第三話 増えていく小さな傷
それから一年が過ぎた。
レオンハルトは九歳に、セレスティアは八歳になっていた。
二人が顔を合わせる機会は、以前よりもずっと増えていた。
王宮での茶会、貴族の子供たちが集まる勉強会、庭園での散歩。
レオンハルトは相変わらず他人を寄せつけなかったが、セレスティアにだけは自分から話しかけるようになっていた。
「セレスティア」
「はい、殿下」
「こっちへ来い」
「何か御用ですか?」
「別に。座れ」
「……分かりました」
最近では、こんなやり取りが当たり前になっている。
セレスティアも特に嫌がる様子はなかった。
ただ、彼女からレオンハルトに話しかけることはほとんどない。
それでもレオンハルトは構わなかった。
自分が話しかければ返事をする。
隣に座れば逃げない。
それだけで十分だった。
少なくとも、今は。
*
ある日の午後。
王宮の庭園で、レオンハルトはセレスティアの姿を見つけた。
彼女は花壇のそばに立ち、侍女と何か話している。
「セレスティア」
声をかけると、彼女はいつも通り振り返った。
「殿下。こんにちは」
「何をしている?」
「花を見ていました」
「花など毎日同じだろう」
「毎日少しずつ違いますよ」
「そうか?」
「はい。昨日咲いていなかった花が、今日は咲いています」
レオンハルトは花壇を見た。
正直、違いなど分からない。
しかし、彼女がそう言うならそうなのだろう。
「……一緒に見るか」
「殿下も花がお好きなのですか?」
「別に」
「そうですか」
セレスティアはそれ以上何も言わず、花壇へ視線を戻した。
そのときだった。
「あら、セレスティア様」
背後から、少女の声がした。
振り返ると、二人の令嬢が歩いてくる。
一人はローゼリア・フォン・グランベル。
グランベル公爵家の令嬢で、レオンハルトと同じ年頃の少女だった。
金色の髪に華やかな顔立ち。いつも大勢の取り巻きを連れている。
そして彼女は、レオンハルトに強い憧れを抱いていた。
「殿下、ごきげんよう」
「……ああ」
ローゼリアは優雅に頭を下げたあと、セレスティアへ視線を移した。
「お二人で何をなさっていたの?」
「花を見ていました」
「まあ。殿下と?」
「はい」
ローゼリアの笑顔が、ほんのわずかに固まった。
「殿下はお忙しいのに、セレスティア様のお相手をしてくださっているのね」
「殿下がお好きでいらっしゃるようなので」
「……そう」
ローゼリアは扇子を開いた。
「殿下、よろしければ私たちとお茶でもいかがですか? 素敵なお菓子を用意しておりますの」
「いらない」
「ですが……」
「セレスティアと話している」
ローゼリアの笑顔が消えかけた。
セレスティアは、二人の会話に興味がないように花を見ている。
その態度が、ローゼリアには気に入らなかった。
王太子に気に入られているというのに、嬉しそうな顔一つしない。
自分なら、どれほど幸せだろう。
それなのに、この女は。
「セレスティア様は、殿下のお時間を独占してしまって申し訳ないとは思わないの?」
「特には」
「まあ……」
「殿下がここにいらっしゃるのは、ご本人の意思ですので」
レオンハルトは思わず口元を緩めた。
ローゼリアは気づかなかったが、彼は彼女の言い方が気に入っていた。
自分の意思。
そうだ。
自分がここにいるのは、自分の意思だ。
「行くぞ、セレスティア」
「どちらへ?」
「図書室」
「私はまだ花を見ていますが」
「……終わるまで待つ」
ローゼリアは、その光景を黙って見つめていた。
*
それから数日後。
レオンハルトは、王宮の廊下でセレスティアを見つけた。
「セレスティア」
「殿下」
「何をしている?」
「侍女を探しています」
「一人でか?」
「はい」
レオンハルトは彼女の顔を見て、眉を寄せた。
「……頬に何かついているぞ」
「え?」
セレスティアが頬に触れる。
そこには、薄く赤い線があった。
「怪我か?」
「少し擦っただけです」
「またか」
「また?」
「最近、お前はよく怪我をしている」
セレスティアは自分の頬をもう一度触った。
「そうでしょうか」
「手にも傷があっただろう。先月は肘にも絆創膏を貼っていた」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「……目につくだけだ」
セレスティアは少しだけ目を細めた。
「殿下は、よく人を見ていらっしゃるのですね」
「お前だけだ」
「そうですか」
彼女はいつも通り、淡々と返事をした。
レオンハルトは納得がいかなかった。
「何をして怪我をした?」
「転んだのです」
「どこで?」
「庭園です」
「どうして転んだ?」
「足元をよく見ていなかったのでしょう」
「……本当か?」
「はい」
セレスティアは嘘をついているようには見えなかった。
しかし、どこか不自然だった。
彼女はいつも、怪我の理由を詳しく話そうとしない。
「手当てはしたのか?」
「はい」
「ならいい」
レオンハルトはそれ以上追及しなかった。
けれど、彼女が歩き出したあとも、しばらくその場を動けなかった。
