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よくあること

2028年3月17日

タイ北西部 ターク県メーソート ミャンマー国境付近


午前2時を過ぎても、外の空気はまだ生温かかった。


ホテル・タワン・インの入口脇に置かれたプラスチック椅子へ腰掛けながら、ナロンは道路を走っていく大型トラックを眺めていた。宿の前を通る道は深夜になれば多少静かになるものの、完全に車が途切れることはない。遠くで大型車が減速するたびに低いエンジン音が長く響き、道路の向こうではまだ開いている食堂の蛍光灯に虫が集まっていた。


フロントでは夜番のティーがスマートフォンをいじっている。客が来なければ、ナロンの仕事もほとんどない。


ナロンはドアマンとしてこのホテルに雇われたわけではない。そんな上等な役割はここでは必要ない。このくすんだ廃墟のような宿が彼を雇い入れている理由は、酔った客同士が揉めた時、金を払わず帰ろうとする客が出た時、部屋から女の悲鳴が聞こえた時、そういう場面で彼が必要だからだ。


つまるところ彼はガードマン、というよりも用心棒に近い。


事務作業も彼の仕事内容には含まれていない。だから宿泊台帳がどうなっているのかも、客の身分証を誰が確認しているのかも知らない。知る必要もなかった。


それでも、この仕事を続けて長いもので、出入りする人間の顔は自然と覚えている。


特に”お得意様”の顔は。


1時間半ほど前に階段を上っていった女も、そのお得意様の一人だ。


小柄な女だ。濃いアイラインに明るい色の口紅を引いている割には、着ている服はいつも大したものではない。薄いブラウスに黒いスカートに小さなバッグ。彼女はそれをシャネルのバッグだと言い張っているが、ありゃ中国産の偽物だ。


彼女は定期的にこのホテルに来ていた。一人で来ることもあったが、基本は誰かと来ている。そしてその”誰か”は毎回違う顔をしていた。彼女が何をしに来ているのか聞くまでもない。


今夜は1人で現れ、フロントで部屋番号を告げ、そのまま階段を上がっていった。


部屋にいる男が呼んだのだろう。


ナロンが欠伸を噛み殺しながら椅子の背へ体重を預け、携帯をいじる。彼にはある程度の職務中の自由は与えられているが、こんな真夜中に寝ることを禁じられるのは想像以上に身体にこたえる。


女が上階へ消れてから1時間半ほど経った頃、上から何か大きなものが壁へぶつかったような、ドンという鈍い音がした。この安ホテルに防音壁なんて贅沢なものはない。


続いて、誰かが階段を駆け下りてくる。


先ほどの女が階段から飛び出してきた。


ブラウスは前のボタンを2つ掛け違えており、右足にはサンダルを履いているのに左足は裸足だった。髪は崩れ、額の生え際にはじんわりと汗が浮かんでいる。顔の化粧も目元だけ少し擦れていた。


女は焦り、緊張しているようだったが、それよりも怒っているように見えた。


女はフロントまで来ると、カウンターへ片手をつき、後ろを振り返った。


「ねえ、ちょっと。上の客、おかしいから何とかして」


ティーがスマートフォンから顔を上げた。


「何がありましたか?」


「急に暴れてアタシに噛みついてきたの! 頭おかしいよ、あいつ。何なの!」


ナロンは立ち上がった。どうやら仕事らしい。


女の呼吸はまだ速かったが、声はもうかなり落ち着いている。この仕事をして長いのか、こういう揉め事そのものには慣れているらしい。


「噛まれた? 他は? 殴られたか?」


ナロンが聞くと、女は首を振った。


「殴られてない。噛まれた」


そう言って左足を少し上げた。


足首の外側に赤い跡があった。皮膚が2か所ほど浅く裂け、細い血の筋が踵の方へ伸びている。見たところ軽傷だ。女自身も階段を駆け下りてきて、今もこうして2本足で立っているのを見るに、大して痛がってはいないらしい。


「何で噛まれたんだよ」


「そんなのこっちが聞きたいよ。そういう注文は受けてない。途中から急におかしくなりやがった」


女は苛立ったように髪をかき上げた。


ナロンは階段の方を見た。誰かが降りてくる気配はない。


「クスリか?」


その質問に、女は一瞬だけ黙った。


「……あいつが持ってて、誘われたから少しだけ。でもクスリ飲んでセックスなんてよくあることだからアタシはなんともない。酒も飲んでたから、あいつが急に倒れた時も、ハイになってトンだのかと思った」


