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なんでもない日

2028年6月8日 埼玉県大宮市


『大宮、大宮ー。大宮です。お降りの際は、お忘れ物のないようご注意ください』


ホームのスピーカーから、少し割れた駅員の声が繰り返し響いていた。


電車の扉が開くと同時に、安奈たちは流れに押されるようにホームへ降りた。向かいのホームでは発車メロディが鳴り、階段の上からは乗り換えを急ぐ人間が次々と降りてくる。スーツ姿の会社員、同じような時間に登校する高校生、キャリーケースを引く旅行客。いくつもの人の流れが交差しながら、それでもほとんどぶつかることなく改札へ吸い込まれていった。


「だから、それ脈ありだって」


「いや、ないって。ストーリーに反応しただけじゃん」


「何て来たの?」


「だから見せたじゃん。『そこ俺も行ったことある』って」


「それは脈あり」


「どこが?」


「興味ない女子のストーリーに、わざわざ返信しないでしょ」


「する人はするって。莉子は恋愛脳すぎる」


「しない。男子はそんな暇じゃない」


「なんで莉子が男子代表みたいに言うのよ」


改札を抜けたところで、佐伯安奈は笑いながら水野莉子の肩を軽く押した。


朝の駅はいつも通り混んでいた。改札前ではスマートフォンを見ながら立ち止まる人間を避け、階段では急いでいる会社員に追い抜かれ、その横を同じ制服の生徒が何人も歩いていく。


駅前へ出ると、バスとタクシーが何台も列を作っていた。その向こうでは店のシャッターを上げている人がいて、大型ビジョンには化粧品の広告が流れている。


昨夜の雨のせいで湿気が残っていた。まだ6月の上旬なのに、外へ出た瞬間から制服のブラウスが少し肌にまとわりつくような感じがする。歩道脇の植え込みでは紫陽花が咲き始めていたが、安奈にはそれよりも、このまとわりつくような湿気の方がよほど季節を感じさせた。


「ていうかさー、今日暑くない?」


隣を歩いていた高橋美月が、前髪を指で持ち上げた。


美月は3人の中では一番背が高く、安奈より頭半分ほど高い。女子バレー部で、制服の袖から伸びた腕やスカートの下の脚も、細いというより運動部らしく締まっている。校則に引っかからない程度の長さにした黒髪を高い位置で結んでいたが、今朝は湿気のせいで前髪だけが思うようにならないらしい。


「朝からこれなら終わりじゃん。私もう巻き取れてるんだけど」


「今日体育ある?」


「5限」


「最悪。安奈はいいよねー。髪まっすぐで」


「これはこれで何もしてない感あるから嫌なんだけど」


安奈は3人のちょうど中間くらいの身長だった。肩を少し越えた黒髪は、何もしなくてもほとんど癖がつかず、そのまま下へ落ちる。体つきも特別細いわけでもなければ、運動部らしく鍛えているわけでもない。


本人にとっては何の特徴もない普通の髪と普通の身体だったが、朝から前髪と格闘している美月には、それが羨ましいらしい。


「贅沢な悩みー」


莉子は3人の中で一番小柄で、肩に触れるくらいの髪の毛先を少し内側へ巻いていた。まるで小型犬のような人間で、歩きながらでもよく喋り、表情もころころ変わる。そのせいか、背丈以上に存在感がある。


学校へ向かう歩道にも、同じ制服が増えてきた。自転車で横を抜けていく生徒がいて、コンビニからパンの袋を持って出てくる男子がいる。信号の手前では、昨日の体育祭について話しているらしい別のクラスの女子たちが、大きな声で笑っていた。


校門が見えてくる頃には、話題は莉子のストーリーから昨日撮った体育祭の写真へ移っていた。学校行事そのものは既に終わっているのに、写真だけはまだ毎日のように誰かが新しく送ってくる。クラスの共有アルバムに追加された何百枚という写真から、自分がまともに写っているものを探すだけで数日は潰せそうだった。


