第12章 黒のカードを持つ男
クラウンヘルム王国の冒険者ギルドは、普段であれば大ジョッキの熱いエールがぶつかり合い、深淵から生還したハンターたちの誇らしげな武勇伝が飛び交う、賑やかで喧騒に満ちた場所だった。頑丈なオーク材と強化鋼で造られた広大な大ホールは、宙に浮かぶ温かみのある黄金色の魔法の光に照らされている。
しかし、今日のギルド内の空気は、息が詰まるほど重かった。まるで、奈落の底で壊滅的な敗北を喫した敗残兵たちの葬列のようだった。
ホールには安価な回復ポーションの臭いと、乾いた汗、そして完全に打ち砕かれたプライドの悪臭が立ち込めている。
多くのハンターたちが長い木製のテーブルに突っ伏し、うつろな目で酒をあおっていた。その中には、あの赤モヒカンの戦士ダリオンと、双剣のローグであるエララの姿もあった。彼らはただ黙って己のマグカップを見つめている。そこから少し離れたテーブルには、第1階層の霧の墓地で「目に見えない超音速の怪異」によって文字通り瞬殺され、ほうほうの体で逃げ帰ってきた38人のレイドパーティーの生き残りが力なく座り込んでいた。
部屋の中央では、円卓を囲んでギルドの最高分析官たちと数人のゴールドランクの精鋭たちが、熱を帯びた、しかし完全に困惑した議論を交わしていた。テーブルの上には、魔法の地形図とシステムの解析結果が広げられている。
「おい、どう考えてもおかしいだろ!」
中年のベテラン分析官マルクスが、羊皮紙の地図を拳で叩いた。
「ダンジョンのランクがこれほど短期間で勝手に上がるなど、この世界のシステムが定めた根本的な法則に反している!」
「だけどマルクス、魔法の測定値は嘘をつかないわ」
女性魔術師が眼鏡を直しながら、円卓の中央にある水晶玉を指差した。水晶の内部では、青と紫の禍々しいエネルギーが激しく渦巻いている。
「あのポータル座標から漏れ出している環境マナの密度を見て。ほんの数日前までは、ただの初心者向けのDランク墓地だった。それが今や、破滅的な災厄の領域である高位Bランクに匹敵するマナ圧力を叩き出しているのよ!」
ナヴィンの奇襲によって切断された腱の痛みを(復活したにもかかわらず)未だに引きずっている大柄な盾職人が、忌々しげにうめいた。
「どうやって……どうやってダンジョンがランクアップするんだ!? ダンジョンってのは固定された異常空間だろ。発生して、魔物が繁殖して、俺たちがコアを破壊するまでその脅威度は変わらないはずだ!」
「ボスだ。ボスの仕業に違いない」
マルクスは自身のこめかみを強く押し、苛立ちを隠せない様子で言った。
「ダンジョンのランクが上がれば、当然ボスのランクも上がる……そこまでは分かる。だが、その論理には致命的な欠陥があるんだ。確かにシステム上、ボスが侵入者を殺して経験値を獲得し、レベルアップすることは理論的にあり得る。しかし、世界システムはダンジョンの暴走を防ぐように設計されているはずだ! ボスがどれほど経験値を稼いでランクを上げたとしても、ダンジョンの周期がリフレッシュされれば、本来の初期ランクにリセットされる。それが、ダンジョンの構造そのものを永久に変異させるなど、あってはならないことだ!」
円卓は不気味で困惑した沈黙に包まれた。それは、あまりにも大きな謎だった。クラウンヘルム・ギルドの最高峰の頭脳たちが、従来の、そして論理的なシステムメカニズムを当てはめようとしていたが、目の前の存在はそのすべてを完全に超越していた。
彼らは『最弱のボス』という称号の存在を知らない。400%という狂った経験値倍率のことも知らない。そして何より、自分たちが戦慄している恐怖の対象が、今まさに巨大な玉座の上でバケツのようなヘルメットを頭まですっぽり被り、自分が2メートルの巨漢の戦士になった壮大な妄想に耽ってニヤニヤしている身長60センチのスケルトンだとは、夢にも思っていなかった。
「あれは、普通のボスなんかじゃない……」
隣のテーブルから、ダリオンが震える声で呟いた。
「俺たちは姿すら見ていないんだ。ただ……ただ、一瞬で首を刎ねられた」
「数千ゴールド相当の装備一式をすべて失ったわ」
エララが身震いしながら付け加えた。
「復活の宝石が私たちの魂を無理やり村に引き戻してくれたけど、蘇生ペナルティのギルド税のせいで私たちは一文無しよ。レイドパーティー全員が破産したわ」
「そして、その落とされた装備のすべてをダンジョンが吸収した、か」
マルクスは目を見開き、恐ろしい結論に達した。
「あのダンジョンは『喰って』いるんだ……。アスケルトン・クレアトラッハは、ただ侵入者を殺しているんじゃない。俺たちを苗床にして、収穫しているんだよ」
その言葉が、周囲にいたすべてのハンターの背筋に冷たい戦慄を走らせた。ギルドホール全体の雑談がピタリと止み、不穏なざわめきへと変わる。不死のハンターを経験値と戦利品の「苗床」として利用し、能動的に成長を続けるダンジョンなど、悪夢以外の何物でもない。もしこのまま放置されれば、Aランク、あるいはそれ以上の存在になるのを誰が止められるというのか。
――バァン!!
