避難前夜
2028年6月18日―19日
『ああああ! もう、なんでそこで前出ちゃうかなあ! いや今の勝てたでしょ絶対!』
パソコンのスピーカーから甲高い悲鳴が上がり、続いてゲームの敗北を知らせる音楽が流れた。瀬川は床にしゃがみ、空になった段ボール箱の底からガムテープを剥がしていた。何箱も同じ作業を続けていると、途中から指先に粘着剤が残り、テープがうまく剥がれなくなる。仕方なくカッターナイフを使って切り開き、箱を平らに潰すと、壁際に積み重ねた。
『もう嫌だー。今日めっちゃ負けるじゃん。ちょっと休憩しよ、休憩! 雑談しよっか。私ちょっと飲み物取ってくるから、みんな待っててねー』
配信者の声が途切れ、ゲームの音楽も消えた。代わりに、軽い電子音とピアノのような音色を組み合わせたBGMが流れ始める。何度か聞いたことのある曲で、短い旋律を繰り返しては最初へ戻る。瀬川はその音を聞きながら残りの箱を畳み、床に散らばった梱包材をゴミ袋へ押し込んだ。
パソコンでは、いつも作業中に流している女性VTuberの配信が続いていた。推しと言えるほど彼女のことを知っているわけでもないが、それでもなぜか、作業を始めると決まって彼女の配信を開くようになっていた。 ゲームをしている時は絶叫することも珍しくなかったが、雑談に入ると声が少し落ち着き、友達と電話でもしているような調子で話し始める。瀬川は配信画面をほとんど見ておらず、何を遊んでいたのかもよく分かっていない。ゲームの効果音と、ときどき聞こえてくる騒がしい声があれば十分だった。
最後の段ボールを壁際へ寄せると、瀬川は机へ戻り、開いたままにしていた仕入れ先のサイトを確認した。
衛生用品の注文は相変わらず多かった。新宿での事件以降、マスクや消毒用品の需要が一段と増え、普段なら見向きもされないような商品まで売れている。ただし、仕入れ先も黙って安く売ってくれるわけではない。先週まで発注できた商品は軒並み値上がりし、人気のあるものには購入数の制限まで設けられていた。今朝問い合わせた業者からも、入荷時期は未定との返答しか来ていない。瀬川は別の販売サイトを開き、価格と送料を見比べた。これだけ仕入れ値が上がると、販売価格も相応に引き上げなければならない。かといって値上げしすぎれば売れ残るし、注文を受けた後に商品を確保できなくなれば、返金対応やら何やらで余計な手間がかかる。
『ただいまー。あ、赤スパ来てる! ねこまんまさん、ありがとうございまーす! えーと……在宅勤務になったので、会議しながら見てます。えっ、会議中なの? それ大丈夫?』
配信者は笑いながら、途中で飲み物を一口飲んだらしい。マイクから少し離れたところで、氷がグラスに当たる音がした。
『ていうか日曜日なのに会議してるの? お疲れさまですー。……あ、聞いてるだけだから平気なんだ。いや、私の声入ったらどうすんのよ。急に「ああああ!」とか聞こえてきたら、みんなびっくりするでしょ』
瀬川は思わず笑い、マウスを動かして注文履歴へ戻った。昨日発送した荷物の追跡情報がまだ更新されていない。配送業者のサイトを開くと、一部地域で集荷や配送に遅れが生じているという案内が表示されていた。購入者から問い合わせが来るのも時間の問題だろう。
『でも在宅の人増えたよねー。うちの友達も来週からずっと家で仕事するんだって。いいなあ。私も通勤とかあったら絶対嫌だもん。……え、学校休みになった? あ、もう休校のとこあるんだ。いいじゃん! いや、よくはないか。課題いっぱい出るんでしょ?』
配信者はそこから、自分が学生だった頃の話を始めた。オンライン授業の間に寝てしまったことや、先生に当てられた時だけ慌ててマイクをつけたことを、笑いながら話している。
『なんかさー、コロナの時思い出すよね。私あの時めっちゃ家にいたもん。学校も行かなくてよかったし、ずっとゲームしてた。最初は怖かったけど、結局ちゃんと元に戻ったじゃん? だから今回も、しばらく家で大人しくしてれば何とかなるんじゃないかなーって思うんだよね』
話し終えると、配信者は少し得意げな声になった。