「これ見て」


莉子が歩きながらスマートフォンを差し出してきた。


「うわ」


「ひどくない?」


写真の中央で莉子は笑っていたが、その後ろにいた美月は目を半分閉じ、安奈は何かを食べている途中だった。


「なんでこれ共有に入れたの」


「犯人、松本」


「殺す」


「安奈はまだいいじゃん。私ビジュが崩壊しとる」


「いや私も全然やだよ。うわー最悪。消してよー」


「でも柏木くん写ってるよ」


指が止まった。


「……だから?」


莉子がニヤッとした顔でこちらを見る。


安奈はスマートフォンを返した。


「別にー?」


「うっざ」


美月が横で笑った。


「安奈、分かりやすすぎるんだよね」


「だから別に好きじゃないって」


「誰も好きとか言ってないぞー」


「もういいから」


昇降口から校舎へ入ると、外より少しだけ空気が涼しかった。階段を上がる間にも、昨日の体育祭の話や、次の授業の小テストについての声があちこちから聞こえてくる。


教室へ入ると、既に半分以上の生徒が来ていた。


窓際では男子が机を2つ使ってスマートフォンのゲームを覗き込み、後ろでは女子数人が昨日投稿された写真を見ながら笑っている。黒板の隅には誰が書いたのか分からない落書きが残り、教卓の横には体育祭で使った段ボールがまだ潰されずに積まれていた。窓が何枚か開けられていたが風はほとんどなく、天井の扇風機だけがゆっくり回っている。