*
その数日後。
レオンハルトは、偶然にも庭園の奥でローゼリアとその取り巻きを見かけた。
「本当に鈍くさいのね」
聞こえてきた声に、彼は足を止めた。
木々の向こうに、セレスティアの姿があった。
彼女の前にはローゼリアと二人の令嬢が立っている。
「あなたって、何をしても反応が薄いわよね」
「何か御用でしょうか」
「その態度が気に入らないと言っているのよ」
「そうですか」
「少しくらい困った顔をしたらどうなの?」
ローゼリアがセレスティアの肩を押した。
セレスティアの身体がよろめく。
彼女は倒れなかったが、手に持っていた本を地面に落とした。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
取り巻きの令嬢たちが笑う。
セレスティアは何も言わず、本を拾い上げた。
「失礼いたします」
「待ちなさいよ」
ローゼリアが彼女の腕をつかんだ。
その瞬間、セレスティアの顔がわずかに歪んだ。
「……離していただけますか」
「何? 痛いの?」
「腕をつかまれていますので」
「少し触れただけでしょう?」
レオンハルトは、そこで初めて気づいた。
セレスティアの手首には、薄紫色の痣があった。
服の袖から少しだけ見えている。
以前からあった傷とは違う。
明らかに、誰かにつかまれたような痕だった。
彼は一歩踏み出そうとした。
しかし、その前にローゼリアが手を離した。
「次からは殿下に付きまとわないことね」
「殿下が私に話しかけてくださるので」
「あなたから近づいているのでしょう?」
「違います」
「嘘をつかないで!」
ローゼリアの声が鋭くなる。
「殿下はあなたのような地味な女に興味なんてないわ。あなたが勝手に近づいているだけでしょう?」
セレスティアは、少しも表情を変えなかった。
「そう思われるのでしたら、それで構いません」
その言葉に、ローゼリアの顔が赤くなる。
「本当に腹立たしい女!」
ローゼリアが再び手を伸ばした。
「そこまでだ」
低く冷たい声が、庭園に響いた。
三人の令嬢が、一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、レオンハルトだった。
「で、殿下……!」
ローゼリアの顔から血の気が引いた。
レオンハルトは彼女たちを一瞥し、セレスティアのもとへ歩み寄った。
「セレスティア」
「殿下」
「来い」
彼は彼女の前に立ち、手を差し出した。
セレスティアはその手を見たあと、レオンハルトの顔を見上げた。
「どうしてですか?」
「いいから」
「……分かりました」
彼女が手を重ねる。
レオンハルトは、その手が少し冷たいことに気づいた。
そして、彼女の手首に残る痣をもう一度見た。
「ローゼリア」
「は、はい……」
「今の話、もう一度聞かせろ」
「いえ、その……」
「セレスティアに何をした?」
「何もしておりません! 少しお話をしていただけですわ!」
「そうか」
レオンハルトの声は静かだった。
けれど、その目は少しも笑っていなかった。
「ならば、なぜ彼女の腕に痣がある?」
ローゼリアは答えられなかった。
レオンハルトは彼女たちから視線を外し、セレスティアを連れて歩き出した。
*
「殿下」
庭園を抜けたところで、セレスティアが口を開いた。
「何だ」
「先ほどのことは、お気になさらないでください」
「……何?」
「少し腕をつかまれただけです。大したことではありません」
「大したことがあるかどうかは俺が決めることではない」
「ですが、私の問題です」
レオンハルトは足を止めた。
「お前はいつもそうだな」
「何がでしょう?」
「何かあっても、何もなかったような顔をする」
「実際、大したことではありません」
「本当にそう思っているのか?」
「はい」
彼女は迷わず答えた。
レオンハルトは、握っていた彼女の手を少しだけ緩めた。
「……痛くないのか」
「少しだけ」
「なら、医師に見せる」
「そこまでしていただかなくても」
「俺がそうしたいんだ」
セレスティアは黙った。
レオンハルトは彼女の手首を見つめた。
小さな痣。
今まで見てきた傷も、もしかしたら。
転んだのではなく、誰かに傷つけられたものだったのではないか。
そう考えると、胸の奥が妙に苦しくなった。
「セレスティア」
「はい」
「次に誰かがお前に何かしたら、俺に言え」
「どうしてですか?」
「俺が聞きたいからだ」
「……分かりました」
彼女はそう答えた。
けれど、その言葉が本当に守られるとは、レオンハルトも思っていなかった。
セレスティアは、誰かに助けを求めることに慣れていない。
それが、なんとなく分かったからだ。
彼は小さな手を握り直した。
まだ幼い手だった。
自分より少し小さく、簡単に傷ついてしまいそうな手。
その手を見ながら、レオンハルトは初めて思った。
この少女が傷つくのは、嫌だ。
理由は分からない。
ただ、嫌だった。
そして、その感情はこれから先、彼自身が思っている以上に大きくなっていく。