『ということはですよ。陰キャ大勝利の時代が、また来てしまったということですね。いやー、時代が私たちに追いついてしまったかー。……え、外出なくていいのはいつもだろって? うるさいなあ! 私だってたまには外出るわ!』
瀬川は片方の口角を上げながら、販売価格の欄に新しい数字を入力した。確かに、家にいれば仕事も買い物も済むという感覚は瀬川にも馴染みがあった。転売の仕事を始めてから、仕入れや発送以外の用事で外へ出ることは以前より減っている。外出自粛が呼びかけられればネット通販の利用が増えるかもしれないし、しばらくは衛生用品の需要も続くだろう。もっとも、その肝心の仕入れが難しくなっているのだから、手放しで喜べる話でもなかった。
『いやでもさ、ゾンビってぶっちゃけどうなんだろうね。みんな逃げられる自信ある? 私さ、絶対無理だと思うんだよね。小さい頃からマジでどんくさいから』
スピーカーから、椅子を引くような小さな物音が聞こえた。
『聞いて、私、小学校の時さ、50メートル走12秒だったんだよ。12秒! やばくない? クラスでほぼビリだったからね。しかもさ、お母さんが運動会の動画撮ってたんだけど、走り方がめっちゃ変なの。なんか、腕だけ頑張ってて全然前に進んでないんだよね』
配信者はしばらく笑い続け、息を整えるように声を落とした。
『だから本当に、追いかけられたら終わりだと思う。あれ、走るんでしょ? 走るんだよね? ニュースでもそんなこと言ってなかった? ……え、普通に走る? いや無理じゃん。絶対捕まるって』
瀬川は注文履歴から購入者とのメッセージ画面を開き、配送状況についての問い合わせに返事を書き始めた。既に発送済みであることと、配送業者側で遅延が発生していることを簡単に説明し、追跡番号を添える。定型文に少し手を加えただけの返答だったが、これと同じような問い合わせが今日だけで何件も届いていた。
『でもさ、家にいれば大丈夫じゃない? そうだよね。別に外出なきゃいいんだもん。うちマンションだし、ちゃんと鍵閉めてれば入ってこられないでしょ。……え、階段上がれるの? あいつら。あー、まあ、走れるなら上がれるか。そっかあ』
配信者は妙に真剣な声で納得していたが、すぐに気を取り直したように続けた。
『まあでも、警察とか自衛隊とかいるしね。新宿も何とかなったんでしょ? やっぱ日本ってそういうのちゃんとしてるじゃん。……え、何? 私が楽観的すぎる? いや、そうかなあ。でもずっと怖がっててもしょうがなくない?』
瀬川は送信ボタンを押し、別の仕入れ先へ移った。そのサイトでは、昨日まで在庫ありと表示されていた商品の半分ほどが売り切れになっていた。入荷通知を申し込もうとしたところで、そもそも次回の入荷予定がないことに気づく。別の業者にも問い合わせてみるかと考えたが、以前より取引価格が高く、送料まで加えると利益はほとんど残りそうになかった。
『海外とかどうなんだろうね。あっちもやばいんでしょ? インドの隣のさ、なんかニュースでやってた……あの、何だっけ。名前が出てこない』
配信者の声が少し小さくなり、何かを読んでいるらしい間が空いた。
『あ、バングラデシュ! そうそう、バングラデシュ! それそれ! ありがとう、助かったー。あそこも大変なことになってるんだよね? なんかニュースで見たよ。軍の人がいっぱい出てきてるやつ。……え、そんなにひどいの? 私そこまで知らなかった』
軽快だった声に一瞬だけ驚きが混じったものの、すぐにいつもの調子へ戻った。
『えー、怖いなあ。でもあっちって人も多いもんね。インドとかもすごい人数いるじゃん。……あ、別の国? いや、それは分かってるよ! さすがに私でも分かるって!』
瀬川は別の業者の価格表を見比べながら、スマートフォンを手に取った。新しい規制区域についての投稿がいくつも流れていたが、その中には数日前の映像を今日の出来事として紹介しているものもある。どれが本当なのか判別するのも面倒で、瀬川は画面をスクロールして、商品価格に関する投稿だけを拾った。