安奈が自分の席へ鞄を置いたところで、美月が寄ってきた。


「ねね、今日放課後暇?」


「何で?」


「スタバ行かない? 新しいやつ飲みたい」


「昨日から出てるやつ?」


「そう。ピーチ&アールグレイ!」


莉子がすぐ横から口を挟んだ。


「私も行きたーい」


「高くない? あれ」


美月が言う。


「700円だっけ?」


「高! 税込み? 税抜き?」


「どっちでも大して変わんないよ」


「70円は私にとって大きいですぅー」


そのまま3人で放課後の話をしていると、教室の入口側から笑い声が上がった。


「おぉ、ゾンビが来たぞ」


男子の声につられて、教室にいた何人かが扉の方を向いた。教室の一角から、どっと笑い声が湧き上がる。


安奈もつられてそちらを見た。


柏木悠真が入ってきたところだった。


いつもより明らかに顔色が悪い。前髪も整えていないらしく少し乱れていて、肩から鞄を下ろすと、そのまま自分の席へ行って机に突っ伏した。


「何お前、死にそうじゃん」


近くにいた男子が、笑いながら柏木の背中を叩く。


「触んなってマジで」


「ゾンビじゃん。噛むなら篠山のこと噛めよ。脂がのってるからな」


「俺はゾンビじゃねーよ」


「保健所呼べ、保健所」


「もう遅いだろ。黒いバン呼んで、こいつのこと連れてってもらおう」


そこでまた笑いが起きた。


安奈は柏木の方を見たまま、すぐに視線を手元へ戻した。


「何、黒いバンって」


美月が聞いた。


「知らないの?」


莉子が若干前のめりになる。


「SNSで有名だよ。ゾンビ出た家に黒いワンボックス来て、そのままどっか連れてくんだって」


「何それ、怖。マジ?」


「まさか。都市伝説みたいなもんでしょ」


男子の1人が、まだ机に伏せている柏木の背中をバシバシ叩いた。


柏木が顔だけ上げる。


「だーかーら俺はゾンビじゃねぇって。昨日3時まで起きてただけだわ」


「何してたの?」


「ゲーム」


「自業自得やそれ」


安奈はそこでようやく柏木から目を離し、莉子と美月へ視線を戻した。


2人ともにやついている。


「気になるよねー、うんうん」


耳まで赤くなるような感覚がした。


「だ、だからそんなんじゃないって!」


2人はけらけらと笑った。


安奈は「もー」と息を吐き出して机に突っ伏した。どうしても目で追ってしまう。それをこいつらに見られていた。


「でも最近マジで増えてるんでしょ、ゾンビ」


美月が言った。


「日本はまだじゃない?」


莉子が答える。安奈は机に突っ伏したまま、2人の会話を聞いていた。


「昨日ニュースで疑い例とか言ってなかった?」


「疑いでしょ。ていうか、死後なんちゃら症候群とかいう名前なかった? 正式名称」


「PMなんとか」


「PM2.5?」


「別もんじゃん、それ」


莉子がスマートフォンを操作しながら言った。


「でもさ、マスクめっちゃ高くなってるよ。見てこれ」


安奈はようやく顔を起こして、莉子のスマホ画面を覗き込んだ。通販サイトの商品ページが開かれている。


「50枚で8,900円」


「高っ! 誰が買うのこれ」


「うちのお母さん昨日買いそうになってたよ。止めたけど」


美月が言った。


「そもそも空気感染なの、あれ」


「じゃなきゃマスク意味なくない? なんか付けたくなるでしょ。気分的に」


「6月にぃ? こんな暑いのにぃ? 9,000円払う?」


「払わない。絶対誰か買い占めて売ってるじゃん」


商品そのものは、ドラッグストアで普段見かけるような白い不織布マスクにしか見えない。


「これ買うくらいなら、ピーチ&アールグレイ10杯飲めるじゃん」


「あぁ、着眼点そこなんだ」


「じゃあ安奈は、新作10杯とマスクどっちがいい?」


「新作」


即答した。


「即答かよ。感染しちゃうかもよ?」


「その時は莉子に看病してもらう」


「嫌だよ。黒いバン呼ぶ」


「最悪」


また笑った。


その時、ホームルーム開始を知らせる予鈴が鳴った。


教室のあちこちに散っていた生徒が自分の席へ戻り始める。男子が使っていた椅子を足で押し戻し、窓際で話していた女子たちもスマートフォンを机の中へ隠した。


安奈も前を向いて筆箱を出す。


ジャージを着た担任が教室へ入ってきた。


「ほら、席つけ。始めるぞ」


ざわついていた教室が完全には静かにならないまま、朝のホームルームが始まった。


担任は出席を取り、学校行事についていくつか連絡したあと、最後に思い出したようにプリントを1枚持ち上げた。


「あと、保護者にも連絡が行ってると思うけど、新しい病気が流行してるな。死体が動くだとかよく分からんが、まだ日本には広がってないとはいえ、ちゃんと自衛しろよ。発熱とか体調不良がある場合は無理して登校しないように。家族に海外から帰ってきた人がいる場合も、念のため学校へ連絡すること」


男子の方から声が飛んだ。


「柏木アウトじゃん」


「うるせえ」


教室に笑いが広がる。


担任も柏木の顔を見た。


「お前なんかあったのか? 顔色悪いぞ」


「寝不足です」


「なら授業で寝るなよ」


また笑いが起きた。


「笑い事じゃないぞ。まあ、現時点で国内でどうこうという話ではないけど、学校にも教育委員会から通知が来てるからな。各自ニュースくらいは見ておくように」


「ゾンビ来たら休校ですか?」


「午前授業くらいにはしてやる」


今度はさっきより大きな笑い声が上がった。


安奈も笑った。


担任が次の連絡へ移る頃には、PMRSの話題はもう教室から消えていた。さっきまで黒いバンだのゾンビだのと笑っていた男子たちも、今度は体育祭の写真を見せろと前の席へ身を乗り出している。


午前中の授業は、いつもと変わらなかった。


英語では前の週に配られた長文の答え合わせをし、数学では安奈が途中から完全に分からなくなった式を教師が黒板いっぱいに書いた。休み時間になるたび教室の空気は一気に緩み、誰かが席を立ち、誰かが廊下へ出て、誰かが次の授業の宿題を慌てて写している。


柏木も2限の終わり頃には多少ましな顔をしていた。朝のように机へ突っ伏してはいなかったし、友達と話して笑っている。


安奈はそれを横目で確認してから、自分でも何をしているのかと思ってノートへ視線を戻した。


次は移動教室だった。


チャイムが鳴ると同時に、教科書と筆箱を抱えた生徒たちが一斉に廊下へ出ていく。莉子と美月も先に出たが、安奈は机の中を探ってから、必要な資料集を家に置いてきたことに気づいた。


