第4話「治癒魔法の闇と、絶望の凄腕剣士」
辺境の街『ルンデル』は、私の想像以上に活気があり、そして――ひどく不衛生だった。
「ごほっ、ごほっ……うぇ、臭い。息ができん」
「先生、布で口を覆っていてください。ここは下層民の居住区ですから」
ザッシュの背負い籠の中で、私は顔をしかめて鼻をつまんだ。
石造りの立派な防壁とは裏腹に、一歩裏通りに入れば、道端には生ゴミや汚物が放置され、むせ返るようなアンモニア臭と腐敗臭が漂っていた。
道行く人々の顔色は一様に悪く、栄養状態も劣悪。中には、化膿した傷口から悪臭を放ちながら、道端でうずくまっている者もいる。
「……ひどい有様じゃな。治癒魔法とやらがある世界とは思えん」
「魔法はタダじゃないですからね」
松葉杖をつきながら慎重に歩くザッシュが、悲しそうな声で言った。
「治癒魔法を使えるのは、教団に所属する『聖職者』だけです。ちょっと傷を塞いでもらうだけでも、平民のひと月分の生活費が飛びます。だから貧しい人は、怪我をしてもただ祈るしか……」
「馬鹿げた既得権益じゃ。どこの世界でも、医療を独占する奴らはろくな死に方をせんぞ」
私は毒づきながら、周囲の観察を続けた。
なるほど、この世界の「治癒魔法」が細胞分裂を促して傷口を塞ぐだけのものであるなら、それは外科的処置のほんの一部でしかない。
感染症や内科的疾患、そして高額な治療費。この世界の医療は、完全に崩壊している。
「着きましたよ、先生。ここが冒険者ギルドです」
ザッシュが足を止めたのは、酒場を兼ねたような巨大な木造建築の前だった。
まずはここでザッシュが魔獣討伐(討伐したのは別の人だが、死骸の場所を報告する)の対価を受け取り、そのお金で安い宿を取る算段だ。
ギルドの重い扉を押し開けると、むせ返るような酒と汗、そして獣の血の匂いが鼻を突いた。
昼間だというのに、荒くれ者の冒険者たちがジョッキを傾け、大声で笑い合っている。ザッシュのような獣人の子供が入ってくると、何人かが値踏みするような視線を向けてきた。
「なんだい坊主、怪我人かい? ギルドに治癒士はいないよ」
「あ、いえ。魔獣の死骸の場所を報告に……」
受付の女性にザッシュが話しかけようとした、その時だった。
「――がぁぁぁぁッ!!」
ギルドの奥、円卓を囲んでいた一団の中から、突如として獣のような絶叫が上がった。
ガシャーン! とジョッキや皿が床にぶち撒けられる。
「おい、オスウェル!? どうした!」
「おいしっかりしろ! 誰か、教団の治癒士様を呼んでくれ!」
騒然となるギルド内。
見れば、大柄な男が床にうずくまり、腹を抱えて悶え苦しんでいる。
年齢は20代後半、鍛え上げられた肉体と、いくつもの修羅場を潜り抜けてきたであろう鋭い眼光を持つ剣士だ。だが今は、顔面を土気色にし、大量の脂汗を流しながら痙攣していた。
「ぐ、がぁ……ッ! はら、腹が……ッ!」
吐瀉物が床にぶち撒けられる。
尋常ではない痛がり方だ。
私は籠の中から身を乗り出し、その男――オスウェルを観察した。
激しい腹痛。嘔吐。そして、膝を曲げて腹の緊張を緩めようとする特有の姿勢。
「……ザッシュ、前へ出ろ。近くで見たい」
「えっ? で、でも先生、あれは多分……」
「いいから行け!」
私の剣幕に押され、ザッシュは群衆の隙間を縫ってオスウェルに近づいた。
ちょうどその時、騒ぎを聞きつけたのか、白いローブを着た教団の治癒士がギルドの奥から現れた。高位の冒険者であるオスウェル専属の治癒士らしい。