『あー、そういえばさ、最近スーパーも品薄らしいね。お米が売ってないって聞いた。……え、みんなのところも? マスクもないの? うちの近くもマスクなかったなあ。あ、でも私まだ家に結構あるんだよ。コロナの時に買ったやつ、ずっと残っててさ。あれってまだ使えるよね? 未開封だし』
瀬川はマスクの販売ページへ戻った。仕入れた分はほぼ売り切れていたが、手元にはまだ発送を待つ商品が残っている。部屋の隅に置いた箱を見て、明日の集荷に間に合わせるため、今夜中に梱包を終わらせておく必要があると思い出した。
『トイレットペーパーは? え、またなくなるの? いやいや、前もあったじゃん、そういうの。みんな急に買い始めるやつ。……私? 私まだあるよ。たぶん。いや、何ロール残ってたっけな。あとで見とこ』
そこから配信者は、家にある日用品をどれくらい把握しているかという話を始めた。洗剤は買い置きがあるのに柔軟剤だけ切らしてしまうとか、冷蔵庫に同じ調味料が二本入っていたとか、そんな話を次々としている。相槌を打つ相手もいないのに一人で笑い、リスナーから何かを指摘されると、少し不満そうな声で言い返す。瀬川はその声を聞きながら、机に積んでいた送り状を整理し、発送済みの注文と未発送の注文を分けた。梱包材の残りを確かめ、足りなくなりそうな発送用の袋を注文する。ところが、いつも使っている業者では到着予定が来週以降になっていた。仕方なく少し高い別の商品を選び、まとめ買いすることで送料を抑えた。
窓の外からヘリコプターの音が近づいてきた。
回転翼の低い振動が窓ガラスを震わせ、スピーカーから聞こえていた配信者の声を一時的にかき消した。瀬川が顔を上げると、隣の建物との隙間を機体の一部が横切っていく。今日だけで何機見たのか分からない。自衛隊らしい大型の機体もあれば、報道用らしい小型の機体も飛んでいた。最初のうちは窓際へ寄って眺めていたが、今では通りを走る救急車のサイレンと同じくらい聞き慣れた音になっていた。
ヘリコプターが遠ざかると、配信者は夕飯の話をしていた。
『そうだ、今日何食べよっかなあ。みんなもう夕飯決めた? 私まだなんだけど。最近ずっとうどん食べてる気がする。昨日も食べたし、一昨日も……あれ、一昨日はラーメンか。どっちにしても麺ばっかりだな』
瀬川は机に置いたスマートフォンを取り、届いていた通知を確認した。配送業者からの連絡に交じって、ニュースアプリから速報が届いている。
《園田首相、18時から緊急記者会見》
時計を見ると、午後6時まであと数分だった。
総理が会見するという話は昼頃から流れていた。新宿での大規模感染以来、規制区域は都内のほかの区にも広がり、大阪や福岡、名古屋、盛岡などからも新しい感染事案が報告されている。交通規制や鉄道の運休も珍しくなくなっていたが、政府はこれまで、感染が確認されていない地域の住民まで一斉に避難させる必要はないと説明していた。
瀬川も、当面はこの部屋で仕事を続けられるだろうと思っていた。実際、注文は入ってくるし、配送業者も遅れながら荷物を運んでいる。ただ、会見で新しい交通規制でも発表されれば、今後の仕入れや発送に影響するかもしれない。
『え、カレー? あー、カレーもいいね。レトルトなら家にあった気がする。……あ、熱湯みかんさん赤スパありがとー!何熱湯みかんて。えっ、今日誕生日なの? おめでとー! 何歳になったの? あ、言わなくていいよ、別に!』
瀬川は配信のタブを閉じ、机の脇に置いてあったテレビのリモコンを取った。電源を入れるとニュース番組が映り、総理官邸の会見室を映した画面には《園田総理 18時から緊急会見》という字幕が表示されている。音量を上げ、椅子に座り直すと、瀬川は机の上に広げた送り状を片側へ寄せた。
テレビから聞き慣れたチャイムが鳴った。
『園田総理大臣の緊急記者会見がまもなく始まります』
画面が官邸の会見室へ切り替わり、日本国旗の前に置かれた演台へ園田総理が進み出る。その後ろには官房長官と思われる男のほか、制服姿の自衛官も立っていた。総理はマイクの位置を一度確かめ、手元の原稿を開いた。園田はまず、新宿駅の大規模感染事案以降、東京や大阪、愛知、福岡などで確認されたPMRSの発症と、死亡した感染者の再活動について説明した。規制区域の外で見つかった接触者の所在を追い切れていない事案もあり、今後も新たな対応が必要になる可能性があるという。
