不安は売れる
2028年6月9日
『「インドは壊滅的な状況」インド軍将校による独自証言でネットが騒然』
瀬川修司は、ガラクタが敷き詰められ、陰鬱な空気がまどろむ薄暗い部屋で、ひとりパソコンに向かっていた。投稿の下に並んだ数字を確認し、もう一度画面を更新する。表示回数も、反応の数も、さっき見た時より増えていた。
「うひょ、やっぱこういう系はインプレッション稼げるんだなぁ」
ぽつりとつぶやいた独り言は、段ボールが積み上がってできた隙間に吸い込まれた。
返信欄を開くと、短い文章がいくつも並んでいた。日本もこうなるのか、政府は何をしている、もう手遅れだ。その間に、ひとつ目につくものがあった。
『この将校、誰? 名前も所属もないけど』
瀬川は鼻から息を抜き、元の記事を開いた。海外の掲示板に貼られていた文章を和訳し、見出しをつけて自分の有料記事にまとめたものだった。その紹介文をSNSへ投稿してから、まだ一時間も経っていない。
確かに、名前も所属も書いていない。翻訳した時にも少し気にはなったが、本人の身に危険が及ぶから伏せている可能性だってある。そもそも、その将校が実在するかどうかまで瀬川に分かるはずがなかった。
返信欄へ戻ると、先ほどの指摘に別の誰かが反論していた。こんな状況で実名を出せるわけがないだろう、と。
瀬川は何も書き込まず、記事の販売状況を確認した。
日本は、世界は、死体が起き上がっただの、世界が滅びるだのと騒然としていた。瀬川がこの騒ぎを意識したのは、約1か月前、WHOの緊急記者会見を目にした時だった。
死後運動再活動症候群――PMRS。
死亡が確認された患者に、現時点では説明のつかない運動の再開が見られる。再活動者には反社会的な行動が見られ、咬まれるなどして体液を取り込んだ人への感染も確認されている。そんな説明だった。
専門用語を並べ立てられても、その時の瀬川にはいまいちぴんとこなかった。要するに、ウイルスだか細菌だかに感染するとぽっくり死んでしまい、その死体が蘇るらしい。
にわかには信じがたい話だった。死体が蘇る?そのうえ歩き出す?挙げ句の果てには人に咬みついて病気をうつす?
最低なB級映画の始まりかと思うところだ。
しかし、冗談ではなかったことは、WHOの会見前後から日本の政治家連中までやけに慌ただしくなったことで分かった。政府は、国内ではまだ感染は確認されていないと繰り返していた。WHOも感染拡大は制御されていると再三繰り返していた。それでも、社会に広がった不安は消えなかった。誰もが映画のように取り乱しているわけではない。ただ、治りきらない持病のように、しつこい夏風邪のように、普段どおりの生活の中に居座り、人々の余裕を少しずつ蝕んでいた。
瀬川も動いている死体は見たことがない。海外の、嘘か本当か分からない映像ならいくらでも見たが、自宅の周りにそんなものがいるわけではなかった。店は開いていたし、車も走っていた。ニュースを消してしまえば、昨日までと変わらない生活ができた。
それでも、ここ数週間、何をしていてもあの病気の話がついて回った。
街角の雑談で海外では大変なことになっているらしいと聞こえてくる。コンビニのレジでは、客が店員に次のマスクの入荷を尋ねている。マンションのエレベーターで咳払いをした時には、同乗していた女が一瞬こちらを見て、何も言わずに顔を背けた。
誰もが怯えているわけではない。ネットでは相変わらずくだらない冗談が飛び交い、近所の飲み屋からは夜になると笑い声が聞こえた。今すぐ日本も海外の映像のようになると、本気で思っている人間はそう多くないのだろう。
ただ、ならないと言い切れる人間もそこまで多くはなかった。
念のため、いつもより多く買っておく。念のため、人の多いところへ行くのをやめる。寝る前にもう一度ニュースを確認する。見たところで安心できる話などほとんどないのに、朝になればまた同じようにスマホを開く。
瀬川もそうだった。別に怖いわけではない。ただ、知らない間に何かが起きているのは嫌だった。そんなつもりで記事を開き、読み終わると、また別の記事を探していた。
そのうちに、彼はひらめいたのだ。この機会を、小銭稼ぎに利用できないものかと。
以来、彼はこまめにパソコンへ向かい、海外のニュースや掲示板を漁るようになった。目を引きそうな話を日本語にまとめ、SNSから有料記事へ人を集める。大半は出所も怪しい、いわゆる釣り記事だったが、値段は
缶コーヒーも買えない程度の金額で読めるようにしていた。
瀬川は販売画面を更新した。購入数が増えている。大金ではないが、文章を拾って訳しただけにしては悪くない。何より、ほとんど手間がかかっていないのが良かった。商品を仕入れたり、梱包して発送したりする必要もない。
根拠がない、内容が薄いと書かれることもあった。それは瀬川自身、分かっている。ただ、確かな情報が出るまで待てる人間なら、こんな記事を買いはしないだろう。彼らは不安なのだ。不安だからこそ、もっと新鮮で、生々しい、恐ろしい情報を探し続ける。
記事の下では、さっきから知らない人間同士が言い争っていた。瀬川が何も書かなくても誰かが擁護し、その間にも新しい購入が入った。
瀬川は自分のプロフィールを開いた。このアカウントを作って、まだ2週間も経っていない。フォロワーは5千人を超えていた。
炎上まがいのこともあったが、今のところ目論見は成功している。瀬川は返信欄を閉じた。休憩のつもりでしばらくネットを眺め、次の記事に使えそうなページをいくつか開いてから、本来の仕事に戻った。