「最悪……」


仕方なく教科書だけを持って教室を出る。


さっきまで人で埋まっていた廊下は、もう随分静かになっていた。遠くの階段から別のクラスの話し声が聞こえ、開いた窓から湿った風が入ってくる。


その先に、柏木がいた。


「あ」


向こうも安奈に気づいた。


それだけで、安奈は足を止めそうになった。


柏木は片手に教科書を持っていた。朝より顔色は戻っているが、まだ少し眠そうだった。


「……遅くない?」


安奈が言う。


「それ佐伯もじゃん」


「私は忘れ物探してたの」


「俺も」


「何忘れたの?」


「教科書」


「そっか」


そこで会話が途切れた。


同じ方向へ行く以上、わざわざ離れて歩くのも変だった。安奈は柏木の少し横を歩いた。


普段なら、間に誰かいる。教室で話すにしても、周りには莉子や美月がいるし、柏木の近くにも男子がいる。2人だけで並んで廊下を歩いたことなど、たぶんなかった。


別に何か話さなければいけないわけではない。それでも沈黙すると、妙に気まずかった。


「朝さ」


柏木が言った。


「ん?」


「俺、そんなヤバかった?」


「何が?」


「顔。めっちゃ言われたんだけど」


安奈は少し考えた。


「まあ……ヤバかった」


「マジか」


「普通に死にそうだった」


「ゾンビ?」


「そこまでは言ってない」


「みんな言ってたじゃん」


柏木が笑った。


安奈もつられて笑う。


「3時までゲームしてる方が悪いでしょ」


「いやね、めっちゃ難しくてね。意地張ってクリアするまで寝ないと決めたら、このざまよ」


柏木はため息をついた。


「気づいたら3時だった」


「バカじゃん」


朝から何度も見ていた顔なのに、隣で話していると妙に近く感じた。


安奈は前を向いたまま歩いた。


階段を下りるところで、先に行ったクラスメイトの姿が見えてきた。それを見つけた時、なぜか少し残念に思った。


「じゃ」


柏木は何でもなかったように友達の方へ歩いていった。


安奈も少し遅れて莉子たちに追いつく。


美月が振り返った。


「遅かったね。何してたの」


「忘れ物」


「ふーん」


莉子が、その後ろを歩く柏木と安奈を一度ずつ見た。


「ほほう」


「何」


「別にー?」


朝とまったく同じ言い方だった。


安奈は莉子の腕を軽く叩いた。


放課後、大宮駅の近くにあるスターバックスはそれなりに混んでいた。


店内には学校帰りの高校生や大学生が多く、窓際の席ではノートパソコンを開いている会社員もいる。注文口の前には短い列ができ、安奈たちの前に並んでいた女子高生2人も同じ新作を頼んでいた。


「やっぱ高!」


会計を終えた美月が、レシートを見ながら言った。


「だから言ったじゃん」


「分かってても高いものは高い」


3人とも結局、新作のピーチ&アールグレイを頼んだ。


商品を受け取ると、莉子が座るより先にスマートフォンを取り出した。


「ちょっと待って、飲まないで」


「はいはい」


「ストローまだ刺さないでね」


「注文多いな」


窓際の3人席へ並べ、角度を変えて何枚か撮る。莉子がその場で写真を確認している横で、美月は待ちきれずに自分の分へストローを刺した。


「あ、飲んだ」


「もういいでしょ」


「まだ撮ってたのに」


「知らん知らん」


安奈も一口飲んだ。


桃の甘さのあとから紅茶の香りが残った。冷たさもあって、朝からまとわりついていた蒸し暑さにはよく合う。


「どう?」


莉子が聞いた。


「うまうま。最高」


「でしょ」


「700円の価値はある」


美月がすぐに頷いた。


「それなー。買って正解」


3人で笑った。


そこから話は体育祭の写真に戻り、いつの間にか別のクラスのカップルの話になり、さらに莉子が朝話していた男子へ戻った。本人は脈なしだと言い張っているくせに、返信が来るたびスマートフォンを見るので説得力がない。


