見方をやめれば、これほど安全な場所もないように思えた。
ならば私が家族のもとに帰るよりも、家族が私のところに来た方が良いのでは、そんな考えも浮かんできた。
*
翌朝になっても、外の状況が良くなったという話はなかった。テレビでは夜の間に新しく確認されたPMRS関連事案が繰り返し報じられていた。長野県の住宅で家族数人が発症した事案、沖縄県で救急搬送された患者が病院内で再活動した事案、新潟の田舎町の道路上で起きたひき逃げ事件についてもPMRSとの関連が調べられているという速報まであり、ニュース番組の画面から《PMRS》という文字が消える時間の方が短くなっていた。
安奈は途中でまともに見るのをやめ、ゲームを起動した。何時間もニュースを見ていたところで、自分に出来ることはない。それなのに不安感を植え付けてくるので、見るだけ毒だ。
昼前にはゲームにも飽き、本を読み始めた。さらに1時間ほどすると文字を目で追うだけになったので、本を閉じてベッドから降り、床の上で脚を伸ばした。
そこへ昼食が届いた。いつもより40分近く遅い。トレーを運んできた女性職員は何度も謝ったが、安奈は特に気にしなかった。食事は少し冷めていたものの、遅れたところで困るほど腹が減っていたわけでもない。
「何かあったんですか?」
安奈が尋ねると、職員は空のペットボトルを回収しながら、「少し立て込んでいるだけです」と答え、それ以上は説明しなかった。ここ数日は、こうした小さな遅れも珍しくなくなっていた。
安奈は炊き込みご飯を食べながらテレビを眺め、食後はまた本を開いた。
午後になって莉子と内線で話し、その途中から美月も通話へ入った。美月の足首はかなり良くなっているらしく、もう松葉杖がなくても短い距離なら歩けるという。退所がいつになるのか、外で避難が始まったらどうなるのか、家族が先に移動した場合どこで合流するのかという話も出たが、どれも結論は出なかった。
莉子が話題を変え、家から送ってもらった漫画が途中の巻ばかりだったという話を始めたところで、天井のスピーカーから電子音が鳴った。安奈は反射的に顔を上げた。
『施設職員に連絡します。設備管理担当職員および警備担当職員は、E-3設備区画、電源管理室前へ集合してください。第2警戒区画の担当職員は配置を維持してください。繰り返します――』
今まで聞いたことのない放送だった。入所者へ何かを知らせる放送は幾度となくあったが、これは職員に向けた連絡に聞こえる。
「びっくりした。何だろ」安奈が言う。
『ちょっと待って。こっち、なんか人走ってる』
美月が声を細める。安奈も黙って、受話器を耳へ押し当てた。自分の部屋では特に何も聞こえない。美月の声の向こう側では、何人かの靴音らしいものが断続的に響いていた。誰かが大きな声で何かを言っているようにも聞こえるが、壁を何枚か隔てているのか、内容までは分からない。
『さっきからなんか、何人も走ってる。あと、なんかサイレンみたいのが鳴ってる』
「サイレン?」
『分かんない。サイレンみたいな……ちょっと遠いけど』
莉子も黙った。安奈はベッドから降り、無意識に扉の方を見た。
その時、美月の受話器越しに別の音が入った。乾いた破裂音が短い間隔で数回続き、少し間を置いてまた鳴った。新宿で聞いた銃声に似ていた。安奈は本を机へ置いた。
「美月、あんま分かんないけど、職員さんの言うこと聞いた方がいいと思う」
『うん……』
美月がそう答えた直後、床の下から突き上げられるような衝撃が来た。地震にも似ている。ガタタタと部屋全体が低く震え、机の上に置いていた水のボトルが倒れる。壁掛けテレビの画面が一瞬乱れ、天井の照明が激しく明滅した。安奈は机へ手をついた。
「何、今の?」
返答がない。内線電話の表示を見ると、通話は切れていた。直後、施設全体へ甲高い警報音が響き始めた。
数秒後、天井のスピーカーから機械的な女性の声が流れる。
『火災を検知しました。防火区画を順次閉鎖します。館内にいる方は、職員の指示に従い安全な場所へ避難してください』
同じ内容が繰り返された。安奈が受話器を持ったまま扉へ近づくと、ピーッという機械音がした。試しにノブへ手を掛ける。抵抗なく回る。
安奈は扉をわずかに開いた。
廊下では、既に何人かが同じように顔を出している。部屋着姿の男、髪を濡らしたままの女性、幼い子供の肩を抱いて周囲を見回している母親らしい人もいた。誰も何をすればいいのか分かっていないようだった。
自動放送は避難するよう繰り返している。ところが廊下の奥から息も絶え絶えに走ってきた職員は、両手を上げて人々を制した。
「部屋から出ないでください! 現在状況を確認していますので、勝手に移動しないでください!」
「火事なんじゃないんですか?」近くにいた男が聞き返した。
「火災設備が作動していますが、誘導があるまで待ってください。部屋から出ないで!」
言葉自体は落ち着いていたが、その職員が無線機を握る手には力が入っていた。無線から別の声が漏れる。
『……E-3応答なし。警備2名追加、中央監視――』
雑音が入り、途中が聞こえなくなる。職員が耳元へ無線機を寄せる。
『第5区画側の扉、解錠されています。入所者が廊下に出ています』
「了解。こちらでも確認している。移動させるな」
返答した直後、今度は別の声が重なった。
『待って、シャッターが降りる。人がまだ――』
廊下の奥で警告音が鳴った。安奈がそちらを見ると、天井に収納されていた防火シャッターがゆっくり降り始めている。その向こう側にも人がいた。
