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既知の事態

2028年6月9日 長崎県佐世保市 陸上自衛隊相浦駐屯地

午後になっても湿気は抜けなかった。

午前の訓練で汗を吸った迷彩服が背中に張りつき、高瀬直人は昼に一度着替えたものの、外へ出ればまた汗が噴き出して、すぐに同じようになってしまった。ただ洗濯物が一枚増えただけだった。

相浦は海に近い。晴れていれば心地の良い風が抜けることもあるが、その日は朝から雲が低く、空気まで水分を含んでいるように重かった。額を手の甲で拭っても少し経てばまた汗が浮かび、短くしている髪まで湿気と汗でべたべたしていた。

高瀬は隊舎脇の日陰に装具を広げ、ブラシで乾きかけた泥を落としていた。隣では久保がしゃがみ込み、ポーチの底を叩いて砂を出している。何度か逆さにしてから、今度は留め具を一つずつ動かし始めた。


「直人、今日、課業終わったらなんかある?」


久保が手を止めないまま聞いた。


「別に。何で?」


「何人かで飯食いに行くんだけど、お前も来ない? 俺、最近ずっと駐屯地と演習場ばっかで、さすがに息が詰まってきた」


「先週も出てなかったか?」


「先週はただの買い物。妻の誕生日プレゼント買いに行っただけだから、あれは外出に入らない」


久保はバックルを何度か開閉してから、泥の残っている部分を指で擦った。


「プレゼント選びって、何買っても正解か分からんのよ。あれじゃ羽は伸ばせない」


「そんなもんか」


「独身は気楽でいいな」


高瀬は少し笑い、乾ききっていない装具を裏返した。

相浦へ来る前、高瀬は水陸機動団という名前から、もっと特殊な毎日を想像していた。映画やドラマのように毎日のように海へ出て、教官に怒鳴られながら舟艇や水陸両用車に乗り込み、ひたすら砂浜で這いずり回る。そんな米海兵隊みたいなことばかりしている部隊なのだと思っていた。

実際、海や島を使った訓練もするし、舟艇や航空機を使うこともある。海上自衛隊や航空自衛隊と一緒に動くこともあれば、米海兵隊との共同訓練もある。今年の初めにもアイアン・フィストがあり、相浦には米軍の人間が出入りしていた。

だからといって、毎日上陸作戦をやっているわけではない。

使った装具を戻し、汚れを落とし、不具合がないか確かめる。次の訓練が決まれば必要なものを揃え、また点検する。その間に体力錬成があり、教育があり、訓練がある。島へ上陸する日もあれば、午前中に使った装具の手入れをしているうちに午後が終わる日もある。

水陸機動団といえども、その辺りは他の部隊と大して変わらなかった。


「そういえば、直人」


久保がポケットからスマートフォンを取り出した。


「これ見たことある?」


差し出された画面には、YouTubeのショート動画が表示されていた。

画質の悪い海外の映像だった。何かの建物の前を装甲車が塞ぎ、その周囲を迷彩服の兵士が走っている。撮影者は道路の反対側にでもいるのか、映像はひどく揺れていた。人の叫び声に、何発か銃声らしい音が重なる。

上には大きな日本語で、

《インド 軍が感染者へ発砲》

と書かれていた。

高瀬は数秒だけ見て、手元の装具へ視線を戻した。


「まさか、その字幕そのまま信じてるわけじゃないよな」


「はぁ?」


もう一度画面を自分の方へ向けた。


「別にこれが本物だって言ってるわけじゃないよ。インドなのかも分からんし。でも海外がえらいことになってるのは本当なんでしょう?」


「まぁ、それはWHOまで言ってるしな」


高瀬は装具の縫い目に残っていた泥を指で払った。

死後運動再活動症候群。通称PMRS。

1か月ほど前まで、高瀬もその名前を知らなかった。

それ以前から、海外で原因のよく分からない感染症が広がっていることはニュースになっていた。現地で病院が封鎖された、軍が出た、患者が突然暴れたという話も流れていたし、その時の高瀬からすれば最も馬鹿げたものの一つである「死体が動く」という噂まであった。


ところが5月に入ってから状況が変わった。

WHOが、死亡を確認された患者に再び運動が認められることを公式に発表し、その後は各国政府からも同様の説明が続いた。咬傷や、血液、唾液などの体液への曝露によって感染が広がることも確認されている。