『このまま通常の経済活動と大規模な人の移動を続けた場合、感染が確認されていない地域にまで事案が拡大し、封じ込めに必要な人員や医療体制の確保が困難になるおそれがあります。政府としては、現在の対応を維持し、新たな感染の拡大を防ぐため、本日、全国を対象に感染災害緊急事態を宣言することといたしました』
瀬川はテレビの隅に表示された時刻を見た。午後6時を回ったばかりだった。昨日まで番組で繰り返されていた《緊急事態宣言を検討》の文字が、画面下の速報で《宣言》へ変わっている。
園田は原稿に視線を落とし、ときどき顔を上げて話した。声だけ聞けば、何かの制度変更を説明しているときと変わらない。瀬川は総理の頬に深く刻まれた皺と、その後ろでほとんど動かない制服姿の男を交互に見た。テレビの向こうにいる人間まで疲れた顔をしているのが、妙に気になった。
『首都圏をはじめとする人口集中地域では、政府の大規模国民避難計画に基づき、住民の段階的な広域避難を開始します。対象地域、移動日時、集合場所等については、それぞれの自治体から順次お知らせします』
画面の下へ、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県の一部地域を広域避難の対象に指定するという速報が流れた。対象の市区町村までは表示されず、瀬川は近くに置いたスマートフォンへ目を向けた。まだ何の通知もない。総理の話は、自衛隊による住民輸送と医療支援、緊急物資の輸送、重要施設の警備へ移っていた。追加投入という言葉が聞こえ、瀬川はもう一度画面を見た。
感染者によって住民や警察官、自衛官の生命に差し迫った危険が生じた場合には、武器使用を含む必要な措置を取るという。瀬川は少し眉を寄せた。海ほたるでも、道路脇に銃を抱えた自衛官がいた。ニュースで発砲の映像を見たことだってある。それでも総理大臣が全国に向けて武器使用を明言するのを聞くと、道端で見たあの銃が、昨日までと違う意味を持ったように思えた。
政府は何もしていないわけではない。むしろ、できることを片っ端からやっているように見える。警察も自衛隊も病院も動員し、そのうえで全国へ避難を呼びかけている。ここまでやって、まだ足りないのか。瀬川は机の端に寄せた送り状を見た。発送先の多くは都外だったが、集荷そのものが止まればどうにもならない。
会見が始まって10分ほどした頃、スマートフォンが震えた。自治体からの通知だった。何気なく画面を開いた瀬川は、住所の載った行を読み直した。自分の住んでいる地域が、新たに広域避難の対象へ指定されている。翌19日の午後から指定の一時避難施設で住民を受け入れ、本人確認の後、鉄道やバスなどで順次移送するという。集合場所と受付開始時刻が記され、その下には、発熱や咬傷、血液・唾液への接触など感染が疑われる事情がある場合、通常の列へ並ばず職員に申し出るよう注意があった。
「……マジかよ」
瀬川は住所をもう一度確かめた。区や市が同じというだけの通知ではない。自分が住んでいる地区まで指定されている。避難が決まる可能性くらいは考えていたが、実際に日時を示されると、何だか急に話が進んでしまったようだった。
テレビでは質疑応答が始まっていた。
『総理、政府はこれまで、発生地域ごとの規制と制圧によって感染拡大を抑える方針を示してきました。今回の広域避難は、その方針では対処できなくなったという判断なのでしょうか』
『個々の事案を制圧し、感染拡大を防ぐ方針に変わりはありません。ただ、感染者との接触が疑われる方の所在を確認しきれていない事案が複数あります。新たな発症が続けば、限られた時間で多数の住民を移送することは難しくなる。安全に移動できるうちに、輸送能力に応じて段階的に避難を始める必要があると判断しました』
『対象となる住民は何人ですか。全員を移送できるだけの車両と受入れ先は確保されているんでしょうか』