最初は数人が立ち止まって見上げていただけだったが、シャッターが身長ほどの高さまで下がったところで、向こう側にいた男が突然走り出した。
「閉じ込められるぞ!!」
男は身体を屈め、その下をくぐってこちら側へ出てきた。それを見て、後ろにいた女が続いた。さらに数人が走り出す。
何から逃げているのかは分からない。ただ、向こう側にいる人間たちが次々と大慌てでこちらへ来ようとしているのを見て、それまで部屋の前に立っていた人間まで流れに引かれるように動き始めた。職員が声を張った。
「走らないでください! 戻って、部屋の近くで待ってください!」
その声に重なるように、遠くで銃声が鳴った。シャッターの向こう側にいた人々が迷わず走ってくる。
安奈のすぐ横を男が通り抜け、その肩が扉へぶつかった。子供を連れていた母親も慌てて歩き出し、別の部屋から出てきた老人が人の流れに押されて壁へ手をつく。安奈も肩を押され、扉の枠へ手を掛けた。新宿駅で人の流れに身体を持っていかれた時の感覚が一気に蘇り、部屋へ戻ろうとしたところで、低い轟音が施設の奥から響いた。
さっきよりも大きかった。地面が盛り上がるような感覚を覚えた。床が揺れ、天井の照明が一度強く光った後、バンという音と共にすべて消えた。
安奈の視界から廊下が消えた。
周囲の人間が一斉に声を上げ、誰かが安奈へぶつかった。数秒後、天井や壁際に設置された非常照明が弱く点灯した。
普段の白い照明とは比べものにならないほど暗いものの、廊下の輪郭と人影くらいは見える。その白い光に、火災報知設備の赤い点滅と、床際や曲がり角にある緑色の誘導灯が混じっていた。天井から聞こえていた空調音も消えていた。ビービーと耳障りな警報だけは止まらない。
廊下では職員が無線に向かって何度も呼び掛けていた。
「中央監視、応答してください。こちら第3区画、中央監視――」
返事はない。別の無線が雑音混じりに入った。
『……電源系統がやられた。現在非常用電源が動いている。E側には入るな、繰り返す、E側――』
そこで通信が切れた。
「皆さん走らないで! 部屋に戻って!」
職員が叫ぶ。しかし、もはや誰もその声を聞いていないように見える。
少し先では、防火シャッターが床まで降りきろうとしている。その手前で人が詰まり、向こう側へ行こうとする者と、こちら側へ戻ってくる者がぶつかっていた。
さらに奥から新しい人の流れが来た。最初は何十人いるのか分からなかった。赤い警報灯が点くたびに、顔や身体が断続的に浮かび上がる。
「下がれ!」誰かが叫んだ。
次に見えたのは、銃を持った警備要員だった。2人が人の流れに逆らうように後退し、1人は銃口を廊下の奥へ向けている。もう1人は前へ進もうとする入所者を腕で押し返していた。
「移動するな! 元いたところに戻れ!」
その叫びを受け、前方にいた人間が反射的に向きを変えた。そこへ後ろから来た人々がぶつかり、廊下の中央で大勢の人の流れが正面から衝突する。悲鳴が上がる。誰かが転び、その上へ別の人間が躓いた。安奈は扉の枠を掴んだまま動けなかった。
自動放送は避難しろと言っている一方、職員は部屋から出るなと言う。どれに従えばいいのか分からない。
その時、人混みの中から莉子が現れた。
「安奈!」
パジャマを着て、髪を乱している。莉子は人を避けながら安奈のところまで来ると、そのまま腕を掴んだ。
「電話切れたから、安奈の部屋まで来た。美月にも掛けたけど駄目だった」
「美月どこにいるか分かる?」
「分からない。部屋番号だけ……」
廊下の奥で再び銃声がした。同時に、人の流れがまた変わった。今度は何人かが悲鳴を上げながらこちらへ走ってくる。その後ろで、誰かが床へ倒れた。
赤い灯りが点いた瞬間だけ、倒れた人間の上へ別の人影が覆い被さっているのが見えた。次に暗くなり、もう一度赤い光が戻った時には、近くにいた警備要員がそちらへ銃を向けていた。
安奈は莉子の手を握った。ここにいれば職員が何とかしてくれると思っていた。つい数分前までは、その考えに疑問を持つ理由がなかった。
しかし今は、職員自身が走り回り、内線は死に、電気も落ち、少なくともこの廊下では開くはずのなかった居室の扉がいくつも開いている。何より、ここを守る側だと思っていた警備要員まで、何かに押されるように後退していた。
再び施設全体を揺らす振動が伝わり、周囲から悲鳴が上がったが、人の流れは止まらない。安奈は廊下の案内表示を探した。非常灯の弱い光の中で、区画番号と矢印だけがかろうじて読める。
「美月探そう」
莉子はすぐには返事をしなかった。なぜ最初にその言葉が出たのか、安奈自身にも整理できなかった。部屋に戻った方が安全なのではないかという考えもある。この人の流れへ自分から入っていくことへの恐怖もあった。それでも、この非常事態の中で安心できる相手と一緒にいたいという気持ちと、美月を置いたままどこかへ逃げるという選択だけは出来ないという思いが、どちらも消えなかった。
「まず合流しよう。それからこれからを考える」
莉子は案内表示を見てから、安奈の手を握り返した。2人は押し寄せる人間に身体を持っていかれないよう壁際へ寄りながら、美月がいるはずの区画へ向かう通路を探した。
その間にも、施設のどこかでまた何かが停止したらしく、少し先まで点いていた非常照明が一列まとめて消えた。残った赤い警報灯が明滅を続け、その下では緑色の誘導灯だけが一定の光を保っていた。
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