その時、ギルドホールの重厚な、鉄で補強されたオーク材の扉が、凄まじい力で蹴り開けられた。あまりの衝撃に蝶番が悲鳴を上げ、扉の一枚が石壁に激突して石工細工にひびを入れた。
ギルドホール全体が完全に凝固した。低位のFランクのルーキーから、ゴールドランクのエリートに至るまで、すべてのハンターが反射的にその入口へと視線を向けた。
ホールの室温が急激に下がったかのように感じられた。宙に浮いていた黄金色の魔法の光が激しく明滅し、圧倒的な、押し潰されそうなオーラの前でその輝きを失っていく。それは邪悪な気配や殺意ではなかった。純粋な、拒絶しようのない「絶対的な強者の数値」が放つ物理的な圧力だった。
一人の男が、壊れた扉をくぐって足を踏み入れた。
身長は優に6フィート2インチ(約188センチ)を超えているが、見苦しく筋肉が膨れ上がった大男というわけではない。むしろ、極限まで無駄を削ぎ落とし、研ぎ澄まされた鋼のバネのような肉体をしていた。すべての筋肉が完璧な戦闘機能のために最適化されている。その立ち姿は威圧的で、周囲を完全に支配する圧倒的な存在感を放っており、周囲のベテランハンターたちがまるで無力な子供であるかのように錯覚させるほどだった。
短い金髪は完璧に整えられており、泥と血にまみれた冒険者の荒々しい世界には、あまりにも不釣り合いなほどに洗練されていた。彼が身に纏うのは、神話の英雄が着るような、精緻な金の彫刻が施された汚れ一つない白銀の胸当て。風もないのに緩やかに翻るエレガントなマント。そして、その肩にはルーン文字が刻まれた巨大な大剣が、まるで羽毛のように軽々と担がれていた。
彼は、完全に場違いな世界から迷い込んできた物語の主人公のようだった。
ホール全体から、息を呑む音が重なって聞こえた。入口の近くにいた一人のハンターが、青ざめた顔で自分のテーブルの仲間に向かって必死に囁いた。
「おい、あいつ……嘘だろ……」
その声は恐怖で震えていた。
「Sランクの……レベル134。この大陸で『7番目』に強い最頂点のハンターだ……」
「なんであんな化物がこんな僻地のギルドにいるんだ?」
仲間がガタガタと震えながら聞き返した。
「トップ10の怪物どもは、いつも帝都か禁忌の境界線に張り付いているはずだろ!」
別のテーブルのベテランが、悔しそうに歯を食いしばり、嫉妬に満ちた目でその金髪の背中を睨みつけた。
「まさか、あいつもアスケルトン・クレアトラッハを狙いに来たのか? あのダンジョンの急激なランクアップのせいで、国から莫大な特別賞金が懸けられたからな」
「強欲な野郎め……」
影の中から誰かが悪態をついた。
「数百万ゴールドも持っているくせに、わざわざこんな下々の小遣い稼ぎまで奪いに来やがって」
周囲のハンターたちの間で、畏怖と恐怖、そして少々の怨嗟が入り混じった囁きが広がる。しかし、その金髪の男は全く気に留めていなかった。彼は周囲のハンターたちを視界にすら入れていない。彼にとって、この場にいる何百人もの冒険者たちは、ただの背景の有象無象に過ぎなかった。
彼の名は、ジョニー・スミス。
大陸の遥か南東部、奇妙な風習と独特な言語、そして直球で飾り気のない対話を行うことで知られる「英語圏」と呼ばれる地域で生まれ育った男だ。ジョニーはその地域の特性をそのまま体現していた。ギルドの政治的な駆け引きには興味がなく、ファンタジー特有のやたらと詩的で長い魔法の名などくだらないと思っており、弱者たちの負け犬の遠吠えなど一顧だにしない。
ジョニー・スミスは大ホールの中心をまっすぐに突き進んだ。彼が歩みを進めるたび、群衆はまるでモーセの十戒のように左右に割れて道を作った。誰も彼の進路を塞ぐ勇気など持ち合わせていなかった。レベル134という超越的なステータスが放つ見えない圧力が、周囲の人々を物理的に遠ざけていた。
彼は受付のメインカウンターへと向かった。強化マホガニーのカウンターの向こう側には、いつもは沈着冷静で厳格なエルフの主任受付嬢、ライラが立っていた。しかし今のライラは、見たこともないほどの大量の汗をかいており、その長い耳は完全に恐怖で垂れ下がっていた。
ジョニーは受付の前で足を止めた。すぐには言葉を発せず、ただ冷酷で鋭いブルーの瞳でライラをじっと見つめた。
そして、目にも留まらぬ滑らかな動作で空間ポーチに手を入れ、マホガニーの木盤の上に「ある物」を叩きつけた。
――カタッ。
それはギルドの識別カードだった。だが、Dランクの安っぽいブロンズ製でもなければ、Cランクの磨かれたシルバー製でもない。Bランクの輝くゴールドでも、最高峰Aランクの極めて希少なダイヤモンド結晶製でもなかった。
それは、漆黒だった。
まるで周囲の光をすべて吸い込むかのように深淵のコアの破片から鍛造された、黒のカード。それは世界において、絶対的な破壊の権限を持つ「Sランク」の象徴。このカードを所持している者は、既知の世界に20人も存在しない。Dランク未満はギルドに登録すらされない未熟者だが、この黒のカードを持つ者は、歩く「戦略兵器」そのものだった。
ジョニーはカウンターに少し身を乗り出し、その圧倒的な体躯でエルフの受付嬢に大きな影を落とした。そして、飾り気のない、深く響くバリトンボイスで言った。
"Take it, hurry up. I want to take down that dungeon before it goes to S-rank. B-rank already is... terrifying. Wasn't it used to being D-rank?"