彼の仕事とは、生活用品の仕入れ・販売業だ。
市場の需要を見て安く物を仕入れ、欲しい人に高値で売る。とはいえ彼は店をやっているわけではない。いわば個人事業主である。つまり、俗にいえば転売ヤーである。これまで多種多様な商品を扱ってきたが、今は専らマスクや消毒液などの衛生用品を売っていた。部屋を埋める段ボールも、大半はその在庫だった。
海外の映像が出回り始めた頃、国内でまだそこまでのパニックが広がっていないタイミングで、彼は手元の金をかなりつぎ込み、それらを買い占めた。そして自分でも驚くほど高値で売れるようになった。
これに比べれば、インプ稼ぎなどそれこそ小銭だ。
午後に発送する品物を箱へ詰めていると、パソコンから通知音が鳴った。新たな購入希望者からだった。
『こちら購入希望です。親が高齢なので探しています。直ぐに買いますので5000円になりませんか?』
瀬川は消毒液のボトルを机に置き、キーボードを引き寄せた。
『お問い合わせありがとうございます。申し訳ございませんが、こちらの商品は現在お値下げを承っておりません。表示価格でのご検討をお願いいたします。』
送信して梱包に戻る。ボトルの蓋が緩んでいないか確かめ、一本ずつ袋に入れた。以前、一度だけ液漏れで面倒なことになった。それ以来、ここは省かないようにしている。
マスクの箱を並べたところで、また通知が鳴った。
『あまりお金に余裕がないんです。すぐ払えます。お願いします。』
『ご事情は承知いたしました。ただ、皆様に同じ価格でご購入いただいておりますので、個別のお値引きはいたしかねます。本日午前中にご購入いただければ、午後の発送に間に合います。』
瀬川は送信し、箱の隙間に緩衝材を詰めた。軽く揺すってみると、中でまだボトルが動く。紙をもう1枚丸めて押し込み、再び揺すった。
今度は音がしない。
『わかりました。1万円で買います。今日必ず発送してください。』
ほどなく購入の通知が入り、続いて支払いも確認できた。
『ありがとうございます。本日発送いたします。発送が完了しましたら、改めてご連絡いたします。』
店頭に在庫があった頃なら、一式揃えても千円かそこらの品物だった。送料と手数料を引いても、十分すぎるほど利益が残る。
瀬川はひとりほくそ笑むと、段ボールの蓋を合わせた。テープをまっすぐ引き、端が浮かないよう手のひらで押さえる。箱の角に少し潰れがあるのに気づき、そこにも短く切ったテープを貼った。高いだの足元を見ているだのと言われるのは仕方がないが、届いた商品が傷んでいたと文句をつけられるのは御免だった。
完成した箱を脇へ寄せ、今しがた売れた分の段ボールを組み立てようとした時、スマホが鳴った。
画面には「新村」と表示されていた。高校時代からの友人だ。卒業後もちょくちょく連絡を取り合っていたが、ここ一年ほどは互いに音沙汰がなかった。
瀬川は手にしていたテープを置き、電話に出た。
「もしもし、新村か。おまえ久しぶりだな!」
自分でも思いがけず大きな声が出た。
「おう、久しぶり。そっちはどうだ。変わりないか?」
懐かしい声だった。瀬川は椅子の背にもたれ、足元の箱を避けて脚を伸ばした。
「変わりも何も、商売繁盛してるよ。おまえこそ何してたんだよ。一年くらい連絡なかったろ」
「まあ、色々な。まだ転売ヤーまがいなことしてるのか?」
「まあな。今も仕事中だ。で、どうした、何か欲しいのか?」
「いや、おまえに頼みたい仕事があってな……」
「……仕事?」
瀬川は素っ頓狂な声を出した。
「まあ別に構わないが。何をやるんだ?」
「端的に言えば……とある場所にある倉庫の荷物を出して、車に積んで、指定した場所に持ってきてほしい。運転するやつは別にいるから、そいつと一緒に」
「いつから俺は引っ越し屋になったんだ」
「半日で5万出す」
かぶせるように新村が言った。
瀬川は伸ばしていた脚を引っ込めた。
「わーお。それマジ? 何運ぶわけ?」
「仕事を引き受けてくれたら教える。安心しろ。違法なもんじゃない」
「ふうん。なんでいきなり俺にそんな話をするんだ?」
「本当は別のやつが担当だったんだが、色々あってな。で、やるか?」
瀬川は机に肘をついた。そういえば、新村が数年前に勤め先を辞めてから、何をしているのか瀬川は知らなかった。会えば飯も奢ってくれたし、金に困っている様子もなかったが、何をして稼いでいるのか聞くと、いつも答えをはぐらかしていた。
「……箱の中身はいいとして、その仕事は合法なんだろうな」
少し間があった。
「倉庫の鍵はある」
瀬川はスマホを持ち替え、わざとらしく大きなため息をついた。
「嫌ならいいよ。無理にとは言わない。ただ、荷物を運ぶだけで5万だぞ。悪い話じゃないと思って、おまえに電話したんだけど」
瀬川はすぐには答えず、机の上の消毒液を指で回した。まだ貼られたままの値札がこちらを向いた。
「8万」
「は?」
「そっちの都合で急に呼ぶんだろ。8万出せよ。俺だって暇じゃねえんだから」
電話の向こうで新村が息を吐いた。
「おまえはほんとに……。ちょっと待て。聞いてくる」
保留音に切り替わると、瀬川はパソコンの販売画面を開いた。明日の発送予定を確かめ、机の端に置いていたメモ帳を引き寄せた。
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