第二話 君の隣は居心地が悪い
セレスティアと出会ってから、半年が過ぎた。
レオンハルトは八歳になり、王宮での勉強や剣術の稽古に忙しい日々を送っていた。
相変わらず人付き合いは苦手だった。
王族の子供たちが集まる場でも、彼はほとんど口を開かない。話しかけられても必要最低限の返事しかしないため、周囲からは気難しい王子として扱われていた。
ただ一人を除いて。
「殿下、そこにいらっしゃったのですね」
庭園のベンチに座っていたレオンハルトが顔を上げる。
そこには、銀色の髪を揺らしたセレスティアが立っていた。
「……何だ」
「いえ。先ほどから侍女の方々が殿下を探していらしたので」
「放っておけ」
「そうですか」
それだけ言うと、彼女はレオンハルトの隣を通り過ぎようとした。
「待て」
「はい?」
「お前はどこへ行く」
「図書室です」
「なら、ここにいろ」
「どうしてですか?」
「……別に」
セレスティアは少し考えたあと、彼の隣に腰を下ろした。
「少しだけでしたら」
レオンハルトは満足したように視線を戻した。
彼女が隣にいる。
それだけで、なぜか静かな時間が悪くないものに思えた。
*
「セレスティア様って、本当に変わっていますわね」
その日の午後。
王宮の子供たちが集まるお茶会で、そんな声が聞こえてきた。
セレスティアは気にする様子もなく、紅茶を口に運んでいる。
「王太子殿下と親しくしているのに、婚約者になりたいとも思わないの?」
「特に考えたことはありません」
「まあ。殿下に気に入られているというのに?」
「そうなのですか?」
周囲の令嬢たちが顔を見合わせた。
その中の一人が、扇子で口元を隠して笑う。
「殿下のお隣に座っていることが多いでしょう? 普通はそういうことを期待するものではなくて?」
「そうなのですね」
セレスティアは淡々と答えた。
「ですが、私は殿下の隣に座りたいと思っているわけではありません。殿下に座れと言われるので座っているだけです」
「……まあ」
その会話を、少し離れた場所でレオンハルトが聞いていた。
別に、セレスティアが自分との婚約を望んでいないことに腹を立てたわけではない。
ただ、彼女を取り囲んでいる令嬢たちの笑い声が耳障りだった。
「おい」
低い声が響く。
令嬢たちが一斉に振り返った。
「殿下!」
「何を話している」
「い、いえ。セレスティア様と少しお話を……」
「そうか。なら、もう終わりにしろ」
レオンハルトはセレスティアの前に立った。
「行くぞ」
「どちらへ?」
「図書室だ」
「私はまだお茶を飲んでいますが」
「……飲み終わるまで待つ」
セレスティアはカップを見つめた。
そして、ゆっくりと紅茶を飲み干す。
「お待たせしました」
「遅い」
「急いで飲むとむせますので」
レオンハルトは返事をしなかった。
けれど、彼女が立ち上がるまで、きちんとその場で待っていた。
*
図書室へ向かう廊下。
レオンハルトは隣を歩くセレスティアをちらりと見た。
「お前、あの令嬢たちと仲が悪いのか?」
「特に仲良くもありません」
「嫌なことを言われていたぞ」
「そうでしたか?」
「聞こえていただろう」
「聞こえていました」
「腹が立たないのか?」
セレスティアは少し考えた。
「殿下は、誰かに嫌なことを言われたら腹が立ちますか?」
「当然だ」
「そうなのですね」
「お前は違うのか?」
「いちいち気にしていたら疲れますので」
レオンハルトは眉を寄せた。
彼女は本当に、何事にも執着しない。
褒められても喜ばず、嫌味を言われても怒らない。
まるで自分以外の人間に、何も期待していないようだった。
「……お前は、もっと怒った方がいい」
「なぜですか?」
「馬鹿にされているんだぞ」
「私が困らなければ、問題ありません」
「そういうものか?」
「私はそう思っています」
セレスティアはそれ以上何も言わなかった。
レオンハルトは、彼女の横顔を見つめる。
この少女は、いったい何を考えているのだろう。
もっと知りたい。
何が好きで、何が嫌いで、何をすると笑うのか。
自分の知らない彼女のことを、少しずつ知りたいと思い始めていた。
*
それから数日後。
レオンハルトは庭園で、セレスティアの姿を見つけた。
彼女は花壇の前にしゃがみ込み、何かを探しているようだった。
「何をしている?」
「落とし物を探しています」
「何を落とした?」
「髪飾りです」
「侍女に探させればいいだろう」
「自分で探した方が早いです」
レオンハルトも隣にしゃがみ込んだ。
「どんな髪飾りだ?」
「小さな青い石がついています」
「これか?」
少し離れた場所に、青い石のついた髪飾りが落ちていた。
「あ、それです」
セレスティアが手を伸ばす。
しかし、彼女の指が届くより先に、レオンハルトが拾い上げた。
「ほら」
「ありがとうございます」
彼女は髪飾りを受け取ると、丁寧に汚れを払った。
そのとき、レオンハルトは気づいた。
彼女の左手の指先に、小さな赤い傷がある。
「……手を見せろ」
「はい?」
「左手だ」
セレスティアは自分の手を見た。
「ああ。少し擦っただけです」
「どうした?」
「花壇の縁に引っかけました」
「いつ?」
「さあ……先ほどでしょうか」
「痛くないのか?」
「少しだけ」
レオンハルトは不満そうに眉を寄せた。
「手当てをしろ」
「あとでします」
「今だ」
「殿下は心配性ですね」
「違う!」
思わず声が大きくなった。
セレスティアは驚いたように瞬きをする。
「……そうですか」
「そうだ」
「では、そういうことにしておきます」
彼女は小さく頭を下げた。
レオンハルトは、自分の顔が少し熱くなるのを感じた。
心配などしていない。
ただ、傷が目に入ったから言っただけだ。
そう自分に言い聞かせた。
*
その夜。
レオンハルトは寝台に横になりながら、昼間のことを思い出していた。
セレスティアの左手。
指先にあった、小さな傷。
たかが擦り傷だ。
大したことではない。
それなのに、なぜか気になって仕方がなかった。
「……明日、会ったら確認するか」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやく。
そして、ふと気づいた。
明日、彼女に会えることを楽しみにしている自分に。
レオンハルトは布団を頭までかぶった。
「……馬鹿馬鹿しい」
けれど、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。
この頃の彼は、まだ知らなかった。
セレスティアの小さな傷が、これから少しずつ増えていくことを。
そして、その傷を見るたびに、自分の心が穏やかではいられなくなることを。