(それを受け取れ、早くしろ。あのダンジョンがSランクになる前に叩き潰したい。Bランクの時点で、お前たちにとっては十分に『恐ろしい』だろうがな。確か、数日前まではただのDランクだったはずだろ?)
受付嬢のライラは、目の前の黒いカードを見つめ、震える手をゆっくりと伸ばしてそれを拾い上げた。高位の共通語(日本語)を母語とする彼女にとって、南東部の英語に対応するのは至難の業であり、あまりのプレッシャーにその口からは酷く拙い、片言の英語が漏れ出た。
"Y-Yea..."
ライラは生唾を飲み込み、そのプロフェッショナルな仮面を完全に崩しながら、必死に言葉を紡いだ。
"Days ago... it, it was D-rank. But... hunters keep try raid... raid... so, it keeps increase... increase rankings..."
彼女は言葉を切り、喉の奥で息を詰まらせた。そして後ろのテーブルにある、マルクスたちが広げた魔法の地形図に怯えるような視線を向け、長い沈黙のあと、ようやく最後の言葉を絞り出した。
"...Till B-rank."
(数日前は……Dランクでした。でも……ハンターたちが何度も挑戦して、挑戦して……だから、ランクが上がって、上がって……Bランクに、なりました)
ライラは震える手で、黒のカードをデスクの上の緑色に光る魔法水晶に押し当てた。水晶が激しく明滅し、レベル134という化物のステータスを登録したことで室内にシステム音が鳴り響く。空間に魔法の契約書が浮かび上がり、王国の刻印が押された直後に灰となって消えた。クエストの正式な受理が完了した証拠だ。
ライラは両手で黒のカードを持ち、マホガニーのテーブルの上を滑らせて彼に返した。
"You... you have been... registered to take mission."
(あなた、任務に……登録、されました)
ジョニーは一言も発せず、デスクからカードをひったくるように掴むと、そのまま空間ポーチへと滑り込ませた。彼は受付嬢に背を向け、出口に向かって歩き出した。
彼が去る間、ギルドホールは死んだような静寂を保ち続けた。すべてのハンターの目が、その英雄的な鎧の背中に釘付けになっていた。
ジョニー・スミスは重いオークの扉を押し開け、王国の通りの冷たく澄んだ空気の中へと足を踏み出した。扉がゆっくりと閉まり、背後の怯えたハンターたちの視線が遮られると、彼の端正な顔は引き締まった、真剣な表情へと変わった。
彼は大剣の柄に無造作に手をかけ、地平線の彼方、あの『アスケルトン・クレアトラッハ』が佇む方角を見つめながら、ボソリと独りごちた。
"A mutating skeleton dungeon... Sounds like a free level up. Let's go crush some bones."
(変異するスケルトンダンジョンか……。いい経験値稼ぎになりそうだ。行って、あの骨どもを粉々に粉砕してやるか)
レベル134のSランクハンターは、この時まだ何も知らなかった。自分がこれから戦うことになる「恐るべきBランクの魔王」が、今まさにバケツを頭に被ったまま、巨大な玉座で小さな足をぶらぶらさせ、「僕は2メートルの最強の王様だぞー」と一人で虚空に向かってギグギグと嬉しそうに笑っている、宇宙で最も弱く、最も悪知恵の働くバグのような存在だとは。
世界で7番目に強い人間と、世界のシステムをあざ笑う最弱の異変。両者の激突の運命は、今、冷酷に刻まれた。