『避難は地域を区切って順次実施します。受入れ施設や輸送手段の確保を進めており、具体的な日時と集合場所は自治体から案内します。指定されていない方が一斉に移動されると、輸送にも医療にも支障が出ますので、案内があるまでは自宅などで待機していただきたい』
瀬川は自分の通知へ目を戻した。幸い、今夜中にどこかへ行けという話ではない。受付は明日の午後からだ。寝る場所を今から探さずに済むと分かっただけでも、少し気が楽になった。
『先ほど、自衛隊の武器使用に言及されました。住宅地や避難施設の周辺で発症者が出た場合、一般住民がいる場所での発砲も想定されているのでしょうか。また、その判断は誰が行うことになりますか』
『住民や隊員の生命に急迫した危険が生じ、ほかの手段で防ぐことができない場合について、法律に定められた要件と指揮系統に従い、必要最小限の措置を取るということです。今回の宣言によって武器使用の要件を変更するものではありません。一般住民の安全を確保することが大前提です』
瀬川は画面の後ろに立つ制服姿の男を見た。ああいう格好の人間が住宅街で銃を撃つのかと考えると、海ほたるで見た光景が頭に戻ってきた。道路脇に銃を抱えた自衛官が立っていたこと自体は、もう珍しくもなかった。けれど、それを使う場面まで総理が説明しなければならなくなったのだと思うと、まるで戦争じゃないかという気がした。
安全に移動できるうちに、というところが瀬川には引っ掛かった。これから移動できなくなるかもしれないと、遠回しに言われている気がした。ただ、少なくとも自分の地域には明日の午後という日時が示されている。今すぐ部屋を飛び出して行列へ加わる必要はないし、荷造りを始める時間はまだある。
「まぁ、明日でいいか……」
瀬川はクローゼットから旅行用のバッグを引っ張り出し、床に広げた。着替えを数日分とタオル、歯ブラシ、充電器を入れ、モバイルバッテリーの残量を確かめる。これまでの運び仕事で受け取った現金は、封筒にまとめてバッグの底へ押し込んだ。発送を待つ商品がまだ部屋に残っていたが、明日から自分がどこへ行くのかも分からない以上、今はどうしようもない。バッグのファスナーを閉め、壁際へ寄せたところでスマートフォンが鳴った。新村からだった。瀬川は画面の名前を確認してから電話に出た。
『明日動ける?』
「いや、無理。俺明日避難するんだけど」
『1件だけ』
「いやだから無理だって」
『1人200万』
瀬川は膝に置いたスマートフォンを耳へ押し当て直した。聞き間違えたかと思ったが、新村は黙って次の返事を待っている。
「お前それマジ?」
『マジ』
「何やんの」
少し間が空いた。電話の向こうで何かを動かす音がしたが、新村はすぐには答えなかった。
『明日来れば分かる』
「いやいやいや、答えろよ。200万でそれは怖いだろ」
『だから200万なんだろ。嫌ならいいよ。代わりはいる』
瀬川は返事をしなかった。荷物を明かせない仕事なのはこれまでと同じだが、報酬の桁だけがおかしい。こんな金額を出してまで運ばせたいものが何なのか、当然気にはなる。それでも新村の言う「代わりはいる」が、妙に腹立たしかった。
『そんな時間かかんねぇから。終わったら避難所でもどこでも行けばいいだろ』
「俺もう避難対象なんだけど」
『俺もだよ』
通話が切れた後、瀬川はスマートフォンを握ったまま、壁際のバッグを眺めた。画面にはさっきの避難通知が残っている。受付は明日の午後から。仕事が午前中に片づくなら、その足で一時避難施設へ向かうこともできる。1人200万円もあれば、避難先で多少の不自由は金で解決できるかもしれない。どうせ行き先を選べるわけではないのだし、少しでも現金が多い方が不便は減るはずだ。食費でも移動費でも、これから先、何にいくら必要になるか分からない。
もっとも、何を運ぶか教えないのに200万円というのは、どう考えても普通ではなかった。今までの仕事が何とかなったから今回も大丈夫だという保証はない。海ほたるで見たものを忘れたわけでもない。ただ、今は警察も感染対応で手いっぱいだ。道路の検問さえ抜けられれば、いつもの運び仕事より人の目につきにくいかもしれない。新村もそれを見込んでいるのだろうか。そんなことを考えているうちに、瀬川の頭の中では、報酬を受け取った後でどこへ避難するかという計算の方が先に進み始めていた。