「倒れた?」


「倒れたというか気絶したというか。途中でいきなり力が抜けたみたいになって、私の上に覆いかぶさって来たの。重いからどかしたけど、全然起きないし。寝たのか気絶したのかと思って、そのままにしてた」


女は自分のバッグを探すように肩越しへ振り返ったが、何も持っていないことに気づいたらしく舌打ちした。


「アタシは煙草吸ってた。で、時間が来て服着てたら、後ろから音がして起きたのかと思って、水でも飲めって言ったの。そしたら後ろから急に掴んできた」


「それで噛まれたのか?」


「いや。背後から抱き着かれるような感じでこう、ガバってやられたの」


女は腕を広げて手で包み込むような動きをする。


「だから振りほどいて金的をくらわせてやった。アイツ、パンツ履いてなかったから相当痛かったはずよ。それで1回顔を蹴って、その時に噛まれた。噛まれたというか歯があたったのかな。で、倒れた隙に外に出てきた。あいつ本当におかしいよ。クスリで頭飛んでる」


話しながらも、女はそれほど取り乱していなかった。


どうやら今の自分の格好よりも、部屋へ置いてきたバッグの方を気にしているらしい。女がなんとかしてよという目つきで見上げてくる。


ナロンはティーを見た。


「こいつの部屋番号は?」


ティーが番号を答える。


「警察呼んどけ。客が暴れたってな。俺が見てくる」


女も後をついてこようとしたので、ナロンは手を出して止めた。


「お前は下にいろ」


「私のバッグがあるの」


「分かったから。先に男をどうにかする」


ナロンはフロントの横から重い懐中電灯を取り、階段を上がった。


古い建物なので、階段を踏むたびに靴底の下で小さく音がした。2階の廊下には黄色い照明が等間隔で並んでいる。目的の部屋へ近づくにつれ、何かを擦るような音が聞こえてきた。


言われた番号の部屋につく。扉は自動ロックで鍵がかかっていて、開けようと試みたが失敗した。


ナロンは扉を拳で2回叩いた。


「おい。開けろ。お前に用がある」


返事はない。


ナロンはもう一度ノックした。


「早くこのクソッタレの扉開けろ。俺の気は長くないぞ」


しばらく待ったが、やはり返事はない。


階段の下へ顔を向けると、ティーがフロントからこちらを見上げている。


「鍵!」


少ししてティーが上がってきて、マスターキーを渡した。


「警察は?」


「呼んだ」


ティーは面倒ごとは御免らしく、ナロンに鍵を渡したらそそくさと下に戻った。


鍵を開け、扉を少しだけ押す。


冷房の空気と一緒に、酒と煙草、それに甘い香水の匂いが流れてきた。


テレビはついたままだった。音量は小さく、画面ではタイ語の字幕が流れている。床には男物のシャツと女物の下着が落ち、ベッドのシーツは大きくずれていた。小さなテーブルの上にはビール瓶が2本、灰皿、小さなビニール袋と錠剤の包装が散らばっている。


奥に全裸の男がいた。


ベッドと壁の間に立ち、壁の方を向いている。


肉付きや佇まいからして年齢は30代か40代か、その程度しか分からなかった。


ナロンは扉をもう少し開けた。


「おい。こっちを向け。お前に用がある」


男は返事をしない。


ナロンは懐中電灯を持った右手を下げたまま、入り口から動かなかった。


「女に噛みついたって聞いてる。警察が来るからそこで大人しくしてろ。俺の前で変な気を起こそうだなんて思うなよ」


男の頭が少し傾き、ゆっくりと振り向く。


汗で前髪が額にこびりついている。女の言う通りハイになっているのか、大きく見開かれた目はぎょろぎょろと動いている。その焦点の合っていない目が、ようやくナロンを捉えたように見えた。


