第3話「獣人の規格外な回復力と、押しかけ一番弟子」
手術から三日が経過した。
私たちはあの血生臭い現場から少し離れた、小川の近くにある洞穴を拠点にしていた。
「ふむ……赤みは引いておるな。熱感も許容範囲内じゃ。化膿の兆候もない」
私は焚き火で煮沸した布を使い、ザッシュの太ももの傷口を慎重に拭いながら頷いた。
現代医療の常識からすれば、野外での手術など感染リスクの塊だ。術後感染症(SSI)による高熱を覚悟していたのだが、良い意味で予想を裏切られた。
「それにしても、恐ろしい回復力じゃな。人間の体なら、まだまともに寝返りすら打てんはずじゃぞ」
「お、俺たち獣人は、ケガの治りだけは人間より早いから……。でも、それより……」
ザッシュは私の手元を、信じられないものを見るような目で見つめていた。
「普通、これだけの深手を負ったら、傷口から『悪魔の呪い』が入って、足が黒く腐って死ぬんだ。街の教団の治癒魔法を使ってもらえなければ、絶対に助からないって……」
「悪魔の呪い、ねぇ」
私は鼻で笑い、古い布を焚き火に放り投げた。
「お主らが呪いや瘴気と呼んでおるものの正体は『細菌』じゃよ。目には見えん小さな虫のようなものが、傷口から入り込んで肉を腐らせるんじゃ。治癒魔法とやらは、その虫を傷の中に閉じ込めたまま蓋をしてしまうんじゃろ? そりゃあ腐るに決まっておるわい」
「さい、きん……? 虫……?」
「まあ、今は理解できんでもよい。要は、傷口を綺麗に洗い流して、清潔に保てば治るということじゃ」
私は10歳の幼い手で、ザッシュの頭をポンポンと撫でた。
「お主自身の持つ『生きようとする力(免疫力)』が、病に勝っただけのことじゃよ。誇っていいぞ」
「……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、ザッシュの頭の上の犬耳がピーンと立ち、背後の尻尾がちぎれんばかりに左右に振られ始めた。
「あ、あの! 俺、ザッシュって言います! ワーウルフの血を引いてる孤児です!」
「わかっておる。儂はミルゼじゃ」
「ミルゼ様! 俺の命と足を救ってくれて、本当にありがとうございます! 俺、このご恩は一生忘れません! だから……俺を、あんたの弟子にしてください!」
ザッシュは寝転がったまま、必死に頭を下げようとする。
「あー、待て待て。動くな、傷が開くじゃろ!」
私は慌てて彼の肩を押さえた。
「弟子じゃと? 冗談ではない。儂は今世こそ、誰の命も背負わずにのんびり隠居すると決めたんじゃ。医者の真似事はこれっきりじゃよ」
「で、でも! ミルゼ様のその技術があれば、街で治癒魔法を受けられずに死んでいく貧しい人たちを、たくさん救えるはずです! 俺、手足になって働きますから!」
「……ふん。他人の命など知ったことか」
私はプイッとそっぽを向いた。
前世でどれだけ身を粉にして働いたと思っているのだ。患者の列は永遠に途切れず、救っても救っても次の悲劇が運ばれてくる。あの無間地獄を、この幼い体でもう一度やれというのか。お断りだ。
「とにかく、お主の足が杖をついて歩けるようになるまで数日待つ。その後は、近くの街まで案内してもらうぞ。それでお別れじゃ。いいね?」
私がピシャリと言うと、ザッシュの犬耳はしゅんと垂れ下がってしまった。
少し可哀想になったが、ここで情に流されてはスローライフが遠のく。心を鬼にしなければ。
――それからさらに五日後。
「先生、足元に木の根っこがあります。気をつけて」
「わ、わかっておるわい! 儂を赤子扱いするでない!」
鬱蒼とした森の中。
太い木の枝で作った松葉杖をつきながら歩くザッシュの背中にある、巨大な背負い籠(山菜採りなどに使うもの)の中から、私は顔を出して悪態をついた。
結論から言おう。
私は今、重傷患者であるはずのザッシュに背負われている。
「……情けない」
「俺は全然平気ですよ! 先生が軽いから、むしろ荷物を運ぶより楽なくらいです!」
振り返ってニカッと笑うザッシュ。
歩き出した初日、私は自分の足で歩くと豪語したのだが、たった十歩で木の根に躓き、顔面から転倒した。10歳の栄養失調の体は、想像以上にポンコツだったのだ。
見かねたザッシュが「森は魔獣も出ますし、先生の歩く速度だと街に着く前に日が暮れます」と正論を叩きつけ、私を籠の中に放り込んだのである。
片足が不自由な傷病者に運ばれる、元・天才外科医。
前世の同僚たちが見たら、腹を抱えて笑うだろう。
「しかし、驚異的な身体能力じゃな……。骨膜まで達する傷を負ってから一週間で、松葉杖とはいえ山道を歩けるようになるとは」
「ワーウルフの回復力と、先生の……ええと、てきせつなショチ? のおかげです!」
ザッシュは嬉しそうに尻尾を揺らした。いつの間にか、私の呼び名が『ミルゼ様』から『先生』に変わっているのが少し引っかかるが、訂正するのも面倒になっていた。
「おい犬の坊主。街まではあとどれくらいじゃ?」
「半日も歩けば、辺境の街『ルンデル』に着きます。大きな冒険者ギルドがある、活気のある街ですよ」
「ルンデル、か……」
前任者ミルゼの記憶を探るが、孤児だった彼女は街の裏路地しか知らないようだった。
まあいい。まずは安全な寝床と、温かい食事だ。
できれば美味しいパンと、少しのスープがあればいい。そこで資金を稼ぎ、誰も寄り付かないような村で静かに余生を過ごすのだ。
「……先生。さっきから、籠の中でずっと指を動かしてますけど、それ何かのおまじないですか?」
「ん? ああ、これか」
私は無意識に動かしていた両手を見た。
親指と人差し指、中指を擦り合わせ、見えないメスや鉗子を扱うような動き。
外科医時代、手術のシミュレーションをするための手遊びのような癖だ。
「……ただの癖じゃ。忘れてくれ」
私は慌てて両手を籠の縁に隠した。
嘘つきめ、と自分自身を鼻で笑う。
隠居したい、二度とメスは握りたくないと口では言いながら、ザッシュの足の縫合をした時のあの極度の集中と、命を繋ぎ止めた時の微かな高揚感が、まだ指先にべっとりと張り付いている。
医者の本能というやつは、どうやら一度死んだくらいでは消えてくれないらしい。
「見えた! 先生、ルンデルの街の門です!」
ザッシュの弾むような声に顔を上げると、木々の隙間から、石造りの巨大な防壁と、行き交う人々の活気ある姿が見えてきた。
「よし、まずは宿じゃな。……あ、おいザッシュ、あまり揺らすな、籠が……! 吐く! 酔って吐くぞ!」
「あ、すみません先生!」
こうして、元天才女医と獣人の一番弟子は、辺境の街ルンデルへと足を踏み入れた。
そこが、彼女の新たな『戦場』になるとも知らずに。