瀬川は連絡先から斎藤の番号を選んだ。事情を話すと、相手はほとんど即答で断った。4日前のことを忘れたのか、最初から大人しく家にいればいいだろう、ハチを連れてこんな時に遠出したくない。どれも反論しようと思えないほどの正論で、瀬川自身、そう言われるだろうとは思っていた。
それでも「1人200万」と伝えた時だけ、斎藤の返事が少し遅れた。
瀬川はそこを逃さなかった。長くはかからないらしいし、終わったらそのまま避難すればいい。これが最後だし、何より200万円だ。電話の向こうでは何度もため息が聞こえ、斎藤はそのたびに道路の混雑やハチのことを持ち出してきた。瀬川も、その心配がなくなったとは一度も言わなかった。ただ、200万円あれば当分困らないという話へ何度も戻した。
何度目かの押し問答の後、大きな舌打ちが聞こえた。
『マジで最後だからな』
「俺もそう思ってる」
『お前のそう思ってる、一番信用できねえ』
結局、斎藤も来ることになった。瀬川は待ち合わせの時間を確認し、電話を切ると、半分開いたままのバッグのファスナーを最後まで閉めた。
*
翌19日、瀬川は家を出る前に、避難通知の集合場所と受付時間をもう一度確かめた。バッグには着替えと現金が入っている。仕事を終えればそのまま指定された施設へ向かうつもりだったから、部屋に戻って荷物を取り直す必要はなかった。玄関で靴を履き、ドアを閉める前に一度だけ室内を振り返る。普段は狭く感じる部屋が、置いていく物ばかりになると妙にがらんとして見えた。
外へ出ると、昨日までとは街の使われ方が違っていた。上空をヘリコプターが往復し、幹線道路の交差点には警察車両が停まっている。その脇を、隊員を乗せた自衛隊の大型トラックが何台も通過していった。前部を潰した乗用車が交差点の角に寄せられ、運転手らしい男が警察官の説明を聞いている。キャリーケースを引く人や、大きなリュックを背負った家族連れは、臨時バスの乗り場を示す案内板へ向かって歩いていた。誰かが暴れているわけではない。警察官も住民もそれぞれ行く先が決まっていて、その分だけ普段とは違うところで人や車が詰まっていた。
斎藤との待ち合わせ場所に着くと、道路脇に車が停めてあった。後部座席の窓からハチが顔を出していて、瀬川を見つけるなり鼻先を動かした。
「おせえぞ」
「まだ5分前だろ」
瀬川が窓から手を伸ばすと、ハチは鼻を近づけてから指先を舐めた。斎藤は運転席から振り返り、ハチの首元へ目をやった。
「こいつ朝からずっと落ち着かねえんだよ」
「またなんか分かってんじゃね」
「やめろよ。縁起でもない」
助手席へ乗り込むと、後部座席にはハチのほか、斎藤の大きなバッグも積まれていた。瀬川のものと同じく、仕事の後で家へ戻らずに済むようにしたのだろう。斎藤はその荷物について何も説明せず、行き先だけを尋ねた。
「場所どこ?」
瀬川は新村から送られてきた位置情報をスマートフォンに表示し、斎藤へ見せた。斎藤は画面を拡大し、地図上の経路をしばらく追ってから顔をしかめた。
「遠くね?」
「200万分働けってことだろ」
斎藤は返事をせず、スマートフォンを返して車を出した。幹線道路へ入ると、車列はすぐに速度を落とした。ラジオでは首都高速の一部入口が一般車両に対して閉鎖されていることや、JRの一部区間が避難輸送に使われていることが繰り返し案内されていた。普段なら30分もかからない距離で何度も停止し、そのたびに路肩へ寄って救急車や警察車両を通す。スマートフォンの地図には赤い渋滞表示が増えていたが、迂回路に選ばれている道も似たような色だった。
前方の車列が完全に止まったのは、交差点がまだ見えない場所だった。斎藤が身を乗り出し、車の隙間から先を確かめる。
「また事故?」
「いや、警察いる」
交差点のかなり手前に警察官が立ち、一般車両を止めていた。その向こうを大型バスが何台も連続して横切っていく。しばらくすると反射ベストを着た警察官が車列の間を歩いてきたので、斎藤が窓を下げた。
