第8話「魔法無能の気弱な薬師と、変態的な薬草知識」
翌朝。ルンデルの街の最下層、スラム街のさらに外れ。
私たちは、今にも崩れそうなボロ小屋の前に立っていた。
「……すさまじい匂いじゃな」
思わず鼻をつまむ。
小屋の隙間からは、青臭い植物を煮詰めたような、そして微かに甘ったるいような、複雑な匂いの煙が漏れ出していた。前世の漢方薬局を十倍ほど濃縮したような強烈な香りだ。
「ここが、例の薬師の小屋です。俺が声をかけましょう」
オスウェルが一歩前に出て、半ば腐りかけた木の扉をノックしようとした。
だが、彼のごつい拳が触れた瞬間、扉はギギギ……と情けない音を立てて勝手に開いてしまった。
「ひぃっ!?」
中から、悲鳴のような短い声が上がった。
薄暗い小屋の中、巨大なすり鉢を抱え込むようにして、一人の少女が震えていた。
年齢は16、7歳くらいだろうか。ボサボサの焦げ茶色の髪に、煤で汚れた顔。着ているローブは所々擦り切れ、薬品のシミだらけだ。彼女はオスウェルの巨体と鋭い眼光を見るなり、ヒッと息を呑んで後ずさった。
「も、申し訳ありませんっ! ショバ代なら明日……明日には必ず払いますから、どうか窯だけは壊さないでくださいぃぃっ!」
「……おい、オスウェル。お主、借金取りに間違われておるぞ」
「心外だな。俺はこれでも騎士を目指したこともあるんだが」
ジト目で睨む私に、オスウェルが肩をすくめる。
私はオスウェルとザッシュを外に待たせ、一人で小屋の中へと足を踏み入れた。
「安心せい。借金取りではない。お主に用があって来たんじゃ」
10歳の幼女(私)が声をかけると、少女――テティアは、恐る恐る顔を上げた。
「あ、あの……迷子、ですか……?」
「違うわい。お主が、治癒院を追い出されたという薬師か?」
「あっ……は、はい。テティアと申します……」
テティアはオドオドと視線を彷徨わせながら頷いた。
私は小屋の中を見回した。壁際には天井まで届く棚があり、そこには無数の乾燥した植物、キノコ、得体の知れない鉱物などが、瓶詰めや麻袋に入れられてびっしりと並んでいる。
それだけでなく、蒸留器のようなガラス管のセットまである。
「……ほう」
私は棚の一つに近づき、乾燥した樹皮の入った瓶を手に取った。
「これは、水辺に生える柳の樹皮じゃな。そっちの鍋で煮込んでおるのは……解熱作用のある薬草と混ぜて、成分を抽出しておるのか」
「えっ!? あ、はい……! なぜ分かったんですか!?」
「匂いじゃよ」
柳の樹皮には、解熱鎮痛剤の原料となるサリチル酸が含まれている。
この世界の植物が地球と同じかは分からないが、成分の抽出と調合の理屈は同じらしい。テティアは、ただ薬草をすり潰すだけでなく、成分を『濃縮』しようとしているのだ。
「治癒院の連中は、これを見て何と言った?」
「えっと……『魔力も込められない泥水を煮詰めて、神への冒涜だ』『ゴミはさっさと出ていけ』って……」
「馬鹿どもめ。だからあいつらは三流なんじゃ」
私は鼻で笑い、テティアを真っ直ぐに見つめた。
「これは泥水ではない。『科学』じゃ。お主のやっておることは、魔力などというあやふやなものより、よほど理にかなっておる」
「か、かがく……?」
「テティア。お主のその変態的な……いや、卓越した薬草知識を見込んで頼みがある」
私は、自分の手首をトントンと叩きながら言った。
「人間の『痛み』を消す薬は作れんか? 飲んで意識を飛ばすようなものではなく、皮膚に塗ったり、傷口に垂らしたりすることで、その部分の感覚だけを麻痺させるような薬じゃ」
「感覚を、麻痺……」
テティアは目を丸くしたが、すぐに薬師としての顔つきに変わった。
彼女はブツブツと何事かを呟きながら、棚の奥から小さな素焼きの壺を取り出してきた。
「あの、これ……『シビレダケ』という毒キノコの粉末と、岩塩、それに粘液草を混ぜたものです。猟師さんが罠にかかった獲物を大人しくさせるために使うらしいんですが、試しに私の腕に塗ってみたら、半日くらいつねっても痛くなくて……でも、治癒院の司祭様には『痛みを消すなど悪魔の所業だ!』って怒られて、没収されそうに……」
私は壺を受け取り、中身の緑色のペーストをほんの少しだけ指先に取り、自分の舌の裏にちょんと乗せた。
「先生!? 毒かもしれないのに!」
「案ずるなザッシュ。効き目を確かめるにはこれが一番……んぉ?」
数秒後。
私の舌先から、ジンジンとした痺れが広がり、あっという間に感覚が消え失せた。前世で何度も使った局所麻酔薬に極めて近い、確かな麻酔作用だ。
「……ふはっ、ははははっ!」
私は舌足らずな声で、歓喜の笑い声を上げた。
「てちあ(テティア)! おぬひ、へんはい(天才)じゃ!」
「えっ!? あ、あの、大丈夫ですか!? ろれつが回ってませんけど!」
「これじゃ! これがあれば、患者を縛り上げずに手術ができる! おぬひのちひき(知識)は、魔ほう(魔法)を越えるぞ!」
私は痺れる口で無理やり褒めちぎり、テティアの両手をガシッと握りしめた。
「今日からおぬひは、儂のせんぞく麻ひ科医(専属麻酔科医)じゃ! 待遇は保証する! 必要な機材も全部買ってやる! だから、儂のところで薬を作れ!」
「えっ、ええええっ!?」
テティアの顔が、ボッ! と音を立てて真っ赤に染まった。
魔法が使えないという理由で、物心ついた頃から無能呼ばわりされ、誰からも認められなかった少女。彼女にとって、自分の知識と努力が『魔法を超える』と肯定されたのは、これが初めてだったのだ。
「わ、わわわ、私なんかが、専属!? 機材も!? ひゃああああっ、ど、どうしよう、神様、私、明日死ぬんでしょうか!?」
「死なせんわい! 儂が医者じゃぞ!」
「あわわわわわ……っ!」
テティアは完全に限界化し、頭から湯気を出してへたり込んでしまった。
外から様子を見ていたオスウェルが、呆れたようにため息をつく。
「小さな大先生は、人たらしだな。また厄介な奴を拾いおって」
「先生に拾われた厄介者第一号が、何か言ってますよ」
ザッシュがニシシと笑う。
「やかましいわ! さあザッシュ、オスウェル! ここにある機材と材料を全部ギルドに運ぶぞ! これで、本格的な医療環境の第一歩じゃ!」
治癒魔法からこぼれ落ちた気弱な薬師、テティア。
彼女の加入により、異世界には存在しなかった『麻酔』と『抗生物質』の開発が、一気に加速することとなる。
――残るピースは、私の描く未知の医療器具を具現化できる、超一流の『職人』だけだった。