そこまで発表されてしまえば、もはや信じる信じないという話ではない。何であれ、それはこの世界に「在る」のだから。


「にしたって、死体が動くって言われても意味分かんないことには変わりないよな」


久保はスマートフォンをポケットへ戻し、足元の装具をまとめ始めた。


「すんなり『はい、そうですか』って受け入れるやつの方が異常だよ。俺なんかこの前、母親から電話来たからな。お前らゾンビ出たら戦うのかって」


「それで何て言った?」


「知らんって。俺に聞かれても決めるのは俺らじゃないし。そしたら『あんた自衛隊でしょう』って言われた」


高瀬は思わず笑った。


「自衛隊員全員が国防政策決めてると思ってるんじゃないか、お前の母ちゃん」


「多分。何かあると全部俺に聞いてくるんだよ。台湾有事が起きたら出動するのかとか、北朝鮮のミサイルが着弾したらどうするとか。知らんっての」


「それ答えられる陸士長いたら逆に怖いだろ」


久保も笑った。

少なくとも、高瀬に日本でPMRSが出たらどうするのかと聞かれても、まともな答えは出せない。

感染防護そのものは珍しいものではない。負傷者を運ぶことも、住民を誘導することも、警戒に立つことも、それぞれなら経験がある。しかし、死亡した人間がその後また動き出し、生きている人間へ襲いかかるところまで前提にした訓練を、高瀬は受けたことがなかった。

命令が来れば動く。それは分かる。

ただ、何を目的として、誰と一緒に、どこまでやるのか。それが示されないまま現場へ出されたところで、個々の隊員が勝手に決められることなど大して多くない。


「そういやさ」


久保が先ほどより少し声を落とした。


「米軍、なんか動いてるって噂あるらしいよ」


高瀬は装具を置き直してから久保を見る。


「ショート動画の話は勘弁だぞ」


「今度は一応、人から聞いた話。昨日、別の中隊のやつが言ってたんだけど、基地の外に住んでる米軍の家族が荷物まとめてたんだって。何世帯か」


「そいつが直接見たの?」


「さぁ。ただ、米軍なら俺らが知らないこと知っててもおかしくないじゃん?」


高瀬はブラシについた泥を地面へ落とした。


「例えば?」


久保は少し考えた後、困ったように笑った。


「知らないけど。ゾンビが共産主義者だったとか?」


ふふふと久保が笑うが、高瀬には、いまいち笑いどころが分からなかった。


「まあ、共産主義者は知らんけど。向こうがこっちより何か掴んでるってことはあるだろ。別に全部教えてくれるわけでもないし」


「仮に荷物まとめてるのが本当だとして、それが帰国なのか異動なのかも分からんだろ。ただでさえ佐世保なんて出入り多いんだから」


佐世保の街で米軍人を見ること自体は珍しくなかった。港には米海軍の施設があり、市内へ出れば制服姿や私服姿の米兵を見かける。家族連れを見かけることもある。

水陸機動団にいれば、米海兵隊との共同訓練も特別な話ではなかった。高瀬自身、アイアン・フィストで一緒になった海兵隊員の何人かとは、休憩中に飯や休日の話をするくらいにはなった。

だからといって、米軍内部で何が共有されているのかまで教えてくれるわけではないし、そもそも向こうの一介の海兵隊員だって、何でも知っているわけではないだろう。


「お前ら、まだ終わらんのか」


後ろから声がして、2人とも振り返った。

班長の村上3曹が、クリップボードを片手に立っていた。

高瀬は足元へ目を落とした。広げていた物はほとんど片づいている。


「もう終わります」


「なら器材戻して中隊戻れ。15時20分までに集合、15時半から教育入る。筆記用具忘れるなよ」


久保が腰を伸ばした。


「何の教育ですか?」


「PMRS関係。詳しいのはそこでやる」


村上がそのまま別の隊員たちの方へ歩いていく。

久保はその背中を見送り、それから高瀬へ顔を向けた。


「ほら。タイムリーじゃん」


「だから何がほらなんだよ。あと20分しかないぞ」


「はいはい。怒られる前に片づけますよ」


高瀬は腕時計を確認してから、残った装具をまとめ始めた。


この1か月で、PMRSに関する教育は何度か受けている。

最初は4月だった。その頃はまだPMRSという名前すら使われておらず、国外で発生している原因不明の感染症について、体調不良者の報告や体液への接触を避けること、異常な行動を示す者へ不用意に近づかないことなどが説明された。