「すみません。この先、避難車両を優先して通していますので、しばらくそのままでお待ちください」
「どのくらいですか?」
「10分から15分ほどです」
斎藤は礼を言って窓を閉め、ハンドルの上に両手を置いた。歩くくらいの速度でしか進まない前方の車列を眺めていたが、やがて瀬川へ顔を向けた。
「15分」
「まあしょうがないだろ」
「これで新村に遅いって言われたら殴る」
道路の左手にある公共施設では、駐車場と前の広場が臨時の輸送拠点になっていた。大型バスが並び、建物の出入口までテントと仮設の柵が続いている。大きな荷物を持った住民が複数の列に分かれ、腕章を付けた職員が一人ずつ書類を確認していた。列から外れた高齢者には折り畳み椅子が用意され、荷物を運べない人のところへ自衛官が手伝いに来ている。駐車場の奥には空のバスが待機していて、先頭の一台が出ていくと、フロントガラスに《臨時》と貼った次の車両が停車位置へ入った。
『この地区の方は、係員の案内に従って2番の列へお進みください。乗車前に本人確認を行いますので、身分を確認できるものをご準備ください』
建物の外壁に設けられたスピーカーから、同じ案内が何度も流れていた。列は確かに進んでいる。受付を終えた人は荷物を抱えてバスへ乗り込み、乗降口では職員が乗客の人数を数えている。ただ、門のところから新しい家族連れが次々に入ってくるため、瀬川が見ている限り、列の最後尾はほとんど動いていなかった。
輸送拠点の端には、ほかの受付から距離を置いた白いテントがあった。防護服を着た人間が入口に立ち、数人の住民が間隔を空けて待っている。そのうちの一人は椅子に座っていて、付き添いらしい人間が職員と何か話していた。
『発熱、咳、強い倦怠感のある方、咬傷を受けた方、血液や唾液に接触した可能性のある方は、通常の受付列には並ばず、係員にお申し出ください』
案内が終わらないうちに、頭上からローター音が近づいてきた。瀬川が窓越しに見上げると、ヘリコプターが低い位置で旋回している。機体が道路の上へ回り込んだところで、スピーカーの声はほとんど聞き取れなくなった。
『――こちらは東京都です。避難対象地域にお住まいの方は――指定された集合場所へ――』
瀬川は聞き取ろうとしたが、ローター音が言葉の切れ目を潰していく。
『――発熱、咬傷――血液、唾液への接触がある方は――』
「聞こえねえよ」
斎藤が窓の外へ顔を向けた。ヘリコプターが建物の向こうへ離れていくと、今度は救急車のサイレンが近づいてきた。入口の警察官が誘導灯を上げ、バスの出発も一般車の通過も止めて進路を空ける。救急車が敷地へ入ると、数人の職員が白いテントの方から小走りに集まってきた。その間、バスに乗るための列はほとんど動かなかったが、サイレンが遠ざかると係員はまた先頭の書類を受け取り、乗客を一人ずつ車内へ案内し始めた。
瀬川はバスの窓際に、子供を膝に乗せた母親を見つけた。窓の向こうの母親は誰かと話しているらしく、子供の背中を片手で押さえながら、しきりに外の列を見ていた。もし新村から電話が来なければ、今頃自分もああして行き先を待っていたのかもしれない。避難の通知は午後からだったから、ここへ来るのにそれほど無理はなかったはずだ。
「今頃俺はあれに乗ってたのかもしれねぇのに」
「誰もこの仕事やれなんて言ってねぇだろうが」
「200万」
「もういいよそれ」
ようやく交差点の警察官が腕を上げ、一般車の列が動き始めた。斎藤は前の車に続いてゆっくり発進した。輸送拠点の前を通過する間、瀬川はもう一度振り返った。受付を終えた何人かがバスへ乗り込んでいたが、建物の入口から延びる列の長さは、さっきとほとんど変わっていなかった。
その先でも自衛隊の車列を通すために一度停止した。大型トラックの荷台には自衛官が向かい合って座り、何人かは銃を抱えていた。駅前へ近づく道路では警察官が交通整理を続け、歩道に防護服姿の人間が見える。少し離れたところには銃を下げた自衛官がトラックの横に立っていた。二台の乗用車が追突したらしく、警察官が運転手に事故車を動かすよう指示している。その横を避難者を乗せたバスがゆっくり抜けていった。瀬川はフロントガラス越しにその様子を追っていたが、斎藤が口を開くと、ナビの到着予定時刻へ目を戻した。