その直後、男が走ってきた。


ナロンは反射的に半歩引き、伸びてきた両腕を左手で払った。男はそのまま扉の枠へ肩をぶつけたが、止まらず身体を向け直した。


「おい!」


腹へ蹴りを入れる。


男の身体が折れ、背中からベッドへぶつかった。


普通なら、そこで少なくとも息を詰まらせる。だが男はほとんど間を置かず、ベッドから身体を起こした。


「何だこいつ」


ナロンが呟いた。


男はそのままナロンへ飛びかかってきた。両腕を伸ばし、それより先に口を大きく開けてナロンの前腕へ顔を寄せようとする。


「ふざけんな!」


ナロンは右拳を横から振り抜いた。


拳が男の顎の横を捉える。男の身体は横へ弾かれ、肩から壁へ激しくぶつかった。ドゴンとすさまじい音が鳴る。


それでも倒れなかった。


男は壁へ身体を預けたまま顔をナロンへ向け、再び腕を伸ばしてきた。


ナロンは相手の腕を掴み、そのまま身体を捻って壁へ押しつける。男は痛がる様子もなく身体を振り、肩を壁へ打ちつけながら何度も首を動かした。


ガチガチと歯が鳴った。


噛もうとしている。


ナロンは男の足を払って床に伏せさせると、すぐに背中へ膝を乗せ、片腕を後ろへ捻り上げた。


男が低い声を漏らした。


痛みで呻いているというより、喉の奥から空気が漏れているような音だった。


「ティー! ロープ持ってこい!」


ティーが階段へ走った。


男はなおも身体を起こそうとした。ナロンは体重をかけ直し、掴んでいる腕をさらに強く捻る。それでも床に押さえつけている感触がおかしい。


酒に酔った男なら何人も押さえたことがある。薬物で暴れた人間も初めてではない。


普通なら、ここまで腕を捻れば少なくとも逃れようとする方向が変わる。痛みから身体を守ろうとして、肩を引くなり腰を捻るなり、何かしら反応が出る。


この男には、それがなかった。


関節がどうなろうと関係ないように、ひたすら身体をよじって抵抗する。


ティーが細いナイロンロープを持って戻ってきた。


「こいつの手と足を縛れ。口も何か噛ませろ、こいつ噛みついてくるぞ」


ティーは最初、どこを掴めばいいのか迷っていた。ナロンが男の両腕を背中へまとめ、そこを押さえるよう言うと、ようやく膝をついた。


2人がかりで両手首を縛る。


それでも男は暴れ続けた。


脚まで縛ったところで、ナロンはようやく膝を離した。男は横向きになり、床へ頬を擦りつけながら身体を捻っている。


ティーが近づいた瞬間、男の顔が跳ねるように動いた。


「うわっ!」


歯がティーの手を掠めた。


ティーが尻餅をつく。


「お前はもう離れてろ!」


ナロンはベッドに落ちていたタオルを丸めて男の口へ押し込み、別の布で頭の後ろへ固定した。


男はそれでも顎を動かしていた。


ナロンが立ち上がると、額から汗が落ちた。


冷房は効いているが、それでもシャツの背中まで湿っていた。


ティーは床に座ったまま男を見ている。


「これ、何やったらこうなるんだよ」


「知るか。粗悪品のクスリの過剰摂取だ」


その時、廊下から足音が聞こえた。


女だった。


今度は左足にもサンダルを履いていた。どこかで拾ってきたらしい。


「入るなって言っただろ」


「アタシのバッグ!」


ナロンは床でまだ身体を捻っている男を見た。


「近づくなよ」


女は返事をせず、壁沿いに男から距離を取って部屋へ入った。


ベッド脇から小さなバッグを拾うと、そのまま浴室へ入る。すぐに水道の音がした。


ナロンはティーと一緒に男を廊下へ運ぶことにした。部屋の中へ置いたままでは、警察が来た時に面倒だった。


両脇を持って引き起こす。


足を縛られているので歩けず、結局2人で引きずるようにして廊下へ出した。男は何度も首を動かし、タオル越しに声を漏らしている。


階段の手前で座らせた頃、女が部屋から出てきた。


足首には小さな絆創膏が2枚並んで貼られていた。


「病院行った方がいいんじゃないか?」


ナロンが言うと、女は傷を一度見ただけだった。


「こんなの平気。血も止まったし。ちゃんと消毒もした」


そう答えると、女はテーブルへ行った。