内容の大半は、新しい感染症が国外で広がっているなら当然と思えるものだった。

妙な一文もあった。

死亡したと思われる者に再び運動が認められた場合には、接近を避けて報告すること。

その時は、随分なことまで想定するものだと思っただけだった。ネットでは既に「死体が動いた」という噂がいくらでも出回っていたし、本当かどうか分からない以上、最悪の場合まで書いてあるのだろうと考えた。

5月にWHOが死後の再活動を公式に認めてからは、教育内容も一気に具体的になった。

あの馬鹿げた一文は、想定ではなくなった。

高瀬は最後の留め具を確かめると、久保と一緒に装具を所定の場所へ戻した。


15時20分前には、中隊が教育に使っている部屋へ入った。

長机が何列か並び、正面にはホワイトボードと大型のモニターが置かれている。既に半分ほど席が埋まり、後から入ってきた隊員が椅子を引く音や、筆記用具を机へ置く音が続いていた。

机には人数分の冊子が伏せて置かれている。

高瀬は久保の隣へ座った。

15時半になると小隊長が前へ立ち、その横に衛生関係の説明を担当する陸曹が並んだ。


「時間になったから始める。資料、表にしていいぞ」


紙をめくる音が重なった。

表紙には、

《PMRS等感染症事案に係る部隊行動上の留意事項》

と印字されていた。

右上には《第3版 令和10年6月6日改訂》とある。

前に配られたものより厚くなっている。


「今日の教育は、PMRS及び類似感染症事案が発生した場合の初動について。先に確認しておくが、国内でPMRS感染が確認されたという話ではない。現在の政府発表もそこは変わっていない」


小隊長が手元の冊子を一度持ち上げる。


「知っている者も多いと思うが、5月10日付でPMRSは特定健康危機に指定されている。それに伴って留意事項も更新されている。今日は6月6日付の第3版を使うから、前にやった内容と重なるところもあるが、変更箇所を含めて確認していく」


説明を引き継いだ陸曹が頁を指定した。

最初の内容は、既に何度か聞いているものだった。

感染が疑われる者へ不用意に接触しない。血液、唾液その他の体液を素手で扱わない。皮膚に傷がある場合には確実に覆い、眼、鼻、口などへの曝露を避ける。曝露した可能性がある場合には自己判断で済ませず、直ちに報告する。


「ここは前にもやったけど、もう一回確認するぞ」


陸曹は手にはめていた使い捨て手袋を示した。


「着けてれば何してもいいわけじゃない。血が付いたまま顔触ったら元も子もない。外す時に表面をべたべた触っても同じだからな。分からなかったら自分で適当にやらず、衛生に確認しろ」


片方の手袋を裏返しながら外し、もう片方を続けて外す。


「それと、咬まれた、血が眼に入った、口に入った、傷に付いた。そういうのは絶対に隠すな。『これくらいなら平気だろう』を自分で決めるなよ。任務から外されたくないとか、周りに迷惑掛けたくないとか考える必要もない。黙って残られる方がよっぽど迷惑だからな」


高瀬は該当箇所に一本線を引いた。

感染症対策として聞けば、特別おかしな話ではない。

しかし説明が進むにつれ、内容は少しずつ普段の感染防護から離れていった。

《死亡者及び死亡が疑われる者への対応》

死亡したと判断される者についても、指示があるまで不用意に接近しない。独断での搬送、身体への接触、所持品の回収等を行わず、必要に応じて周囲の人員を離し、一般人を接近させない。

その下には、さらに別の項目があった。

《死亡後に自発的な運動が認められた場合》

周囲の人員を離隔すること。通常の救命行為を目的として接近しないこと。血液、唾液その他の体液への接触を避けること。可能な範囲で対象の行動範囲を限定し、指揮系統を通じて速やかに報告すること。

高瀬はそこを二度読んだ。見覚えのある文言だ。

4月に最初の教育を受けた時にも、もっと簡単ではあったが、似たような記述があった。

あの時は、死んだ人間が動くなどという話を自衛隊まで真面目に資料へ入れるのかと思ったものだ。

今では、その部分が資料の中でもかなり具体的な項目になっている。


「海外では、死亡したと判断された後に運動が再開した事例が複数確認されている」


陸曹が説明を続けた。


「呼吸や脈がないからといって、通常の遺体と同じ感覚で扱うな。特に近距離での体液曝露には注意しろ。助けようとして近づいた人間まで次の要対応者になったら、現場の負担を自分たちで増やすことになる」