「ていうか、人のこと言ってる場合じゃなくない?」


途中で莉子が安奈を見た。


嫌な予感がした。


「何が」


「今日、柏木くんと一緒に歩いてたじゃん」


げっ。


「一緒にっていうか、たまたまそうなって……」


「何話してたの?」


美月まで乗ってくる。


「別に何も」


「絶対嘘」


「本当に何もないって。他愛もない話」


「へぇぇぇぇ」


「何その反応」


「いや別に?」


「うざ」


莉子と美月が同時に笑った。


安奈はストローを口に入れ、少し強めに吸った。


別に本当に何もない。ただ同じクラスの男子と移動教室まで一緒に歩いて、少し話しただけだ。


「何ニヤけてんの」


「ニヤけてないし」


「いや今絶対ニヤけてた」


「うるさい」


店を出る頃には、外の空気は朝より少し涼しくなっていた。


駅で莉子と美月と別れ、電車に乗る。夕方の車内は朝ほどではないにせよ混んでいて、安奈はドア横に立ったままスマートフォンを眺めていた。


莉子が、さっき撮った写真をグループに送っている。


『これ一番盛れてない?』


安奈は写真を開いた。


3つ並んだ透明なカップ。その向こうに、少しだけ自分の指が写り込んでいる。


ストーリーに上げようか迷って、結局そのまま閉じた。


家に着いたのは19時前だった。


「ただいまー」


玄関には弟のスニーカーが脱ぎっぱなしになっていた。


安奈は自分のローファーを揃え、そのついでに弟の靴を端へ蹴った。


リビングへ入ると、母親がキッチンに立っていた。ダイニングテーブルには買ってきたらしい惣菜のパックがいくつか置かれ、弟はソファに寝転びながらスマートフォンを触っている。


テレビではニュースが流れていた。


安奈が入った時には、既に途中だった。


『――イラン現地政府は首都テヘラン南部を中心に外出制限の対象地域を拡大し、軍と警察による検問所を増設しています。一方、複数の医療機関では患者の受け入れが停止されており――』


画面には、日本ではない街が映っていた。


道路の中央に軍用車両が止まり、その周囲を迷彩服姿の兵士が歩いている。少し離れた場所では、大勢の人間が柵の向こう側に集まっていた。


「おかえり。遅かったね」


「スタバ行ってた」


「また?」


「新作出たから」


母親は呆れたように笑いながら、テレビへ目を向けた。


「これ、見た?」


「何が?」


「例の病気。すごいことになってるんだって」


「学校でも言ってたよ」


「怖いよねえ。人を噛むんでしょ?」


安奈は鞄を椅子へ置いた。


「らしいね」


弟がソファから顔を上げた。


「うわ、ゾンビかと思ったらねぇちゃんだった」


「本当にゾンビになったら、お前のこと真っ先にかみ殺してやる」


安奈は弟の足を軽く蹴った。


テレビでは別の映像に切り替わっていた。


『――WHOは今回の感染拡大について、感染者の体液との接触を避けるよう改めて呼びかけています。各国では空港や主要駅での検疫強化が進められており――』


「ちゃんと手洗いなさいよ」


母親が言った。


「はーい」


「ふざけてないで。本当に」


「分かったって」


安奈は鞄を持ち直した。


「ご飯できたら呼んで」


「先にお風呂入りなよ」


「あとで入る」


階段を上がる途中まで、テレビの音は聞こえていた。


『――これまでに確認された死後の運動再開については、現在も原因の特定が――』


自室の扉を閉めると、その続きは聞こえなくなった。


安奈は鞄を床へ置き、そのままベッドへ倒れ込んだ。


制服のままスマートフォンを開く。


莉子からまたメッセージが来ていた。


『で、柏木くんとは結局なんだったの』


安奈はしばらく画面を見た。


『だから何もないって』


送信すると、すぐに既読がついた。


『はいはい』


安奈は枕へ顔を押しつけた。


本当に何もない。


たまたま2人になって、少し話しただけだった。


それでも、今日1日の中で何度も思い返しているのは、朝ニュースで聞いた感染症のことでも、教室で話題になった黒いバンでも、高くなったマスクでもなかった。


安奈はもう一度スマホを開いた。


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