「どきなさい! 私が診ます!」
治癒士の男は気取った態度でオスウェルに手をかざし、淡い光を放った。
これが治癒魔法か。私は目を細めた。
しかし――光が収まっても、オスウェルの痛みは全く引く気配がない。むしろ、さらに激しく悶え始めた。
「ば、馬鹿な……治癒魔法が効かないだと!?」
「どういうことだ先生! オスウェルの奴、昨日からずっと腹の痛みを訴えてたんだぞ!」
「こ、これは……『内臓の呪い』です!」
治癒士の男は、青ざめた顔で後ずさりした。
「腹の中に、悪魔の瘴気が溜まっているのです! 治癒魔法は外傷を塞ぐもの。体の中で育った呪いは……私にはどうすることもできません。残念ですが、彼はもう助からないでしょう」
その言葉に、ギルド内が水を打ったように静まり返った。
ルンデルの街でもトップクラスの腕を持つ剣士が、わけのわからない呪いで死ぬ。その事実に、荒くれ者たちが絶望の表情を浮かべる。
「くそっ……俺は、こんなところで……ッ!」
オスウェルが血を吐くように呻いた。
「おい坊主、降ろせ」
「へ? あ、はい」
私はザッシュの背負い籠からひょいと抜け出し、床に降り立った。
静まり返るギルドの中に、ペタペタという軽い足音が響く。
血だらけのボロ布を纏った10歳の銀髪の幼女が、真っ直ぐに瀕死の男へと歩いていく。周囲の冒険者たちは、ぽかんと口を開けて道を譲った。
「どけ。ヤブ医者ども」
私は治癒士の男を睨みつけ、オスウェルの側に膝をついた。
「なっ……なんだこの薄汚いガキは! 触るな、呪いがうつるぞ!」
「やかましい。呪いなどという非科学的な言葉で、命を諦めてんじゃねえぞ三流」
私は前世の地声――ドスの効いた低い声で一喝し、治癒士を黙らせた。
そして、素早くオスウェルの分厚い革鎧の留め具を外し、腹を露出させる。
「おいアンタ。息を吐いてリラックスしろ。痛いところを押すぞ」
私は小さな手を、オスウェルの右下腹部――盲腸のある位置に押し当てた。
「ぐおおおおッ!!」
「……ふむ」
次に、腹部全体を優しく触診する。
本来なら柔らかいはずの腹筋が、まるで板のようにカチカチに硬直している。これは『筋性防御』――腹膜が炎症を起こしている時の特有の反射だ。
さらに、押し込んだ手をパッと離す。
「ぎぃぃぃッ!!」
「反跳痛(ブルンベルグ徴候)あり、か」
オスウェルは目を剥き、痛みのあまり気絶しかけていた。
私は確信を持って立ち上がり、服の裾で手を拭いた。
「診断は下った。ただの急性虫垂炎……の、最悪な末路じゃな。虫垂が破裂し、腹の中に膿や便が散らばっておる。重度の『汎発性腹膜炎』じゃ」
「ふ、ふくまく……? なんだその呪いの名前は!」
治癒士がヒステリックに叫ぶが、私は無視した。
「放っておけば、数時間で敗血症を引き起こして確実に死ぬぞ」
「死ぬ……!? オスウェルが!?」
「おいガキ! お前、何か治す方法を知ってるのか!?」
冒険者たちがすがるような目で私を見る。
私は大きくため息をつき、ひどく面倒くさそうに首を鳴らした。
「方法? そんなもの、一つしかないじゃろ」
私は、周囲に並ぶ屈強な冒険者たちを見回し、ニヤリと笑った。
「腹を開いて、中を水で洗い流し、腐った臓器を切り取って縫い合わせる。それだけじゃ」
その瞬間、ギルド内の空気が完全に凍りついた。
腹を開く? 刃物で人間を切り裂く?
治癒魔法で傷を塞ぐことしか知らない彼らにとって、それは『治療』ではなく、完全な『殺戮』の宣言に他ならなかった。