男のズボンから財布を見つけ、中を開く。


ナロンは眉を寄せた。


「おい」


「まだ金もらってない」


女は財布から1000バーツ札を何枚か抜いた。


数えてから一度手を止め、さらに2枚抜く。


女はナロンを見てニヤッと笑う。


「慰謝料と迷惑料」


ナロンは何も言わなかった。


女は紙幣を折ってバッグへ入れ、財布を元の場所へ戻した。


階下からティーの名前を呼ぶ声が聞こえた。警察が来たらしい。


女の表情が変わった。


「警察?」


「ああ。呼んだ」


「じゃあ帰る」


「話くらいしていけよ。噛まれたんだろ」


「いろいろ詮索されたくないの。うまい具合にごまかしておいて」


女はバッグを肩へ掛けた。


「次、あんたがアタシのこと呼んでくれたら安くしとくわ」


ナロンが何か言う前に、女は階段を下りていく。


慌てて逃げてきた時とは違い、もう足取りは普通だった。左足を少しかばってはいるが、歩くのに困るほどではない。


ナロンは男を置いたまま追いかける気にもならなかった。


下へ降りると、制服姿の警察官が2人、フロントの前に立っていた。ティーが早口で事情を説明している。


「暴れている男は?」


「上です。縛ってあります」


ナロンが答えると、警察官の1人が階段を見た。


「武器は?」


「見てない。女に噛みついて、俺にも噛みつこうとした。クスリだと思う。部屋に錠剤みたいなのもある」


「被害者の女は?」


ナロンは入口の方へ顔を向けた。


さっきまでいたはずの女はもういなかった。


宿の外には、道路沿いの灯りがまばらに続いている。少し離れた食堂の前に数台のバイクが止まり、その向こうを大型トラックがゆっくり通り過ぎていった。


「もう帰った。というか逃げたよ」


警察官がナロンを見る。


「名前は?」


「知らない。フォンって呼ばれてるのは聞いたことあるけど、どうせ偽名だ」


「電話番号は?」


「知らないよ。俺は受付じゃない」


警察官は小さく息を吐いてから、もう1人と一緒に階段を上がった。


男を見た途端、2人とも足を止めた。


猿轡をされた男は廊下の壁へ肩を預け、もぞもぞと両手両足を縛られたまま身体を動かしている。ナロンたちが部屋を離れてから何分も経っているのに、疲れた様子はなかった。


警察官がしゃがみ、男へ何か呼びかけた。


反応はない。


警察官が猿轡へ手を伸ばしたので、ナロンは止めた。


「外さない方がいい。噛むから。野良犬みたいなもんだ」


警察官はナロンを見たあと、男の口元へ視線を戻した。


少し考え、手を引いた。


それから2人で男を立たせようとしたが、足を縛ったままでは無理だった。片方の警察官が脚のロープだけを切る。


男は立ち上がった瞬間、目の前にいた警察官へ身体ごと突っ込もうとした。


もう1人が肩を押さえ、壁へ押し返す。


「おい、大人しくしろ!」


男は答えず、猿轡の奥で歯を鳴らした。


警察官は顔をしかめた。


「どんなクスリ使ったんだ、こいつは」


警察が来た以上、もう自分がやるべきことはない。


男の両腕には手錠が掛け直され、2人の警察官に挟まれて階段を下りていった。外へ出るまでに2度暴れ、そのたびに壁や手すりへ身体をぶつけたが、それでも動きはほとんど鈍らなかった。


警察車両へ押し込まれ、扉が閉まる。


ナロンは入口に立ったまま、それを見送った。


車が道路へ出ると、すぐに大型トラックの列へ紛れた。


「部屋どうする?」


後ろからティーに聞かれた。


ナロンは階段を振り返った。


「それはお前の仕事だろ。ただ掃除の人には念入りにやるよう言うべきだな」


ナロンはそう言うと、ホテル入口脇の椅子へ戻った。


道路の向こうでは食堂がまだ営業していた。バイクが1台走り出し、その後ろへ小柄な女が乗っているようにも見えたが、距離があって顔までは分からなかった。


ナロンはしばらく目で追った。


バイクは赤いテールランプだけを残して、夜の道路の向こうへ消えていった。

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