前列に座っていた隊員が手を上げた。

小隊長がそちらを見る。


「再活動した人間がこっちへ向かってきた場合は、どうするんですか。離隔しろってありますけど、実際に掴みかかってくるとか、襲ってくるような場合もありますよね」


何人かが顔を上げた。

高瀬もペンを止める。

小隊長は質問した隊員を見てから答えた。


「そこは今日の資料と分けて考えろ。これは感染防護と初動の留意事項だ。武器を使うかどうかも含め、実際の対処は、その時の任務と命令、それから法的根拠によって変わる。PMRS患者を見つけた、だから撃っていい、なんて話には当然ならない」


質問した隊員は頷いたが、まだ少し納得しきれていないらしい。


「でも、距離取れない場合は?」


「だから、そこまで含めて現場の隊員が今ここで勝手に基準を作るなってことだ。自分や周囲の人間に危険が迫っている場合も含めて、具体的な行動要領が必要になれば別途示達される。今日のところは、不用意に接触しない、体液を浴びない、異常があれば報告する。それを確実にやれ」


「了解です」


質問した隊員が手を下ろした。

高瀬にも、その説明の方が自然に聞こえた。

仮に本当に国内へ派遣されたとしても、自分たちが何をするのかは先に決まっているはずだった。患者や住民を運ぶのか、区域を警戒するのか、施設を守るのか。警察や消防とどう動くのか。銃を持っているからといって、目の前で起きたことを全部自分たちで判断するわけではない。

逆に、その辺りが何も決まっていないまま現場へ放り込まれる方が、高瀬にはよほど怖かった。

説明はその後も続いた。

高瀬は必要なところへ線を引き、前に使った第2版から変わっている箇所には印を付けた。死亡後に再活動した者への接触、体液曝露が疑われた場合の報告、周囲に一般人がいる場合の対応。どれも一つずつ見れば理解できる内容だったが、それらが当たり前の手順として一冊の中に並んでいることには、まだ少し妙な感覚が残った。

それでも教育が進むにつれ、高瀬の意識は説明そのものへ戻っていった。


教育は1時間ほどで終わった。

最後に小隊長から連絡態勢について説明があり、週末を含めた行動を一律に制限する指示は出ていないものの、所属から連絡があった場合には応じられる状態にしておくことを改めて言われた。

さらに、防護マスクや保護眼鏡、手袋類について、破損や不足がないか班ごとに再確認するよう指示が出る。


「以上。質問なければ終わる」


室内の空気が少し緩んだ。

誰かが大きく息を吐き、あちこちでペンをしまう音と椅子を引く音が重なる。久保も早々に筆記具を胸ポケットへ戻し、立ち上がろうとしていた。

高瀬は書き込んでいた頁を閉じ、冊子をまとめる前に何となく最後までめくった。

巻末に改訂履歴が載っている。

《第1版 令和10年4月19日》

《第2版 令和10年5月7日 WHO公表事項等を反映》

《第3版 令和10年6月6日 国外事例及び関係機関調整事項等を反映》

高瀬はそこで手を止めた。

最初に教育を受けたのは4月だったことは覚えていたが、19日だったらしい。


「何してんの。点検あるぞ」


既に椅子から立っていた久保が、高瀬の冊子を上から覗き込んだ。

高瀬は改訂履歴を指で押さえた。


「一番最初のやつ覚えてるか?気にしたことなかったが、あれは4月19日に作られたらしい」


久保も自分の冊子を開き直す。


「へぇ、そんな前だっけ?」


「お前も受けただろ」


「受けたけど、日付までいちいち覚えてないって。それにあの頃、まだPMRSって名前じゃなかったじゃん」


「そうだったな」


最初の教育を思い返す。

まだ「国外で発生している原因不明感染症」くらいの扱いで、今ほど大袈裟な冊子でもなかった。体液へ触れるな、体調不良があれば報告しろ、異常な行動をする患者には不用意に近づくな。その中に、死亡した者が再び動いた場合の注意が薄く紛れ込んでいたような気がする。