「こんな中で仕事行く俺ら、馬鹿じゃね」
「200万だから」
「余計に大馬鹿だ」
瀬川は少し笑った。遠くでサイレンが鳴り、反射的に音のした方を見た。海ほたるから帰る途中のサービスエリアで、急ブレーキと悲鳴に振り向いたときの感覚がまだ抜けていないらしい。道路の先を確かめると、交差点を曲がっていく普通の救急車が見えただけだった。後部座席のハチもいったん顔を上げたが、すぐにシートへ顎を戻した。
「今日は大人しくしてろよ」
斎藤がバックミラー越しにハチを見た。
「お前が吠えたら俺帰るからな」
都心部から離れるにつれ、道路の車は少しずつ減り、停車するたびに聞こえていた拡声器の声も遠ざかった。窓の外には古い町工場や資材置き場、中古車のヤードが増えていく。閉じたシャッターの前にパレットが積まれ、敷地の奥へ車を入れられるよう、広い出入口を持つ建物が多かった。新村から送られた地図の目的地も、その一角にある。
「なんで新村の仕事って、毎回こういうとこなんだよ」
「高級住宅街で盗難車引き渡したくないだろ」
「そういう問題じゃねえよ」
斎藤は地図の指示に従って脇道へ入り、さらに奥へ進んだ。目的地の建物は灰色のシャッターが半分だけ開いており、その前に黒いミニバンと白いワンボックスカーが停まっていた。荷物の積み降ろしに使うのか、シャッターの前だけ舗装が擦れて色が変わっている。車を停める場所を探していると、脇で煙草を吸っていた新村がこちらに気づいた。
「遅かったな」
「ニュースを見る習慣がないらしい」
斎藤が車を降りながら言った。
「どこもクソ混んでんぞ」
「知ってるよ」
斎藤は後部座席のドアを開け、ハチを車外へ降ろした。リードを持ち直したところで、新村が煙草を消してシャッターの方へ歩き出す。瀬川もバッグを持って二人についていった。
中は車を入れられる広さのガレージで、壁際にタイヤや工具、段ボール箱が雑然と積まれていた。外の明るさに目が慣れていたせいか、半分閉じたシャッターの奥は薄暗い。中央の空いた床には黒いハードケースがいくつも並び、旅行用のスーツケースほどのものに交じって、人の背丈に近い細長いケースも置かれていた。どれも角が補強され、留め具が付いている。瀬川はケースの数を数えかけたが、斎藤が立ち止まったのでそちらへ目を向けた。
「これ?」
新村が頷いた。
「これ全部」
「200万の荷物?」
「そう」
瀬川は手前のケースへ近づいた。新村は中身を説明する様子もなく、さっきまで煙草を持っていた手をポケットへ入れている。
「何入ってんの」
「気になる?」
「そりゃ気になるだろ」
新村は少し笑い、顎で床のケースを示した。
「じゃあ見てみろよ」
瀬川はしゃがんで留め具を外した。金具が硬く、二つ目を起こすと乾いた音がガレージの中へ響いた。蓋は見た目より重かったが、持ち上げると内側に黒いスポンジが敷かれていた。そのくぼみに沿って、鈍い光を帯びた金属製のものが幾つも収まっている。
何なのかすぐには分からず、瀬川は一番手前にあるものへ顔を近づけた。瀬川は一番手前にあるものへ顔を近づけた。黒い金属と樹脂を組み合わせたそれには細かな擦り傷があり、使い込まれているようにも見えた。もう一度ケース全体を見ると、同じようなものが互いにぶつからないよう間隔を空けて並べられている。瀬川は思わず手を伸ばしかけたが、触る前に引っ込めた。
「……おもちゃじゃねえよな、これ」
新村は答えなかった。瀬川が顔を上げると、相手は笑いを収めたままこちらを見ていた。斎藤もいつの間にか隣へ来ていて、開いたケースから目を離さない。瀬川は自分の足元にあるものと、すぐ横に並んださらに長いケースとを見比べた。誰も次の留め具に手を掛けようとはしなかった。
「……これ」
斎藤は続きを言うまでに少し間を置いた。リードを握る手が動き、ハチの首輪の金具が小さく鳴った。
「銃じゃねえか」
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