第6話「熟練剣士の覚醒と、押しかけ護衛の誕生」
ふわり、と柔らかい感触に包まれて目が覚めた。
背中から伝わるのは、冷たくて硬い森の土ではなく、しっかりと綿の詰まったマットレスの感触だった。鼻をくすぐるのは、香草と一緒に煮込まれた温かい肉のスープの匂い。
「……うむ。天国からさらに天国へ昇格したようじゃな」
「先生! 気がついたんですね!」
私がぼんやりと呟くと、ベッドの脇から犬の耳を生やした顔がひょっこりと飛び出してきた。一番弟子のザッシュだ。彼の尻尾が、千切れんばかりにパタパタと空気を叩いている。
「ここは……?」
「ギルドの二階にある、一番いい客室です! 先生、丸二日もぶっ続けで眠っていたんですよ!」
「二日!? 馬鹿な、たかが数十分のオペでそんなに……」
言いかけて、私は自分の細い腕を見た。筋肉痛で鉛のように重い。
やはり、10歳の栄養失調の体で執刀するのは無謀が過ぎたらしい。寿命を前借りにしたような疲労感が全身を支配している。
――ハッとして、私は上半身を起こした。
「おい、あの剣士はどうなった!? 熱は! 化膿はしておらんか!?」
「ご心配なく、小さな大先生」
部屋の入り口から、太く落ち着いた声が響いた。
見れば、そこには壁に背を預けて立つ大柄な男――つい二日前、私が腹を掻っ捌いた熟練の剣士、オスウェルの姿があった。
「なっ……! お主、もう歩き回っておるのか! 馬鹿者、癒着が起きたらどうするつもりじゃ! すぐに横になれ!」
「ははっ、すまねえ。だが、あんたに腹の中を洗ってもらってからというもの、羽が生えたように体が軽いんだ。あの忌々しい激痛も、吐き気も、嘘のように消えちまった」
オスウェルは苦笑しながらベッドに近づき、自身の腹に巻かれた分厚い布をポンポンと叩いた。
「見せてみろ」
私は彼をベッドの端に座らせ、傷口の布を慎重にめくった。
赤みは引いており、傷口の端に挟み込んでおいた布からは、黄色い膿が少し排出されているだけで、悪臭もない。
「ふむ……経過はすこぶる良好じゃな。だが油断は禁物じゃ。腹の中の傷が完全に塞がるまでは、固形物は食うな。消化の良いスープから徐々に胃腸を慣らしていくんじゃぞ」
「ああ、わかってる。……先生」
オスウェルは、その鋭い眼光をスッと和らげ、突然、床に片膝をついた。
騎士が主君に忠誠を誓うような、最上級の礼だ。
「おい、何を……」
「俺は、治癒魔法の限界に薄々気づいていた」
オスウェルは、己の腹の傷を愛おしそうになでながら語り始めた。
「数ヶ月前、魔獣の群れとやり合って腹を深く抉られた。教団の高位治癒士に大金を払って傷を塞いでもらったが……それからずっと、腹の奥で何かが腐っていくような鈍い痛みが続いていたんだ。熱が出て、飯も喉を通らなくなった。だが、教団の奴らは『呪いが抜けきっていない』と言って、さらに高額な祈祷料を巻き上げるばかりだった」
「……当たり前じゃ。腹腔内に細菌と膿を閉じ込めたまま皮膚だけ塞げば、そうなるに決まっておるわ」
「あんたは、俺の腹を切り裂き、その『腐敗』を物理的に掻き出してくれた」
オスウェルは顔を上げ、28歳の歴戦の剣士とは思えないような、すがすがしい笑みを浮かべた。
「俺は、魔法よりもあんたの『技術』を信じる。小さな大先生……俺の命は、あんたが繋ぎ止めてくれたものだ」
「やめろ、大げさな。儂はたまたまそこにいて、たまたま腹の切り方を知っていただけじゃ。お主の命はお主のものじゃよ。さあ、治療費だけ払ってくれたら、お互いさっぱりお別れ……」
「俺の剣を、あんたに預ける」
「話を聞け!!」
私の抗議を完全に無視し、オスウェルはドサリと重そうな革袋をベッドの上に置いた。
中からは、ジャラジャラと眩い金貨の音が響く。
「俺の全財産だ。ルンデルの街にいる間、あんたの衣食住の全てを保証する。そして、あんたの前に立ちはだかる脅威は、このオスウェルが全て切り伏せると誓おう」
「だから! 儂は誰の命も背負わずに、森の奥で静かに隠居したいんじゃ!」
「先生」
横から、ザッシュが申し訳なさそうに犬耳を垂らした。
「実は、先生が寝ている間に……ギルド中に『腹裂きの奇跡』の噂が広まっちゃって。教団の治癒魔法が受けられない下層の冒険者や街の人たちが、ギルドの外に列を作ってるんです」
「……は?」
私は呆然と窓の外を見た。
ギルドの前の広場には、松葉杖をついた者、腕を吊った者、子供を抱きかかえてすがるように祈る母親など、数十人規模の怪我人や病人が群がっているのが見えた。
「オスウェルさんが『先生を休ませろ! 騒ぐ奴は俺が叩き斬る!』って追い払ってくれてるんですけど……もう、隠れて暮らすのは無理だと思います……」
ザッシュの言葉に、私は両手で顔を覆い、天を仰いだ。
「神様……お主、絶対に儂を休ませる気がないじゃろ……ッ!」
治癒魔法という既得権益の闇。
それを物理的に切り裂いた10歳の天才少女の噂は、抑圧されていた貧しい人々の間に、希望の光としてあっという間に広まってしまったのだ。
「諦めな、先生。あんたの手は、隠居するには神々しすぎる」
「ええい、やかましいわ筋肉ダルマ! ザッシュ、儂は寝たふりをする! 誰も通すな!」
シーツを頭から被り、ベッドの中で丸くなる私。
しかし、その小さな両手は無意識のうちに、次に来るであろう患者の手術の手順をシミュレーションするように、シーツの下でひっそりと動き始めていた。
――こうして、元・天才女医の隠居計画は完全に頓挫した。
代わりに得たのは、絶対の忠誠を誓う最強の『盾』と、優秀な『助手』。
異世界医療チームの土台が、ここに完成したのである。