高瀬がそのことを口にすると、久保も少し考えてから「あったな」と頷いた。


「俺、あの時そこ読んで笑った気がする。死んだやつが動いたら近づくなって、そりゃ近づかねえだろって」


「俺も、随分な想定するなとは思った」


「で、本当に動いたんだから作ったやつは偉いよ」


久保はそう言って冊子を閉じた。

4月の時点でも、死体が動いたという噂自体はネットにいくらでもあった。国外で原因不明の感染症が拡大していたことも事実なのだから、起こり得る事態を広めに想定していたと言われれば、それまでだった。


「ほら、早く行こうぜ。この後まで長引いたら飯行くの遅くなる」


久保が先に歩き始め、高瀬も冊子を閉じて後を追った。


班ごとに点検表が回され、高瀬は防護マスクを収納袋から取り出した。

面体に目立った亀裂や変形がないかを確かめ、締め紐を順に見る。実際に装着して密着を確認してから外し、今度は保護眼鏡へ手を伸ばす。

久保も隣で同じことをしていた。


「午前は泥落として、午後はこれか。今日は整備デーだな」


「こういう日にまとめて不具合出た方がいいだろ。使う時に気づくより」


「それはそうなんだけどさ。こいつを本当にPMRS相手に使う日が来ると思う?」


久保が、防護マスクを片手に持ったまま眺めている。

高瀬も自分のマスクを収納袋へ戻した。


「気持ちはわからんでもない」


「ここまで大げさにやられるとちょっと思うだろ。もし日本で出たら、結局俺らも行くのかなって」


隣では別の隊員が保護眼鏡と手袋類を確認し、不足があれば点検表へ書き込んでいる。少し離れたところでは、確認用紙を手にした隊員が何かを数え直していた。

見慣れた点検の風景だった。


「お上が決めることだぜ、それは」


高瀬は点検表の自分の欄を確認しながら答えた。


「水陸機動団まで出す状況になったら、結構まずそうだけどな」


「そりゃ、呼ばれる時は何か必要だから呼ばれるんだろ。俺らに来なきゃ別の部隊がやる。それだけじゃないか」


久保は少し笑った。


「ドライだねえ。所詮陸士長か」


「お前も陸士長だろうが」


2人で笑い、防護マスクを元の位置へ戻した。


課業が終わる頃には、朝から垂れ込めていた雲の切れ間から、少しだけ夕方の光が差していた。

高瀬は一度隊舎へ戻り、汗を吸った迷彩服を脱いだ。

朝からこれで何枚目だろうと思いながら、着替えた服を洗濯物へ放り込む。顔を洗ってから私服へ着替え、財布とスマートフォンを確かめていると、廊下から久保の声が聞こえた。


「直人、まだー?」


「今行く」


部屋を出ると、久保のほかに山下ともう1人が待っていた。

結局、誰も店を決めていなかった。

駐屯地を出てから何を食うかで意見が割れ、焼肉だ、魚だ、いや中華だと話しているうちに駅まで来た。久保は「妻に飯いらないって言ったから何でもいい」と言いながら一番注文が多く、山下から何度も文句を言われていた。


列車に乗り、佐世保の中心部へ向かう。

車内には高校生や仕事帰りらしい人間が乗っていた。高瀬たちの少し離れたところでは、若い男2人が週末の予定を話し、向かいの席では買い物袋を膝に置いた女がスマートフォンを眺めている。

午後にあれだけPMRSの話を聞いたせいか、高瀬は無意識に周囲の顔を見ていた。

具合の悪そうな人間はいない。

もっとも、昨日までならそんなこと自体、わざわざ確認しなかっただろう。


佐世保の中心部へ出れば、金曜の夕方らしい人の流れがあった。

駅へ向かう学生、仕事を終えた会社員、買い物袋を提げた家族連れ。マスクをしている人間は以前より増えていたし、ドラッグストアの入口にはマスクや消毒液の購入数を制限する紙が貼られている。それでも店の照明は点き、飲食店の前には人が並び、いつもの週末が始まりつつあった。

少し先を、外国人の家族連れが歩いていた。

金髪の父親らしい大男が大きな買い物袋を持ち、隣を歩く女が子供の手を引いている。

久保がそれを目で追った。


「普通にいますね」


「誰が?」


「米軍の家族。昼の話」


高瀬も前を歩く家族を見る。


「そもそもあの人らが米軍かどうかも分からんだろ。観光客じゃないのか?」


「佐世保に何を観光しに来るというんだ」


「殺されちまえ」


山下が横から笑った。

久保はまだ前の家族を見ている。


「でも、昼聞いた話みたいに、みんな慌てて帰ってる感じはしないな」


「仮に在日米軍の退避が始まってるなら、久保の知り合いの知り合いが荷物まとめてたなんて話より先に、もっと騒ぎになってるだろ」


「まあ、それもそうか」


久保はあっさり納得し、その数秒後には山下と夕飯の話へ戻っていた。

昼間あれだけ話していた割に、米軍の噂そのものへ強いこだわりがあるわけでもないらしい。


しばらく歩き、結局、駅からそう遠くない中華店へ入った。

既に何組か客が入っており、店員に案内された4人掛けの席へ座る。メニューを開いてからも注文はなかなか決まらず、久保が炒飯も食いたい、餃子もいる、せっかくだから麻婆豆腐も頼もうと言い始め、山下に「お前1人で食うのか」と止められていた。

高瀬は冷たい水を半分ほど飲み、ようやく一息ついた。

壁際のテレビではニュースが流れている。

最初は海外の映像だった。どこかの空港で防護服を着た人間が作業し、次には道路を塞ぐ軍用車両が映る。画面が日本へ切り替わると、成田空港の検疫所、その前を通る旅行者、マスク姿で駅を歩く人々が順番に映し出された。

《政府 主要空港・港湾の検疫体制を強化 》

久保もメニューから顔を上げ、ニュースを見ている。

向かいの山下がその顔を見る。


「また強化だってさ」


山下がその顔を見て笑う。


「残念そうだな。そんなに働きたいのか?感心感心」


「お前は俺のことなんだと思ってるんだ。今日ずっとPMRSの教育受けてたから気になっただけ。休み返上で働くのなんか御免だよ」


「じゃあ安心しろよ」


「ちょっとくらいどうなってるのか気になりくらいはするだろ」


「俺は今、酢豚にするか麻婆豆腐にするかの方が気になるね」


話はそのまま料理へ移った。

何を頼むのか、追加で餃子を何皿にするのか、会計は普通に割るのか、それとも久保が言い出した“漢気じゃんけん”で払うのか。

午後にあれだけ奇妙な資料を読んだのに、話題はいとも簡単に別のことへ変わっていく。


注文がようやく決まり、料理を待つ間、高瀬はスマートフォンを開いた。

特に何かを調べるつもりだったわけではない。通知をいくつか消し、ニュースの一覧を流していると、PMRSの発生からこれまでを振り返る記事が目に入った。

《WHOによるPMRS公式確認から1か月》

何となく開いた。

記事の最初には、南アジアで原因不明の感染症が拡大した経緯、その後各地で多数の死亡事例が報告されたことが書かれている。少し下へ送ると、WHOの緊急記者会見についての記述が出てきた。

5月4日。

そこで高瀬の指が止まった。

午後に見た改訂履歴を思い出す。

第2版は5月7日だった。WHOのなんたらを反映したと。

問題は第1版。4月19日。

自分たちは、WHOの発表の2週間ほど前に最初の教育を受けている。

しかも、あの時点で既に、死亡した者が再び動いた場合には近づくなと説明されていた。

昼間、久保と話した時にはそこまで気にならなかったが、今思い返すと引っかかるところがある。

もちろん、国外ではその頃から感染症そのものが問題になっていたし、ネットには死者が動いたという噂も出回っていた。お上が一般人より多くの情報を持っていることだって別に不思議ではない。外国政府や軍、国際機関から入ってくる情報もあるだろうし、真偽がはっきりしない段階から最悪の場合を想定して準備するのも仕事のうちだ。

何もしていなかったと言われる方が、現場に出る高瀬としては困る。

それでも考えるほどに、言語化の難しい奇妙さ、不気味さを感じてしまう。

久保と山下はまだ料理の話をしていた。


「あんなに注文していいのか?最悪お前が払うんだぞ?」


「バカめ、今晩はお前が払うんだ。そう最初から決まっているんだ」


やはり、そんなこと考えるだけ無駄だろう。結論が出る見込みもない。なんであれ、今日の昼に見た第3版を覚えておけば、今の高瀬にはそれで十分だった。

ちょうどそこで料理が運ばれてきた。

店員が熱い皿をテーブル中央へ置き、久保が待ってましたとばかりに箸を取る。

高瀬はスマートフォンの画面を消し、テーブルの端へ置いた。

壁際のテレビでは、既に別のニュースが始まっていた。


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